驕るなかれ | あるキリスト者のつぶやき…

驕るなかれ

さてと…間が開いてしまったけれども、聖書を読んで行きたいと思う。前回からは、ローマ書の11章を見ていたので、今夜もその続きということで。


今夜の箇所はなかなか耳に痛いというか、心に重たく響くというか、なかなかキツイことが書いてある。前回までは、神がイスラエルの民、すなわちユダヤ人たちの心を頑なにされ、その結果として異邦人たちが救いを受けるようになったと書いてあるところを見た。それを読むと、神が異邦人、つまり我々に対して寛容になっているように思える。確かに神は人々に対して寛容ではあるかもしれないが、それと同時に厳しい目で見ているということを忘れてはならない。


「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」 (20節)


そう、神は我々が優れているとか、価値があるからとか、そのような理由で選らんだのではないのである。神は罪の中にあった我々に、イエス・キリストを通して救いの道を備えてくださったに過ぎないのである。ここに見られるのが、寛容な神の姿なのである。ところが別の見方をすると、神の寛容さというのは、ここまでのものなのである。


我々が信仰によって立っているということは、すなわち信仰によって、我々は神と結ばれているということになるのだろう。つまり、信仰だけが罪のある我々と清い神との間に和解をもたらすことができるのだ。人がいくら良い行いをしようと、いくら真面目に生きようと、どれだけ慈善団体に寄付しようと、そのようなことは人の罪を消し去ることはできないのである。人の行いや考えを見て、罪を赦すほど、神は寛容ではないということだ。神は慈しみ深いお方であるが、しかし義を重んじるお方であるということを忘れてはならない。


「もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」 (21節)


信仰がなければ、他にどのようなものがあろうとも、人は神と和解することができないのである。ユダヤ人たちは不信仰のゆえに、神からの救いを受け取ることができなかったが、これはもちろんユダヤ人でなくても同じである。


ともあれ、一番肝心なところは、我々は信仰があるからといって、人の前であろうが神の前であろうが、思い上がった態度をとったりしてはいけないというなのだろう。むしろ、いつでも我々のことを切り捨てることのできる神の力を恐れなければならないのかもしれない。