第六感、声無き声
第六感といえば、虫の知らせとかのように具体的な根拠があるでもなく、人に何かを告げ知らせるものである。
勘違いもあるだろうが、第六感が正しいこともある。私の場合は結構な率で当たっていることが多い…ような気がする。残念ながら宝くじやロトで大当たりしたことはないが。それができたら、苦労はしてないだろう。
それじゃあ何が当たるかと言えば…例えば、私はムカデを察知することができたりする。今はマンションの三階に住んでいるのでムカデが家の中に入り込んでくることは、越してから一度もないが、実家に住んでいた頃は裏が山だったのでちょうど今くらいの時期になるとデカイのがよく出没していたものだ。不思議なことに、近くに現れたりすると何か他のことをしていても、それこそ寝ていたとしても、気付くことができた。いや、出来たというのはちょっと違うかな。これといって意識していたわけではない。無意識のうちに気付いたという方が正しいだろう。おそらくムカデが普通にいる環境で育ったがために、いつのまにやら自然とそのような能力(?)が身に付いてしまったのだろう。
もっともここ数年来ムカデと共存していないので、もしかしたら第六感は鈍ってしまったかもしれない。
さてさて、別の第六感が今朝働いたのであるが、私はそれを無視したのである。おそらくそれがハズレていることを期待したからだろう。ハズレて欲しいことに限って、実に的中率が高いというのが現実のようだ。
まあ大したことではないのたが、家を出て少し歩いていると、タオルを忘れたような気がしたのだ。汗っかきの私は一年通じてタオルが手放せない。それほど大事なものなのである。
んー、しかしこれは第六感ではないかもしれない。ただ自分の記憶の中にに、カバンにタオルをしまったというのが欠けていたことに気付いただけなのかもしれない。
何はともあれ、自分に何かを教えようという声無き声を聞いたのなら少しは耳を傾けてみるのもよいだろう。もしかしたら、それはタオル以上に重い意味を持っているかもしれない。

勘違いもあるだろうが、第六感が正しいこともある。私の場合は結構な率で当たっていることが多い…ような気がする。残念ながら宝くじやロトで大当たりしたことはないが。それができたら、苦労はしてないだろう。
それじゃあ何が当たるかと言えば…例えば、私はムカデを察知することができたりする。今はマンションの三階に住んでいるのでムカデが家の中に入り込んでくることは、越してから一度もないが、実家に住んでいた頃は裏が山だったのでちょうど今くらいの時期になるとデカイのがよく出没していたものだ。不思議なことに、近くに現れたりすると何か他のことをしていても、それこそ寝ていたとしても、気付くことができた。いや、出来たというのはちょっと違うかな。これといって意識していたわけではない。無意識のうちに気付いたという方が正しいだろう。おそらくムカデが普通にいる環境で育ったがために、いつのまにやら自然とそのような能力(?)が身に付いてしまったのだろう。
もっともここ数年来ムカデと共存していないので、もしかしたら第六感は鈍ってしまったかもしれない。
さてさて、別の第六感が今朝働いたのであるが、私はそれを無視したのである。おそらくそれがハズレていることを期待したからだろう。ハズレて欲しいことに限って、実に的中率が高いというのが現実のようだ。
まあ大したことではないのたが、家を出て少し歩いていると、タオルを忘れたような気がしたのだ。汗っかきの私は一年通じてタオルが手放せない。それほど大事なものなのである。
んー、しかしこれは第六感ではないかもしれない。ただ自分の記憶の中にに、カバンにタオルをしまったというのが欠けていたことに気付いただけなのかもしれない。
何はともあれ、自分に何かを教えようという声無き声を聞いたのなら少しは耳を傾けてみるのもよいだろう。もしかしたら、それはタオル以上に重い意味を持っているかもしれない。
まだまだ未熟な私
論説委員について、お話をもうひとつ。今度は私が云々ではなくて、本職の方のこと。
先日、産経新聞の論説委員である石井英夫氏が書いたエッセイ集を読んだ。「日本人の忘れもの」というタイトルである。それだけでも一度聞いたら忘れないものである。平易な言葉だけど、印象に残る。
産経新聞といえば、朝日や読売と言った大手紙ではないかもしれないがれっきとした全国紙である。世論やどこかの国々に媚びたりすることがなくて、一番まっとうな新聞社ではないかと思う。もっとも我が家は産経新聞をとっているわけではないのから、自信を持ってそう言えるわけでもない。何となくそのような印象を受けているに過ぎない。同社が出している月刊誌「正論」を読むと、そんな気がするだけのことである。それもあってか心地よく読むことができ、あっという間に読み終えてしまった。
ところでその方は、ひとつのエッセイなり論説なりを書くのに費やす時間はだいたい2時間であると作中で書いていた。果たして2時間とは長いか、それとも短いのか?
