前回からの続きで、Superfly が何故自分にとって今ひとつロックに感じられないのかを考えてみた。
すると、浮かび上がってきた、「どうしよう感覚」。
エレファントカシマシを聴いていると、「カッコ良い」と思うと同時に、「こんな曲聴いちゃってどうしよう」「こんな曲をカッコ良いと思っちゃってどうしよう」みたいな感覚に襲われる。果たしてこれは、カッコ良いのだろうか? これは、良いのだろうか? と、背徳感のようなものに襲われる。
もしかしたらこれは、カッコ良くないかも知れない。ひょっとしたらこれは、これに反応してしまうなんて、自分のみっともない部分を、もっとも知られたくない部分を、白日の下に晒してしまうことになるのではないか? でも、これに抗うことなんてできない!
……というような「どうしよう感覚」に襲われる。
目の前のものにどうして良いかわからなくなる感覚、簡単に言っちゃうと、「どうしよう!カッコ良い!」。
そして、「そこ」なんじゃないかと。
その「どうしよう感覚」に襲われるとき、「ロック」を感じるのではないかと。
自分がこっそり隠し持っていた部分をえぐられたとき。
自分が見てこなかった景色を見せられたとき。
自分でも気付かなかった自分を教えられたとき。
自分が否定してきたものが圧倒的な説得力で迫ってきたとき。
それは様々だけれど、そんな衝撃とともに、でもそこに確かに自分自身の存在を感じることができたとき、「ロック」を感じるのではないかと。
そう考えると、スーパーフライは、確かにカッコ良いんだけど、「どうしよう」とまではいかないんだよなぁ。
で、それはそれで別に良いと思う。
ただ、だから私にとって、スーパーフライは「ロック」ではないということなんだよな。今のところは。
「戦ってる音楽」かそうでないか、という言い方もできると思う。
エレカシの宮本浩次は、「ファイティングマン」を歌うと、「身の毛がよだつ」と言う。「四月の風」については、「『ああ俺こんなこと言っちゃった、“愛する人に” だって。うーうー……』みたいなさ。もうおしまいだ俺は、みたいな」と語っていた。「珍奇男」に関しては、それまでのストイックな自分から一歩抜け出てるのを感じ、「こんなわかりやすい曲作っちゃっていいのか?」、「ああ、もう俺も終わりだ」と思ったらしい。
歌い手にもあるんだ、「どうしよう感覚」が。「こんな曲歌っちゃってどうしよう」というのが。
いつも例がエレカシとあゆばかりで申し訳ないけど、浜崎あゆみは、「M」で初めて作曲したときのことについて、こんな風に言っていた。「作ってる時は凄いイケイケだったくせに、歌入れ終わって聴くと、『……はぁ~』って。『大丈夫かな?』ってもうしつこいぐらい聴いてた。曲に聞こえない。曲として聴けなかった、冷静に。ひとりでなんか興奮しちゃって、どうしよう、みたいな」。凄く変な感じがして、恥ずかしくて、素人ちっくに聞こえたという。「書いちゃった、曲。出ちゃう」みたいな感じだったという。
どうしよう感覚――。宮本さんの言葉を借りるならば、「身の毛がよだつ」感覚。
ポニーキャニオンに移籍したときのことを振り返って、宮本さんは「すべてを信用してたわけじゃなかった」と言っていた(この言葉の重み!)。でも、「次のステップに行くときって、人間てそんなもんだとは思う」と続けていた。ドラマの主題歌を何度もボツにされたときには、「摩擦のある楽しさ」を感じたとも言っていた。
(ポニーキャニオンに移籍したエレカシは、一気にお茶の間に知れ渡る)
宮本さんもあゆも、マゾヒスティックにストレスの中に本気で飛び込んでいくところがある。きっと、その中に光り輝くものがあることを知っている人なんだ。それは、不器用なんていう言葉で片付けてしまうにはもったいないくらいに、尊くて、気高いファイティングマン精神だ。だから、両者とも、「戦ってる音楽」なんだ。
何かをかなぐり捨ててるよね。
スーパーフライも安室奈美恵も木村カエラもカッコ良いと思うけれど、何かをかなぐり捨てながら、どうしよう!って震えながら、身の毛がよだちながら音楽をやっているのではなさそうじゃん。だから、そこなんだなぁと思った。
最近良いなと思ったチャットモンチーなんかは、戦ってる音楽だと思った。
かつては、椎名林檎もそうだと思った。
まず、戦ってる音楽かどうかってのがあって、そこから更に、共に戦ってると感じられるかどうかってのがある。そこは、好みと言われてしまえば、それまでだけど。
あと、わかりやすく言うと、「イっちゃってる」かどうか。
自分がロックと感じる人は、「この人、イっちゃってる」って瞬間が必ずある。
「狂気」って言葉に言い換えても良い。だけど同時に、絶対的に「正気」なの。
安室ちゃん、カッコ良いけど、「イっちゃってる」とまでは思わないんだなぁ。
それと、スーパーフライや木村カエラは、周りが凄いんじゃないか!?ってのがあるんだよね。
もちろん、どんなアーティストも周りに支えられているし、そこがまた素晴らしいのだけど、「この人は周りだ」ってのと「この人は自分自身の音楽を確立している(しようとしている)」ってのがあるんだよね。
周りに凄い人達がいるのはそれだけ本人に魅力があるからだし、そういう人達を集めるのもその力を引き出すのも本人の才能だから、これはどっちが良い悪いじゃなくて、どうしても周りがちらついてしまう人、その周りも含めて武器であり魅力となる人っていうのと、そうじゃない人っていうのがあるんだと思う。
だから、周りに勝って自分自身の音楽を確立する必要がある人とない人とがいるのかも知れない。それでいけば、浜崎あゆみは前者で、だから “戦う音楽としての” ロックを必要としたんだと思う。
ここでちょっと思うのが、そういう「周りタイプ」と「自分タイプ」があるとしたら、女性アーティストの場合、「周りタイプ」の方が男性受けが良いのかなぁってこと。まだまだロックの文化は、男の文化なのかなって思うし。
別にそれは構わないんだけど、だから、女である私自身も含めて、まだまだ「女のロック」をわかってないんじゃないかと! 「女のロック」は語られてないんじゃないかと!
「女のロック」を、「男のロック」と同じ物差しで計ろうとすると見誤るんじゃないかと。
だから、ロックロックと語られている場所とは違う場所に、「女のロック」は存在しているんじゃないかなぁってちょっと思ったりした。