こんにちは、リブラです。
今回はエリザベス・ハイチ著
「イニシエーション」の第1章の解説です。
エリザベスの幼少期の純粋で
不思議に満ちた世界観が語られます。
自我の「目覚め」と意識の覚醒を描いた章です。
第1章「目覚め」
1歳半頃、エリザベスは、叔父が彼女を運んだ際、
自分から飛び降りようとして落っこち、
彼女の手首は、脱きゅうしてしまいました。
それを知った父親は真顔で、
「これからわたしは出張に行かなくてはいけない。
今夜は一晩中針のむしろに座っていなくてはならない」
といいました。
エリザベスは、「どうしてひと晩じゅう針のむしろに
座らなくちゃいけないの?」と母に尋ねます。
母は笑いながら、「お父さんはあなたの手が心配で、
お気持ちが高ぶっているからよ」と答えました。
それを聞いてエリザベスは、
「お父さんは真顔で言っているのに、
どうしてお母さんは笑いながら話すのだろう。
何の説明にもなっていないではないか。
いくらわたしの手が痛くて、だらりと下がったままで
もう片方の手で支えないといけなくなったからって、
どうして、お父さんは針のむしろに座らなくちゃ
いけないの?
大人はしょっちゅう意味のないことをしたり、
言ったりする」と思いました。
ほどなくして医師が来て手首を整復する場面で、
「おやおや、このお嬢さんの泣き顔はなんともブサイクだ」
と言うのをきっかけに、エリザベスは衝撃を受けます。
彼女は、これまで「わたしは見えない存在」だと
思っていました。
人も、おもちゃも、「わたし」の身体もすべて目に見える
けれど、「わたし」のことは誰からも見えないと思っていた
のです。
「わたし」は存在するけれど、まわりの人や
もののように存在しているわけではなく、
目には見えない存在だと思い込んでいました。
どうやってこの医者は「わたし」の失意や痛み
や泣き顔が見えたのだろう?
「もしほんとうに見えていたとすれば、
びっくりして震えあがったわたしの顔は
『ブサイク』だったに違いない」
エリザベスはそのことに驚いてと戸惑い、
泣くのをやめてその医者をいぶかしんで
見上げました。
それを見た母は、
「この子はなんて見栄っ張りなのかしら。
ブサイクに見られるのが嫌で、
痛いのをこらえているわ」といいました。
「『みえっぱり』って何だろう?
それが何かもわからないのに、
どうしてそんなものになれるのだろう」
彼女自身は目に見える世界の外側にいると
思っていたのです。
そんな考えを駆け巡らせていたとき、
医者はエリザベスの手をクイッとひねり、
彼女の手首を元の正しい位置に固定させました。
手はちゃんと治ったにもかかわらず、
エリザベスは悲しみました。
それは、医者からは「わたし」が見えていたのに、
母には「わたし」が見えないと知ったからでした。
このことは、今世における最初の目覚めと意識化の
記憶と分かち難く結びついているとエリザベスは
感じました。
この出来事を境に、エリザベスの意識と記憶は
いつでも目覚めているようになりました。
彼女は、自身の内側も外側の世界も
最大限の注意力と不断の集中力で観察する
ようになったのでした。
「イニシエーション」第1章の要約
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なぜこの出来事が「目覚め」だったのでしょうか?
エリザベスはこの出来事を「今世における最初の目覚め」
と表現しています。
では、彼女は何に目覚めたのでしょうか。
それは、「自分」という存在を初めて意識したことです。
それまでの幼いエリザベスにとって、
「わたし」は世界を見ている存在であって、
誰かから見られる存在ではありませんでした。
ところが医師の「泣き顔はブサイクだ」という
一言によって、「わたしにも人から見える顔がある」
という事実を知ります。
その瞬間、彼女の中で「見ているわたし」と
「見られているわたし」という二つの視点が生まれました。
自分自身を客観的に見つめる意識が芽生えた瞬間
だったのです。
だからこそ、この出来事は「手の脱臼」よりも
「意識の転換」として記憶に刻まれました。
さらに、この体験はエリザベスに大きな問いを残します。
「人は本当に相手の内面を見ているのだろうか?」
医師は自分の泣き顔を見ました。
母親は「見栄っ張りな子」と解釈しました。
しかし、エリザベス自身が体験していた驚きや戸惑い、
そして「わたしはなぜ見えているのだろう」
という内なる問いには、誰も気づいてくれませんでした。
この経験によって彼女は、「外側に見えるもの」と
「内側で起きていること」は
必ずしも一致しないことを知ります。
だからこそ彼女は、その後、自分の内側と外側の世界を
絶えず観察するようになりました。
「タフティ」でも、「自分を見て、現実を見る」は、
目覚めの必須項目でしたよね。
子どもはなぜ「わたしは見えない存在」だと思っていたのでしょうか?
