毎週金曜の夜は | あるキリスト者のつぶやき…

毎週金曜の夜は

エッセイを書くことで費やされているような気がする。しかし、今日はどうもうまく書けなかった。まぁ、こんな時もあるかもしれないな。これからもう一度、見直してみよう。

イエスがベタニヤにいることを知った指導者たちは、イエスやラザロの口を封じてしまおうと、彼らのところへやってきた。彼らがイエスを憎んでいたのは、かなり前からのことなので驚くことはないが。彼らはラザロをも殺してしまおうと企んでいたのである。ラザロが死からよみがえったことで、多くの人々がさらにイエスに従うようになったからである。それほどまでに、ラザロの蘇りと、それについてラザロが語ったことが、人々に影響を与えたのだった。しかし、ラザロにしてみれば良い迷惑である。せっかく命を再び得たというのに、また命を奪われてしまってはたまったものではない。しかし、イエスとは直接に関係ないラザロまで狙うとは、彼らもよほど切羽詰まっていたのだろう。
さて、その翌日、過ぎ越しの祭りのために、イエスと弟子たちは、再びエルサレムへとやってきた。さて祭りのために集まってきた群衆は、イエスが自分たちと同じようにエルサレムに上ってくることを知ると、大騒ぎであった。イエスは驢馬の子を見つけると、その背にまたがり都へと入ってきた。人々は棕櫚の葉を手にして集まってきた。やがて、ラザロの蘇りを目にした人々は、その知らせをさらに広めたために、ますます多くの人々が集まってきた。律法学者たちはそれを見ると、互いに言った。「見なさい。すでに我々の手に負えない騒ぎになっているではないか。世界中が彼の後に従っているではないか。」
さて、エルサレムにはギリシア人であったがユダヤ教に改宗した人々が何名か滞在していた。彼らもイエスの噂を聞くと、弟子の一人であるピリポに是非ともイエスというお方にお会いしたいと願いでた。さて、相手が異邦人であったので、彼もどうしていいのか悩んだのだろう。アンデレに相談しに行くと、結局二人でイエスのところにギリシア人たちの要求を伝えにいった。
「先生、ギリシアから来た人々が会いたいと言っていますが、どうしましょうか?」
それを聞いたイエスはこう答えた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。…」
恐らくアンデレもピリポも、またそこに居合わせた人たちもイエスが何を言っているのか分からなかったであろう。幸いにも私たちには聖書があるために、イエスが何を言わんとしているのかを知ることができる。これは、イエスが自分の死を示して語ったことなのである。
全知全能の神の子であるイエスは、望むのならば死を味わうこともないのである。彼自身も神であるから、命に限りのある人とは違い、そもそも死ぬ必要などないのである。しかし、彼は死ぬことを受け入れようとしていた。その理由がここに書かれている。キリストが死ぬことは、すなわち豊かな実を結ぶためであると。それでは、豊かな実とは何であろうか。
私は農家をやっているわけではないし、生物学を学んだわけでもないので、麦について詳しいことは分からない。ある程度は想像しないといけないが、少なくとも麦の写真を見る限り一本の茎に数多くの麦の実がみのっているように見える。つまり一粒の麦が地に落ち、芽を出し、根を張り、成長し、何十倍もの実を結ぶのである。豊かな実とは、すなわち数多くの新しい命のことではないだろうか。イエスの死によって、多くの命が生まれるということなのだろう。