話題の映画といえば | あるキリスト者のつぶやき…

話題の映画といえば

久々に更新。先週から風邪をひいてしまったらしく、夜はおとなしくして早めに寝ていたので、記事を書いている余裕がなかったのです。いや、余裕がないっていうよりも、体力と気力がなかった…と言う方が正しいのかもしれない。


さて、先週の土曜日、20日には映画「ダ・ヴィンチ・コード」が封切りになったね。なんでもキリスト教を攻撃している内容だとかで、カトリック教会が映画の配給元であるソニーの製品の不買運動を始めるっていう話を新聞で読んだけど、何もそこまでしなくても…と私は思うのです。所詮、実話ではなくてフィクションなのに、なぜそこまでムキになるのか…ちょっと私には分からない。


「ダ・ヴィンチ・コード」は読んだことがないし、映画もまだ見てないので、あまり細かいことは言えないが、一部のキリスト教信者たち(私もクリスチャンなんだけど、私は彼らとは違う意見なので他人事みたいに話を進めていくよ)は、この物語で取り上げている"キリストとマグダラのマリアが関係を持ち、子どもをもうけた"という点に猛反発をしているようだ。


一人のクリスチャンとして、私はこの作品を否定するつもりは全くない。所詮フィクションである。たとえ作者がそのような思想や考えや意見を持っており、作品にそれを反映させたからといって、作者とその作品を攻撃するのは間違っているだろう。人がどう思おうと、何を考えようと、どのように表現しようと、それはその人の自由ではないだろうか。


一人のクリスチャンとして、私はむしろこの作品に対して否定的な意見を持つクリスチャンに対して疑問の念を抱いてしまう。


まず、キリストとマリアが結婚したという記述は聖書にはない。聖書のどこを見てもそのような記述はないのである。それを思い起こさせるような記述すら見あたらない。クリスチャンであるならそれくらい誰でも分かるはずである。だったら、なぜそのような仮説なり意見なりが世の中に登場しくらいで焦るのであろうか。もっと聖書に自信を持って然るべきではないだろうか。聖書が神のことばであるということに信じているのであれば、どんな意見がでようとも「ああ、そんな考え方もあるんだね」くらいに軽く受け流すことができるであろうに。


でも、結婚しなかったという記述もないから、もしかしたら結婚したのではないか…もしかしたら子孫を残したのではないか…という意見があってももっともだろう。百歩千歩万歩億歩譲って結婚して子孫を残したと仮定しよう。それがクリスチャンに影響を与えるであろうか?キリスト教信仰に影響を与えるであろうか?いやいや、そんなはずはない。少なくとも私の信仰はそれくらいでは動じない。なぜなら、私の罪を負ってくださったのはキリストの子孫でもなく、キリスト本人なのである。ただキリストだけが罪も汚れもない神の子であり人の子なのである。仮にキリストに子孫が残されたとしても、その子孫が私のために十字架に掛かってくれたであろうか…?第一、キリストに子孫がいたとしても、その子孫はもはや神ではない。キリストの子孫であるからといって、救い主にはなれないのである。やはり救い主は処女マリアより生まれた神の子であるキリストしかいないのである。


このような仮説でキリスト教が脅かされていると考えるようでは、その人の信仰とは一体何であろうかと、私は考えてしまうのである。


人々に与える影響が大きいから?だったら「ダ・ヴィンチ・コード」よりも聖書が人々に大きな影響を与えるように、福音を伝えていくことが重要なのではないだろうか。


ちなみに「ダ・ヴィンチ・コード」…私はミステリーが好きなので、映画は見たいと思っている。楽しむのは私の自由であろう。