わたしたちは普段、「わたし」と言うと、
自分の顔や身体を思い浮かべます。
しかし、本当に「わたし」だと感じているのは、
顔そのものではなく、
「見ているわたし」
「感じているわたし」
「考えているわたし」ではないでしょうか。
その「見ているわたし」には、色も形もありません。
鏡に映るのは顔であって、「わたし」という意識
そのものではありません。
幼いエリザベスは、この感覚を大人になる前から、
とても純粋な形で感じ取っていたのでしょう。
だから彼女にとって、
自分の身体は世界の中にある一つの「もの」でしたが、
「わたし」という意識は、
その身体を通して世界を見ている存在でした。
だからこそ、医師から「泣き顔がブサイクだ」
と言われたとき、大きな衝撃を受けたのです。
「見えているのは身体だけではない。
わたしの表情まで、人には見えている」
それは、自分が世界を見ているだけではなく、
自分もまた世界から見られている存在だった
と知る瞬間でした。
このエピソードは、
誰もが幼い頃に経験していたかもしれない、
意識の成長の一瞬を、
エリザベスが言葉として残してくれた貴重な記録です。
この感覚は、わたしたちが「目覚め」を体験するときの
サインにもなります。
なぜエリザベスは母親に失望したのでしょうか?
手首がもとに戻りに治っても、
エリザベスの心には悲しみが残りました。
それは、「母には、わたしが見えていなかった」
と感じたことでした。
医師に「ブサイクだ」と言われたとき、
エリザベスが衝撃を受けていたのは、
自分の容姿を気にしたからではありません。
「わたしは人から見えている存在だったのか」という、
それまでの世界観が覆されるほどの驚きを体験
していたのです。
ところが母親は、その沈黙や真剣な表情を見て、
「この子は見栄っ張りだから、泣くのを我慢している」
と解釈しました。
もちろん、お母さんは娘を傷つけようとしたわけでは
なく、幼い娘の様子を、自分なりに理解しようとした
のでしょう。
けれども、エリザベスが体験していたのは、
「わたしは何者なのだろう」という意識そのものが
揺らぐほどの出来事でした。
つまり、母親が見ていたのは「行動」であり、
エリザベスが見つめていたのは「存在」だったのです。
このすれ違いは、親子だから起きたのではありません。
わたしたちも日常の中で、相手の言葉や表情、態度から、
その人の気持ちを理解したつもりになることがあります。
しかし、その人の内側では、まったく別の問いや葛藤が
生まれているかもしれません。
人は他者の行動を見ることはできます。
けれども、その人がどんな世界を体験しているのかまでは、
簡単には見えません。
エリザベスが悲しかったのは、
自分が体験している「本当の世界」は、
たとえ最も身近な人であっても、
そのまま理解されるわけではないという事実に
気づいてしまったからです。
なぜエリザベスは「医者だけがわたしを見た」と感じたのでしょうか?
医師が見ていたのはエリザベスの泣き顔です。
それは、医師に特別な能力があったからではありません。
エリザベス自身の世界の見え方が、
その瞬間に大きく変わったからです。
医師の言葉によって、「わたしには人から見える顔があり、
その表情には心の動きが映し出されている」という事実
に初めて気づき「自分も他者の世界の中に存在している」
という現実を知ったからです。
人は、相手の内面を直接見ることはできません。
見えるのは、表情や言葉、しぐさといった外側の表現です。
だからこそわたしたちは、そこから相手の心を想像し、
意味づけをしています。
この出来事は、人間が互いを理解するときの
限界と可能性を同時に教えてくれます。
なぜエリザベスは「観察者」になったのでしょうか?
この出来事を境に、エリザベスは
「自分の内側も外側の世界も、絶えず観察するようになった」
と語っています。
それは、「見えているもの」と
「本当に起きていること」は同じではない、
と知ってしまったからです。
医師は泣き顔を見ました。
母親は「見栄っ張りな子」だと解釈しました。
けれども、エリザベスの内側では、
「わたしは誰なのか」
「人はわたしをどう見ているのか」という、
それまで経験したことのない問いが生まれていました。
外から見える現実と、
内側で体験している現実には、
大きな隔たりがある。
このことに気づいた彼女は、
「表面だけを見て判断してはいけない」
と感じたのでしょう。
だからこそ、彼女は
世界を注意深く観察するようになります。
人の言葉だけではなく、その言葉が生まれる背景を。
行動だけではなく、その行動の奥にある意識を。
出来事だけではなく、
その出来事が自分の内側に何を映し出しているのかを。
観察とは、批判することでも、
分析することでもありません。
「本当に起きていることは何だろう」と、
先入観を手放して見つめ続ける姿勢です。
そして、この姿勢は『イニシエーション』全編を貫く
大切なテーマになります。
子どもの頃、あなたは世界をどんなふうに見ていましたか?
大人になるにつれ、「当たり前」や
「常識」を身につけたわたしたちは、
物事を新鮮な驚きとともに見る力を
少しずつ失っていきます。
わたしは、テレビで観た「花咲じじい」の話が
ほんとうだと信じて、火鉢の灰を庭に巻き、
何も起こらないのがおかしいと思った記憶があります。
4歳のわたしは、物語の世界と現実が
まだ分離していなかったようです。
『イニシエーション』第1章「目覚め」は、
わたしたち一人ひとりがかつて持っていた
「純粋な意識」を思い出すところから始まります。
真の目覚めとは、新しい何かを身につけることではなく、
忘れてしまった本来の見方を取り戻すことなのかもしれません。
次回も「イニシエーション」の解説を予定しています。
Noteも更新しました。こちらも読んでいただけたらうれしいです!
最後までお読みいただきありがとうございます。
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