これは私の経験からすると、短いものだと思う。私は四百字詰めの原稿用紙に4枚程度のエッセイを書くのに、倍の4時間くらい掛かってしまう。ふむ、原稿用紙1枚書くのに1時間というのは、確かに長いような気がする。我ながらもうちっと早く書けよ、と思ってしまう。
必ずしも時間を掛ければ良いものができるというわけではないのだ。時間を掛けるイコール丁寧かというと、そうでもない。
これも自分の経験から言えるのだが、時間を掛けてしまうとあれやこれやと雑多な考えが浮かんでくるのである。さらにその雑多なものは書いているものに取り込もうかとするから、余計に時間が掛かって、書き上がるものは何を言いたいのかイマイチ内容がはっきりしないものになってしまうのだ。
2時間で書くためにはどうすれば良いのか?それは書く前に、書くべきこと書きたいことを明白にしておくことらしい。書きながら考えてしまっては、私のようになってしまうだろう。伝えたいことがはっきりしたらひと思いに書くこともまた大事であるに違いない。
そのためにも日頃から語彙を蓄え、正しい意味、用法を習得しておくのが賢いことだ。まぁ、分かっちゃいるけどなかなか難しそうに思えてしまう。なんて言っているようでは、まだまだ私が未熟な証拠だろう。

先日、産経新聞の論説委員である石井英夫氏が書いたエッセイ集を読んだ。「日本人の忘れもの」というタイトルである。それだけでも一度聞いたら忘れないものである。平易な言葉だけど、印象に残る。
産経新聞といえば、朝日や読売と言った大手紙ではないかもしれないがれっきとした全国紙である。世論やどこかの国々に媚びたりすることがなくて、一番まっとうな新聞社ではないかと思う。もっとも我が家は産経新聞をとっているわけではないのから、自信を持ってそう言えるわけでもない。何となくそのような印象を受けているに過ぎない。同社が出している月刊誌「正論」を読むと、そんな気がするだけのことである。それもあってか心地よく読むことができ、あっという間に読み終えてしまった。
ところでその方は、ひとつのエッセイなり論説なりを書くのに費やす時間はだいたい2時間であると作中で書いていた。果たして2時間とは長いか、それとも短いのか?
これは私の経験からすると、短いものだと思う。私は四百字詰めの原稿用紙に4枚程度のエッセイを書くのに、倍の4時間くらい掛かってしまう。ふむ、原稿用紙1枚書くのに1時間というのは、確かに長いような気がする。我ながらもうちっと早く書けよ、と思ってしまう。
必ずしも時間を掛ければ良いものができるというわけではないのだ。時間を掛けるイコール丁寧かというと、そうでもない。
これも自分の経験から言えるのだが、時間を掛けてしまうとあれやこれやと雑多な考えが浮かんでくるのである。さらにその雑多なものは書いているものに取り込もうかとするから、余計に時間が掛かって、書き上がるものは何を言いたいのかイマイチ内容がはっきりしないものになってしまうのだ。
2時間で書くためにはどうすれば良いのか?それは書く前に、書くべきこと書きたいことを明白にしておくことらしい。書きながら考えてしまっては、私のようになってしまうだろう。伝えたいことがはっきりしたらひと思いに書くこともまた大事であるに違いない。
そのためにも日頃から語彙を蓄え、正しい意味、用法を習得しておくのが賢いことだ。まぁ、分かっちゃいるけどなかなか難しそうに思えてしまう。なんて言っているようでは、まだまだ私が未熟な証拠だろう。
地方紙の論説委員
何年か前にキリスト教系の雑誌に-雑誌と言っても発行部数は僅かであろうが-エッセイを投稿していたことがある。6ヶ月の連載で2年なので、合計すると12回になった。微々たるものだったが原稿料もちゃんとあった。もっとも千円の図書カードとその雑誌十部を原稿料と呼ぶのであればの話であるが。
