あるキリスト者のつぶやき… -130ページ目

終わりました

どうにか無事(?)にエッセイを仕上げ、今担当の方にメールで送ったところ。これで私の担当分は終了です。肩の荷が下りたと考えることもできるし、チャンスがなくなったとも考えられるけど、とにもかくにも、また声が掛からない限り、これで終わりです。

なかなか良い経験ができた。読み手を意識することができたね。完璧ではないけど、なるべく丁寧に簡潔に書こうとすることができた。そんな経験が出来ただけでもありがたいと思うべきなんだろうねぇ。

次回はもう少しメジャーなところで書きたいが…まだまだ先の話だろうか。

やはり、無名の私が何を書こうと、誰も相手にはしてくれないのだろうなぁ。と思うとちょっと寂しい。まぁ、書く内容が内容だけに、あまり世間から相手にされそうなものとは思わないけどね。

もう少し一般受けするようなことを書けばいいのかな(^▽^;)

窓を全開にしていると

ブログの面白いところは情報をほぼリアルタイムに発信できるということだろうか。


さて、我が家はエアコンがない。置き場所がないし、電気代が高くなるのも困りものである。それにエアコンに慣れると体に悪いそうな気もする。そんなわけで、我が家は暑い日は、窓を全開にしている。昼夜問わずである。だから、今も風を通しながら、ダイニングで執筆作業をしている。(貧乏でね、書斎というものがないんですよ)…先ほどのMoutain Dewを飲みながら。


んでだ…外の物音が良く聞こえる。


今どこかで誰かが「うぇー!」とすごい奇声を発したのである。(°Д°;≡°Д°;)

思わず妻と二人で笑ってしまった。


ちなみに2年くらい前だろうか。「誰かー!救急車!救急車!」と言う物騒な叫びも聞いたことがある。(((( ;°Д°))))誰か刺されたのか!?みたいな。


これからの季節、外の様子が手に取るように分かってしまう。


そんだけ。

睡眠時間の短縮ですと

さてと…今から「ちから誌」のエッセイを仕上げますよ。何時頃に終わるかは分からんので、帰りにコンビニで眠気覚ましのためにとMountain Dewをば購入。しかし、Mountain Dewなんて懐かしいね。なんかすごい久し振りに見たような気がする。


そういえば、今日は「プレジデント」っていう雑誌を初めて購入してみた。まぁ、ビジネスパーソン向けの雑誌だな。それを全然ビジネスとは縁のない私(なぜって私は技術者、どっちかというと職人肌な方でして…自分で言うのも何だけど)が買ってしまうのだから、何か余程気になる記事があったのでしょう。


そう、そうなんだよな。「1/2睡眠」って記事なんだ、それが。今朝の通勤の電車でその記事を読んでいる人がいて「おぉ!?なんだこれは!?」と思ったのです。んで、それを詳しく読みたかったので、雑誌を購入したのであります。


うむ、確かに睡眠時間の短縮ができたら、朝早くに起きて、じっくりと読書なり勉強なり執筆なりの時間が確保できるのではないだろうか…と考えてしまうのです。そうすれば、まさに今やってるみたいに夜遅くまで原稿と向き合うという不健全な生活からも解放されるわけで…。


んで、睡眠時間の短縮。さすがに「今日から!」とはできないだろうけど、徐々にやってみようかなと思う。子供より先に起きれば、眠い中子供に起こされるという悩みからも解放されるわけだしね。

私を動かすもの

おっとぉ~、気付いてみれば明日は「ちから誌」9月号の原稿の締め切りじゃあないですかぁ。実はまだ何も書いていません。正直に言ってしまうと…。今は頭の中を整理している最中です。ネタはもう決まっておりますので。でも、結論というか、結びがまだ決まっていないんだなぁ。明日までに思い浮かぶかしら。

そうそう、8月号の原稿料が遅れてですがちゃんと届きました。1000円相当の図書カード。エッセイひとつ書くのに4~5時間くらい(もちろん構想を練ったり、ネタを考えたりする時間は含まずに…)掛かるわりには、ちょっと安いような気がしなくもないが…まぁ、もらえるだけでも感謝しなければ。ちなみに私は1時間残業すると2000円くらい手当が付きます。…って愚痴ったところでしょうがない。

ふと、そこで考えた人を動かす原動力って何だろうって。例えば、何が私をしてエッセイを書かせるのだろうか。

報酬であろうか?うーむ、ちょっと違うような。1000円の図書カードで張り切るほど私は安くない…。もっとも、これが100万とかだったら、頑張ってしまうと思うが、さすがに現実はそれほど甘くはない。名もない私が書くエッセイの価値なんて、1000円でも高いくらいであろう。

