真面目なネタに
ふざけた(?)ネタの後は真面目(?)を…。
久々にエッセイの下書きを載せます。清書が済んだものは、日曜以降に私のHPでどうぞ。
この地上での命運が尽きようとしている時、イエスはこう言った。「私は葡萄の木です。そして、あなた方はその枝です。」
なぜか、この箇所は私の心に深く刻まれている。私が最初に、イエスのこの言葉を読んだのは、クリスチャンになる前だったか、それともクリスチャンになった後のことだったかは、あまりよく覚えていない。それだけ信仰が未熟な時期に読んだこの言葉なのであるが、忘れ去られることもなくしっかりと今の今まで私の頭と心に残っているのだ。きっと、私が生きている限り、いつまでも私の中に残っていることだろう。それくらい強い印象を私に与えた言葉である。
イエスは譬え話を用いて、色々と弟子達たちや彼のもとへと集まってきた人々に神の国のこと、自分自身のこと、信仰についてのことなどを教えることが多くあった。そして、その記録が聖書にも残されており、今日でもイエスの語ったことを読むことができるのだが、正直どちらかと言うと、理解するのに難しい話が多い。人から説明されたり、教えられたり、もしくは自分で調べてみたり、推測してみたりすれば、なんとなく言わんとしていることが分かる気がすることもあれば、それでも釈然としないことがよくある。「きっとこんなことを言っているんだろうなぁ」と思うことはあっても、その根拠は何であるかとか、なぜそのように解すことができるのかというもやもやとした疑問や思いがわだかまるのだ。しかし、そのような譬えが多い中で、この葡萄の木の話だけは、何の疑問も持つことなく、すんなりと私の中に入ってくるのである。十何年も前のことは分からないが、おそらく最初にこの箇所を読んだ時も、深く考えたり悩んだりすることなく、イエスの言わんとしていることが理解できたのだろう。それだから、私の内にしっかりと残っているのかもしれない。そして不思議なことに、読めば読むほどに、今まで気付かなかったことが見えてくるようにも感じられるのだ。昔読んでも、今読んでも、同じように私の内に入ってくるのであるが、その入ってくる内容は少しずつ変わっているようにも思える。
イエスは言っている。「私は葡萄の木です。そして、父なる神は、その庭園の手入れをしてくださるお方なのです。実を結ばない枝を見つけては切り取り、実を結ぶ枝を見つけると、より一層実を実らせるように剪定をして下さるのです。」
葡萄の木に限ったことではないが、木というのは、まず幹がある。幹はしっかりと地中に根を張り、そこから必要な水分や栄養分を吸収するのだ。枝はそのような幹から生えている。つまり枝にとって木の幹とは大切な栄養源なのである。枝というのは、木から切り離されてしまっては、もはや生きていくことさえできないのである。私たちにとって、イエスとはこの木の幹なのである。私たちは、イエスという幹に生える枝になることで、生きていく上で必要なものを得ることができるのだ。そして、十分な栄養を受けることで、枝は実を実らせることができるのである。
それでは、枝である私たちは、木であるイエスからどのような栄養を吸収することができるのだろうか。それは、単純に一言で言い切れるようなものではないだろうと思う。なぜなら、イエスが私たちに与えてくださる物とは、枝である私たちの成長にとって必要なすべてのものだろう。実際、話の中でイエスはこうも言っている。「あなた方が私の枝である限り、何でも望む物を願いなさい。それはあなた方に与えられるでしょう。」
もっとも、欲しい物が何でも手に入るというわけではない。あくまでも枝が育っていく上で必要なものに限られてのことである。しかし、枝である私たちにとって最も重要なことは実を実らせることにあるのだから、それはそれで良いのではないだろうか。
そして、実を結ぶ枝には、農夫である神が、しっかりと手入れをして下さるのだ。必要な栄養が実を実らせるために使われるようにと、余計な枝葉を切り取ってくださるのである。
木であるイエスが与える栄養が何であるか、枝である私たちが結ぶ実が何であるか、農夫である神が取り除く枝葉が何であるか…具体的に何を示しているかは、分からない。分からないけど、それは葡萄の枝がまったく同じ房を実らせることがないのと同じように、枝である人によって様々であるからだろう。しかし、これを見て分かることがある。それは、葡萄の木と葡萄の枝と葡萄園の農夫の関係である。枝がどんな枝であれ、これだけは変わらない。
そして、木と枝はキリストの言葉と愛で結ばれている。実を結ぶこともなく、切り捨てられてしまうことになる枝は、この結びつきが薄いからなのだろう。良い実を、朽ちることのない実を実らせる枝でありたい。