伝えていくこと
すっかり忘れていたが、ちから誌9月号の原稿の締め切りは今月末である。まだ何を書くかまったく考えていない。来週の水曜日だから…あまりのんびりとはしていられないな。とは思いつつ、明日出来ることは明日やろうって考えてしまう私は、きっと直前にならないとやらないと思う。でも、今回は真面目に少し早めに手をつけようかな。そういえば、4月号、5月号と謝礼で1000円相当の図書券もしくは図書カードを頂いたが、こないだ発行された6月号については何もなかった。ただ働きですかい…まぁ、書く場所を提供してくれただけでも感謝に思わねばいけないのだろうけど、どうも欲深いところがありまして。
さて、無駄話はここまでにして本題に入っていきましょう。今夜の聖書の箇所は、昨晩より引き続いて、ローマ書10節。昨日は「誰でも、信じて呼び求めれば救われる」っていうところを見てきた。
さて、そうなると「何を信じて、何を呼び求めればいいのか?」ということになるだろう。もっとも、私が今まで書いてきたことを読んできたのであれば、それが何であるかは分かるであろう。
ところが、私が今までに書いてきたことを読む人は広い世界にほんの僅かしかいない。(でも、本当はもっとたくさんいて欲しい…というのが本音だったりするんだけど、それは本題とは関係ない。)
しかし、私が書いたモノを読まなくても、聖書さえ読めば、何を信じ、何を求めるべきであるかは分かるはずである。ところが、果たしてどれほどの人が聖書をきちんと読んだことがあるだろうか。クリスチャンは聖書を読んでいるだろうから、あえて数えないとして、果たして日本国内での聖書の読者数とはどれくらいいるのだろうか。今までに数えた人がいるのかどうか分からないから何とも言えないのだが、あまりいないのではないかと思う。根拠はない。なんとなくそんな気がするだけである。ただ、聖書を読む人が大勢いたら、クリスチャンになる人が大勢いてもおかしくはないのでは…と、それだけのことである。
となると、誰かが聖書に書かれていることを、聖書を読んだことのない人に伝えないといけないのである。では、一体誰が伝えるのか?牧師?宣教師?伝道師?まぁ、そうでしょう、そうでしょう。それが彼らの勤めであるのだから。
でも、ちょっと考えてみると、別にそのような立場にいる必要はないのではないだろうか。確かに聖職者・教職者は伝えることにおいては相当な技術を持っているだろう。それに、彼らの聖書に関する知識は奥深いものであろう。でも、彼らは技術や知識が優れているだけであって、伝えるべきことは、そのような立場にある人も、我々のような普通の信仰者であってもすでに等しく有しているはずである。
信仰者であれば、誰でもキリストの福音を伝えていくことができるのではないだろうか。弁舌巧みである必要はない。その人にあった方法というのがあるだろうから、自分らしいやり方で伝えれば良いのではないか。私も話し下手で、人と話すのは苦手だから、このようにして書くことで伝えようとしているのである。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」 (14~15節)
津本陽「宮本武蔵」
しばらく更新が停滞していたので書けなかったが、先週、津本陽の「宮本武蔵」を読み終わった。
思えば宮本武蔵を題材にした本を読むのはこれが初めてである。宮本武蔵と言えば吉川英治の「宮本武蔵」が有名である。実家の「図書室」の本棚の上段に並んでいたが、あちらはちょっとボリュームがありそうだったので、今回は文庫本1冊に収まっている津本陽の作品を選んだ。
さて、宮本武蔵というと、剣の腕が優れていたということと二刀流を編み出したということくらいの知識しかなかった私である。確かに彼の剣の技は、まさしく右に出る者がいなかったようだ。生涯を通して、試合に負けたことはないと言われている。当時の試合とは、真剣を用いた、まさしく命を賭けての勝負であったようだ。試合に負けることが意味するのは、死か、運良く一命を取り留めても、剣を取れるような体にはならなかったであろう。武蔵がこれほど強くなければ、やはり彼の名は後世に伝えられなかったに違いない。それを考えると、やはり武蔵の剣技というのは、まさしく当時の日本一であったのだろう。
それにしても武蔵の青年時代というのは実に血なまぐさいものであったようだ。もっとも剣を極めるという生き方、人には負けられないという気持ちで生きていたわけで、それを考えると、多くの他人の血を流さねば、自らの血を流すことになったであろうから、仕方がなかったのであろう。今の時代で考えれば、なんとも野蛮なことに思えてしまうが、戦国の世が平定され始めた時代に生きた武蔵や他の武人たちにとっては、まだ日常のことであったのだろう。
まさしく命を賭けての真剣勝負。戦うからには勝たなければならないのである。勝つためには、自らの技を磨き、弱気を起こさせるような考えを払拭せねばならないのである。
