バンド幻想を超えた先に | ラフラフ日記

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MASTERPIECE(初回限定盤)(DVD付)/エレファントカシマシ


バンド幻想を崩壊させる――。
前作『悪魔のささやき ~そして、心に火を灯す旅~』(2010年)の最終曲「悪魔メフィスト」について、宮本浩次はそう語っていた。

私がリアルタイムでエレカシの CD を買ったのは『愛と夢』(1998年)が最初で、リアルタイムで聴いた作品の中で最初にガツンときたのは、ミニアルバムの『DEAD OR ALIVE』(2002年)であり、その後のフルアルバム『俺の道』(2003年)だった。それは何が良かったのかというと、「バンドで音を出していた」からだ。エレカシの4人で音を出していて、それがすごくカッコ良かった。
だから、私の中で、エレカシはバンド・サウンド!、「4人で音を出すのが一番カッコ良い」という、“『俺の道』至上主義” ができあがった。

だから、ユニバーサル移籍後、蔦谷好位置などのプロデューサーとともに、今までにない色鮮やかでポップなサウンドを生み出し、より多くの人に聴かれていったときも、ものすごく嬉しかったし作品だって素晴らしいと思ったけれども、「また4人のバンド・サウンドが聴きたい」という想いもいつも心のどこかにあった。それを時折思い出しては、「4人のバンド・サウンドには敵わない」「4人でやればもっとカッコ良いはずだ」「エレカシはこんなもんじゃない」。

それが、先月発売されたこの『MASTERPIECE』を聴いていると、「4人のバンド・サウンドが聴きたい」という私の想いが消化されていってるのがわかる。

『MASTERPIECE』は、4人のバンド・サウンドだけで構成されているのではない。それどころか、エレファントカシマシによる編曲は一曲もない。「宮本浩次」か「宮本浩次と YANAGIMAN」か「宮本浩次と蔦谷好位置」かだ。宮本浩次が一人(あるいはゲストミュージシャンと)で演奏していて、他のメンバーは演奏していない曲もありそうだ。それなのに、「4人のバンド・サウンドが聴きたい」という想いが沸いて来ない。これは、どういうことだろう。遂に、私の中の『俺の道』至上主義、つまり、「バンド幻想」が消えてしまったのだろうか。

『DEAD OR ALIVE』~『俺の道』からのバンド・サウンド回帰の到達点は、『町を見下ろす丘』(2006年)だったと思う。「バンド・サウンドでいくんだ!」とことさら気張るのではなく、リラックスしたムードで「バンド・サウンド」を聴かせた。歌詞もさらりと凄いことを言っていた(『町を見下ろす丘』の歌詞は本当に素晴らしいと思います)。さらりと真理を突くような、凄味があるアルバムだった。しかし、私は本当に凄いと思ってるし、素晴らしいアルバムだと思ってるんだけど、同時に、「バンドの限界」も見たような気がした。例えば、これをエレカシ聴いたことない人が聴いたらどうだろうかとか、そもそもそんな人はこのアルバムを聴くのだろうかとか、そんなようなことだ。私はここでバンドの「到達点」も見たけれども、「限界点」も見た気がした。「バンド幻想」は、「バンドの限界」とも裏腹であった。

エレカシがユニバーサルに移籍したのは、その後だった。

ところで、『俺の道』至上主義といったが、よくよく考えてみれば、『俺の道』をそんなに頻繁に聴かない。ミニアルバムの『DEAD OR ALIVE』はともかくとして、『俺の道』をフルでがっつり聴くと、実は結構疲れる。

しかし、『MASTERPIECE』は、くり返し何度も聴ける。むしろ、くり返し何度も何度も聴きたくなる。そして、こう言うと語弊があるかも知れないが、とても聴きやすい。気軽にもがっつりにも。これは、エレカシの作品では結構珍しいことかも知れない。

だけどこれは、考えてみれば、当たり前のことなのかも知れない。いくら仲の良い友達だって、ずっと一緒にいたら疲れるし、一人の時間も、また、友達以外の人との関わりも必要だ。『MASTERPIECE』がくり返し何度も聴けて聴きやすいのは、そんな理由からだと思う。聴きやすいからといって、売れ線とか媚びたとかではなくて(むしろ、今作は渋い!)、一人で部屋で過ごす時間も、大切な人と過ごす時間も、一人で街を歩く時間も、仲間と過ごす時間も、いろんな人と仕事をする時間も、すべてが存在しているからだと思った。宮本さんが一人で打ち込みでやった曲も、バンドでやった曲も、プロデューサーとやった曲も、弾き語りの曲も――。

そう、ちょうど「ワインディングロード」のプロモのようなアルバムだと思った。宮本浩次が一人で歩き出す、いろいろな景色を見ながら感じながら歩く、そして、バンドのメンバーと出会う、メンバーが宮本さんを見つめる、宮本さんが立ち止まる、そして、バンドで演奏し歌う。

その流れは、前作『悪魔のささやき ~そして、心に火を灯す旅~』からあった。前作も、宮本さんが一人でやった曲、バンドの曲、プロデューサーとの曲~とあったから。しかし、これは『MASTERPIECE』を聴いた今となって感じられることなのだが、どこか「窮屈さ」があったかも知れない。バンドの主張とプロデューサーによるプロデュースが過剰気味であったり、宮本さん一人でやってる曲がどこか窮屈そうというか、一人になり切れていないというか、あえて一人でやってる感が出ているというか。

ただそれは、今にして思うと、である。それは、『MASTERPIECE』がすごくのびのびやっていて、解放感があるから。
そして、本当に不思議なんだけど、これだけ表情の異なる曲が並んでいるのに、そのギャップをまったく感じさせない。前作では、そのギャップが魅力でもあり、ギャップで聴かせ、ギャップを聴かせているところがあったと思う。けど、今作は不思議なくらい「自然」につながってる。そんなところが聴きやすさの要因でもあると思うけど、これを自然につなげてしまう説得力がすごい。

『MASTERPIECE』は、前作より音数が少なく、何より「楽しそう」だ。バンドでやった曲なんて特にそうで、「穴があったら入いりたい」とか「世界伝統のマスター馬鹿」とかすごく楽しそう。で、この「楽しそうなエレカシ」っての、ものすごーく久しぶりに見た(聴いた)気がするな!

