すべてを完成させる神
なんというか、このブログの雰囲気が「育児日記」っぽくなってきているような…。まぁ、それはそれでいいだろう。でも、このブログの一番のテーマは「聖書」である。聖書が何を伝えているか…まさにそれが、私がこのブログを通して一番伝えたいことである。
とは言っても、堅い話ばかりではつまらないよね。やはり、もっと身近な話題も必要だと思うわけであります。
さて、ローマ書11章、最後の1節を見ている途中だったよね。「すべての物事は神から生じて」「すべての物事は神によって完成され」「すべての物事は神のところへ到達する」と三つのことが書かれていたが、今回は二つめの「すべての物事は神によって完成される」というところを見ていこう。
これが一番顕著に語っていることは、神は誠実な方であるということではないだろうか。
さて、前回は、すべての物事が良かれ悪しかれ神から出ているということを書いた。そして、その中に何らかの目的を感じることが重要であることも書いた。
しかし、もし神が無責任なお方であるとしたらどうであろうか。
いやいや、あまり考え込むこともないだろう。それはそれは見るも無惨な世界のできあがりである。あまり良いたとえが見つからないのだけれども…もし仮に、神が何か思うところがあって、私を未開の島へ島流しにしたとしよう。乗ってた船が沈没してどこかの島に流れ着いたとか、そんな感じで。(なんか極端な譬えだなぁ…)そして神はその島の先住民族たちに福音を伝えようという目的を持っていたとしよう。さて、ここまではいい。これが前回読んだ「物事は神から生じる」ということになるだろう。
さて、未開の地であるから、私にはやらなければならないことが山ほどあるに違いない。まずその島で生活していけるだけの知恵をつけなければならない。食べても平気な動植物、近寄っては危険な場所や生き物を知らなければ生きていけない。また、福音を伝えるためには、先住民族の言語も学ばなければならないだろう。未開の孤島に住む人々が日本語か英語を話すとも思えない。
そのような状況になった時、私ひとりでそのようなことができるであろうか。まず、無理な話である。助けがなければ、一週間もしないうちに飢え死にするか、動物の餌になるか…まぁ、そんなところだろう。当然、誰かの助けが必要である。未開の地で私を守り、必要なものを備えてくださる誰かが必要である。
ここで神様が登場するかしないかで大きな違いがでてくる。
もし神が関与しない、つまり目的はもっていたけど、それを途中で放棄したり、気が変わってしまったとしたら、私は未開の孤島でひとり寂しく人生を終えるだろう。いやそれならまだマシだ…動物の胃の腑に収まってしまってもおかしくはない。
しかし、神が関与して下さるのであれば、神は私を危険から守り、また神の目的を達成するために必要なものをすべて備えてくださるであろう。なぜなら、天地万物を創造された神に不可能ということはないからだ。神にとっては「できるできない」という問題は存在しない。神にとって重要なのは「するかしないか」ということだけなのである。
冒頭で読んだように、「神はすべてを完成させる」方なのである。絶海の孤島ではないにしても、神はこれからも私を様々な状況に身を置かせることだろう。良い時もあれば、悪い時もあるだろう。しかし、そこには何らかの神の目的があるということだ。そして、神はその定めた目的に対して責任を持って下さるということだ。私はこれを誠実と呼ぶ。
すべては神から発する
今も窓を開け放して、外の涼しい空気を部屋の中へ入れている。もう6月。そろそろ梅雨かな。ふと、夕刊の週間天気予報を見ると、明日から天気はすっきりしない模様。さてさて、今年の梅雨入りはいつ頃なんだろうか…と考えながら、今夜も聖書を開いてみた。
今夜もローマ書の11節を見ていこう。あまり難しく考えずに、読んで素直に感じるままに書いていきたい。どうも、最近深く考えすぎる気がする。それはそれで良いことなんだろうけど、毎日そんなことやってたら、アタマが疲れてやる気が失せてしまいそうだ。
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」 (36節)
んー、なんかピンとくるようでピンとこない言い回しである。
もうちょい分かりやすく読み直すと、「すべての物事は神から生じて」「すべての物事は神によって完成され」「すべての物事は神のところへ到達する」ということになるのだろうか。正しい解釈はいざ知らず、少なくとも私はそのような印象を受けた。
「すべての物事は神から生じる」とは、まずまず神が創造主であり、創世記の冒頭に書かれているように、天地万物を創造されたということを考えると、納得できよう。でも、それ以外にもありそうな気がする。「すべての物事」と言うからには、過去の一時代に起こった天地創造だけを語るのは十分ではないような気がする。
