旅行、美術館、書評 -29ページ目

ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07


 国立オペラ座の右(=東)側の通りの先が明るかったので、このあたりで
 左折することにしました。


  そう、ここでスターバックスをみつけて一息つきました。


スターバックスカフェ  
米国のコーヒーチェーン店。大胆不敵というべきか、ザッハーの真向かいやデーメルの隣の通りにも出店している。伝統的なカフェに無い品揃えのせいなのか、それともファーストフード的な要素が便利なのか、意外にも客入りはいい。夏にはフラペチーノやアイスラテの冷たい飲み物は確かにいいかも。
              by  http://wikitravel.org/ja/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3

  ケルトナー通り Karntner Strasse  です。



   ケルントナー通りは旧市街随一の繁華街で、その通りの名は13世紀に

   さかのぼり、イタリアと接するケルテン州に下る街道の基点であったこと

   に由来する。 ・・・ 

昔のままの姿をとどめるのは、今はカジノが入居している41番地の

   エステルハージマ宮殿くらいだ


 スターバックスの向かいの建てものにカジノのネオンが見えます。


   1970年代まではケルトナー通りの脇道の Annagasse などには

   「世界最古の職業」のお姉様たちが立っていた。ただし、国際都市

   の面目を保つためか、ケルトナー通りより50メートル以内に近づく

   ことは禁止されていた。


今は、このご職業の方たちは、外郭環状道路ギュンテルの西駅

   からヨーゼフシュテッター通り駅の間でお見かけする。     


Guertel がどのあたりだか? わかりませんが、
http://wikitravel.org/en/Vienna  の以下のあたりではないかと思います。

Bars and Beerhouses

  • Chelsea [66] Lerchenfelderguertel, U-Bahnboegen 29-31 (between the U6 underground stations Thaliastrasse and Josefstaedterstrasse),


Strasenbahn


路面電車からみた昼間の国会議事堂、市庁舎、

ブルク劇場のビデオを以下のサイトでみることが

できます。

http://www.your-friend.info/valueDefault/reise.html

また、よく現地のホテルにあるシティガイドの pdf

ファイルもリンクにありました。





 

wine_map2


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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.12
 カールス教会 と歴史博物館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11  シュテファン大聖堂
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.10   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室2
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には










ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06

  ホーフブルク王宮 は13世紀に建てられた部分から20世紀に増築された
  部分まであり、ハプスブルク帝国の発展にあわせて増築が繰り返された
  結果、新館と本館が入り混じった日本の温泉旅館を思わせるような構造
  になっています。

  やはり、旧館のあたりの方が迷路のようになっていて、翌日の昼間ですが
  おっかなびっくり歩き回っていて面白かったです。

  下の写真の左が新王宮。
  その先の右にみえてきているのが国立オペラ劇場です。


    新宮殿の前にはトルコ軍とナポレオンに対する勝利を祝う英雄広場がある。
    1809年、フランス軍が王宮の堡塁(ほうるい)を破壊して撤退していった後、
    時代遅れな堡塁を再建するのをやめ広場として大改装を始めた。
    広場の中央には、ナポレオン軍を破ったカール大公 の騎馬像が立っている。


1809年の対ナポレオンとの戦争には結局負けても、アスペルン・エスリンクの戦い
で無敵の天才ナポレオン軍に痛打を与えたことは、喝采であり、カール大公は
オイゲン公 (対オスマントルコ 第2次ウィーン包囲 )とともにオーストリアの2大英雄。

Sliverlight で3D展示対応していたブダペスト国立西洋美術館 の前には
ハプスブルグ家の支配から抜け出したハンガリーの英雄広場 がありました。

 あとから調べてみて、そういうことだったのか、ということが実に多いこと。


 城壁の取り壊しのときにつくられた曲のお話はこちら





wine_map2

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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.12
 カールス教会 と歴史博物館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11  シュテファン大聖堂
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.10   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室2
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には






ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05

ブルク劇場を左に 市庁舎を右に 見ながら南に下り、環状道路沿いに左方向に
向かうと、右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿 がみえだします。



                       

オスマントルコによる第一次ウィーン包囲( 1529年)のシーンは「シナン」でも描かれていました

もし、ウィーンまで陥落していたらと敵の敵は味方としてスレイマン1世と同盟を結んでいた
フランソワ1世はどうしだろうか?

