そもそも救いとは
さてさて、騒ぎを聞きつけてやってきた指導者たちはヨハネとペテロを捕らえてしまった。どうやらイエスを例にして死者の復活について語っていたことが、どうにも彼らの気に入らなかったらしい。とはいえ、使徒たちに従っていた人数が半端な数じゃなかったので、指導者たちもどうすることもできず、一通り説教して彼らを釈放したのであった。
ところで、ヨハネとペテロは指導者たちの集まる場所に引き出されたとき、足なえが癒やされた理由について「イエスの名によって癒やされた」と語っている。これは昨日読んだとおりである。そして、二人は続けてこうも言っている。「世界広しといえども、キリストの名以外に救いはない。」健康な人であれば、癒しは必要ないであろう。しかし、救いはどうであろうか。救いという概念は何年間クリスチャンをやっていても、いまいちピンとこないが、要するに、簡単に言ってしまうと、罪(犯罪ではなく原罪)からの赦しと言ってもそれほど意味合いとして離れてもいまい。そう考えると、救いというのは、すべての人にとって必要なものではないだろうか。そして、キリストにのみ、それが見いだされるということだ。
ところで、ヨハネとペテロは指導者たちの集まる場所に引き出されたとき、足なえが癒やされた理由について「イエスの名によって癒やされた」と語っている。これは昨日読んだとおりである。そして、二人は続けてこうも言っている。「世界広しといえども、キリストの名以外に救いはない。」健康な人であれば、癒しは必要ないであろう。しかし、救いはどうであろうか。救いという概念は何年間クリスチャンをやっていても、いまいちピンとこないが、要するに、簡単に言ってしまうと、罪(犯罪ではなく原罪)からの赦しと言ってもそれほど意味合いとして離れてもいまい。そう考えると、救いというのは、すべての人にとって必要なものではないだろうか。そして、キリストにのみ、それが見いだされるということだ。
イエスの御名によって
まだちゃんと続いてます。今日は使徒の働き3章。
使徒ペテロとヨハネが神殿の入り口で生まれつき足の不自由な男に出会ったという。彼らがその男に目を留めると、男は何か施しをしてもらえるのかと期待するのであった。ところが、彼らには施せるような物は何も持ち合わせていなかった。しかし、彼らは不自由であった男の足を癒やしたのである。まったく予想をしていなかった「施し」に男は感激し、それを見た人々は衝撃を受けた。
しかし、ペテロとヨハネは人々に自分たち自身の力や信仰で男を癒やしたのではなかった。ただイエスの御名によって、男は癒やされたことを告げた。今の時代、絵空事のように思えてしまうが、イエスの御名による癒しの力を忘れてはならないだろう。
使徒ペテロとヨハネが神殿の入り口で生まれつき足の不自由な男に出会ったという。彼らがその男に目を留めると、男は何か施しをしてもらえるのかと期待するのであった。ところが、彼らには施せるような物は何も持ち合わせていなかった。しかし、彼らは不自由であった男の足を癒やしたのである。まったく予想をしていなかった「施し」に男は感激し、それを見た人々は衝撃を受けた。
しかし、ペテロとヨハネは人々に自分たち自身の力や信仰で男を癒やしたのではなかった。ただイエスの御名によって、男は癒やされたことを告げた。今の時代、絵空事のように思えてしまうが、イエスの御名による癒しの力を忘れてはならないだろう。
静かな朝のひとときに
昨日は朝から会社の役付き合宿。帰ってきたのは終電だった。一日会議でぐったり。そんなわけでさすがに今日は朝から礼拝に行くだけの体力・気力も残っておらず、妻と子を送り出して、家でのんびりすることにした。家族のことで追われず、教会のことでも追われず、会社のことでも追われず、実に心静かなひとときを過ごしている。たまにはこのような時間も必要であるな。
落ち着いた今考えてみるに、昨日の合宿は、まずまずだったと思う。毎回、合宿の前や途中では「なんでこんな面倒なことを!?」と思ってしまうのだが、終わってみるとそれなりに充実した時間を過ごせたのではないかと感じる。不思議なもんだ。今の仕事が好きなわけでもなく、今の会社に満足しているわけでもなく、どちらかといえば不満も多いが、それでもなぜか今の会社が好きなのである。なんだかんだ文句を言っても周りにいる人たちが良いからかもしれない。
