こんにちは、リブラです。

今回は「イニシエーション」第9章の解説記事です。

先ずは、第9章のあらすじから。

 

第9章「愛をめぐる戦い」

思春期を迎えたエリザベスは、恋愛小説や

「愛」について書かれた本を読むようになりました。

 

そして、いつしか、「気高い精神を持った人と結婚したい」

そんな夢を抱くようになります。

 

それまで本の中に描かれていた「愛」への憧れは、

やがて現実の世界へと向かっていきます。

 

彼女の関心は、本の中の恋愛から、

自分の身近にいる青年たちへと移っていったのです。

 

そんな中、13歳から19歳までの6年間、エリザベスは、

ある一人の男性から強い影響を受けることになります。

 

「理想の妻」に仕立てようとする男

彼は、才気にあふれた野心家でした。

そしてエリザベスを、自分が思い描く

「理想の妻」に育て上げようとします。

 

語学を教え、芸術や文学にも触れさせる。

 

彼女の知性や教養を高めるために、

さまざまな教育を施していきました。

 

当時のエリザベスは、そんな彼の存在に

すっかり舞い上がっていました。

 

評判も高く、才能にも恵まれた彼が、

自分のような小さな娘を将来の妻として選んでくれた。

 

それが、とても誇らしく感じられたのです。

 

彼は話術にも長けていました。彼と話していると、

時間が経つのを忘れてしまうほどでした。

 

そして何より、彼が友情や愛について、

エリザベスと同じように「深遠で、厳粛なもの」と

考えていることが、彼女にはうれしかったのです。

 

「この人なら、自分の求めている愛を理解してくれる」

エリザベスは、そう感じていました。

 

けれども、関係が深まるにつれて、

少しずつ別の顔が見えてきます。

愛のように見えた「支配」

彼は、親や教師のようにエリザベスの世話を焼きました。

 

何をするべきか。どう振る舞うべきか。

彼女の生活に細かく介入し、自分の意思を

一つひとつ押しつけてくるのです。

 

それは一見すると、「あなたを大切にしているから」

という愛情にも見えました。

 

しかし、エリザベスは次第に気づき始めます。

 

そこにあったのは、愛というよりも、

彼自身の支配欲だったのです。

 

彼は非常に嫉妬深く、権力欲も強い人物でした。

 

エリザベスの行動を厳しく制限し、

彼女の自由を奪っていきます。

 

そして、ときには感情を爆発させ、

暴力を振るうことさえありました。

 

ところが、そんなことをした後の彼は、

まるで別人のようになります。

 

エリザベスの前に跪き、子どものように

泣きじゃくりながら、「許してほしい」と懇願するのです。

 

その姿を見れば、エリザベスも彼の弱さを

感じずにはいられませんでした。

 

もともと彼女は、人間の弱さを理解しようとする、

律儀で思いやりのある性格でした。

 

そして、その弱さを理解しようとする気持ちが、

彼女をその関係につなぎ止めることになりました。

 

こうしてエリザベスは、6年間もの長い時間を、

その関係の中で耐え続けることになったのです。

父親との違いに気づく

そんなエリザベスの心に、大きな気づきを

もたらしたのが、自分の父親の姿でした。

 

父親は、子どもたちに自分の意思を

強要することはありませんでした。

 

ましてや、暴力で従わせるようなこともありません。

 

子どもたちの心の自由を尊重し、

寛大な愛によって育てていたのです。

 

エリザベスは、その違いを思い出します。

 

相手を思いやることと、

相手を自分の思い通りにすること。

 

それは、似ているようでいて、

まったく別のものだったのです。

 

ここでエリザベスは、少しずつ「愛とは何なのか」

ということを見つめ直していきます。

「私は自由になりたい」

そして6年目。エリザベスは、ついに彼に告げます。

「自由になりたい」

 

そして、はっきりと宣言します。

「もう、私はあなたの妻にはならない」

 

それは、6年間続いた関係を終わらせるための決断でした。

 

当然、彼は激しく取り乱します。

彼女を引き留めようとし、激しい感情をぶつけ、

まさに修羅場ともいえる状況になります。

 

しかし、そのときのエリザベスは、

以前の彼女とは違っていました。

 

