物事の価値を判断するのはあくまで観察者本人であり
その判断基準は千差万別である。

私にとってその存在価値すら疑いを持ってしまうような事でも
他人が見ればそれは大きな価値あるものであるかも知れない。
私にとって価値ある事であっても
他人から見れば時間とエネルギーの浪費以外の何ものでもないかも知れない。

価値感というものが共通ではなく自己の中で完結するものであるならば
自分の価値基準で物事を判断する事で
自分自身と他人との価値観の相違を相対的に判断する尺度とする事は出来ても
その事で思考ある人間の価値を計る事は不可能だ。


最も自己本位な主観的価値基準で他人を如何様に捉えようとも
それは本人の勝手であり自由である事に違いはないのであるが。



【22歳 2月15日のキミへ】
この相対的判断こそ、典型的な他者評価のモデルであろう。
相対があるからこそ、消去的に、排他的に推察可能な輪郭。

では、相対のない絶対的な尺度はあるだろうか?
恐らくある。それも複数ある。

ここで一つ典型を上げるならば、月並みではあるが、やはり愛情がそれに当たるだろうか。
愛の形もまた複数有り得て、そのどれに対しても真偽の判断は下せない。
それでも、絶対性の検証の方法論として、言葉による還元を繰り返した後の最果て、そこへの到達を絶対の尺度と呼べるのなら、実践主義的にも愛情が最も近い位置にあるのではなかろうか?

最も、最大の難点は、あらゆる人間に対してそれを適用する事ができない、狭隘な性質であろう。
慈愛は決して絶対的ではない。そう思うのは、やはり狭隘故なのだろうか。


#適用の可能性を制約してるのは、当の自分自身。そして疲弊するのもまた同じく。
#恐らく、愛情それ自体には、限界も枯渇もない。