その目でどこを見る?その耳で何を聞く? | あるキリスト者のつぶやき…

その目でどこを見る?その耳で何を聞く?

人というのは不思議な物事や、非日常的な物事に興味を覚えてしまうものなのかもしれない。インターネット通じて世界のあらゆる情報を集めることのできるこの時代にあってさえ、多くの人々は占いというものに興味を寄せるのはそのためであろう。真剣に考えたことはないが、占いの歴史というのは相当古いモノだろう。昔の遺跡からあれこれ占いの儀式で用いたと思われる骨だの何だのが見つかることを考えると、聖書の歴史並に古いのかもしれない。聖書はあまりもてはやされることはないのであるが、占いというやつはなかなかどうして、人々を惹き付けてやまないようである。去年の夏くらいに中華街にマンゴーフラッペを食べに行ったのだが(まぁ、ずいぶん昔の話だねぇ)そのときガラス張りのきれいなビルの一階のテナントがなんと占い屋であったのが、今でも記憶に鮮やかである。あれはまるで、不動産屋か何かのショールームのように人がわんさと入っていた。
さて、使徒バルナバとサウロはキプロスへとキリストの福音を伝えるため、旅に出たのである。ある時、キプロスの地方総督が神のことばを聞きたいと考え、二人を招いたのであった。ところがエルマという名の魔術師が、総督を信仰に入らせないようにと、あれこれ邪魔をしていたのである。もしかしたら、エルマは以前から総督の前で様々な不思議な業を見せて、総督を自分の都合の良いように使おうと企んでいたのかもしれない。とにかくエルマは使徒が気に入らなかったのである。ところが、サウロが彼を叱りつけると、エルマは視力を失ってしまったのである。
そして、それを目の当たりにした総督は、神のことばに感心して、信仰を持つようになったのである。さて、ここで肝心なことは、総督はサウロの起こした奇跡をみて驚きはしたものの、それだけで信仰に入ったのではないということだ。総督は神のことばに揺り動かされて信仰に入ったのである。13章12節は見過ごしてしまいやすいような短い一節であるが、ここに書かれているのは大事なことであることを忘れてはなるまい。人を本当の信仰に導くのは、奇跡ではなく、神のことばであるということなのだ。
ちなみにこの頃を境に、サウロはパウロと呼ばれるようになる。理由は、知らないのだけれどね。


さて、キプロスからエルサレムに戻った二人は、その後アンテオケ地方へと向かった。そして、会堂に入ると信仰に入った人々ーイエスを信じたユダヤ人もいれば改宗した異邦人もいたのであろうーに神のことばを教えていたのである。ところが、この地方でもユダヤ人たちは、勢力を増しつつあるキリスト教徒たちを妬んで敵視していたのである。彼らは信仰者に向かって散々悪口を言ったのである。さて、パウロとバルナバはそのような彼らにこう言った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」
これもまた、忘れてはならないことだろう。神は人を拒んだりするような方ではないのだ。それはイエスの生き方を見ても分かるだろう。人が神と隔てられているのは、実は人が神を拒んでいるからなのである。クリスチャンとなった後も、神が遠くに感じられることがあるかもしれない。私もそのような時がある。でも、それは神が私を見限ったからではなく、私が神から目をそらしているからなのだ。


何やら、今夜は長く語ってしまった。