誰でも、と言ったら、誰でも
なんだか聖書を読むのも久しぶりな気がする。続けて、ローマ書を読んでいこう。前回から引き続いて、今夜も10章。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」 (13節)
これがキリスト教の大胆というか単純明快なところだと思う。"だれでも"と書いてあるが、本当に"だれでも"なのである。キリストを心に信じ、その信仰を告白するのであれば、まさしく"だれでも"救われるのである。
人は善人であるから救われるのではない。また、悪人だからといって救われないということでもない。100人の命を助けようとも、100人の命を奪おうとも、等しく神と和解をすることができるのである。前者は神との和解が不要に思えるかもしれないが、後者は明らかに神との和解は必要である。そう考えると、善人も悪人も等しく扱われてしまうのは、公平でいて不公平なように思えなくもない。しかし、100人の命を救うことイコール神との和解が不要なほど善人、ということもないのである。1億人の命を無償で救ったとしても、1人に対して1秒の憎しみを抱くだけで、人はもはや善人とはなり得ないのである。それくらい目をつぶっても構わないような気もするが、しかし神は完全な方なのである。完全な方は、完全なものを求められるのだ。それに不思議はあるまい。
そうなると、人というのは明らかに不完全な存在であり、どんなにあがいたとしても神に受け入れられるものではない。しかし、そのような人の欠点だの汚点だのを覆うために、キリストが人の不義を負ってくださったのである。
そのようなキリストを信じることで、人は神の目に「完全」なものとして映るようになるのだ。
救われるためにあれこれと難しい手続きや条件などというものは存在しないのである。聖書を全部読まないと救われない、日に三度祈らないと救われない、禁酒禁煙を守らないと救われない…そのような条件というがまったくないのである。人に求められていることは、ただ一つ。「主の御名を呼び求める」ことなのである。
この言葉の裏を返してみると、もうひとつのことが見えてくる。つまり、救われた人は、信仰によって救われたのであって、決して行為や言動によって救われたわけではないということだ。つまり、救われているからといって、人はえらいわけでもなければ、救われていない人と比較して、自らを特別な存在として考えてはいけないのである。結構、クリスチャンの犯しやすい過ちだと思う。自戒の意も込めて…。