二つの義
先日書いたエッセイの清書したモノを、自分サイトにアップしておいた。興味のある方はご覧ください。感想なんかを残してくれると嬉しいです。でも、自分のサイトのエッセイも、いくつかの大きな作品にまとめていきたいですね。もっともまとめてどうする?って聞かれたら、返答に困るんだけど。本にできたらいいけど、自費出版できるほど経済的に恵まれておらんのです。
それでは、今夜も聖書を見ていこうと思う。
今夜からローマ書の10章。
「義」というものには、どうやら2種類あるらしい。まずひとつは「人の義」、もうひとつは「神の義」である。
パウロも言うように、ユダヤ人たちは彼らなりに信仰には熱心であったが、残念ながら「人の義」を優先させるあまり、神から遠ざかってしまった。つまり、律法をきっちりと守ることで、自らを神の前に良く見せようとしたのである。律法を守ること自体が悪いことだとは思わない。問題となるのは、自分たちの力だけに頼って、神の前に自らの潔癖さ、正しさというのを露わそうとしたのが、彼らの犯した間違えであった。その結果として、彼らは「知識」、つまり神を知ることよりも、律法に従った行いによって自らの義を求めることになったのだ。
彼らは「人の義」を追い求めるあまり、肝心の「神の義」から目が逸れてしまった。
キリストがこの世に来られたことによって、律法に終わりが訪れたのである。キリストが来られた後は、律法というものはすでにその役目を終えたのであって、律法を守ることに価値はなくなったものと言えよう。もはや律法を厳しく守ることで人が義と認められる時代は終わったのである。
キリストが来られた後、人は何によって義とされるのか…。
それは信仰である。「知識」なのである。キリストを知ること、そしてキリストを知ることによって神を知ること。それが、信仰であり知識なのであろう。キリストを信じて、神と和解することが「神の義」なのであろう。