こんにちは、リブラです。今回は、ウエイン・ダイアー著「老子が教える実践道(タオ)の哲学」の解説です。
第69章「敵のいない幸福」
「兵法に曰く、先手攻撃をするより、防御に回るべし。一寸進むより、一尺退くべし。
これを呼ぶなら、進まずに前進し、武器を使わずに反撃する術。
『敵がいる』という意識より大きな不幸はない。
『我』と『敵』が同居すれば、どこに我が『宝』を入れるだろう?
対立する者同士ぶつかったら、敵を持たない者が確実に勝つ。
互角の軍がぶつかったら、思いやりのある者が勝つ」
ー老子が教えるタオの哲学ー
本章で最も大切な行を、もう一度読み返してみましょう。
「『我』と『敵』が同居すれば、どこに我が『宝』を入れるだろう?」
「自分の宝」とは、心の平安、すなわち道(タオ)との絆です。
「確かに、どうしても考えが食い違う人はいる。自分自身や自分の生き方を守らなければならないときもある。それでも、わたしはそういう人たちを敵とは考えない」と自分の意思で宣言しましょう。
相手の中に自分の姿を見つければ、相手は敵の戦士でなく仲間です。目の前にいるのは、実は、あなたの一部なのです。あなたから攻撃をしかけないこと。自分で自分を攻撃することになります。
天の配慮で出会うことになった者同士です。協調しあう道を見つけてください。
今日のタオ
ユダヤ人の少女、アンネ・フランクは、その日記に次のように書き残しました。
「何が起ころうと、わたしは、人間の本質は善だと信じています。何百万という人々が今苦しんでいます。それでも、天を仰ぎ見ると、わたしには、必ずすべて良くなると思えるのです」。
とダイアー博士は言っています。
タオでは、「敵がいる」という状態は「『我』と『敵』が同居している」という意味になります。それはすべて大いなる源(タオ)とひとつにつながっているという考えに基づきます。
誰かを、何かを敵視する、排除する、攻撃すると考えることは、自分の身体の一部を自分で痛めつけるようなものだと、タオの視点では見なします。
わたしたちの身体にも思考にも「敵と戦う」という機能が、確かに備わっています。しかし、それは本来、命の危機を感じる非常事態のときに防衛手段として備わったものです。
けれども、この防衛が過剰になると、敵にしなくていいようなものまで敵扱いして攻撃する誤作動もわたしたちの身体の中でよく起こっています。
たとえば花粉症。花粉を吸い込むことに本来危険はありません。でも、免疫グロブリンの一種のIgE抗体が花粉を敵と見なすと、花粉が付着したところに白血球が襲い掛かり、炎症を引き起こすのです。
どうしてこんな、戦わなくてもいいものまで敵に見立てて無駄な戦いで不快な症状を引き起こすのでしょうか?
ここにはちょっと身につまされるようなストーリーがあります。
太古の昔、まだ文化的生活も衛生観念も無縁だった人類にとって、寄生虫は生存を危うくする大きな脅威でした。飲食物のみなならず、経皮的にも寄生虫侵入のリスクが常にありました。現代では蟯虫や回虫などの大腸に居候する程度のものしか一般的に知られていませんが、日本住血吸虫のような、経皮的に侵入して肝臓や脳に迷入する恐ろしい寄生虫もいるのです。
過酷な自然環境でも生き残れるように、わたしたちの身体は寄生虫対策用の抗体ーIgE抗体を備えたのです。おそらく、わたしたちの先祖は、このIgE抗体のおかげで寄生虫の感染リスクからある程度守られてきたのでしょう。
やがて水や食物や住居環境が、人にとって安全で快適で清潔に暮らせるように整備されるようになると、寄生虫がお腹にいる人の方が珍しくなりました(わたしが寄生虫の検査をしていた30年前の時点で、小学校の5クラス分のピンテープを鏡検査して蟯虫卵が見つかるのは1人か2人ぐらいでした。回虫は病院勤務25年間で見かけたのは2回だけでした)。
それでは、ほとんど役目がなくなったIgE抗体はどうなったでしょうか。なんと、寄生虫の代わりに、花粉とかハウスダストとか食物とかをアレルゲンとして標的にするようになってしまったのです。
IgE抗体もお払い箱になる恐怖に怯えて必死だったでしょう。大昔は恐ろしい寄生虫から身体を守る優秀な警備員だったはずです。しかし、その寄生虫の脅威が消えて現代では失業の憂き目に遭遇したのです。
そこで、身体にとって危険性はないはずの花粉とか、ホコリとか、食物とか、猫の毛とかを敵に見立てて自作自演の戦いを挑み、「非常事態発生!寄生虫の大群が身体に侵入した!白血球の軍隊を率いて戦闘中。大量の鼻水や涙で敵を排出しているところだ!」とヒーローぶりをアピールして、IgE抗体は自分の存在意義を証明しているのです。
「何かの役に立っていないと、華々しい活躍をしていないと、するべき仕事をしていないと、居場所がなくなってしまう」という不安をIgE抗体も抱えているのだろうと思います。
現代は、武力があるから戦って強さを証明するよりも、「戦う機能があっても、それを使わなくても済む幸せ」にわたしたちは目を向けるときなのだと思います。
わたしたちは、敵を作ることもできれば、作らないこともできます。敵視することを選ぶか、選ばないかを自分で決めることができます。
「選択の自由」が「大いなる源」の愛なのです。「大いなる源」はどんなことも無制限に体験する機会を与え、それを自由に自分の意思で決めることできるように、わたしたちを創造したのです。
ですから、誰かを、何かを敵視したくなったら「仮想敵をターゲットに、わたしは何を表現しようとしているのだろう?わたしはいつも敵を作って戦っていないと自分の存在価値を見つけられないのだろうか?」と問いかけてみましょう。
その上で、「敵のいない幸福」を選ぶのか、「『我』と『敵』を同居させる不幸」を選ぶのかを尋ねてみましょう。
どちらを選ぶかで、「敵のいない幸福」な未来を呼ぶのか、「『我』と『敵』を同居させる不幸」な未来を呼ぶのかが決まります。
次回はエリクソンの「私の声はあなたとともに」の解説を予定しています。
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