旅行、美術館、書評 -28ページ目

目立てる消費 conspicuous consumption

 経済を引っ張るのは需要。
 西洋人、特にアングロサクソンはプリミティブな民族で需要をコントロールできない。
 お金が手に入るとすぐに使いたくなる。
 アイデンティティーは conspicuous consumption 目立てる消費、
 私の車はあなたの車より大きい。

 日本人は集団主義、アイデンティティーはグループ
 素晴しい文化だと思うが、問題はお金を使わない。

グレゴリー・クラーク 先生の講演
http://video.google.com/videoplay?docid=-4024073040771422810&hl=ja

http://6623.teacup.com/ma19500521/bbs/354

たまたまインターネットの掲示板(日本経済復活の会 )で見つけ、経済が専門なわけで
はないので、なんなく視聴したのですが、
とてもすばらしい講演会・勉強会であり、また、こうしたものをとうとう Internet 経由で
動画でみられるようになったのだと感慨深く感じました。
グレゴリー・クラーク 先生自身、アングロサクソンであり、日本にも詳しい
ので、文化の違いという言葉にも説得力があります。
たぶん、上智大学の教授の頃、どこかでお話を聞いたことがあったかと、映像をみて。

曰く、
アングロサクソンはあったら使うのでだめですが、
日本の場合、
「カネがなければ刷りなさい」 *1
ただし、インフレには気をつけること。
紙幣回収準備資金(平成15年1月29日)
日本経済復活の会 でもこうしたことを提案しているようなのですが、
ちょっと、私が気になったのは、わざわざこうした
政府貨幣発行を禁止する法律が平成15年に作られている
ことです。
昔から、あったならまだしも。

セニョラージで検索すると
「中世の日本が銅銭の自鋳をおこなわなかったのかという問題」
などにヒットしましたが、
アメリカでは

1963年にジョン F ケネディ大統領は
アメリカ政府がFRBを通さずに通貨を発行
する権限を回復するという
「Exekutive Order No.11110」に署名し
 http://6623.teacup.com/ma19500521/bbs/342
相当量、発行したことがあるそうです。


[関連]
*1 日本では丹羽春喜大阪学院大学教授 


政府貨幣発行で日本経済が蘇る
 
小野 盛司
政府貨幣発行で日本経済が蘇る―世界を代表する経済学者たちの提言に耳を傾けよ







リチャード・A. ヴェルナー, Richard A. Werner, 村岡 雅美
虚構の終焉―マクロ経済「新パラダイム」の幕開


 

ヘリコプターマネーは利息の得られないお金


エンデ この切抜きは1989年なので、バブルの頃ですが
「第3次世界対戦はすでにはじまっている
とういメッセージは強烈でした。

  お金が物になってしまった、商品になって
  しまったことが、問題の根本にある。
  自然保護運動にいたるすべての改革の
  試みをだめにしてしまっている大本は、
  この点です。  エンデ

このころは自然環境保護がひとつのテーマでしたが、

  現在の経済界は、人間の実際の欲求に沿って
  動くのではなくて、お金の形態に沿って動いて
  います。

昨今となっては顕著ですが、当時は本当のお金の
形態にはピンときていなかったかと。

環境破壊か大量の失業か、この危険な二者択一を
回避する唯一の道は、貨幣制度自体がその内部から
すっかり変わらなければならない、エンデはいいます。

  ある地域で、利息の得られない貨幣を設定し、
  現行のお金と併用する形でとりいれる。
  ・・・
  奇跡のように聞こえるかもしれませんが、
  一年後、失業はなくなり、公庫は豊かに
  なりました。
 
  けれども、彼の導入したお金は、オーストリア政府によって廃止されることになった。
  資本家たちが、それを廃止させるほど強力だったわけです。

アメリカ政府でさえ、自分でお金を発行できないで、FRBに利子 を払っている *1
のですから、廃止に追い込こまれるのは、いた仕方がないことなのでしょう。
驚くべき成果を残したオーストリア・ヴェルグルの実験  にも詳しい解説がありました。

井上ひさし氏もベンポスタ子ども共和国 の例でやはり成功していた地域通貨が
禁止されたことをあげていました。

2001年頃、何冊か地域通貨の書籍が発行されたので、第3次世界大戦の
スクラップを思いだし、おもわずまとめ買いしてしまいましたが。

マネー崩壊―新しいコミュニティ通貨の誕生/加藤 敏春
貨幣の生態学―単一通貨制度の幻想を超えて/リチャード ダウスウェイト

広田 裕之, 子安 美知子
パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?―ミヒャエル・エンデの夢見た経済・社会
現在、「地域通貨」で検索してみると、かなりの数の動きがあることはみてとれますが、
イオン だとかイトーヨーカドー さんには試しに利子のつかない銀行というのぜひ
経済特区 *2 ででもやってみて欲しいものです。 