彼に対して、ただ恐怖や罪悪感を感じるのではありません。

 

彼の姿を、冷静に見つめることができたのです。

 

彼は、暴君のように傲慢でした。

けれども、その傲慢さの裏側には、

極端な臆病さと弱さがある。

 

エリザベスは、その姿を見て、「これは一つの病なのだ」

と認めます。

 

彼を憎むのではなく、彼の問題を彼自身のもの

として見ることができるようになったのです。

 

だからこそ、もう自分がその問題を

背負い続ける必要はない。

 

エリザベスは全力を振り絞って、

彼への思いを振り払い、ついに婚約を解消します。

 

それは、一つの恋愛を終わらせたというだけではありません。

 

自分の人生を、自分自身の手に取り戻すための決断だったのです。

 

「イニシエーション」第9章の要約

〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇~〇

 

『イニシエーション』第9章「愛をめぐる戦い」解説

「やってあげたのに」は愛なのか?

彼はエリザベスに、たくさんのものを与えました。

教育。教養。知識。

 

そして、自分が持っているものを彼女に与えることで、

「私はあなたを愛している」と表現していたのでしょう。

 

けれども、その「与えること」のに、

別のものが隠れていたのではないでしょうか。

 

それは、「これだけあなたに与えたのだから、

あなたも私だけを愛してほしい」

というニーズ(必要性)です。

 

つまり、「与えること」が純粋な贈り物ではなく、

愛を得るための代償行為になっていた。

 

だから、エリザベスが彼の意志に従っている間は、

それは「愛情」として機能します。

 

しかし、彼女が自分の意思を持ち始めると、

それは怒り嫉妬支配へと変わっていく。

 

これは「愛が憎しみに変わった」というより、

最初から愛の中に、強いニーズが混ざっていた

と考えたほうがわかりやすいのかもしれません。

 

愛とニーズの混同は関係を「取引」にする

これは恋愛だけの話ではありません。

友人関係でも、家族関係でも、

「私はこんなにやってあげたのに」

という気持ちが出てくることがあります。

 

するとエゴは、

「私は大切にされていない」

「私ばかり損をしている」と解釈します。

 

でも、その「やってあげたこと」のに、

これをすれば、私は愛してもらえる

という思いが潜んでいることがあります。

 

そして、そのさらに奥には、

何もしない私では、愛してもらえないのではないか

という恐れがあります。

 

だから、優しい私。役に立つ私。

相手の期待に応える私。

という「愛されるための自分」を作ってしまう

 

でも、本当に欲しいのは、

その「何かをしてくれる私」への愛では

ありません。

 

そのさらに奥には、

何もしない私を、そのまま愛してほしい

という願いがあるのです。

 

これが、愛の欠乏感の根源なのです。

 

お互いの欠乏感を埋め合う関係

エリザベスには、「真実の愛がほしい」

という願いがありました。

 

過去生の師から与えられたような、

叡智や精神的な導き、

そして見返りを求めない愛。

 

そこへ、

彼女を理解してくれ、知性を育むという形で

愛を与えてくれる男性が現れた。

 

彼はエリザベスに与える。

エリザベスは、それを受け取る。

 

二人のニーズは、最初はうまく

噛み合っていました。

 

だから、とても良い関係に見えたのです。

 

しかし、ここに、

依存関係の大きな落とし穴があります。

 

彼は、教師・親の役割。

エリザベスは、生徒・子どもの役割。

この役割が固定されてしまう。

 

すると、教師には生徒が必要になり、

生徒には教師が必要になります。

 

お互いが相手を必要としているので、関係は強固に見えます。

 

しかし、二人の関係を支えているものが

ではなくニーズ」なら、

そこから先へ進めません。

 

教師は、いつまでも教えなければならない。

生徒は、いつまでも教えてもらわなければならない。

 

二人は、「教える人」と「教えられる人」

という役割から抜けられなくなるのです。

 

チャック・スペザーノ博士が、これを共依存の

デッドゾーン」と呼んでいるのも、とてもよくわかります。

 

関係は続いている。

でも、二人の人間としての進化・成長は止まっている

 

