“素直な心で生きてくのさ
どんなにキズついても
素直な心で”
(AJICO @中野サンプラザホール 6月13日)
これだと思った。私が見たいのは。
1年4ヶ月ぶりのライブだった。AJICO の中野サンプラザ。直前に観客を 100% 入れていると知り、怖じ気づく。そうでなくても、ライブが楽しめなくなってたらどうしようという思いもあった。しかし、開演を待つ間の楽器をチェックする音からして嬉しくて嬉しくて。ライブは嬉しくて嬉しくて嬉しいものだった。そんなライブの確か 2曲目あたりで聴いた「美しいこと」だった。
話は前日に遡る。
『宮本浩次縦横無尽』
できたばかりの新しい劇場型ホール、東京ガーデンシアターで行われた宮本浩次ファーストソロコンサート。8000人入るという会場に、こちらは約半分の収容人数で行われた。といっても、チケットが売れなかったから半分なのではなくて、新型コロナウイルス感染症の対策でだ。チケットは売り切れ、私は配信で見た。
「エレカシ25周年さいたまスーパーアリーナ、あるいは 30周年の同会場、そして紅白から、こんな景色にまで来てしまうなんて…」というのが最初の感想だった。ソロはエレカシほど時間をかけられないというようなことを宮本が言っていたことを思い出す。
といっても、辿り着いたとかではなくて、スタート地点に立ったような景色だ。そこには未開の地が広がっていて、まるで大海に漕ぎ出した一艘の舟のようであった。
「夜明けのうた」からはじまったのは、まさしく夜明け前の薄明かりの中をランタンを持ちながらまだ見ぬ場所へと旅立つシーンだった。
そしてライブがはじまって間もなくして、宮本浩次が素晴らしければ素晴らしいほど、エレファントカシマシの凄さが伝わってくるという、ちょっとこれは今までにない、何だこれはという感覚に襲われた。
今回のバンドメンバーはこちらだ。
小林武史 (キーボード)
名越由貴夫 (ギター)
キタダマキ (ベース)
玉田豊夢 (ドラム)
私は少し恐れていた。凄腕のミュージシャンたちと演奏されたら、そこで宮本浩次に歌われたら、エレファントカシマシが稚拙に感じられてしまうのではないかと。我ながら何を言ってるんだと思う。私はエレファントカシマシが大好きで、その凄さも十分に知っているはずなのに。けれども恐れた。
しかし、ライブが進んでいけば進むほど、エレファントカシマシの凄さが、その姿が輪郭を持って目の前に迫ってくるようだった。
なんだ、エレカシの方が凄いじゃないかって、ソロ及びそのバンドメンバーに物足りなさを感じたのではない。
これは、宮本浩次がエレカシと違う地平に立ったからこそ見えたものだった。
海に出たからこそ見えた、エレファントカシマシという大陸。それもまだすべて見えたわけじゃない。やっと輪郭のようなものが見えてきた程度だ。
大陸の中にいては大陸は見えなかった。海に出たからこそ、はじめて大陸の片鱗が見えた。
ああ、エレカシは大陸だったんだ。
だってここで私はおそらくはじめて、宮本ソロに対して「エレカシと全然違う!」と感じた。
エレカシではほぼやってこなかった演出がそう感じさせたのか、何よりバンドメンバーが違うことがそう感じさせたのか、どれもあると思うけど、息を呑んだのは、宮本浩次の消耗。
エレカシのライブでだって「宮本さん、倒れちゃうんじゃないか」と思うことはあったが、それはまだ大丈夫だったんだなと思えたというか、まるで一曲一曲死んで生き返るような、そんなライブ。なるほど。ここは海なんだ。
そんな宮本浩次を見ながら、ここまでエレカシの曲が一曲もないことに気づく。
そして、メンバー紹介。
その後にやったのが「悲しみの果て」だった。これにはシビれた。
メンバー紹介してからエレカシの曲って。しかもこれが今日初のエレカシナンバーだ。
私はここにソロへの意気込みを感じてシビれたわけだが、こんなことにも気づいてしまった。エレカシの曲を歌うことで宮本が少し回復してる?
そうか。エレファントカシマシは命綱だったんだ。
ソロは 2019年からはじまっていたけれど、宮本はここではじめてエレファントカシマシという命綱を外したのだと思う。
そして、ここぞという時のエレカシの曲の強さよ。
ソロでエレカシの曲をやることには賛否両論あるみたいだ。
賛否両論はいつものことと思いながらも、いやちょっと待てよ、近年のエレカシにはほとんど否がなく賛ばかりではなかったか?
2020年の新春ライブのときに私が書いた、『「エレカシで満たされている」ことの苦しさ』とはこのことだったのではないか?