  「ヘリコプターで金をまけばよいのだ」、

  とえらそーにノタワマッテいたのがなにを隠そうこのバーナンキ。
  「
ヘリコプター・ベン」というあだ名まであります。
From:  債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら   




[参考]
*1  これをやめたいといった大統領、リンカーンやケネディーは暗殺された?  
   今回の選挙でもロン・ポール議員はFRBの廃止 をあげていて、Internet では人気。

*2 いまだと宮崎県あたりがいい? けれども、なにかしらのスキャンダル発掘が怖い。

驚くべき成果を残したオーストリア・ヴェルグルの実験
http://www.tradition-net.co.jp/door/kako.htm

地域通貨 wikipedia
地域通貨システム Yahoo
経済の民主化に向けて  http://mig76jp.wordpress.com/


  エンデ エンデ エンデ
























ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11


大聖堂(ウィーン_プラハ)


 環状道路から国立オペラ座の右(=東)側の

通りの先が明るかったので、左折し、

 遅い時間だったこともあり、歴史あるCafe

 でなく、慣れたスターバックスを

 みつけて 暖かいものを飲んだ後、

 ケルトナー通り Karntner Strasse  抜けた

 先にあらわれたのが

 シュテファン大聖堂 (ウィーン大聖堂)

 です。

 

 繁華街の先に突如あらわれた重厚な

 大聖堂には驚かされました。


翌日の昼間もこの大聖堂のところは通り
 ましたが、重厚な上に、豪勢な装飾で
 一体、入り口はどうなっているのだろう
 かと、回り込んで見た記憶があります。
 


 








以下、ウィーン★芸術を極める!!旅1ヶ月
大聖堂(ウィーン_プラハ)
   シュテファン大聖堂の正面は南? より

  -----
  教会建築は通常、西が正面と見なされます。

  けれどウィーン大聖堂の場合、これだけ

  豪華だしインパクトがある、南面こそが正面

  と思いたくなります。

  これにはウィーンならではの特殊な事情が

  あります。

  ウィーン大聖堂 が南をこれほど壮麗に飾ったのは、

  プラハ大聖堂 に倣った為なんです。

------

ということなので シュテファン大聖堂 (ウィーン大聖堂:右)
と           聖ヴィート大聖堂  (プラハ大聖堂:左

           Google Earth上に Sketchup による 3Dモデルが作成されていたものをインポート)

を並べてみました。




Wien.StephansdomNorth


現在のウィーン大聖堂の西部分。つまり西は、
 ハプスブルク家が支配する以前の建築物なんです。
by シュテファン大聖堂が何故「異教の塔」なのか?

右の写真は北側からのものですが、これらが古い
のではなく、ハプスブルク家以降の新しいものとのこと
ですが、説明を読みながらも、しばらくは反対にこちらが
古いのかと思っていました。
増築部分のためか、この部分を除いた撮影写真
大半のようです。 ホテルから歩いてきたときの南東
部分のショットを探してみたのですが見つかりません
でした。


以下はプラハでの旅行中のスナップ写真

・ プラハ大聖堂正面(西)
・ 分離派チェコ の有名画家アルフォンス・ミュシャ による
  身廊の北部の窓の装飾。
・ 移動中に撮影したプラハ大聖堂

プラハ大聖堂 プラハ大聖堂 プラハ








美しき誤解

先日、「君のためなら千回でも」 を読んでいて
 アフガにスタン人と日本人はどこか似たようなところがあるように感じ
それは
 彼らなりの価値観に基づいた正義感があり、黒澤明の「七人の侍」に
でてくるような人々が
いる

感じがするからではないか、と思ったと書きました。

たまたま、去年の11月のものですが、
【報道されないテロ特措法】 国会参考人・伊勢崎賢治氏 2007/11/5 911
http://video.google.com/videoplay?docid=-911173277227830585
をみつけてみたのですが、
すごいですね、
こんなことをする発想は欧米人ではありえない、
無茶というか、「和をもって尊しとなす」というか。

「広島、長崎に原爆を落とされ、ロシアと戦争して負けなかった日本は 英米とは違うと」
という 美しき誤解 により、武装解除を果たしたのだが....

