喜びの理由 | あるキリスト者のつぶやき…

喜びの理由

なんか一晩でランキングがずいぶんと上がってしまった。ついでに訪問者も倍に増えている。まぁ、増えたと言っても、ここ最近一桁だったので、それが二桁になっただけであるが。なんでかなぁ。もしや「六本木ヒルズ」というキーワードがヒットしたのか!?などと考えてしまう。もしそうだったら、今夜もヒットするだろう。


が、私が書きたいのはヒルズのことではない。聖書のことである。というわけで、今日は昨日に引き続きローマ書の5章を見ていこう。今日は2節から~なんて言うとまるで牧師である。


2節から5節には、私たちが喜ぶ理由について書かれている。いや、喜ぶといっても本当にここに書かれていることで、私たちが単純に喜べるかというと…そうでもあるまい。クリスチャンとは言え、やはり人間であるから、素直に喜べない時があろう。でも、ここに書かれていることは、私たちが「なぜ喜んでいることができるのか?」という問いへの答えを示しているような気がする。この答えを知ることは、私たちへの励ましとなるのではないか。


まず2節にはこう書かれている。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」なんか抽象的なことだ…と思うかもしれない。しかし、それはそれで良いではないか。神の栄光が何であるかを、具体的に理論立てて説明すること自体、無理なことのように思える。そもそも、神の栄光というのは、私たちの心で感じるべきものであって、頭脳で理解するよなものではない。神の力強さ、神の恵みの深さ、神の情けの深さ、神の正しさ、神の愛の深さ…それらをすべて混ぜ合わせたものが神の栄光と言えるだろう。そして、そのようなものを心の内に感じることこそ、私たちの喜びとなるのだ。


毎日、何気なく暮らしていると、そのような神の栄光を感じることが少ないような気がする。日常の様々なことに気をとられてしまい、なかなか神に目が向かないということだ。そうすると、煩悩ではないけれど、イヤな思いだの腹の立つ思いだのが心を占めてしまい、なおさらのこと喜びというものが感じられなくなるのだ。


常に…というのは、なかなか難しいことかもしれないが、どこかでほんのわずかな時間でもいいから、神に目を向け、神の良さを味わい、心に喜びを呼び戻したいものである。


5節まで見たかったが、今日はここまで。