バンプ・オブ・チキンの「ハンマーソングと痛みの塔」の歌詞が面白い。(歌詞はこちら)
この曲に限らず、バンプの歌詞って、物語を読んでいるような面白さがあると思う。藤原基央はストーリーテラーだと思う。
「ハンマーソングと痛みの塔」の主人公は、誰かに見て欲しくて、自分の “痛み” を積み上げて、まだ足りないのかっつって、“痛みの塔” をどんどん積み上げていくの。
やがて、鳥にも届くくらい高く積み上げた頃、やじ馬共が集まってきて、主人公はこう言うんだよね。
“きっと私は特別なんだ 誰もが見上げるくらいに
孤独の神に選ばれたから こんな景色の中に来た”
だけど、いよいよ聴こえるのは風の音だけになって、寂しくなって、“誰にも見えてないようだ” と言って、声も出ない程怖くなってしまう。
そんな時、誰かが歌う “ハンマーソング” が聴こえてくる。皆アンタと話がしたいんだ、同じ高さまで降りてきてと、下から順にダルマ落とし――。
あくまでも友人知人同士での話を描いているのかも知れないけど、これ、“カリスマ” と呼ばれる人、“カリスマ” と呼ぶ人達、“カリスマ” にまつわる現象をうまく捉えているんじゃないかなぁって思う。
きっと最初は、“誰かが見てくれたらな” ってぐらいのほんの些細な動機だったのかも知れない。対象は、特定の誰かだったかも知れないし、誰でも良かったのかも知れない。とにかく、誰か一人でも気付いてくれたらな~ぐらいの。
それが、どんどんどんどん大きくなっていって、たくさんの人に見られるようになって、今度は逆に、誰の手も届かないような場所に来てしまって、結局また、“誰にも見えてないようだ” という思いに襲われてしまい、寂しくて怖くなってしまう。
スーパースターの孤独ってよく言うけど、こういうものなのかなぁ。
浜崎あゆみが、一時期の精神状態を「右も左も上も下も真っ白な壁」と言っていたのを思い出した。
でもさ、やっぱり、高く積み上げなければ、たくさんの人には見えないしなぁ。
それじゃ、例えば、ファンの声援なんてのは、ここで言う “ハンマーソング” になるのかな。
でも、ファンという存在が、その人を高く登らせるというのもあるじゃない。
ファンだって、自分の隣に来て欲しいっていう思いとスーパースターであって欲しいっていう思いと、両方あると思うもん。
ファンは、自分のスーパースターに対して、孤独であって欲しくないくせに、孤独でいて欲しいんだよね。
「ハンマーソングと痛みの塔」の主人公のように、自分の痛みを積み上げて、自分は特別なんだっていう王様気分であり神様気分っていうのは、「悲劇のヒロイン」なんていう言葉に象徴されるように、本来なら誉められるものではないのだろう。この歌ではそれをハンマーソングで切り落としていくわけだから、どちらかと言うとそういう神様気分を否定的に描いているんだろうし。だけど、そういったものがスーパースターを生み出していくという面もあるわけでさ。
「これからも聴いている人が主人公になれる曲を作り続けます」って語ったアーティストに対して、「アーティストっていうのはもっと孤高であったりするものだろ」って突っ込んでいた文章を読んだことがある。
悲劇のヒロインも困るけど、主人公になることから無自覚であったり放棄してたり逃げてたり拒否してたりするのもズルイよなぁ~。むしろ、そっちの方が自分は無傷だし、かえって、相手をバカにしているような気がする。
「ハンマーソング」と「痛みの塔」の関係については、糸井重里が浜崎あゆみのドームツアーのDVDを見て、「お客さんは、もっと死ね、もっと死ね、死ね死ね死ねって言って。君(浜崎あゆみ)はその生贄で、死んで、また生き返る。何かすごくそういう風に感じた」って言ったらしいんだけど、何かそれをふと思い出したな。浜崎あゆみ自身もそう言われて、「その言葉の意味はとても分かる気がした」って言ってたくらいだから。「その戦いの中でお客さんたちからパワーを得ているから再び生き返る」と。だからなのか、あゆは「ライヴは最高だけど、その反面、孤独で」と言っていた。
やっぱり、「痛みの塔」と言われようがなんだろうが、高いところに立たなければ、たくさんの人には見えない。そして、そこが孤独であろうことも、なんとなくは想像できる。
だけど、積み上げてるのは「痛みの塔」だけじゃないと思うし、鳴り響く歌も「ハンマーソング」ってだけじゃないと思うんだ。
最初の一歩は、誰か(あなた)に見て欲しいっていう、ほんの些細な動機だったのかも知れないしさ。
あゆも、ドームツアーってのは2001年だし、上記の発言も2002年頃だから、また変化してきてると思うんだよね。
で、結局、何が言いたいんだろう私は(笑)。
バンプの「ハンマーソングと痛みの塔」に関して言えば、これは友人知人同士の話であるとして、世間で言うスーパースターっていうのは、個人だけで積み上げるものじゃないからね。だからこそ余計に、孤独が生まれるのかも知れないけど。
でもさ、よく言う「スーパースターの孤独」とか「虚像と実像」とか「イメージのひとり歩き」とか、もうそんな単純なもんじゃないんだよ! あるいは、そんな「からくり」、もうとっくに皆気付いているんだよ。
私は、スーパースターの素顔が見たいわけではないし、スーパースターを演じきるのを見たいわけでもないんだ。
話が飛躍してきた(笑)。
そびえ立つのは「痛みの塔」だけではないし、鳴り響くのは「ハンマーソング」だけではないんだ。
むしろ、そうじゃない部分にこそ、心はある!
とは言ってみたものの、私がそう信じたいだけで、スーパースターに憧れてしまう私の「言い訳」に過ぎないのかなぁ。
いずれにしても、それが何なのか――、その答えがあるのが、「ライヴ」だと思う。