詳細は動画あるいは 「美しき誤解 アフガニスタン」で検索  するとその内容が
かかれた blog がみつかります。 

ソ連のアフガン侵攻の前にイギリスが失敗していることが「君のためなら千回でも」
アイロニーとして書かれていることは、歴史に学ぶ教訓  で書きましたが、

 伊勢崎賢治氏の発言のなかにも
 「イギリスは、これは(アフガニスタン)はあと、10、20年では終わらない..」
 といいだしているとありました。


参考:   

衆議院議事録
事実、ことしになってから、イギリスは、アフガン戦においては、これは長期戦になる、長期戦と言うというのは、多分十年や二十年では終わらないというこ とですね。新任の防衛大臣が労働党の大会で、これも報道されましたけれども、タリバンとの政治的な和解というのは考えなきゃいけないと言い始めておりま す。アメリカの最重要同盟国のイギリスでさえです。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/013316820071105008.htm


世界の中のイスラム教徒
イスラム教徒分布図 http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Muslims-en.jpg


どうしてインド はイスラム化されなかったのか/ヒンドゥー教とイスラム教




君のためなら千回でも」や「
遊牧民からみた世界史」を読んでいて
どうして 
インド  はイスラム化されなかったのかと疑問に思いだし、
昔、インド旅行に行こうかと思った時期に読んだ本を取り出してみたところ
以下のような記述がありました。

「荒 松雄 著 ヒンドゥー教とイスラム教―南アジア史における宗教と社会 (岩波新書 黄版 8)

  本来、非宗教的な要因から成立したと推定されるカースト集団は、
  バラモンのイニシアティブのもとに、ヒンドゥー教の教義の儀礼、
  さらにヒンドゥー教徒の信仰及び生活意識と密接不可分なものにAlamgirMosque
  なっていったものと ...

カースト制度がやはりキーとなっているようです。

また、著者はべナレース大学にいたようで、ここ
ワーラーナシー Varanasi  で
アウラングゼーブ  Aurangzeb  が建てた
ヒンドゥー教とイスラム教が融合したモスクに何度も足を
運んだそうです。

アウラングゼーブ  は由緒あるヒンドゥー教寺院を壊して
モスクを建てたので、ヒンドゥー教徒は憤慨する一方、
「パキスタンでは
国民的英雄 by Wikipedia」だとか。

インドとバングラデシュ の中が悪いのは英国植民地政策の
ためだけではないかも知れませんが、付け込まれる
隙があると、対立を煽るものがいることは事実。

さて、実際にそのモスクを探して見つけましたが、
自動翻訳で日本語訳されていたので、少し修正しましたが
理解するのに苦労しました。

著者が足を運んだ当時はまだ、2本の塔(ミナレット)が
あったそうですが、崩壊の危険性のため、撤去されて
しまったそうです。

---
インドの北部のウタール・パラデシュのGanges川の土手に置かれて、Varanasiはインド最も古く、最も顕著な宗教市の1つである。都市に寺院、ghats、文化的な中心、城砦およびモスクを含んでいる様々なタイプの観光の場所がある。

Alamgirのモスク、Varanasiは都市の重要な観光の名所の1つである。
PanchgangaGhatに置かれて、このモスクは別名Beni MadhavのKa Dareraである。
それはAurangzebによって最初に確立された。
Alamgirのモスク、Varanasiはヒンズー教およびMughalの芸術および建築の良い組合せを特色にする。
このすばらしいモスクはVishnuの寺院の場所で造られる。
以前、古代神社の1つ、Bindu Madhavaの寺院があった。
これはヒンズー教およびイスラム教の宗教の滑らかな共存を反映する。

Alamgirのモスク、Varanasiは神聖な浸る場所であると考慮されるPanchganga Ghatを眼下にみることができる

興味深いことに、モスクの低い部分はまだヒンズー教の寺院を特色にする。
このモスクの絶妙な設計は古代インドの豊富なアートワークを示す。

http://www.jp.asiarooms.com/travel-guide/india/varanasi/sightseeing-in-varanasi/alamgir-mosque,-varanasi.html

自動翻訳前の英文
Situated on the banks of the Ganges River in Uttar Pradesh inthenorthern part of India, Varanasi is one of the oldest and themostprominent religious cities of India. The city has various typesofsightseeing places which include temples, ghats, culturalcenters,forts and mosques. The Alamgir Mosque, Varanasi is one ofthesignificant tourist attractions in the city.