その後、第二次包囲(1683年)にも耐えた城壁。 これが取り壊された後に作成されたリンク(環状道路)。

   ウィーンが城壁の撤去に踏み切ったのは、1850年代の急速な経済発展を
   向かえてからのこと。
   城壁を壊して、環状道路をつくることも近代都市としては重要であったが、
   それに負けず劣らず、その城壁の外側の旧市街全体に匹敵するほどの
   広大なグラシーの再開発もウィーンの発展には欠かせなかった。
   この休眠していた土地の有効活用により、ウィーンは
   旧市街を破壊すること
なく近代都市として発展することができたのだ。
                    *グラシー :城壁の外側の広大な緩衝地帯

よく歴史ある街だと旧市街新市街とで分かれていますが、ウィーンはとても
いい感じの街だったと思っていたのですが、その訳にいまはじめて気がつきました。






wine_map2

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 カールス教会 と歴史博物館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11  シュテファン大聖堂
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.10   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室2
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には

ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04

Klimt_Burgtheater クリムトのウィーン大学の天上画の件 は先日ふれましたが、
そもそもこの天上画の仕事はその前の、ブルク劇場 Burgtheater の装飾で得た高い評価がもと、ということです。

ガイドブックによると入り口から向かって左側の階段の天井画
がクリムトの作品。

左図は 
http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:Gustav_Klimt_012.jpg  
より。 確かにクリムトの雰囲気が感じられます。

こちらも参考
Burgtheater's "Romeo and Juliet" by Klimt
*



    私のブルク劇場のイメージはライトアップされた外観だけで、
    向かいにゴシック様式の市庁舎とその先にギリシャ風の
    議事堂の建物がみえます。
      * 下の写真はクリックすると関連するページに移動します。>

Vienna360


  
  このサイトはいいと思います。
  http://vienna.360cities.net/  
   






ブルク劇場は下の航空図では左上の部分のブロックとなります。 *クリックで詳細
wien_map2


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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には















ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe


WienMap3 右の写真はこのあたり です。

ツェントラル http://www.palaisevents.at/ の 3D がリアル です。
実際にいったような雰囲気さえ味わうことができます。

[ こちらは通常の Photo ]

ガイドブックをみながら、ここを目指したのですが、行き着くことが
できず、今、Google Mapをみての反省は地下鉄の

Schottentor 駅の選択が間違いでした。 

前日、環状道路を歩いたのでこのあたりの駅なら、と思ったのが
かえってよくありませんでした。

このSchottentor の360度写真は、LOST した時のことを鮮明に思い出させてくれます。 

ツェントラル は下の写真の上のところだったようですが、わかり難いですね。前を通っていたかも
しれません。
結局、実際に入ったのは カフェ・グリンシュタイドル  の下の写真でいうと右側のデーメル でした。


WienMap31



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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.03 Cafe
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02  クリムト 天井画
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には


ウィーンの環状道路と世紀末芸術.02


    「乱暴な言い方をさせてもらえれば、ウィーンのリンクでは
    公共建築までが
ハプスブルグ時代の古めかしい
    コスチュームで仮装舞踏会を舞い続けているのである」

                          by ウィーン 旅の雑学ノート

こんな状況ではクリムト などの新しい時代の芸術家が怒りだすのは至極当然な
流れです。 当時、展示会場をもっていたのはクンストラーハウス(kunstlerhaus)
という保守的な芸術家団体であったこともあり。
 以前は世紀末芸術は単に、世紀末独特の不安感によるものなのかと思っていました


クリムト_哲学 Klimt-medizin   クンストラーハウスを脱退したクリムトらがユダヤ人ら
  の支援を得て建築することができたのが、
  ウィーン分離派館


  ここにある、クリムトのベートーヴェン・フリーズは
  彼が依頼うけた 『哲学』 左上、『医学』左下、『法学』の3部
  からなるウィーン大学の天井画を 哲学、医学ともに
  人間の知性の勝利を高らかに歌いあげる
  「闇に対する光の勝利」
  という依頼元のテーマに反し、ようはエロっぽいだけと
  抗議され、大論争になり、結局契約を破棄した一件の
  筆による反論という背景があった、

