前回の記事に一筋の光を射すような文章に出会った!
“ショービジネスに生きる人間は結局独りぽっちになる宿命”
“アイドルを応援し、抑圧することが結果的に彼ら(彼女ら)から人間性を奪うなら、それを分かった上でタフに生きるアイドルに思いをはせる”
その文章によると、ビートたけしが昔、
「死に場所を芸人にした。でも大丈夫だ、ロマンという保険があったから」
と言っていたそうだ。
そっか。
あゆにはロマンがあるから、歌いたい歌があるから、描きたい明日や伝えたい想いがあるから、そこに立ち続けているんだ。
そんな大事なことを忘れてしまうよ。
ロマンティストであるくせに、リアリストであるから、辛いんだよ。
どっちかに片寄っていれば、こんなに胸が痛むことないのに。
浜崎あゆみのことを、近田春夫は「まんまの彼女でもない、かといってまんまの彼女でもある、嘘とも本当ともいえる」と評し、菊地成孔は「アンドロイド/CG/アニメでありながら生々しい自我の血を流すニュー・タイプ・ジャンヌ・ダルク」と評した。
安室奈美恵のベストアルバムのタイトルは、『BEST FICTION』だという。
浜崎あゆみはいつだって、フィクションであり、ノンフィクションである。
彼女はそここそが稀有な存在だと思うんだ。
「アイドル」として評価するには、トゥーマッチなほど生々しくリアルであり、
「アーティスト」として評価するには、ファンタジックなほど現実感がなくシュールである。
普通は、どっちかに片寄るか、両方持ってる人だって、そのときそのときでどちらか一方に片寄るものだ。
だけど、浜崎あゆみは、ひたすらにリアリストでありながら、どこまでもロマンティストであるんだもん。
演じきろうとしながら、自分であろうとしている。
演じきろうとすればするほど自我が邪魔して、自分であろうとすればするほど女優魂に火がつく。
そういう人は、評価され難いのかな。
評価する側にも、フィクションとノンフィクションを求めるからかな。
浜崎あゆみは、アイドルにもできなかった、アーティストにもできなかった、そんな新たな何かを提示しようとしているのかも知れない。
それは果たして、どっちつかずの中途半端なのか。
それが良いか悪いかなんて、分からない。
だけど、彼女には、歌いたい歌がある。
“そう君にとびきりの景色見せたい
それこそが明日への合図 未来へ”
そう彼女が歌うとき、ものすごく胸に迫るものがあるんだ。
同じような想いでも、「MY ALL」では、驚くほど優しく温かく歌えている。
『GUILTY』で何か突き抜けたのかも知れない。
「痛みの塔」と言われようとも、「悲劇のヒロイン」と言われようとも、「プライベートの切り売り」と言われようとも、「(左耳のことで)プロとして失格」と言われようとも、「ギャルのカリスマ」と言われようとも、「落ち目」だの「必死」だの、とにかく何を言われようとも、彼女には歌いたい歌がある。
一番大切なのは、「作品」だよ。
でも、そこには、リアルもロマンもフィクションもノンフィクションも人生もすべてが含まれている。