あるキリスト者のつぶやき… -121ページ目

連休明けて仕事に行って

連休明けは会社に行くのが面倒くさい。好きでやっていることならまたしも、大して好きでもなく、むしろ惰性で続けている、もしくは必要に迫られてやっていることだから、正直気が進まない。

かと言って家にいたいかと言うと、そうでもない。家にいたらいたで、これまた余計なことを頼まれてしまいそうだ。

要するにやりたいことができず、居場所もないのということなのである。もちろん今に始まったことではないが…。まあ、大げさに聞こえるかもしれないが、私にとっての人生の永遠の課題のようなものであろうか。

しかしものは考えようであろう。何もそんな悲観することもあるまい。ある程度の物足りなさがあった方が張り合いがあるというものかもしれない。人間全てが満たされてしまっては、それこそ向上心が失われてしまい、何事も妥協してしまうつまらない生き方になりかねない。つまらない人生よりかは、足りない人生の方がまだよいのだろう。

まあ今は大して面白いとも思えぬ日々を送っているわけだが…

…何か面白いことを探しているうちは、人間まだ幸せなのかもしれない。面白いことを見つけたならば、人はそれが終わるのを心配してしまうだろう。心配というものがある限り、人というものは幸せになれないだろう。

ほどほどというのが、人にとって最善なのかもしれない。ほどほどを感謝してみようか。

江ノ島水族館まで行ってきた

連休三日目の今日は知人から頂いた優待券を使って家族揃って江ノ島水族館へ行ってきた。ありがたいことである。水族館に行ったのは久し振りである。さて私はどちらかと言えば動物園よりも水族館の方が好きである。水族館は屋内がほとんどだし、温度も一定に保たれていて過ごし易い。贅沢と言うか、何のことはない、ただ惰弱なだけかもしれないが…。

それはそうと水族館は実際に魚に触れられたり、他の水族館と比べてクラゲの展示も豊富で大人でもなかなか楽しめるものだったし、娘たちもイルカのショーを2回見ることができて、大満足の様子であった。

さて水族館のほとんどがそうであるように、江ノ島水族館も例外ではなく海岸のすぐそばに作られいる。湘南ということもあってか、隣のビーチには若者が大勢集っていた。

そして当然のことながら、水着姿の女の子がわんさかいるわけである。これはこれは…ついつい目がそちらに向いてしまうのである。見るなと言われても、無理な話である。ビキニ姿でその辺をうろうろしているのだからどうしようもない。

まあ夏だから大目に見てもらいたいところであるが、さてさて水着で徘徊するのは女の子に限ったことではない。若い男の子も一緒である。毎日風呂はいる時に鏡に写る自分の姿を嫌でも見ているので、別に男の半裸姿なんて珍しくもないのだが、実にみんな素晴らしい体をしている。無駄な肉がこれっぽっちもついてないのである。私なんかは歩く度に腹の肉がぶるんぶるん揺れてどうしようないのだが、彼らにはそのような無駄な脂肪がないのである。羨ましい限りだ…。

はぁ、この無駄な肉は私の惰弱さの現れなのであろうか。我ながら情けないことだ…。

久々に洗車した

午後から久しぶりに車を洗った。とは言っても、丁寧に手でゴシゴシと洗ったわけではない。もちろん時間と場所の余裕さえあればちゃんと手洗いしてあげたいところだが、そんな余裕はないのでコイン洗車に行って、機械式の洗車機で洗うだけであるが。で、マンションの駐車場に戻ってきてから、丁寧に拭いて、仕上げにワックス(と言ってもスプレー式の簡単なものだけど…)をかけてやった。

さすがに中古車なので、細かい傷やらへこみが多数見られるが、それでもきれいにしてみると気持ちがいいものである。屋根のない駐車場に置かれて、使われるときは道路を走るわけだし、妻は運転が下手なもんだから、時に思わぬ傷をつけられることもある。だからちょっとした傷なら、車の持ち味だと自分を納得させることができる。まぁ、妻が街灯にこすったところはちょっと塗装がはげて目立つのだけれど、これはそのうち直すことにしよう。

だもんで、ちょっとの傷は仕方ないと思うし、許すこともできる。

が、汚れているのは、ちょっと私としては頂けない。たしかに汚れるのは仕方がない。毎日風雨にさらされているわけだから、当然である。しかし、傷のように跡に残るものではないから、手入れをしようとすれば、出来ないことではない。それこそ簡単にやろうと思えばガソリンスタンドで給油したついでにドライブスルー洗車というのもある。そんなわけで、汚れているというのは、その手間さえ惜しんでいるようで、それでは、ちょっと車が可哀想である。