  ということは知りませんでした。
  
 







  この3枚の絵はナチスにより没収され、その後、焼失し
  てしまっていますが、「医学」はリンク先で高解像度の
  写真をみることが
  http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Klimt-medizin.jpg
  できます。 迫力があります。惜しいですね。








Klimt_hygeia

  上の「医学」の部分図ですが、健康の維持や衛生を司る
  ギリシャ神話のヒュギエイア が苦しむ人々に背を向け、
  偉そうにしているのは、「医療万能」もよくありませんが、
  大学の医学部向けには厳しい構図です。

  法学 Jurisprudence はこちらです。
  http://www.abcgallery.com/K/klimt/klimt87.html

  医学のドラフトはこちらです
  














Adele Bloch-Bauer I Gustav Klimt
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のユダヤ人に寛大な姿勢もあり、
東欧からのユダヤ人の移住者も多い、
一方、ユダヤ教が偶像崇拝を禁じていることもあり、通常、絵画などには出資しないようなのですが カール・ヴィトゲンシュタイン  
は19世紀オーストリアにおける芸術家のパトロンとしても著名。

哲学者ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン の父
であり、 娘たちの肖像画をクリムトに依頼しています。
その後、ヒットラーの登場ですから、
この作品はその娘ではありませんが
「アデーレ・ブロッホバウワーの肖像」(クリムトの恋人のひとり?)
がこれまでの最高金額でオークションで落札 され、
現在のアッパー・イーストのNEUE GALERIE へと遷るわけです。
 
何年か前にベルベレーデ上宮でこの作品はみましたが、
クリムトの作品のなかではこの作品を一番、時間をかけてみた
と思います。 NYの方がもしかしたら似合っているかもしれませ
んが、あまりユダヤ人の印象を良くするお話ではないようにも
思います。


下のスライドの2,3枚目が Secession です。下図をクリックするとスライドショーが
開始されます。たまたま見つけたのですが、このスライドショーはすばらしと思います。

ウィーンスライド


[ 参考 ]
カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築
 分離派(セセッション)とクリムト
  http://www.ma-museum.com/z-uminosoto/wien/30-bunriha.htm
ユダヤ  フロイトの旧居は現代美術のギャラリーに
  http://www.ma-museum.com/z-uminosoto/wien/70-judea.htm

権吾の美術展ブログ(別館)
 http://ameblo.jp/kengonagai/entry-10048020394.html

ぴあの猫のらくがき in Wien

クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウワー像」をめぐる裁判の結果
http://kyoyoshi.exblog.jp/3038800/

エッセイの卵 / グスタフ・クリムト
http://www2.plala.or.jp/Donna/klimt.htm

くろねこ図書館 「ベートーヴェン・フリーズ」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/kuroneko/Klimt/Beethoven1.htm


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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01

  ヨーロッパ建築史の展示場ウィーンを初めて訪れて
  リンク(環状道路)を一周すると、

  「よくもまあ、これだけの歴史的建物が一つの
   環状道路に沿って保存されているものだ」

  と感心することだろう。
  しかし、これは大きな誤解である。
  実は、ほとんどすべての建物が19世紀後半から
  20世紀初頭の50年間に建てられたものなのだ。
  しかも、その装いは 

  国会議事堂        は民主主義発揚の地に敬意を表わしギリシャ古典様式、
 市庁舎  Neues Rathaus は都市の自治権が認められた中世の様式であるゴシック様式、
  大学  Universitat Wien は文芸復興の時代の様式であるルネッサンス
  ブルク劇場         は演劇が庶民も貴族も楽しめる芸術として歩み始めたバロック期の様式
  というふうに選ばれた。
                                              山口 俊明 著
 ウィーン 旅の雑学ノート―ハプスブルクの迷宮を極める より

これにくわえて環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には
 国立オペラ座  Wiener Staatsoper   ネオ・ロマンティック様式 Neo-romanticism  
 取引所、美術館、博物館、、コンサートホールなどの公共建造物や高級住宅も建てられています。
 
ウィーンにいった際、夕食後、ちょっと軽く散歩のつもりが結局、環状道路を一周することに
なってしまい、最後にオペラ座の裏のあたりのスターバックスでコーヒーを飲みました。
もう、遅い時間なので有名なカフェは当然、営業終了していましたので。