じゃあなんだろう?時間(締め切り)に追われて?まぁ、それもまるっきりないではないが…でも、違う。時間に追われていたら、きっと今頃焦って書いているだろうと思う。ところが、全然慌てていない。むしろ前日になっても何も書いていないのだから、少し慌てた方がよいのではないかとさえ思われる。ところが、実際は、ちょっとくらい遅れても構わないでしょ、くらいの気持ちである。いやいや、怠惰なだけではない。納得のいかないものを間に合わせるよりは、多少遅れても、納得のいく物を出したいからである。

では、私を動かすものとは何であろうか…?それは、やはり書くことへの熱意と、書くことを通して自分を表現する、しいて言えば"自己顕示欲"みたいなものであろうと思う。

「ちから誌」のためにエッセイを書くのも、教会のために書くのも、ブログに記事を書くのも、すべてそのような思いによって書かれていると言っても良い。ちなみに「ちから誌」のために書くエッセイは、今は一番丁寧に書くようにしている。なぜって不特定多数の人に見られるものだからね。一字一句満足がいく作品に仕上げるように努めている。もっとも、常に100%の物が得られるわけではないというのが現実であるが…。

ちなみに一番雑なのはこのブログ。思いつくままに書くからね。ほとんど落書き帳だわ。でも、ここに書いたことを、いつかはまとめてみたいとは考えている。

ユダヤ人の神から

今日は仕事も思ったより順調に進み…お昼には"和光"のメンチカツ&エビフライ&ヒレカツ&たっぷりの千切りキャベツの入った弁当を食べることが出来たし…夕方には仕事場と同じビルに入っている"タリーズ"で買ったヘーゼルナッツシロップ入りにアイス・ラテ(トールサイズ!)とクッキーで一服できた…あぁ、今日は小さな幸せが多い一日だった。先週は気分が優れない一週間だったけど、今週は素晴らしい一週間になるような気がする。今週も、ネガティブなことを考えたりせずに過ごしていきたいものである。


さて、聖書の続きを読んで行こう。風邪をひいたりでしばらく投稿できなかった(=聖書をあまり読まなかった!)ので、久し振りな気がするけど、まぁ、いっか。


ローマ書の10章が終わったので、11章を見ていこう。


そう言えば聖書の神って、元々はイスラエル(ユダヤ)の神だった。いやいや、過去形で書いてしまうと、今は違うのかってことになりそうだけど、今でもそうである。なぜ聖書の神はユダヤ人の神かというと…んー、ちょっと複雑で考えると疲れそうだから、今は考えないでおこう。旧約聖書を読めば、分かるだろう。


あ、ユダヤ人の神だから、ユダヤ人じゃない人は信じちゃいけないのかって言うとそうでもない。やっぱ、これも面倒だから今は細かく追究しない。さてさて、私は聖書の神を信じているけど、どっから見たってユダヤ人ではないのは確かである。日本人である。6年間アメリカに住んでいたから、ちょっとアメリカ人なところもあるかもしれないけどね。(どこがよ…?)


とにかく、聖書の神とは-特に旧約聖書の時代は-ユダヤ人の神であった。もっと分かりやすく平易な言葉で言うと、ユダヤ人をひいき目に見る神であると言えるかもしれない。あまり良い表現ではないかもしれないけど、他にうまい言い方が見あたらない。


ところが、新約聖書の時代、つまりイエス・キリストが来てから、様子が変わったのである。神のひとり子、救い主であるキリストを否定したことで、ユダヤ人と神は決別したようなものである。


しかし、ユダヤ人にとっての異邦人たちが、キリストを信じるようになったのである。おかげで、それまで「ユダヤ人の神」であった神が「異邦人の神」となったのである。まずはユダヤ人に与えようと備えた救いが、異邦人たちのものとなってしまったのである。


「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。」 (11節)


だからと言って、神は完全にユダヤ人を見捨てたのかと言えば、そうでもない。


「今も、恵みの選びによって残された者がいます。」 (5節)


そう、ユダヤ人でもキリストを信じた人々には、救いを与えたのである。これが、肝心なところである。ユダヤ人の多くは、その行いによって救いを獲得しようとしていたのである。それが彼らの伝統であり、歴史であったからだ。少なくともキリストがこの世に来られるまでは、それしか道がなかったわけだが、しかし彼らの心は神を求めるよりも、自らの行いを良くすることに執着していたのである。


しかし、それでは罪からの解放、神との和解や平安を得ることができないのである。なぜなら、それは「恵み」として与えられるものだったからだ。


なんだか長くなってしまった…。長くなるほど、話にまとまりがなくなってしまう気がする。まぁ、何遍も言うけど、下書き程度に考えてくださいませ。(って、いつも同じ言い訳だな。)