失ったものの価値は
失って初めて気付くものがある。大抵はそれがあった時は見えなかった良い部分だ。日常生活の中ではどうであろうか。同じ対象に対する問いかけであっても好きなものよりも嫌いなものの方が答えやすい事が多いだろう。それは嫌いなものに対して感覚が鋭敏なのではなく好きなものと同じくらい嫌いなものを探しているからであろう。しかし悲しいながらも結果消去的に好きなものが浮き彫りになる事は少ない。無意識に好きなものより嫌いなものに眼を向ける嫌いなものと同じように好きなものからも眼を背ける。もう少し素直であれば失う前に気付くのかもしれない。【22歳 2月14日のキミへ】どんなに大切にしても、どんなに失くさないようにしようとも、きっと失う時は失う。それは、意識の外から唐突に飛び込んでくる、渾身の右ストレートのようなインパクト。絶対なんてものは存在しない。でも、例え気付くのが事後であろうとも、失くした事が分かるのは、確かにそれがあったという確固たる感覚があるから。だったら、それを所有したい、手の届くところから離したくないと固執する代わりに、ただそこにあるという事実に感謝してみるのはどうだろうか?傍にある時も、失ったその後も。straightを受け流せるのは、そんな感謝による寛容が生み出すstrideな態度。それでも予期せぬimpactを全て受け流すなんてのは、in fact, 土台無理な話だ。時にはspirit- 心が、split- 割れそうになる事もある。でも、too lateなんて事はない。それは劈開発達したslateの如く。そんな、素直さと僅かな寛容的覚悟が、結果的に、大切なものを無意識に護る姿勢にも繋がるのではないだろうか。そんな時もあらかじめ割れる方向が分かっていれば、許容範囲も変わってくるのだろう。#だから、この英単語でaggressiveに韻を踏みにいった意味不明な行為も、踏みつけたい程度のmassiveな倒錯的好意を持って、be light of heart, サラリと受け流していただきたい。#さあ、共に、Feel light in the head!?(謎)