すべては神から発する | あるキリスト者のつぶやき…

すべては神から発する

今も窓を開け放して、外の涼しい空気を部屋の中へ入れている。もう6月。そろそろ梅雨かな。ふと、夕刊の週間天気予報を見ると、明日から天気はすっきりしない模様。さてさて、今年の梅雨入りはいつ頃なんだろうか…と考えながら、今夜も聖書を開いてみた。


今夜もローマ書の11節を見ていこう。あまり難しく考えずに、読んで素直に感じるままに書いていきたい。どうも、最近深く考えすぎる気がする。それはそれで良いことなんだろうけど、毎日そんなことやってたら、アタマが疲れてやる気が失せてしまいそうだ。


「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」 (36節)


んー、なんかピンとくるようでピンとこない言い回しである。


もうちょい分かりやすく読み直すと、「すべての物事は神から生じて」「すべての物事は神によって完成され」「すべての物事は神のところへ到達する」ということになるのだろうか。正しい解釈はいざ知らず、少なくとも私はそのような印象を受けた。


「すべての物事は神から生じる」とは、まずまず神が創造主であり、創世記の冒頭に書かれているように、天地万物を創造されたということを考えると、納得できよう。でも、それ以外にもありそうな気がする。「すべての物事」と言うからには、過去の一時代に起こった天地創造だけを語るのは十分ではないような気がする。


んじゃ、何かというと、今の時代において生じる物事もやはり神から出ていることなんじゃないかってことになる。でも、それじゃちょっと具体性に欠けるというか、抽象的な言い回しで曖昧な気がするので、もう少し分かりやすく考えるには、自分の身の回りというか、自分自身を見てみればいいような気がする。そう、今自分が置かれている状況、それは良いものかもしれないし、悪いものかもしれない、でも一番現実的なのはその混ざり合わさった状況だろう。生きてれば、良い目を見ることもあるし、悪い目に遭うことだってある。そのような状況において、運が良かっただの、運が悪かっただの、偶然だのと様々に考えることはできるだろうが、もしそれらの物事のひとつひとつが神から出たものだとしたらどうだろう。


「神様って意地悪だ」と思うだろうか。うん、確かにそう思えることだってあるかもしれない。クリスチャンをやっていても、神が分からない、神の考えていることや意図していること、ひっくるめて言うと「神の御心」を知ることができないことがある。というか、むしろその方が多いのではないかとさえ思える。が、それはしかたないことであろう。神は創造主であり、人である私たちは被造物でしかないのだから。


しかし、神の御心が分からないとしても、それが神から出たものであると信じるのであればどうだろうか。もしかしたら、そこに目的があるのではないかと、人は感じることができるのではないだろうか。それを知識として認知するまではいかなくとも、感覚として感じることができるようになるのではないだろうか。


少なくとも私にとってはそうである。なかなか思うように人生というのは歩めないもである。それに神が何を考えているのか分からないことも多い。しかし、今このようにして私が存在していることに何らかの目的があるのでは…とも感じている。あくまでも感覚としてである。その目的が何であるかは、私には分からない。そして、私のちっぽけな脳みそでは理解できないから、すべてを把握しておられる神に私は信頼を置き、そのような神に期待をする。


なんか長く書きすぎたかな。続きはまた明日。