とか言っている私も、今の車に乗るまでは、洗車をしようとは思わなかったのだが…。

傷がついているうえに汚れているのは、惨憺たる有様である。たとえ傷がなくとも汚れているのは哀れな様である。しかし、傷があっても、ピカピカしているのは、大事にされていることの表れのように思える。

やっぱりきれいにすると気持ちが良い!これからも大事に手入れをしていこう。

幼稚園の納涼会でふと思った

いまさら言うまでもないが、私はクリスチャンである。そう見えないかもしれないし、それらしく生活しているかと言えば、それはちょっと疑わしいが、それでもクリスチャンであることに違いはない。私の妻もクリスチャンである。我が家の娘たちはどうであるかというと、それは親が決めることではないだろう。

とは言っても、キリスト教の理念に基づいた教育を、せめて幼稚園の頃くらいは受けさせたいと思ったので、区内のキリスト教系の幼稚園に入園させたのである。というのは、だいぶ前の話で、うちの娘も今は年長さんの一学期目を終えたところだ。

ちなみにその幼稚園、キリスト教系とはいってもプロテスタントではなく、カトリックである。プロテスタントとカトリックの違いを今は述べるつもりはないが、どちらも同じキリスト教で同じ神様を礼拝し、同じ聖書を読んでいるから根本的なところでは違いがないのだが、それ以外のところでは若干の違いがある。まぁ、それはそれでもいいだろうと思う。すべてがすべて同じで、若干の違いも許容できないとすれば、それは恐ろしい思考だ。

さて難しい話は置いておくとして、今日はその幼稚園で納涼会が開かれたのだ。ところが、キリスト教らしさというものが全く感じられなかった。いやいや、それどころか、教会の敷地内で教会の人たちがビールを販売したり、盆踊りがあったりと、どうも教会らしくないのである。

もちろんクリスチャンがビールを飲んではいけないとか、盆踊りに行っちゃいけないとか言うつもりはない。それは個人の自由であるし、キリスト信仰とはそのような決まりごとを定めて人を縛り付けるのが目的ではない。むしろその反対である。

しかしふと思うのである。もちろんこれは私の主観でしかないのだが、せっかく教会の敷地内で納涼会を開くのであれば、もう少しその機会を用いて神のことばを人々に広めるために使えばよいのにと思うのだ。それが教会の使命のひとつではないだろうか。そこにプロテスタントだのカトリックだのといった違いはないと思うのだが…。

世間で生きるのなら、世間のルールに従わないといけない場合があるだろうが、教会の中であれば、教会としての特権を用いたとしても何ら不自然なことはないだろうに、それどころか教会の外の世界に調子を合わせてしまうのは、何かもったいないような気がしてならないのだ。

バキュームカー、見つけた!

私が子供の頃はまだ下水道が整備されておらず、バキュームカーが作業をしていても別段珍しいものではなかった。近くにいると一種独特の臭いが鼻をつく。また灰色と群青色を混ぜ合わせたような、見るからに魅力を感じさせない色で車体は塗装されていたように記憶している。要するに見掛けたら、近寄らずに避けて通りたい存在だった。

今となっては、過去の異物、じゃなくて遺物になったかと思いきや、先日その姿を見掛けてしまった。しかも走行中ではなく、ちゃんと作業をしていたのだ。おまけに2日続けてである。どうやら、私の勤め先の近所は下水道が整備されていないところもあるようだ。

具合よく距離があったので匂うことはなかったが、この蒸し暑い時期に間近にいようものなら、どうなることやら考えたくもない。

さて私が見掛けたバキュームカー、私の幼い頃の記憶からは著しく違うところかあった。

何かというと、その色である。なんと私が目にしたのは…ピンク。しかもどぎつい濃いピンクである。趣味の悪さ何ものにも劣らずってところだ。

臭いものには蓋をしろ、というけれど、いくら蓋を華やかに(実際は全然華やかになってないけど)したところで、所詮中身は汚いものなのだ。だったら、いっそのこと汚いことをアピールするような色にすればよいものを。下手に飾るとむしろ中身の汚さが目立ってしまうのではなかろうか。

所詮、見かけは本質を隠すための偽りなのだ。