一番長い祈りかな | あるキリスト者のつぶやき…

一番長い祈りかな

週報に向けて、エッセイを書いた。今日はヨハネの福音17章から。本文中でも書いたが、この箇所を真面目に読んだのはこれが初めてなように思える。蛍光ペンや赤ペンでマークされた後がない箇所である。しかし、なかなか含蓄のある箇所だと思う。一晩でこの箇所を読んで整理するなど、今の私には到底できない。


というわけで、下書きを以下に記述する。この箇所は後々もっと時間を掛けて調べると、得られるものが大きいかもしれない。


イエスは弟子たちに、自分がさらなければならないことを伝えた。そして、その後に助け主である聖霊がやってくることも告げた。イエスは弟子たちに伝えておきたいことをすべて伝えた。
イエスは天を見上げて、祈りを捧げた。十七章の最初から最後まで全二十六節がイエスの祈りとして記録されている。私の記憶にある限り、不思議と今まで何度も読んできたであろうに、今まで深く考えたことのない章である。今、自分の聖書を開けてみたけど、何の印も付けられていない。やはり、ある意味「素通り」されてきたところのようだ。そのようなわけで、じっくり読んでみた。しかし、改めて自分の知識の足りなさというか、理解力の稚拙さというか…まだ学ばなければならないことが多いような気がする。
イエスの祈りを読んで見ると、イエスがこの世界にやってきた目的、イエスと父なる神との関係、イエスの私たちに対する思い、この世における私たちの立場…そのようなものが凝縮されているような印象を受けた。イエスが人々に伝えたいと考えていたことのほとんどがこの箇所を読めば分かるような気がする。それだけストレートな表現で記録されている。
まずは、イエスがこの世に来た目的について告白している。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため…その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
そう、イエスは人々に永遠のいのちを与えるために、この世界に赤子として誕生し、ひとりの人間として生活し、やがて時が満ちると神のことばを人々に伝え、奇跡を行うようになったのである。そして、こう祈った時点では起こっていないが、この後、弟子のひとりに裏切られて、処刑されてしまうことになるのであるが、それもすべてこの目的のためなのである。また、そうすることは、この世界において神の栄光をあらわすことにもなるのである。なかなか人の考えでは理解することができないかもしれないが、イエス自身がその祈りの中で神に対してこのように言っている。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」
そして、イエスは後に残さねばならぬ弟子たちや信仰を持った者たちの行く末についても案じている。人々に神のことばを伝え、病に苦しむ人々を救い、最後に人々の罪の身代わりとなって、それでイエスにとってはこの地上での役目を果たしたということになるのであるが、だからといって満足してしまうお方ではなかったのである。ここにイエスの人々に対する慈しみの思いがでているように思える。「あなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。…彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」
神の名において、信仰を持った人々がつながりを保つことができるように、そして、そのつながりを壊そうとするような悪意を持った者たちから守られるようにというのが、イエスの願いであった。しかし、イエスは祈りの中で、必ずしも信仰者がこの世から取り去れることは望んでいないとも告白している。それは、信仰者には信仰者としての役目があるからである。神は死者をも復活させたことのあるお方であるから、苦悩や困難の中にある人々を救い出すことは容易なことであろう。しかし、それは本当の意味での善には結果としてならないのである。
神のことば、キリストのことばと行いを伝えることは、さらに永遠のいのちの所有者を増やすことにつながるのだ。イエスは目の前にいる弟子たちだけのために祈っているのではない。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」
イエスはすべての時代に生きるすべての信仰者たちのために祈っているのである。言葉としてはそれだけのことかもしれないが、その意味は重い。イエスは私のため、あなたのためにも祈っているのである。我々も祈ることはできるが、救い主であるキリストを除いては、神に対して完璧なまでの信仰に基づいた祈りをできる者はいないだろう。これほどの励ましはない。