「我慢」で続く関係

このような関係では、次第に愛よりも義務が大きくなります。

 

「相手を見捨てるわけにはいかない」

「これだけ一緒にやってきたのだから、今さら離れられない」

 

そして、お互いに我慢するようになります。

 

愛の欠乏感を隠したまま、お互いのニーズを満たし続ける。

でも、愛が自由に循環しているわけではない。

 

そこにあるのは、「義務」と「我慢」によって

維持される関係です。

 

そして、その我慢が限界に達したとき、多くの場合、

人は関係そのものを終わらせようとします。

エリザベスも、そうでした。

 

父親が教えてくれた「無条件の愛」

エリザベスがこの関係から抜け出す大きなきっかけ

になったのが、父親との違いでした。

 

彼女の父親は、子どもたちに

自分の意思を押しつけませんでした。

 

ましてや、暴力で従わせることもしません。

 

子どもたちの心の自由を尊重し、

寛大な愛で育てていたのです。

 

ここでエリザベスは、

愛すること」と「支配すること

違うと気づき始めます。

 

父親も彼女を愛していた。

 

でも、彼女を所有しようとはしなかった。

 

彼女の人生を、自分の思い通りにしようとはしなかった。

 

彼女には、彼女自身の人生を生きる自由があった。

 

この違いは、とても大きなものです。

 

彼の愛は、「あなたを愛している。

だから私の望むように生きてほしい」

 

父親の愛は、「あなたを愛している。

だから、あなたはあなたの人生を自由に生きていい」

 

ここに、「代償を求める愛」と「無条件の愛

の違いがあります。

 

この違いに気づいたエリザベスは、

彼への思いを振り払い、婚約を解消します。

 

あなたの欠乏感を埋めるために、

私の人生を差し出すことはしない

 

という、自分の自由を取り戻す決断だったのです。

 

相手を自由にすると、自分も自由になる。

 

では、依存や共依存から抜け出すには、

どうしたらいいのでしょう。

 

それは、相手のニーズを満たす役割を手放すこと。

 

そして同時に、

自分のニーズを相手に満たしてもらおうとすること

も手放すこと。

 

「あなたを支えなければ」

という役割から降りる。

 

そして、

「私を満たして」

「私だけを愛して」

という要求も手放す。

 

すると、

「あなたはあなたの人生を生きていい。

私も私の人生を生きる」

という自由な関係が始まります。

 

これが、チャック・スペザーノ博士のいう

「相互依存のパートナーシップ」の段階

なのだと思います。

 

自分の足で立っている二人が、

自由な意思でともにいる。

 

これが、成熟したパートナーシップです。

 

スペザーノ博士が、

このパートナーシップのさらに

先に位置づけているのが、

フレンドシップ友情です。

 

なぜでしょうか。

 

友情には、必ずしも「役割」がないからです。

親だから。

夫だから。

妻だから。

子どもだから。

恋人だから。

 

そういう役割によって

相手を必要とするのではないからです。

 

そこには、義務も、取引もありません。

だからこそ、自由があります。

 

何の見返りも求めないからこそ、

愛が自然に循環するのです。

 

愛のさらに深い形「コンパッション」

第9章のテーマは

さらに深いところへ進んでいきます。

 

それが、コンパッション(慈悲)です。

 

ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』には

 

コンパッションについて、

 

com は「共に」。

passion は「受難」。

 

共に受難する」という意味があると

記されています。

 

これは、

愛する人が自分自身の試練を乗り越え

ていくことを、手を出さずに見守る愛なのです。

 

「助ける愛」から「信じる愛」へ

愛する人が苦しんでいるとき、私たちは、

「何とかしてあげたい」と思います。

 

問題を解決してあげたい。

失敗しないように助言してあげたい。

 

でも、それが本当に相手のためになるとは限りません。

 

なぜなら、

「あなたには、この苦しみを乗り越える力がない」

というメッセージを、無意識に相手へ送ってしまう

ことがあるからです。

 

コンパッションは違います。

 

「あなたには、この試練を乗り越える力がある」

と信じる。

 

だから、必要以上に手を出さない。

相手の人生を、相手自身に返す。

 