図書カードは子供の絵本を買ったりするのに役に立ったが、雑誌十部というのは…ちょっと困ったものだ。人にあげるくらいしかない。初めの頃は妻が配っていたようだが、後の方ではそうすることもなくなったようだ。無駄に場所をとっていたので、結局私がある日思い立って捨ててしまった。さて人に配るほかに、親父にも2部渡していた。ひとつは実家で読むために、もうひとつは長崎に住む叔父に親父が送るためだったそうな。遠方に住んでいるが故に、幼い頃から叔父と直接話しをしたこともなければ、近況も伺ったわけではないので、何がきっかけかは分からないが、叔父もクリスチャンになったとのことらしい。それもあって親父はそうしていたのだろう。
身びいきってのもあるだろうが、叔父に言わせると私の書いたエッセイは田舎の新聞の論説委員の書いたものより面白いとのことだった。田舎の新聞の論説を読んだことがないので何ともコメントのしようがないが、相手は玄人、こちらは素人である。甥っ子だからというのがあるかもしれない。が、そのようなコメントは単純に嬉しいものである。
日々研鑽して名実ともに物書きとして認められるようになりたいものだ。

図書カードは子供の絵本を買ったりするのに役に立ったが、雑誌十部というのは…ちょっと困ったものだ。人にあげるくらいしかない。初めの頃は妻が配っていたようだが、後の方ではそうすることもなくなったようだ。無駄に場所をとっていたので、結局私がある日思い立って捨ててしまった。さて人に配るほかに、親父にも2部渡していた。ひとつは実家で読むために、もうひとつは長崎に住む叔父に親父が送るためだったそうな。遠方に住んでいるが故に、幼い頃から叔父と直接話しをしたこともなければ、近況も伺ったわけではないので、何がきっかけかは分からないが、叔父もクリスチャンになったとのことらしい。それもあって親父はそうしていたのだろう。
身びいきってのもあるだろうが、叔父に言わせると私の書いたエッセイは田舎の新聞の論説委員の書いたものより面白いとのことだった。田舎の新聞の論説を読んだことがないので何ともコメントのしようがないが、相手は玄人、こちらは素人である。甥っ子だからというのがあるかもしれない。が、そのようなコメントは単純に嬉しいものである。
日々研鑽して名実ともに物書きとして認められるようになりたいものだ。
絵本屋さん
我が家の長女は、大きくなったら「絵本屋さん」になりたいそうだ。
絵本屋さんというと、絵本を売りたいのかと思ってしまうが、彼女がやりたいことは絵本を書くことらしい。確かに娘は本を読むのが好きである。私も本を読むのが好きなので、どうやら私に似たのであろうか…私もいつの日にか文筆業を生業にしたいと考えているので、どうやら成りたいものまで似てしまったようだ。いつまで娘がこの思いを持ち続けてくれるか分からない。でも、父親である私と同じ夢を持ってくれているとは、やはり嬉しいものである。
さて娘に文才や画才があるかどうかは、まだ分からないが、その気持ちは大切にしてあげたいものである。
そう言えば、私はまだ我が娘たちのために何かを書いたということがないことに気付いた。何か娘のためにそれこそ絵本のひとつやふたつ書いてみたいと思うものの、まぁ絵なんて描いたのは大学の頃に油絵の授業を受けたのが最後であるから、描けるどうかちょっと自信がない。まぁ童話でもそのうち書いてみるのもいいかもしれない。
絵本屋さんというと、絵本を売りたいのかと思ってしまうが、彼女がやりたいことは絵本を書くことらしい。確かに娘は本を読むのが好きである。私も本を読むのが好きなので、どうやら私に似たのであろうか…私もいつの日にか文筆業を生業にしたいと考えているので、どうやら成りたいものまで似てしまったようだ。いつまで娘がこの思いを持ち続けてくれるか分からない。でも、父親である私と同じ夢を持ってくれているとは、やはり嬉しいものである。
さて娘に文才や画才があるかどうかは、まだ分からないが、その気持ちは大切にしてあげたいものである。