結局、作家で身を立てるという派手な夢は所詮夢で終わることになることがあっても、今の会社で過ごすのもそれはそれで幸せなことかもしれない。私のような人間でも認めてくれ、そして必要として求めてくれるのは…嬉しいことなのではないだろうか。来年度の経営ビジョン。今の私の課題は、それをイメージ化することである。私自身の目標は、新サービスの展開について、色々と構想を練ることにある。
なんだかんだ文句言っても、年に一度は昨日のような日があった方がいいのかもしれないとも思う。
二日目
世に三日坊主とは言うけれど、果たして何日続くでしょうか。つーか、理想は毎日聖書を読み続けることじゃんか。これ自分への課題のひとつね。
今日は引き続き使徒2章を読む。聖霊に満たされた信者達が他の国の言葉で話し出したっていうストーリーが載ってる。これには様々な教派で解釈なり意見が分かれるところだけど、今の私にはどうでもいいと言えば、どうでもいい。それより大切だろうと私が思ったのは、24節に書かれていることだ。「しかし神は、この方を…(略)…、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」十字架につけられて殺されたが、三日目によみがえった。つまり、キリストは今も生きているということだ。もちろん、生きているからといっても今でもこの地上のどこかで生活しているってわけではないのであるが。肝心なのは墓に葬られて「はいさよなら」ではないことである。墓に埋められ朽ちていくだけのモノを信仰の対象にするのはむなしいことだろう。今も生けるキリストを信仰することが、教団教派の壁を越えての共通点だろう。
思えば、妙に偏った人道主義に走るクリスチャンのなんと多いことか。そんなことより大切なことあるだろうに。
社会人としての心構え
インターンで来ている学生さんが、社内のブログにこんな質問を投稿していた。「社会人になるにあたって必要な心構えはあるでしょうか?」
自分自身も社会人としての心構えなるものをあまり考えたことがなかったので、私にとっても考える良い機会となった。そして、この質問に答えるために考えを巡らすと、このような結論に辿り着いたのである。すなわち、社会人としての"特別の"心構えというのは存在しないと。
なぜ?って思うだろうが、社会人になるにあたって必要な「心構え」というものは、幼少期、小学校、中学校、高校、大学…と身につけてきた「心構え」の積み重ねではないか。今まで、生活の様々な場において身につけた常識を忘れさえしなければ問題ないのではないだろうか。
嘘をつくな、約束は守れ、独り占めするな、人の話をちゃんと聞け、礼儀を忘れるな…等々。人として基本的なことが身に付いていれば、社会人になるからといって、特別に気構える必要はないのかもしれない。何より、常識を守れば人から信頼されるからだ。私の周囲にも一流大学を出て、ちゃんと新人教育も受けているにも関わらず、人としての常識をわきまえていない者が見受けられる。私はそのような人たちを信頼はしない。
話を広げるとすれば、社会人であろうとなかろうと、人として節操を持つことは大切なのだろう。互いの信頼へと繋がり、世の中多少はマシになるかもしれない。
しかし、人のことをどうこう言う前に自分自身が気を付けて行かねばなるまい。
自分自身も社会人としての心構えなるものをあまり考えたことがなかったので、私にとっても考える良い機会となった。そして、この質問に答えるために考えを巡らすと、このような結論に辿り着いたのである。すなわち、社会人としての"特別の"心構えというのは存在しないと。
なぜ?って思うだろうが、社会人になるにあたって必要な「心構え」というものは、幼少期、小学校、中学校、高校、大学…と身につけてきた「心構え」の積み重ねではないか。今まで、生活の様々な場において身につけた常識を忘れさえしなければ問題ないのではないだろうか。
嘘をつくな、約束は守れ、独り占めするな、人の話をちゃんと聞け、礼儀を忘れるな…等々。人として基本的なことが身に付いていれば、社会人になるからといって、特別に気構える必要はないのかもしれない。何より、常識を守れば人から信頼されるからだ。私の周囲にも一流大学を出て、ちゃんと新人教育も受けているにも関わらず、人としての常識をわきまえていない者が見受けられる。私はそのような人たちを信頼はしない。
話を広げるとすれば、社会人であろうとなかろうと、人として節操を持つことは大切なのだろう。互いの信頼へと繋がり、世の中多少はマシになるかもしれない。
しかし、人のことをどうこう言う前に自分自身が気を付けて行かねばなるまい。