あるキリスト者のつぶやき… -127ページ目

便所で、悟り

自分は幸せ者なのかもしれない。

そんなことを今朝、便所に入っていたら考えていた。

便所だけが我が家で唯一窓のない空間である。これからの時期、何が辛いって、便所で用を足すのが辛い。なぜって汗だくになってしまうからだ。シャワー便座はありがたいが、いっそのこと体全体の汗を流してくれたらいいのに、と思ってしまう。が、下から水が出てくるのを体で浴びちゃったら、甚だ不衛生である。便座を暖める機能があるのなら、エアコン的な機能を持ち合わせた便座があっても良いではないだろうか。

まぁ、便座の話はおいておくとして、こんなこと思った。

仕事はつまらないし、給料だって悪くはないだろうけど、だからと言って良いと言うわけでもない。通勤片道1時間半かけて、不本意ながら雑用みたいな仕事をやらされて、大して仕事ができるとも思えない人たちにこき使われて…はっきりいって割りに合わないと思う。

休みの日は休みの日で、家のことだの、マンションの管理組合のことだのであれこれせわしなく動き回って疲れが取れるわけでもない。

私の身を取り巻く様々なことを数えてみると、満足に思うことよりも、不満に思うことのほうが数が多いような気がする。

それでもなぜか私は幸せ者だと思えるのだ。とくにこれと言った説明できるような理由があるわけでもない。ただ感覚としてそう思えるのである。だからといって、ない物ねだりをしても、何も得られるものはないと、諦めのような思いでいるわけでもない。

なぜ幸せ者だと思うのか?もしかしたら、将来に対する思いがあるからなのかもしれない。今は大して面白くもないことばかりが続いているが、いつかそのうち良いこともあるかもしれないと、そう思っているからだろうか。よく分からない。良くは分からないが、夢を持ち続け、目的を持ち続けることだろう。そのために努力とか何かをするかは、二の次であろう。まずはそのような「思い」とか「気持ち」とかを捨てないことだろう。

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跳べない跳び箱

今日は長女の通う幼稚園にて運動会が行われた。

雨が降らなかったのは良かったのだけれども、なんといっても強い日差しが体に堪えた。何もしなくても体の中の力が、どんどん流れ出てしまったような気になる。実際流れ出たのは汗でしかないのだが。

さて種目の一つに障害物競争のようなものがあった。まず縄跳びを跳びながら走っていくことから始まるのだが、縄跳びが結構好きな長女にとっては、障害と呼ぶには値しないようだった。

続いて、鉄棒。娘は逆上がりもできるので、鉄棒も障害ではない。

その次は、でんぐり返り。家の中でもやっているのでどうってこともない。

次は、地面の上に並べられたフラフープを「けんけんぱー」の要領で通っていく。実際には一列に並べられているので、「けんけんぱー」よりも簡単である。

その次はゴム跳び。特に決まりがあるわけでもなく、単純にゴム紐を飛び越えていくだけである。これも難なく通過。

さて、締め括りは、跳び箱である。ひとつは五段、もうひとつは六段。いやいや、ここは幼稚園である。六段といっても幼稚園児の背丈よりも低い。付き添いの体育の先生が手伝ってくれるので、なんとかジャンプすれば行けそうなものである。ほとんどの子供たちは六段の方を跳んでいた。

そこで、わが娘の番である。慎重なのか臆病なのか、はたまた自信がないのか、五段の方を選んで…ダッシュして…踏切板でジャンプして…

…ペタリ。

と、物の見事に、跳び箱の上に着地。それも半分より手前の方に。見てると、そのままずり落ちてくるんじゃないかと思ってしまったくらいである。

まるで自分の子供の頃の姿を見ているのではと思ってしまった。かく言う私自身も跳び箱は跳べなかったのである。というか私の記憶にある限りでは跳び箱が跳べたということがない。馬跳びは全然問題なく跳べるのだが、なぜか跳び箱はからっきしダメだったのである。蛙の子は蛙、という言葉の通りじゃないか。

なぜ長女は、というか私もであるが、跳び箱を跳べないのだろうか。運動神経は良くないかもしれないが、自分の身長よりも低いものを飛び越すのにさ運動神経もへったくれもないだろう。娘は跳び箱以外は何の問題もなかったのであるから。

要するにあれである。跳び箱を前にするとビビッてしまうのである。目の前にある高い「壁」に圧倒されてしまい、跳躍する気力や努力が一瞬にしてすっ飛んでしまうのだ。

そう考えると、人間の気力っていうのは、本当に人を動かすことができるのだろう。出来ると思えば出来るし、出来ないと思っていては何事もできないのだ。何かを成し遂げたいと思うのであれば、まずは何よりも「自分は出来る」と信じることが大事なのだろう。

聖書には「神に不可能なことはない」というようなことが書いてあったような気がする。どんなに不可能に思えることであっても、自分にはそれを起こすだけの能力がなかったと思えたとしても、神を通して出来ると信じさえすれば、何だって出来るのではないだろうか。