そう言えば、私はまだ我が娘たちのために何かを書いたということがないことに気付いた。何か娘のためにそれこそ絵本のひとつやふたつ書いてみたいと思うものの、まぁ絵なんて描いたのは大学の頃に油絵の授業を受けたのが最後であるから、描けるどうかちょっと自信がない。まぁ童話でもそのうち書いてみるのもいいかもしれない。
カレーが好き
私はカレーが好きである。カレーなら二日三日続いても嬉しいくらいだ。
そんなわけで昨日は父の日だったこともあり、妻が私のリクエストに応えてカレーを作ってくれた。
私の好みにあわせて、肉は牛肉(滅多に食べさせてもらえないカレー・シチュー用のお肉、100グラム298円の我が家にとっては高級品の部類)、野菜はタマネギとニンジンだけという実にシンプルなものである。ジャガイモがないのは、私がカレーのジャガイモが好きじゃないからである。もちろん一緒に入っていれば普通に食べるが、ジャガイモがない方がカレーがさらっとしておいしいのである。んー、まぁ、おいしいかどうかは個人の好みによるだろうが。
そして今夜の夕食もカレーであった。我が家の娘たちはカレーがまだ食べられないので、カレーの日は冷凍されない限り続くのである。ちなみに本当は今日は夕方からミーティングがあったので、その流れで飲み会になるはずだったが、私はカレーが食べたいがために、さっさと帰ってしまったのだ。
さて、ご飯は炊きたて、パンは焼きたてがおいしい。たいていの料理は作りたてがおいしいものであろう。ところが、カレーは作りたてよりも、一晩おいた二日目の方がおいしいのではないかと私は思う。
もちろん作りたてもおいしいことはおいしいのだが、まだ肉と野菜にカレーの風味が馴染んでおらずに、ちょっと物足りないと感じるのである。それが好きな人はそれでもいいかもしれないが、私は具材にカレーの味が染み込んでいるのが好きなのである。
思えば人生というのも似たようなものだろうか。時間が経てば経つほど旨みが増すというか、人格というものに重厚さが出てくるのだろうか。さてはて私は36年間生きてきて、どれほど旨みが増しただろうか。いや、まだまだ人としては未熟なものであり、味のはっきりしない存在なのかもしれない。
それはそうと、どうやら明日の朝もカレーのようだ。いやはや嬉しい限りである。

そんなわけで昨日は父の日だったこともあり、妻が私のリクエストに応えてカレーを作ってくれた。
私の好みにあわせて、肉は牛肉(滅多に食べさせてもらえないカレー・シチュー用のお肉、100グラム298円の我が家にとっては高級品の部類)、野菜はタマネギとニンジンだけという実にシンプルなものである。ジャガイモがないのは、私がカレーのジャガイモが好きじゃないからである。もちろん一緒に入っていれば普通に食べるが、ジャガイモがない方がカレーがさらっとしておいしいのである。んー、まぁ、おいしいかどうかは個人の好みによるだろうが。
そして今夜の夕食もカレーであった。我が家の娘たちはカレーがまだ食べられないので、カレーの日は冷凍されない限り続くのである。ちなみに本当は今日は夕方からミーティングがあったので、その流れで飲み会になるはずだったが、私はカレーが食べたいがために、さっさと帰ってしまったのだ。
さて、ご飯は炊きたて、パンは焼きたてがおいしい。たいていの料理は作りたてがおいしいものであろう。ところが、カレーは作りたてよりも、一晩おいた二日目の方がおいしいのではないかと私は思う。
もちろん作りたてもおいしいことはおいしいのだが、まだ肉と野菜にカレーの風味が馴染んでおらずに、ちょっと物足りないと感じるのである。それが好きな人はそれでもいいかもしれないが、私は具材にカレーの味が染み込んでいるのが好きなのである。
思えば人生というのも似たようなものだろうか。時間が経てば経つほど旨みが増すというか、人格というものに重厚さが出てくるのだろうか。さてはて私は36年間生きてきて、どれほど旨みが増しただろうか。いや、まだまだ人としては未熟なものであり、味のはっきりしない存在なのかもしれない。
それはそうと、どうやら明日の朝もカレーのようだ。いやはや嬉しい限りである。