下書きですが
例によって、エッセイの下書き。ヨハネの福音12書からです。
イエスは自らの死が近いことを理解し、それがどのような形で訪れるかを語ったが、人々はそれを理解することができなかったようである。
「人の子は上げられなければならないとは、一体全体、先生は何をおっしゃっているのだろう。昔の預言者の言葉は、救い主は常におられるというではないか。では、上げられるとは、何を言っているのだろう。そもそも、人の子とは何を言っているのだろうか。」
イエスは彼らに言った。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」
イエスは自らのことを光にたとえている。太陽が天にいる間、世界は明るく照らされている。光があるから人は生活を営むことができるのだ。そして、日が沈み夜が訪れると、世界は闇に包まれ人々は活動することをやめるのだ。今でこそ、電気が当然のものとなり、昼夜関係なしに人は自由に活動することができるようになって、夜になっても闇で世界が包まれるということはなくなってきたが、だからといって夜の闇の存在を否定することにはならない。
コンビニがある生活になれた今に生きる私たちには、夜の闇というのがどのようなものであるか、あまり実感が湧かないだろう。私も闇夜というものを体験したのはいつの頃だか覚えていないくらいだ。もしかしたら、まだ学生の頃に、街の明かりの届かないところに流星雨を見に行った時が最後くらいかも知れない。便利になりすぎた今の世の中、暗闇というのが、どのようなものであるか、私たちには想像することしかできまい。
ところで、神の子であるキリストが地上で人々と交わり、多くの奇跡を行っている間は、この世は夜の闇に閉ざされることはあっても、霊的な闇に閉ざされることはなかった。夜の光であるキリストがいるところに、暗闇がはいる隙間はどこにもなかったからだ。もし闇が存在したとすれば、それは人が明かりを遮るために目を閉じるように、キリストに対して心のを閉ざした人々-例えばキリストに対して妬みをもった指導者たち-の内側だろう。必ずしも、世界がすべて闇に閉ざされていたというわけではない。
しかし、イエスが十字架に上げられることで、この夜から光が消えてしまうのである。一寸先は闇とはまさにこのことだろう。この世を照らす光であるキリストがいなくなってしまえば、人は闇の中で迷うことしかできないのである。
そのようなことになるのを不安に思ったから、イエスはこう言っているのだろう。「まだ光がある間に、光のことを信じなさい。そうすることで、あなた方自身も光の子となるのです。」
言葉にこそ出していないが、おそらくイエスの気持ちはこのようなものであったろう。「そして、あなた方も世の光となりなさい。私が去った後には、あなた方が世の中を照らす光となって、世界が闇に覆われないようにしなさい。」
イエスのそのような気持ちは伝わったのだろうか。考えてみると、世の中を照らしてきた人々がいたからこそ、今も人はキリストにおける望みを見出すことができるのではないだろうか。たとえわずかに光であっても、暗闇で輝くことができれば、暗闇を遠ざけることができるのである。輝きも集まれば世界を照らすのに十分なものになるではないだろうか。
夜の闇と言うが、夜は本当の闇ではない。明るく地上を照らす太陽が沈んだ後でも、小さく輝く星々がこの地上を照らしだすのだ。そして、夜は永遠に続くものではない。やがて朝が来ると太陽が再び世界を照らすのだ。
たとえ、キリストが地上にいなくても、それで私たちが光の子となって世を照らせば、人々は迷うことがないのである。