それは冷たさではありません。

むしろ、相手の生命力を信じる、

非常に深い愛なのです。

 

聖母マリアとマグダラのマリア

キャンベルが語るコンパッションのイメージは、

イエスが磔刑に処せられる場面にも重なります。

 

聖母マリアやマグダラのマリアは、

愛するイエスの苦しみを前にして、

その道を代わってあげることはできません。

 

イエスが選んだ道を、

途中で止めることもできない。

 

だからこそ、ただそこにいて

その苦しみを共に受け止める

 

愛する人を失う悲しみさえ抱えながら、

その人が歩いている道を尊重する。

 

そして、その先にあるものを信じる

それがコンパッションです。

 

これは、

「何もしない愛」ではありません。

 

むしろ、

相手の力を信じるために、あえて手を出さない愛

なのです。

 

コンパッションはレジリエンスを発動させる

ミルトン・エリクソンは、患者の苦しみを治療者が

一方的に取り除くのではなく、

患者自身が持っている力を引き出していきました。

 

大きな問題を一気に解決するのではなく、

小さなステップを通して、

「あれ? 自分にもできる」という体験を積み重ねていく。

 

その小さな成功体験が、「次もやってみよう」

という自発的な努力を生み出していく。

 

治療者が患者を救うのではなく、

患者自身が自分を救う力を発見できるようにする。

 

ここに、コンパッションとセラピーの共通点があります。

 

そして、そのとき発動するのが、

レジリエンス困難から立ち直り、適応していく力です。

 

コンパッションは、

相手からレジリエンスを奪うのではありません。

 

むしろ、「あなたなら乗り越えられる

という信頼によって

その人自身のレジリエンスを発動させるのです。

 

その人の苦しみを見ている。

その人の痛みを感じている。

 

それでも、その人自身の力を信じている。

 

そして、「私はここにいるよ」と伝えながら、

「でも、この人生を歩くのはあなた自身だよ」

と、その人の人生を本人に返していく

 

そこには、相手の自由があります。

 

そして同時に、自分自身の自由もあります。

 

自分の試練は、自分が背負う。

相手の試練は、相手が背負う。

 

それでも愛しているから、

あなたなら、この試練を乗り越えられる

信じて見守る

 

エリザベスの両親も、彼女が婚約者の束縛に耐え忍んで

いるのを口を挟まず見守っていました。

 

エリザベスが自分で関係を終わらせることができる

とを信じていたからです。

 

「愛をめぐる戦い」とは何だったのか。

 

それは、

「愛されるために自分を差し出す」という

「自由を犠牲にする生き方」との戦いだった

のではないでしょうか。

 

そして、依存から共依存へ。

共依存から相互依存へ。

相互依存からフレンドシップへ。

そして、その先にあるコンパッションへ。

 

愛の質が変化していくとき、そこには必ず、

自由があります。

 

相手を自由にする。

自分も自由になる。

 

そして、お互いの成長を喜ぶ。

 

失敗や挫折があっても、

「あなたなら大丈夫」と信じる。

 

それが、愛する人のレジリエンスを発動させる。

 

本当に愛するとは、その人の苦しみを

奪うことではありません。

 

その人には、その苦しみを乗り越える力がある

と信じること。

 

そして、その人が自分自身の力で立ち上がるまで、

そばにいて見守ること。

 

それこそが、コンパッションという、

最も成熟した愛の形なのではないでしょうか。

 

エリザベスが6年間の関係を終わらせ、

「自由になりたい」と言ったとき、

彼女が手放したのは、単なる婚約ではありませんでした。

 

それは、

「誰かのニーズを満たすことで愛されようとする自分」

から自由になることだったのです。

 

 

次回も「イニシエーション」の解説を予定しています。

 

Noteも更新しました。こちらも読んでいただけたらうれしいです!

 

 

わたしのサロン、リブラライブラリーでは、

 

あなたの心のしくみをホロスコープで解説し、

心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題に

セルフヘルプで立ち向かえるようサポートします。

詳しくはこちらをご覧ください。

新メニュー(月の欲求・土星の制限の観念書き換えワーク、

キローンの苦手意識を強味に変えるワーク)が加わりました。

最後までお読みいただきありがとうございます。