そう言えば、どこかで誰かも似たような生き方をしていた。武蔵の時代からさらに遡ること千数百年、紀元1世紀のローマとその周辺地に生きた使徒パウロだ。自身も手紙の中で語っているように、勝負をするからには、勝利を得るようにやらねばならないと語っている。彼にとっての勝負とは、キリストの福音を伝えることであったのだろう。武蔵も剣の技で負けることができないように、パウロも福音を伝えることにおいて、負けることは自分で許さなかったのであろう。時代と場所を隔てて生きた2人の男。生きる道は異なっていても、その道において、負けることを許さなかったという真剣さというか自信というか鍛錬というか…それらは共通しているのではないだろうか。
誰でも、と言ったら、誰でも
なんだか聖書を読むのも久しぶりな気がする。続けて、ローマ書を読んでいこう。前回から引き続いて、今夜も10章。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」 (13節)
これがキリスト教の大胆というか単純明快なところだと思う。"だれでも"と書いてあるが、本当に"だれでも"なのである。キリストを心に信じ、その信仰を告白するのであれば、まさしく"だれでも"救われるのである。
人は善人であるから救われるのではない。また、悪人だからといって救われないということでもない。100人の命を助けようとも、100人の命を奪おうとも、等しく神と和解をすることができるのである。前者は神との和解が不要に思えるかもしれないが、後者は明らかに神との和解は必要である。そう考えると、善人も悪人も等しく扱われてしまうのは、公平でいて不公平なように思えなくもない。しかし、100人の命を救うことイコール神との和解が不要なほど善人、ということもないのである。1億人の命を無償で救ったとしても、1人に対して1秒の憎しみを抱くだけで、人はもはや善人とはなり得ないのである。それくらい目をつぶっても構わないような気もするが、しかし神は完全な方なのである。完全な方は、完全なものを求められるのだ。それに不思議はあるまい。
そうなると、人というのは明らかに不完全な存在であり、どんなにあがいたとしても神に受け入れられるものではない。しかし、そのような人の欠点だの汚点だのを覆うために、キリストが人の不義を負ってくださったのである。
そのようなキリストを信じることで、人は神の目に「完全」なものとして映るようになるのだ。
救われるためにあれこれと難しい手続きや条件などというものは存在しないのである。聖書を全部読まないと救われない、日に三度祈らないと救われない、禁酒禁煙を守らないと救われない…そのような条件というがまったくないのである。人に求められていることは、ただ一つ。「主の御名を呼び求める」ことなのである。
この言葉の裏を返してみると、もうひとつのことが見えてくる。つまり、救われた人は、信仰によって救われたのであって、決して行為や言動によって救われたわけではないということだ。つまり、救われているからといって、人はえらいわけでもなければ、救われていない人と比較して、自らを特別な存在として考えてはいけないのである。結構、クリスチャンの犯しやすい過ちだと思う。自戒の意も込めて…。
話題の映画といえば
久々に更新。先週から風邪をひいてしまったらしく、夜はおとなしくして早めに寝ていたので、記事を書いている余裕がなかったのです。いや、余裕がないっていうよりも、体力と気力がなかった…と言う方が正しいのかもしれない。
さて、先週の土曜日、20日には映画「ダ・ヴィンチ・コード」が封切りになったね。なんでもキリスト教を攻撃している内容だとかで、カトリック教会が映画の配給元であるソニーの製品の不買運動を始めるっていう話を新聞で読んだけど、何もそこまでしなくても…と私は思うのです。所詮、実話ではなくてフィクションなのに、なぜそこまでムキになるのか…ちょっと私には分からない。
「ダ・ヴィンチ・コード」は読んだことがないし、映画もまだ見てないので、あまり細かいことは言えないが、一部のキリスト教信者たち(私もクリスチャンなんだけど、私は彼らとは違う意見なので他人事みたいに話を進めていくよ)は、この物語で取り上げている"キリストとマグダラのマリアが関係を持ち、子どもをもうけた"という点に猛反発をしているようだ。
一人のクリスチャンとして、私はこの作品を否定するつもりは全くない。所詮フィクションである。たとえ作者がそのような思想や考えや意見を持っており、作品にそれを反映させたからといって、作者とその作品を攻撃するのは間違っているだろう。人がどう思おうと、何を考えようと、どのように表現しようと、それはその人の自由ではないだろうか。
一人のクリスチャンとして、私はむしろこの作品に対して否定的な意見を持つクリスチャンに対して疑問の念を抱いてしまう。
まず、キリストとマリアが結婚したという記述は聖書にはない。聖書のどこを見てもそのような記述はないのである。それを思い起こさせるような記述すら見あたらない。クリスチャンであるならそれくらい誰でも分かるはずである。だったら、なぜそのような仮説なり意見なりが世の中に登場しくらいで焦るのであろうか。もっと聖書に自信を持って然るべきではないだろうか。聖書が神のことばであるということに信じているのであれば、どんな意見がでようとも「ああ、そんな考え方もあるんだね」くらいに軽く受け流すことができるであろうに。
