ヨハネの福音、19日分下書き | あるキリスト者のつぶやき…

ヨハネの福音、19日分下書き

またまたこんな時間。これからまとめにはいります。

エルサレム郊外のベタニヤという村に、イエスを信じていたマリヤとマルタという姉妹がいた。そして彼女たちには、ラザロという兄弟がいた。ラザロはこの時、重い病に冒されており、よもや長くは持つまいと思われていた。これを心配した姉妹は、イエスのところに使いを送った。ラザロのことを癒やしてくれるだろうと期待していたのであろう。「イエス様の愛しておられる兄弟が病に苦しんでおります。」との言葉を届けたと言うことは、おそらくラザロも以前にイエスに会ったことがあり、お互いに親しい間柄であったのかもしれない。そんなわけで、イエスがすぐに駆けつけてきて、彼の上に手を置いて祈り、彼を癒やしてくれるものだと、姉妹たちも期待していたのかもしれない。
ところが、イエスはすぐには動こうとしなかった。伝言を受けたのち、二日も今いる場所から動かなかったのである。これだけを考えてみると、イエスというのは意外にも薄情な救い主に思えてしまう。おそらく自分では助けを求めることができないほどに重症の患者を心配したその家族が、医者のところに助けてくれと懇願しに行ったにもかかわらず、医者が重たい腰を持ち上げないのと同じようなものである。これだけも、医者の資質を疑われてしまうが、さらに残酷とも思えることは、その患者が実は自分の友人なのである。医者でなくとも、友人が苦しんでいたらなんとかしてやりたいと思うのが普通であろうが、それでも、イエスは動かなかったのである。そう考えると、イエスは思いのほか冷淡な一面を持っているように思えても当然であろう。普通の人間の情を考えると、このようなことはありえない。しかし、忘れてはならないことは、イエスは普通の人間ではないということである。いや、神の子であるイエスは人間であるだけでなく、また同時に神でもあるのだ。だから、我々が理解できないことがあったとしても、それはむしろ当然なのである。なぜなら、神は我々の理解と想像を遙かに超えているお方なのであるから。
そして、このときのイエスも密かに考えていることがあったのだ。それを意味するかのように、こう言っている。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」
そして二日後、弟子たちに再びユダヤに行くことを告げたのだった。弟子たちは驚いたことだろう。ユダヤに行けば彼を妬んでいる指導者たちに捕まりかねないのに、なぜ危険を冒してまで出掛けていく必要があるのか不思議に思ったのかもしれない。どうやら、この頃には弟子たちもラザロのことをすっかり忘れていたようである。もし、覚えていたなら、きっとこう答えたことだろう。「わかりました。あのラザロという青年を助けに行くのですね。お供いたしましょう。」しかし、実際に彼らの口から出た言葉は違った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
イエスは彼らに答えて言った。「私は眠っているラザロを目覚めさせに行かなければならないのだ。」
思い出したように弟子は答えたのだった。「眠っているのならば、彼は助かるのですね。それはよかった。」
「違う。ラザロは死んでいるのだ。私がすぐに彼のところに行かなかったのは、これから起こることをあなたがたが見れるようにである。さぁ、ラザロのところへ行こう。」
死人のところへ行くと聞いた弟子の一人トマスが興奮して言った。「では、我々も先生と一緒に死のうではないか。」
彼らがマリヤとマルタのところに着いたときには、すでにラザロが死んでから、墓に埋葬されてから四日も経っていた。姉妹たちは悲しみに打ちひしがれていた。