んじゃ、何かというと、今の時代において生じる物事もやはり神から出ていることなんじゃないかってことになる。でも、それじゃちょっと具体性に欠けるというか、抽象的な言い回しで曖昧な気がするので、もう少し分かりやすく考えるには、自分の身の回りというか、自分自身を見てみればいいような気がする。そう、今自分が置かれている状況、それは良いものかもしれないし、悪いものかもしれない、でも一番現実的なのはその混ざり合わさった状況だろう。生きてれば、良い目を見ることもあるし、悪い目に遭うことだってある。そのような状況において、運が良かっただの、運が悪かっただの、偶然だのと様々に考えることはできるだろうが、もしそれらの物事のひとつひとつが神から出たものだとしたらどうだろう。
「神様って意地悪だ」と思うだろうか。うん、確かにそう思えることだってあるかもしれない。クリスチャンをやっていても、神が分からない、神の考えていることや意図していること、ひっくるめて言うと「神の御心」を知ることができないことがある。というか、むしろその方が多いのではないかとさえ思える。が、それはしかたないことであろう。神は創造主であり、人である私たちは被造物でしかないのだから。
しかし、神の御心が分からないとしても、それが神から出たものであると信じるのであればどうだろうか。もしかしたら、そこに目的があるのではないかと、人は感じることができるのではないだろうか。それを知識として認知するまではいかなくとも、感覚として感じることができるようになるのではないだろうか。
少なくとも私にとってはそうである。なかなか思うように人生というのは歩めないもである。それに神が何を考えているのか分からないことも多い。しかし、今このようにして私が存在していることに何らかの目的があるのでは…とも感じている。あくまでも感覚としてである。その目的が何であるかは、私には分からない。そして、私のちっぽけな脳みそでは理解できないから、すべてを把握しておられる神に私は信頼を置き、そのような神に期待をする。
なんか長く書きすぎたかな。続きはまた明日。
驕るなかれ
さてと…間が開いてしまったけれども、聖書を読んで行きたいと思う。前回からは、ローマ書の11章を見ていたので、今夜もその続きということで。
今夜の箇所はなかなか耳に痛いというか、心に重たく響くというか、なかなかキツイことが書いてある。前回までは、神がイスラエルの民、すなわちユダヤ人たちの心を頑なにされ、その結果として異邦人たちが救いを受けるようになったと書いてあるところを見た。それを読むと、神が異邦人、つまり我々に対して寛容になっているように思える。確かに神は人々に対して寛容ではあるかもしれないが、それと同時に厳しい目で見ているということを忘れてはならない。
「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」 (20節)
そう、神は我々が優れているとか、価値があるからとか、そのような理由で選らんだのではないのである。神は罪の中にあった我々に、イエス・キリストを通して救いの道を備えてくださったに過ぎないのである。ここに見られるのが、寛容な神の姿なのである。ところが別の見方をすると、神の寛容さというのは、ここまでのものなのである。
我々が信仰によって立っているということは、すなわち信仰によって、我々は神と結ばれているということになるのだろう。つまり、信仰だけが罪のある我々と清い神との間に和解をもたらすことができるのだ。人がいくら良い行いをしようと、いくら真面目に生きようと、どれだけ慈善団体に寄付しようと、そのようなことは人の罪を消し去ることはできないのである。人の行いや考えを見て、罪を赦すほど、神は寛容ではないということだ。神は慈しみ深いお方であるが、しかし義を重んじるお方であるということを忘れてはならない。
「もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」 (21節)
信仰がなければ、他にどのようなものがあろうとも、人は神と和解することができないのである。ユダヤ人たちは不信仰のゆえに、神からの救いを受け取ることができなかったが、これはもちろんユダヤ人でなくても同じである。
ともあれ、一番肝心なところは、我々は信仰があるからといって、人の前であろうが神の前であろうが、思い上がった態度をとったりしてはいけないというなのだろう。むしろ、いつでも我々のことを切り捨てることのできる神の力を恐れなければならないのかもしれない。
一番長い祈りかな
週報に向けて、エッセイを書いた。今日はヨハネの福音17章から。本文中でも書いたが、この箇所を真面目に読んだのはこれが初めてなように思える。蛍光ペンや赤ペンでマークされた後がない箇所である。しかし、なかなか含蓄のある箇所だと思う。一晩でこの箇所を読んで整理するなど、今の私には到底できない。
というわけで、下書きを以下に記述する。この箇所は後々もっと時間を掛けて調べると、得られるものが大きいかもしれない。
イエスは弟子たちに、自分がさらなければならないことを伝えた。そして、その後に助け主である聖霊がやってくることも告げた。イエスは弟子たちに伝えておきたいことをすべて伝えた。
