裏切り者は誰か
今朝の新聞に面白い記事が載っていた。
数年前に発見された、紀元3世紀頃の物と思われる「ユダの福音」の写本がこのたび修復され解読されたということだ。聖書を勉強する者としてきわめて興味深い。出版されたら読んでみたいものだ。
さて、新聞に書かれていた内容にによると、「ユダの福音」にはイエスがユダに自分を指導者たちに引き渡すように命じたというようなことが書かれている。その理由は、ユダがイエスの本質を見抜いたからであり、他の弟子より優れていたから、イエスを指導者に引き渡す役目を与えたという。どうも他の福音書とは様子が違うので、異端視され2世紀に禁書になったという。
しかし、禁書になったとは当時の人々の考え方に触れるというのは、それはそれで興味深い。
さて、ユダが実はイエスを裏切ったのではないという説が出てきたことで、それがキリスト教的信仰にどのような影響を及ぼすだろうかと考えてみた。しかし、あまり考えることもなく簡単に結論に辿り着いたのである。ユダがイエスを裏切ったかどうか…はっきり言って重要ではない。どちらかというと、それは些末事に過ぎない。キリスト教信仰の中心となることは、イエス・キリストの十字架での死なのである。それを忘れてはなるまい。
それにイエスを裏切ったのは、ユダだけではないということだ。確かに、ユダは金銭に目がくらんで、イエスを指導者たちに売り渡したが、考えてみれば他の弟子たちにしても群衆たちにしても、イエスが捕らえられた時に、イエスを見捨てて逃げ出したではないか。ペテロに至ってはその後、イエスのことを「あの人のことは知らない」とまで否定しているのだ。数日前にはイエスを歓迎した群衆たちも、十字架を背負うキリストに唾を吐き罵声を浴びせるのであった。
そして、私たちにも似たようなところがあるのではないだろうか。いくらクリスチャンであると言ったところで、キリストを顧みないことが時にはあるかもしれない。それを考えると、ユダが裏切ったかどうか…小さなことにしか思えない。
数年前に発見された、紀元3世紀頃の物と思われる「ユダの福音」の写本がこのたび修復され解読されたということだ。聖書を勉強する者としてきわめて興味深い。出版されたら読んでみたいものだ。
さて、新聞に書かれていた内容にによると、「ユダの福音」にはイエスがユダに自分を指導者たちに引き渡すように命じたというようなことが書かれている。その理由は、ユダがイエスの本質を見抜いたからであり、他の弟子より優れていたから、イエスを指導者に引き渡す役目を与えたという。どうも他の福音書とは様子が違うので、異端視され2世紀に禁書になったという。
しかし、禁書になったとは当時の人々の考え方に触れるというのは、それはそれで興味深い。
さて、ユダが実はイエスを裏切ったのではないという説が出てきたことで、それがキリスト教的信仰にどのような影響を及ぼすだろうかと考えてみた。しかし、あまり考えることもなく簡単に結論に辿り着いたのである。ユダがイエスを裏切ったかどうか…はっきり言って重要ではない。どちらかというと、それは些末事に過ぎない。キリスト教信仰の中心となることは、イエス・キリストの十字架での死なのである。それを忘れてはなるまい。
それにイエスを裏切ったのは、ユダだけではないということだ。確かに、ユダは金銭に目がくらんで、イエスを指導者たちに売り渡したが、考えてみれば他の弟子たちにしても群衆たちにしても、イエスが捕らえられた時に、イエスを見捨てて逃げ出したではないか。ペテロに至ってはその後、イエスのことを「あの人のことは知らない」とまで否定しているのだ。数日前にはイエスを歓迎した群衆たちも、十字架を背負うキリストに唾を吐き罵声を浴びせるのであった。
そして、私たちにも似たようなところがあるのではないだろうか。いくらクリスチャンであると言ったところで、キリストを顧みないことが時にはあるかもしれない。それを考えると、ユダが裏切ったかどうか…小さなことにしか思えない。