Located at the Panchganga Ghat, this mosque is also known as BeniMadhav Ka Darera.
It was originally established by Aurangzeb.
TheAlamgir Mosque, Varanasi features a fine combination of Hindu andMughal art and architecture.
This marvelous mosque is built on the siteof the Vishnu Temple.
Inthe past, there was one of the most ancientshrines, the Temple of BinduMadhava. This reflects a smoothcoexistence of the Hindu and the Muslimreligions.

http://www.imagesofasia.com/html/india/alamgir-mosque.htm



参考:世界の中のイスラム教徒
    イスラム教徒分布図 http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Muslims-en.jpg

写真
http://www.terragalleria.com/pictures-subjects/hinduism/picture.hinduism.indi39016.html
http://www.asiaexplorers.com/india/gyanvapi_mosque.htm
http://images.google.co.jp/images?q=Alamgir+Mosque&hl=ja&lr=&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja:official&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~islamarc/WebPage1/htm/varanasi.htm





ウィーンの環状道路と世紀末芸術.10

分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室に
天井画を配置してみました。 (拡大表示可)

klimt_secession

先日から気になっていた「偶然にも」 の経緯がわかりました。
大戦も終わりに近づいた1945年、退却を重ねていた際にナチス軍は
戦略的には意味もないのにインメンドルフ城に火を放ち、そこに疎開してあった
クリムトの作品は灰になってしまいました。
けれども、ベートヴェン・フリーズはここには疎開していなかったのです。

14回分離派展終了後、この絵はバラバラに散逸するより、
ひとまとめにして保存したほうが良いといって、カール・ライニングハウスによって買い取られたが、

1915
年、エゴン・シーレの仲介で、レーデラー家の所有となった。
1973
年オーストリア政府がこの作品を買い上げ、困難な修復作業ののち、
1985
年『夢と現実展』で復元された室内で再公開され、1986年に分離派会館に帰ったという。
●緑の風に吹かれて オーストリアの旅
http://www.geocities.jp/romanesque_x/este31.html
klimt_女友だち
この作品もインメンドルフ城で灰になってしまったものです。
「女友だち」 1916-1917年 99x99cm (?)















バックナンバー               * Google Map ではこのあたり
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.12
 カールス教会 と歴史博物館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11  シュテファン大聖堂
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.10   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室2
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には

空飛ぶ埋蔵金

自民党の埋蔵金さわぎは、ある、ないの話から、調査するという段階になった
ようです。

Yahoo! のみんなの政治にこんなお題がありました。
もし、埋蔵金が出てきたら


埋蔵金というと徳川埋蔵金 を糸井重里さんがテレビ番組でやっていたのを
思い出します。
「世界唯一の土木番組」だったと自嘲的に」いっているみたいですが、結構楽しく
みていました。

空飛ぶ埋蔵金は河野太郎衆議院議員のblogからですが、
http://www.taro.org/blog/index.php/archives/811
うけるフレーズだと思います。

 じゃあ、僕もその電波使いたいんですけど。
 えっ、だめ?
 テレビ局って、既得権、利権なんすか?

livedoor ホリエモンもいろいろと問題もありましたが、このあたりの構造を
叩き壊してからの逮捕、としてもらいたかったです。






ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09

テーマ、ベートーヴェンの総合芸術の一部がクリムトのベートーヴェン・フリーズで
中央には
マックス・クリンガーのベートーヴェン像。

Stephan さんの名画壁紙美術館より
 http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Beethoven.html
 さて、今週のクリムトの 《 ベートーヴェン・フリーズ 》 は、1902年に、
 この分離派館の左翼ホールの装飾として描かれました。
 分離派館が完成した翌年の1899年、分離派の 「 通信 」 会員であったドイツ人
 芸術家、マックス・クリンガーが、

 ドイツを代表する大音楽家・ベートーヴェン ( 1770-1827 ) を顕彰するための、
 ブロンズと多様な色の大理石を組み合わせた像を作り始めます。
 この像は、制作が始まったころから大変な前評判が立ち、1902年、
 この分離派館での第14回分離派展で、

 初めて公開されるのです。 当時、分離派の最大の課題は 『 総合芸術 』 であり、
 彼らはその理念を、展覧会の 展示方法に顕現させようとします。

 マックス・クリンガーの 《 ベートーヴェン 》 像を中央ホールに展示し、
 その左翼の部屋にクリムトは、この 《 ベートーヴェン・フリーズ 》 を描く・・・
 そのワンフロアー全体が、クリンガーの 《 ベートーヴェン 》 像を
 中心とした芸術空間の創造であると・・・

 分離派はこの展覧会で、クリンガーとベートーヴェンへの表敬と、
 「 大きな課題への憧れ 」、「 目的を持った内装デザイン 」 の達成と言う
 理念を実現しようとしたのです。