でも、結婚しなかったという記述もないから、もしかしたら結婚したのではないか…もしかしたら子孫を残したのではないか…という意見があってももっともだろう。百歩千歩万歩億歩譲って結婚して子孫を残したと仮定しよう。それがクリスチャンに影響を与えるであろうか?キリスト教信仰に影響を与えるであろうか?いやいや、そんなはずはない。少なくとも私の信仰はそれくらいでは動じない。なぜなら、私の罪を負ってくださったのはキリストの子孫でもなく、キリスト本人なのである。ただキリストだけが罪も汚れもない神の子であり人の子なのである。仮にキリストに子孫が残されたとしても、その子孫が私のために十字架に掛かってくれたであろうか…?第一、キリストに子孫がいたとしても、その子孫はもはや神ではない。キリストの子孫であるからといって、救い主にはなれないのである。やはり救い主は処女マリアより生まれた神の子であるキリストしかいないのである。
このような仮説でキリスト教が脅かされていると考えるようでは、その人の信仰とは一体何であろうかと、私は考えてしまうのである。
人々に与える影響が大きいから?だったら「ダ・ヴィンチ・コード」よりも聖書が人々に大きな影響を与えるように、福音を伝えていくことが重要なのではないだろうか。
ちなみに「ダ・ヴィンチ・コード」…私はミステリーが好きなので、映画は見たいと思っている。楽しむのは私の自由であろう。
より確かな信仰
どうも午後から喉が痛む。夜は体がだるい。どうやら風邪のひき始めのようだ。今日はこれを書いたらさっさと寝ることにしよう。あまり考えずに、思いつくまま、手がキーボードの上を這うままに書く。
さて、今夜もローマ書10章の続きを読んでいこう。今夜の箇所はなかなか良い箇所である。ちなみに良い箇所=私が好きな箇所である。どちらかといと私の主観に拠るところが多いかもしれないけど、まぁ、ご勘弁を。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (9~10節)
前にも言ったかもしれないが、神によって義と認められることと、神によって救われるということは、別のことのように私には思える。まず何よりも人はイエスを信じること、つまりイエスの十字架での働きと復活を信じることで、人は神との和解を得ることができるのではないだろうか。そして、罪によって神と断絶されていた人が、神と和解するためにはキリストの十字架が必要なのである。なぜなら、そこに罪の赦しがあるからだ。
そう、人はイエスを信じることによって、神と和解をするのである。そして、神と和解するということは、すなわち神によって義と認められるのである。
信じたことを、人は告白する。イエスを信じたのであれば、人はそれを口に出していうことができる。信じてないことを信じるというのは、それは嘘つきとなってしまう。人が自分はキリストを信じる者であるというのならば、その人はとんでもない嘘つきか信仰者のいずれかである。もっとも、偽りで自分のことを信仰者と言う者はいないだろうが。
さて、口に出して告白することで救われるというのは、果たしてどういうことだろうか。口にするまで救われていないということになるのだろうか。いや、それはないだろう。人は信じた時に、つまり神と和解したその時点で、天の御国へ行く権利を得ているはずである。そう考えると、信じた時に救われていると言っても間違いではあるまい。
そう考えるとちょっと悩んでしまうが…。
少しばかり考えてみよう。口で告白することの意味とは何であろうか。それは、自分の信仰を公にすることであろう。そうすることで、自他共に認める信仰者となるのである。相手がキリストを信じていようといまいと、相手の目には、自分はキリストを信じている者として映っているのである。
するとどうであろうか、信仰というのがより実体を持ったものになるのではないだろうか。
確かに人にとって神との関係が一番重要であろう。しかし、人知れずに信仰を持ったところで、どれほどその信仰が確かなものとなるだろうか。信仰というものが、そのような閉じられた環境に置かれてしまうと、人の目はやがて神から自分自身に向いてしまうのではないだろうか。何モノもその人の信仰を良くも悪くも刺激しないからだ。そうなってしまっては、人は神を求めようと思うこともなくなり、信仰が神中心ではなく、人中心となってしまい、本来の信仰とは形の異なったものとなってしまうのではないか。
しかし、自分の信仰を宣言することで、他の信仰者から励ましを受けたり、教えを受けたり、また信仰を持っていない人と接する時に、相手のことを(良い意味で)意識したり、またその人と接する時の態度を反省したりと、自分のことばかりに目を向けている余裕はないだろう。人は色々と体験する中で、神に助けを求めたり、導きを求めたりするのではないだろうか。これが本来の信仰のあるべき姿なのではないだろうか。
神を求めること。これが人を救いへと導くのではないだろうか。救いを与えることができるのは神を除いては誰もいない。自分の立場を明らかにすることで、信仰者としての歩みが実体を持つのではないだろうか。