そういえば、エレカシや宮本浩次のことでこんな風にブログに書きたい!って思うのは久しぶりじゃないか? 近年は、書くことがないというか、何を書いたらいいかわからないような状態が続いていたような気がする。書くとしたら過去のことばかり書いていたような気もする。(でもそれで「エレカシ胎動記」を書けた)
ソロでエレカシをやることの賛否。私も最初はソロでエレカシの曲をやられたらどう思うんだろうと不安があった。
バンドが好き。バンドが大事。
それもわかるが、じゃあ、“音楽” はどうなる? “音楽” は大事じゃないの?
と、ここまできて思った。エレカシでやったらエレカシが音楽に勝ってしまう。もしかしたら、だから宮本は、音楽に負けてみたかったのでは?
いやいや、音楽に勝つだの負けるだの私にも自分で書いててよくわからないが、
あなたはどうだ? “音楽” を聴いているか?
問いかけはこちらにも自然に突きつけられているのかも知れない。
エレカシが音楽に勝ってしまう。宮本が見つめていた、見つめている「バンドの限界」は、いよいよバンドを飛び出したのだ。
しかし私はエレファントカシマシに対して薄情なのか?
ソロでエレカシの曲をやられたら…なんて思っていたのに。
そんなことを思っている時だったの。
“素直な心で生きてくのさ
どんなにキズついても
素直な心で”
これなんじゃないか?と思った。
素直な心で生きてくのさ。素直な心で生きて欲しい、生きていきたい。素直に生きられりゃあどんなにいいだらう。
どんな形でもいい、どんな思想でもいい、素直な心が響いてきたとき、私は感動するのではないか。私が見たいのはそれではないのか。それによってどんなにキズついても。
この日 AJICO は Sherbets の「Black Jenny」を歌った。
“Black Jenny Black Jenny 世界を動かしているのは
Black Jenny Black Jenny 愛じゃないっていうことか”
最近ベンジーのことをいろいろ言う人がいるけれど、こんな曲を書く人なんだよ。
(この日この曲をやった意義を抱きしめてる。それは宮本が宮本浩次縦横無尽で「ガストロンジャー」をやったことと同じなのでは?いや違うか?)
(AJICO なんて Sherbets も UA も BLANKEY JET CITY もやるんだからなぁ。それがこのバンドの性質と言われたらそれまでだけど)
話を宮本浩次縦横無尽に戻す。
化けの皮を剥がす。
マゾヒスティックにストレスに飛び込む。
身の毛がよだつ。
ファイティングマン道の継続。
ずっとつながっているのではないか。
ソロならエレカシの曲なしに勝負して欲しい? 大事なのは、勝負してるかどうかではないのか。
さて、さきほど「宮本浩次の消耗」の話をした。まるで一曲一曲死んで生き返るようなライブだと。
それはある意味、エレファントカシマシより壮絶だった。
大事なことだからもう一回書きたいんだけど、エレファントカシマシより壮絶だった。
今回のライブがあって、拝読しているブログに、
「宮本浩次という人間の生き様が見たいのか、
宮本浩次という芸術的なスタアが見たいのか。」
と書かれていた。(引用させてください!)
私はそれを読んで思った。
「それをずっとせめぎ合いながらやってきたのが浜崎あゆみだ!」
と。
マジの本気でそう思って震えてしまった。
そういえば、浜崎あゆみのライブDVD を観た糸井重里が「お客さんは、もっと死ね、もっと死ね、死ね死ね死ねって言って。君(浜崎あゆみ)はその生贄で、死んで、また生き返る」と言っていたっけ。
つまり、「ある意味、エレファントカシマシより壮絶だった」というのは、私は「エレファントカシマシと同じくらい壮絶なものとして浜崎あゆみを見ていた」という気づきだよ。
今回私は、宮本浩次縦横無尽を見て、浜崎あゆみのライブをずっと見てきたことが活きたのではないかと思った。だからこそより見えたことがあったのではないかと自分で思った。
そういえば、宮本はレディー・ガガやマドンナの名前を出していたでしょ。その時に「時が来た!」と思ったことを思い出したよ。
「宮本さん、椎名林檎よりも浜崎あゆみの方があなたに近いのですぞ!」と言いたい。(個人の見解です)
前述のブログでは、フィクション~ノンフィクションのことも書かれていて、自分も書いていたことを思い出した。
いやぁ、宮本さんは今回のライブ前に「わたくしの音楽生活の集大成の様相をていしてまいりました」と綴っていたけれど、私も自分のブログの集大成のような記事になってしまった。(過去ブログをたくさん貼ったから)
舟はまだ漕ぎ出したばかり。まだ見ぬ景色がきっとあるんだ。