そして、シングルにもなった「大地のシンフォニー」と「約束」。これは、エレカシの新しい境地だと思った。ものすごい「歌」への集中力。もう本当、極まっている。今まで宮本さんがサウンドに求めていたものの答えは、「歌」にあったんじゃないかと思ったくらいだ。つまり、答えは自分の中にあった――。
ここでは、歌に集中することで、サウンドへのフラストレーションみたいなものが消化されてる気がする。気にならなくなってるというか。じゃあ、サウンドは何でも良いのかといったらそうではなくて、ここでのバンド演奏は驚くくらいに主張がない。地味で、ギターソロとかブリッジ(エレカシ得意の!)とか、そういったものがない。もう本当、徹している。じゃあ、単なる伴奏かといったら、そうでもなくて、リズムっていうか歌っていうか、私はこの主張のないサウンドに物凄く主張を感じたというか、凄味を感じたなぁ。

他にも色々あるけど、全体を通して、「宮本はバンドに頼らず、バンドは宮本に頼らず」というのを感じた。それは、エレカシが自身の「バンド幻想」から脱したってことだと思うのだよね。で、それはとんでもないことなんじゃないかと。例えば、エレカシは「中学・高校からの友達バンド」で、そこが魅力でもあり強味でもあるんだけど、これはエレカシがその「中学・高校からの友達バンド」という殻をも遂に破ったアルバムなのではないかと思っている。そんなことは、エレカシ史上初だと思うの。

しかし、ということは、エレカシの「バンド幻想」(そして「バンドの限界」)はなくなってしまったのだろうか。

それを私は今もずっと考えているんだけど、私が思ったのは、「4人のバンド・サウンドが聴きたい」という想いが解消されたのは、他でもない、「4人のバンド・サウンド」が聴けたからなんじゃないか、ということなんだよね。今、そんな気がしている。

それは、打ち込みの曲やプロデューサーとの曲に聴き慣れたからとか、バンドでやってる曲もちゃんとあるからとかじゃなくて、本当に「4人のバンド・サウンド」が聴けたからだと思うんだよね。

宮本さんが一人でやってる曲も、ソロみたいだと感じない。
宮本さんが一人突出しているとも感じない。
バンドに雁字搦めになっているとも感じない。

本当に「奇跡」とでも言いたくなるようなバランス。

打ち込みに走るのも、プロデューサーに頼るのも、そしてもちろんバンド・サウンドにこだわるのも、それらすべてで「バンド幻想」を、そして「バンドの限界」を打破したんだ。

私は、エレカシの魅力は「不自由さ」にあると思っていた。打ち込みに走ろうが、プロデューサーに頼ろうが、宮本のワンマンバンドだと言われようが、そんなことは気にせずに音楽をやっても良いのに、その中で葛藤していたのは誰よりも宮本浩次でありエレファントカシマシであった。それは、「バンド幻想」を捨てなかったからだろう、「バンドの限界」を見つめていたからだろう。エレカシはその「不自由」の先に「自由」を見つけたのだ。

「バンド幻想」がどうなったのか、私にもよくわからない。

だけど、『MASTERPIECE』で見えたのは、まぎれもなく、「エレファントカシマシ」という景色だった。

これからエレカシは、「我が祈り」も「Darling」も「七色の虹の橋」も「飛べない俺」も、ライブで演奏するのだろう。「4人で同じ景色を見ようとする」のだろう。そしてそれを、私たちにも見せてくれるのだろう。1988年の曲「ファイティングマン」が最近やっと良くなってきたとか言ってんだよ?

「どうやって4人で冒険をしていくかって事だと思います」

宮本浩次はそう言っていた。

そう、『MASTERPIECE』で見えた景色は、「4人で冒険している姿」だった。それは、どの曲でも。

今も4人は、「エレファントカシマシ」という存在にときめいている。

次なるエレカシは、殻を破ったエレカシが新たなエレカシ編曲を聴かせるのか、はたまた、今回のような方法か、それはわからないけれども、どんな方法であろうと、これまでも、今も、これからも、「4人の冒険」は続く。

最後に――。

上記インタビューで、ミヤジはオアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」の話をしていた。ミヤジはその曲の特にこの部分が好きだそうだ。

“でも頼むからロックンロール・バンドなんかに
 君の人生をゆだねたりはしないでくれ
 自分にさえ責任が持てないような奴らに”
(オアシス「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」)


私は、今年レイ・デイヴィスがフジロックに出る(!!)というのもあって、キンクスの「ロックン・ロール・ファンタジー」を思い出した。

“ロックンロール・ファンタジーだけに 生きていくなんて嫌なんだ
 現実から逃れて生きていくなんて嫌なんだよ
 もうこれ以上逃げ回って、時間を無駄にしたくないんだ
 ロックンロール・ファンタジーだけに 生きていくなんて嫌なんだ...”
(キンクス「ロックン・ロール・ファンタジー」)


「バンド幻想」と「バンドの限界」。

どちらもロックンロールに対する愛憎を感じる曲だ。