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なんとなく復活してみた

しばらく、というか1年半近くも放っておいたブログであるが、ちょっと再開してみようかと思う。何か深い意味があるのかないのかよく分からないが、何となく「またやってみようか」と思ったのである。

何を書くかテーマを考えてしまうと面倒になってしまいそうなので、思ったことを淡々と書いてみようかと思う。

ここ最近忙しく何かを書くという時間を見つけることもできなければ、何かを書こうかという気持ちもあまり起きなくなってきた。でも、物を書くことをやめてしまっては、何かいけないような気がするのである。

私はそんなに文章が上手であるとも思えないし、私の書くことが人の役に立つのも思えない。何か内容のあるものを書こうとすると、どうもそれだけ頭を働かせなければいけないし、それは確かに必要なことなのかもしれないが、どうにも疲れてしまっていけない。

だったら何も書かなきゃいいじゃないか、ということにもなりそうだし、その通りかもしれない。実際、そう思ってここしばらくはエッセイすら書くのを休んでいた。確かに疲れなくて済むことは済む。それは間違いない。

しかし、何か物足りないとも思うのである。

音楽ができるわけでもなければ、絵を描けるわけでもない。まぁ、音楽よりはまだ絵の方がマシだとは思うが。口下手であがり性だから人前で話をすることもできない。話術もからっきしである。

要するに何かを生産的というかクリエイティブなことをしたいと思えば、私は文章で表現することしかできないのである。それもいまいち怪しい技量かもしれない。

そう考えてみたときに、私が書くことをやめてしまっては私の中の大事なものが失われしまうようで、何と言ったらいいのだろか、自身の存在意義というか、生きている目的というか、将来への夢というか、そういったものが消えてしまい、ただ惰性で生きるだけのつまらない人間になってしまいそうな気がしたのである。

だから、せめて思いついたことでもいいから書き記していけたら、自分自身にとって何か良いことのように、私が必要としている何かを満たすことができるのではないだろうか、そう思ったのである。

人のために書くのもいいが、疲れる。だったらせめて自分のために書いてみるのはどんなもんだろうか。自己満足でもいいじゃないか。

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外人修行僧を見て

久しぶりにブログでも書いてみようか。
最後に書いたのは1月末だから…10ヶ月近くも放置されていたことになる。

今日は休日。で、来月は12月でクリスマス。そんなわけで、家族揃って実家のクリスマスの飾り付けの手伝いをしに行ってきたわけだ。一日費やして飾り付けるわけだから、半端じゃないよね。身びいきってわけじゃないけど、実家のクリスマスの飾り付けは、キレイだと思う。電飾に色を混ぜないのが基本。あと余計なものを置かない。

ついでに今年からクリスマスツリーが登場。こちらもなかなか良い感じだった。

さて、仕事が終わって一段落した頃に、テレビを見ていたんだけど、岡山(だったかな?)のお寺には外国人の修行僧が大勢いるとい特集をやっていた。頭をつるつる坊主に剃り上げたアメリカ人やカナダ人がお経を読んだり、座禅を組んだり、精進料理(番組では納豆を食っていたなぁ)を食べたりする姿は…今の時代ではあってもおかしくはないかなぁと思った。正直驚きはしなかったな。問題を抱えたり、世の中の有り様に疑問を抱いたりと、各人それぞれ様々な理由で禅に真理なり癒しを求めているようだ。

しかし、妙なものである。アメリカやカナダの人たちが禅修行に勤しむかと思えば、我が家は一日かけてクリスマスの飾り付けをして、夕食時には「アーメン」と祈り、ピザを食べているのだから。

なんとも表現しがたい気分になった。

今日を感謝

もうすぐ2006年も過去のものとなってしまう。この一年、何かすごいことがあったわけでもなく、平凡な一年であった。大きな出来事と言えば、次女が誕生したことと、雑誌に6か月の連載枠をもらったことくらいであろう。それ以外は特にない平和な一年であった。退屈な一年と言えば、そうかもしれないが、それでも12月末日になると、あっと言う間に過ぎてしまったと感じる一年だった。


終わりよければすべてよし、と言うが、さて、終わりはどうだろうか。やはり、良かったと言える。何が良かったかと言えば、やはり無事に2006年最後の日を迎えることができているからであろう。


要はすべて気持ちの持ちようであろう。最後の日に「良かった」と思うことができれば、この一年が退屈であったとしても、それはそれで満足に過ごしてきたことの現れなのかもしれない。いや、最後の日に感謝を感じることができれば、どんな一年であれ、過ごしてきた甲斐はあるというものだろう…。いずれにせよ、今日という日を感謝に思えれば、それで十分であろう。過去のことをくよくよ思わず、明日という日を心配せずに、まずは今を感謝に思えれば良いのではないか…結局はすべてが「今」の連続であるのだから。