この文中のリンクにある
 http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Beethoven/picup4.html
の配置を試してみました。 

ウィーン分離派館


ウィーン分離派館 昨日記述 のあった、  
1986年以降は特別に計画された展示室 というのが
地下の部分で、実際の第14回分離派展では1Fのフロア
での展示が正しいのだと思いますが、今回は実は地下の
右脇にスペースを作成して マックス・クリンガー Max Klinger  
の作品を置いてあります。

実際には地下にはこうしたエリアはないはずです。

マックス・クリンガー Max Klinger  の作品については
ドイツ音楽紀行  さんのブログhttp://hamburg.exblog.jp/1311973
で紹介されていましたが、この像は怖いくらいのできです。

この作品、相当昔にテレビか、なにかでみた感じがあるのですが
ちょっと思い出せないでいます。 美術の教科書かな?


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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.12
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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には


1月まとめ

2007年12月 /2008年1月 /2月 /3月 /4月 /5月 /

1月

02

セビーリャ美術館...
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04

ムリーリョのユリ
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04

プラド美術館
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05

べラスケス 「女...
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プラド美術館 II
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君のためなら千回...
「君のためなら千回でも」

16

君のためなら千回...
「君のためなら千回でも」

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君のためなら千回...
「君のためなら千回でも」

17

君のためなら千回...
「君のためなら千回でも」

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「君のためなら千回でも」

20

君のためなら千回...
「君のためなら千回でも」

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日本が大成功だっ...
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24

ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

25

ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

26

ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

27

ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

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ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

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ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

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ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

31

ウィーンの環状道...
中欧、ウィーン

ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08

1824年5月7日 交響曲第9番 (ベートーヴェン)  の初演が行われたのが
ウィーンのケルントナー・トーア劇場ですが、この跡地は環状道路からみて
国立オペラ座の後ろのあたり、昨日のカジノ の並びになるはずです。
 

第九の人気が出たのは、ワーグナー によるこの曲のロマン派 的な解釈の後

ワーグナーですか....


さて、すこし環状道路を戻って、ウィーン大学の天井画の件 でもふれたクリムトの

ベートーヴェン フリーズ Beethoven Frieze がある分離派館に向かいます。 

実際には下の写真のようには見えないと思いますが、分離派館は国立オペラ座から
環状道路を挟んで反対側の少し先になります。

ちなみに 分離派館は Google Earth 上に 3Dモデルが作成されています。



wien_map37


  第14回分離派展は、作曲家ルーチヴィッヒ・ベートーヴェンに捧げられました。
  グスタフ・クリムトは、ワグナーの解釈にもどづいてベートヴェンの第9交響曲を
  テーマに34メートルの壁画を作成しました。

  ユーゲント・シュティール のこの作品は、偶然にも残されて、1986年以降は
  特別に計画された展示室で再び鑑賞できるようになりました。

                   ベルヴェレーデ美術館の図録(宮城コレクション)より


てっきり、いままで分離派館のホールを飾るために Beethoven Frieze が作成されたのかと
思っていましたが、「偶然にも残されて」いたのですね。wien_map38

この、偶然にもは、展示会後、とりはずされていたので
偶然にもナチスに持ちさられずにということ?
正解はこちら

第14回分離派展での マックス・クリンガー Max Klinger  
の Beethoven像 ( これは凄い。 ずっと前になにかでみた
ことがあるはず.....) と クリムトのBeethoven Frieze の
展示の様子の写真がありました。

次回はこれを再現してみたいと思います。






wine_map2



 [参考]
ケルントナートーア劇場跡(ベートーベンの第九初演)

現在、オペラ座のすぐ裏手にはザッハートルテで有名なホテルザッハーがありますが、1869年にオペラ座がモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で開場するまで、この場所にはケルントナートーア劇場が建っていました。1763年に建てられたこの歌劇場は、1810年に王宮前にあったブルク劇場が演劇専用の劇場となると、完全に宮廷歌劇場として使われるようになり、サリエリらが活躍しました。この劇場の歴史の中で最も大きな出来事は、1824年5月7日にベートーベンの最後の交響曲「第九」が初演されたことでしょう。
http://okusuri.main.jp/page153.html

その同じ年の5月23日、今度は同じウィーンレドゥテンザールの大ホールで「第九」の再演が行われました。ところが、今度は客席が半分も埋まらなかったのです。この差はいったい何なのでしょう?
http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kcpo/legacy/33rd/B-Sym9/perform1.html



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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
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