より確かな信仰
どうも午後から喉が痛む。夜は体がだるい。どうやら風邪のひき始めのようだ。今日はこれを書いたらさっさと寝ることにしよう。あまり考えずに、思いつくまま、手がキーボードの上を這うままに書く。
さて、今夜もローマ書10章の続きを読んでいこう。今夜の箇所はなかなか良い箇所である。ちなみに良い箇所=私が好きな箇所である。どちらかといと私の主観に拠るところが多いかもしれないけど、まぁ、ご勘弁を。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (9~10節)
前にも言ったかもしれないが、神によって義と認められることと、神によって救われるということは、別のことのように私には思える。まず何よりも人はイエスを信じること、つまりイエスの十字架での働きと復活を信じることで、人は神との和解を得ることができるのではないだろうか。そして、罪によって神と断絶されていた人が、神と和解するためにはキリストの十字架が必要なのである。なぜなら、そこに罪の赦しがあるからだ。
そう、人はイエスを信じることによって、神と和解をするのである。そして、神と和解するということは、すなわち神によって義と認められるのである。
信じたことを、人は告白する。イエスを信じたのであれば、人はそれを口に出していうことができる。信じてないことを信じるというのは、それは嘘つきとなってしまう。人が自分はキリストを信じる者であるというのならば、その人はとんでもない嘘つきか信仰者のいずれかである。もっとも、偽りで自分のことを信仰者と言う者はいないだろうが。
さて、口に出して告白することで救われるというのは、果たしてどういうことだろうか。口にするまで救われていないということになるのだろうか。いや、それはないだろう。人は信じた時に、つまり神と和解したその時点で、天の御国へ行く権利を得ているはずである。そう考えると、信じた時に救われていると言っても間違いではあるまい。
そう考えるとちょっと悩んでしまうが…。
少しばかり考えてみよう。口で告白することの意味とは何であろうか。それは、自分の信仰を公にすることであろう。そうすることで、自他共に認める信仰者となるのである。相手がキリストを信じていようといまいと、相手の目には、自分はキリストを信じている者として映っているのである。
するとどうであろうか、信仰というのがより実体を持ったものになるのではないだろうか。
確かに人にとって神との関係が一番重要であろう。しかし、人知れずに信仰を持ったところで、どれほどその信仰が確かなものとなるだろうか。信仰というものが、そのような閉じられた環境に置かれてしまうと、人の目はやがて神から自分自身に向いてしまうのではないだろうか。何モノもその人の信仰を良くも悪くも刺激しないからだ。そうなってしまっては、人は神を求めようと思うこともなくなり、信仰が神中心ではなく、人中心となってしまい、本来の信仰とは形の異なったものとなってしまうのではないか。
しかし、自分の信仰を宣言することで、他の信仰者から励ましを受けたり、教えを受けたり、また信仰を持っていない人と接する時に、相手のことを(良い意味で)意識したり、またその人と接する時の態度を反省したりと、自分のことばかりに目を向けている余裕はないだろう。人は色々と体験する中で、神に助けを求めたり、導きを求めたりするのではないだろうか。これが本来の信仰のあるべき姿なのではないだろうか。
神を求めること。これが人を救いへと導くのではないだろうか。救いを与えることができるのは神を除いては誰もいない。自分の立場を明らかにすることで、信仰者としての歩みが実体を持つのではないだろうか。