不審者疑惑を免れた僕は、人々の暮らしの痕跡を求めて再び歩み始めた。
さっき爺さんに尋問を受けた時、その場からこの庚申塔は見えていた。僕は指差して説明しようかとも思ったけれど、スマホの写真を見せても彼は庚申塔を知らなかったし、それが実物であっても同じ事なので諦めた。
僕に疑いをかけてきた爺さんは、それを晴らそうとするでもなく笑顔で語る僕と対峙して、自責の念にかられていた。それにはちゃんと理由がある。僕が発する言葉が、彼の理解を超えていたからだ。
言葉には力がある。体が屈強だと絡まれないように、豊富なボキャブラリーは相手を圧倒する。そもそも絡んでくる時点で、「こいつならいける」と踏んでいるのだ。それが覆されてしまったら、立つ瀬がない。
僕は終始笑顔で接したし、彼のプライドを折るような真似はしていない。爺さんは自分の判断ミスにうろたえ、弁解をし、その場を取り繕って去って行った。生きることに勝ち負けなんて価値観は持ち合わせていないけど、彼の後ろ姿は敗北者のようではあった。
道端の塀際に建つ馬頭観音。遺されてはいるものの、これが何であるか理解している人は少ないだろう。でもそれは無理もない。風化した石柱は苔生し、刻まれた文字も読めない。気にしていなければ、毎日ここを通る人でも、その存在すら気付いていないかもしれない。
それでも、横に伏して置かれた二つの湯呑茶碗を見て、「たぶんこれは神様か仏様なんだろうな」と直感的に理解する。だから邪魔者扱いはしない。時間が許せば拝むかもしれない。慰霊や鎮魂の心は、日本人に備わった信心だ。それは宗教というより、遺伝と言った方がしっくりくる。僕らは命の繋がりをDNAレベルで理解している。
霊園の東側には畑作地が広がっていて、水を供給する用水路が真っ直ぐ延びている。僕は道なき道を電柱のナビゲーションで進んでいく。舗装が切れてすぐの所に水溜まりがある。アスファルトとは違って、土に凹凸は付き物だ。
それが自然の証明だし、歩く時に回避すればいいだけのこと。大地だって水が欲しい。そんな事も分からずに土を覆い尽くして、発展とか進歩とか自画自賛してきた人間。その暮らしが豊かか否かの答えが、ようやく明らかになってきた。エコを叫ぶ人達の目的は、違う所にあるようだけど。
掘っ建て小屋と呼ぶに相応しい建物に遭遇した。錆の濃い所がトンネルの入口のようだ。農機具が収納されている小屋であることは容易に推測できるけど、異世界への入口のような、ブラックホールのような吸引力を感じる。これほどまでに見事な形の錆って、滅多にお目にかかれない。
僕が見ている世界は、どうやったって僕の主観的な世界であり、それが完全に共有されることはない。人々は僅かなずれに頓着せず、共通項を共有することで同じ世界線を作る。この錆を見て異世界への入口だのブラックホールだのと感じるのは自由だけど、これは農機具の収納庫だよねと。
もしそれを頑なに拒否すれば、社会からは隔絶される。収納庫であるという現実を共有した上で、主観的な捉え方を表現するのは芸術として昇華する。それを理解できない者は、全て妄想や虚言と断定され、「コイツは頭がおかしい」という括りで片付けられる。
誰しも、自分の理解や常識の枠を超えるものは怖いのだ。幽霊なんて見たことないし、そんなのいる訳ないと思いたい。でも、祟りや呪いにかけられるのは嫌だ。そんなものは無いはずなのに怯える。見えない力を怖がる。人間の最大の恐怖は不安で、それには実体がない。
幹線道路に出て来た。バス停には銚子口と記されている。前方にはコンビニも見える。よく見ると歩道にはコンクリートの蓋がされている。暗渠になった用水路が地下を流れている。地下を水が流れ、地上を車が走り、架線を通じて空に電気が走る。現代の暮らしを象徴する光景。
神域は木に守られる。フラットな関東平野では、屋敷森が家を守ることもある。結界を表す鳥居が小さく見えている。天満宮のようだ。忌事を避ける際に「くわばらくわばら」と唱えるけれど、この木の高さは落雷のターゲットになり得るかもしれない。
それでもやはり神域は木々で囲む。それは空気の浄化の為でもある。ここには道真公の分霊があって、それを疎かにしようものなら、それこそ雷神の怒りに触れる。その感覚は、事の経緯を知らずともDNAに組み込まれている。民族の違いとは、そういうことなんだろうと思う。
次の目的地も神社だ。僕は人々の祈りに触れ、人間の根源的な欲求を探る。そこから何を得られるのかは分からないし、そもそも分かりたい訳でもない。ただ、人々の念が集まった場所で感じたものを吸収したい。もしかしたら、自分のポテンシャルに関わる大事な要素だと思うから。
P.S.
今日はちょっと随筆風に書いてみました。明日からまた通常運転です。それではまた!