イエスは天を見上げて、祈りを捧げた。十七章の最初から最後まで全二十六節がイエスの祈りとして記録されている。私の記憶にある限り、不思議と今まで何度も読んできたであろうに、今まで深く考えたことのない章である。今、自分の聖書を開けてみたけど、何の印も付けられていない。やはり、ある意味「素通り」されてきたところのようだ。そのようなわけで、じっくり読んでみた。しかし、改めて自分の知識の足りなさというか、理解力の稚拙さというか…まだ学ばなければならないことが多いような気がする。
イエスの祈りを読んで見ると、イエスがこの世界にやってきた目的、イエスと父なる神との関係、イエスの私たちに対する思い、この世における私たちの立場…そのようなものが凝縮されているような印象を受けた。イエスが人々に伝えたいと考えていたことのほとんどがこの箇所を読めば分かるような気がする。それだけストレートな表現で記録されている。
まずは、イエスがこの世に来た目的について告白している。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため…その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
そう、イエスは人々に永遠のいのちを与えるために、この世界に赤子として誕生し、ひとりの人間として生活し、やがて時が満ちると神のことばを人々に伝え、奇跡を行うようになったのである。そして、こう祈った時点では起こっていないが、この後、弟子のひとりに裏切られて、処刑されてしまうことになるのであるが、それもすべてこの目的のためなのである。また、そうすることは、この世界において神の栄光をあらわすことにもなるのである。なかなか人の考えでは理解することができないかもしれないが、イエス自身がその祈りの中で神に対してこのように言っている。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
そして、イエスは後に残さねばならぬ弟子たちや信仰を持った者たちの行く末についても案じている。人々に神のことばを伝え、病に苦しむ人々を救い、最後に人々の罪の身代わりとなって、それでイエスにとってはこの地上での役目を果たしたということになるのであるが、だからといって満足してしまうお方ではなかったのである。ここにイエスの人々に対する慈しみの思いがでているように思える。「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。…彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」
神の名において、信仰を持った人々がつながりを保つことができるように、そして、そのつながりを壊そうとするような悪意を持った者たちから守られるようにというのが、イエスの願いであった。しかし、イエスは祈りの中で、必ずしも信仰者がこの世から取り去れることは望んでいないとも告白している。それは、信仰者には信仰者としての役目があるからである。神は死者をも復活させたことのあるお方であるから、苦悩や困難の中にある人々を救い出すことは容易なことであろう。しかし、それは本当の意味での善には結果としてならないのである。
神のことば、キリストのことばと行いを伝えることは、さらに永遠のいのちの所有者を増やすことにつながるのだ。イエスは目の前にいる弟子たちだけのために祈っているのではない。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」
イエスはすべての時代に生きるすべての信仰者たちのために祈っているのである。言葉としてはそれだけのことかもしれないが、その意味は重い。イエスは私のため、あなたのためにも祈っているのである。我々も祈ることはできるが、救い主であるキリストを除いては、神に対して完璧なまでの信仰に基づいた祈りをできる者はいないだろう。これほどの励ましはない。
今日は横浜開港記念日
今日は横浜市民にとっては大事な日。今日は横浜の開港記念日なのです。市立の小中高は休み。
ちなみに今日は私も会社を休み。でも、開港記念日とは関係ありません、残念ながら。
実は臨月の私の妻が、お腹が張るー、もうすぐ産まれるかもしれないー、と言うので、大事をとって仕事を休むことにしたのです ((o(∇^*o)わくわく(o*^∇)o))
…ところが、全然産まれる様子がないのです ヽ(;´Д`)ノ
んで、せっかく時間ができたので、床屋に行ってきました。たまにはこうやって休んで、近所に買い物に行ったり、子供の相手したりと、特別なことをしないで過ごすっていうのもいいよね。時間のありがたさというか、何気ない生活が嬉しく思える。
それにしても第二子が産まれるのはいつのことだろう。さっき上の子に「赤ちゃん何時くらいに産まれると思う?」と聞いたら「11時」と答えてた。姉妹で意思が通じ合うのかしら。当たったらびっくりだわ。
しかし、いつ爆発か分からない時限爆弾を抱えているみたいで、なかなか落ち着かないですな。