リンク沿いに歩いていて、つぎつきとライトアップされた豪華な建物がみえてくるのですが、
なんとなく変な感じがしたものです。 実際、1873年にウィーンで万国博覧会が開催された
のですが、あの感覚は万博の会場のなかを歩いている感じだったかもしれません。

flickr でこららの建物をクリッカブルマップのようにリンクの作成を開始しました。
* 下図を一度、クリックして flickr に飛ぶと、クリッカブル・マップ・ライクになります。

wine_map2


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 カールス教会 と歴史博物館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.11  シュテファン大聖堂
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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.09   分離派館の地下のベートーヴェン・フリーズの展示室1
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.08  分離派館
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.07 ケルトナー通り Karntner Strasse
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.06 ホーフブルク王宮
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.05 右に 自然史博物館、美術史美術館、左に 新宮殿
ウィーンの環状道路と世紀末芸術.04 ブルク劇場のクリムト
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ウィーンの環状道路と世紀末芸術.01  環状道路(リンクシュトラーセ)の沿線には


日本が大成功だったのでイラクも大丈夫だろうと

昨日、アメリカはイギリスやソ連のアフガニスタンでの失敗から多くを学んで
いないようだけれども、日本ではうまくやってきていたようだと、書きましたが
以下の「せせら笑った男」と題したコメントから

  せせら笑った男 (F.Nakajima)
  > 日本の占領政策が大成功だったのでイラクも大丈夫だろう、
  > とイラク侵攻を始めたという説が最近言われていますね。
  > 鬼畜米英とか言ってても日本は占領後テロなんか起きなかったでしょ。
  > イラクも同じでいいんじゃねー・・・と思ったらテロだらけ。

  イラク解放戦争直前、サンデープロジェクトで特集をやったときに
  この政策をせせら笑ったのが「あの」宮沢元首相でした。  
   宮沢氏曰く、「日本とドイツは少なくとも先進国だったんですよ。何を考えてるんですかね」

  何やっても貧乏くじを引かされた人でしたが、流石に外交交渉だけは
  専門だけあって的確でしたね。
債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら より

宮沢元首相の笑い顔を思い出させられます。
そういえば、このときの サンデープロジェクト みていたような気もします。



「君のためなら千回でも」でチンギス・ハーンが少し登場していたので本棚から
遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて (日経ビジネス人文庫)/杉山 正明

を取り出してみていたのですが

   西洋人のいう「地理上の発見」最近日本で流行する
   「大航海時代」において、西欧は、ささやかな力でも
   優位にたてる南北アメリカ大陸やオセアニアなど、
   ことさら「弱い」ところを突いて支配した。
   組織だった国家を形成しているアジア諸地域にたい
   しては、「海からの交易者」にとどまった。

産業革命以降は軍事力で優位に立っているとはいえ、人類の歴史と
しては先輩格にあたる国。 そう簡単にはいかないはずです。

それからこの本で、
ウィーンに行った後、ここが舞台の映画 「会議は踊る 」をレンタルで探してみたとき、
どうしてロシアがそんなに力を.... と思っていたのですが、以下の部分で納得です。

   ロシア・ソ連はモンゴルの鬼子か
   ロシア帝国は、モンゴルの覇権のなかから生まれた。ロシア帝国の拡大と巨大化は
   モンゴル支配の裏返しのように見えなくもない。
   ロシア帝国は、体質としてモンゴル支配の影響を長くひきづりながら、表面上、それを
   あからさまにいわれることを嫌った。







歴史に学ぶ教訓

ハッサンとわたしはたがいに顔を見交わして、大笑いした。その北部インド出身の少年は、
イギリス人が20世紀初頭に学び、ロシア人が1980年代後半に学ぶことになる教訓を、
じきに知ることになるからだ。
なにかというと、アフガニスタン人は独立を重んじる民族だ、ということである。
アフガにスタン人は慣習を大切にするが、規則を忌み嫌う。
                                     「君のためなら千回でも」


ソ連のアフガニスタン侵攻の前に、イギリスがやはり失敗しています。そして、今度はアメリカの番と
なるのですが
 北朝鮮の印刷している精巧な偽札「スーパーノート」は実はCIA説  にまず、驚きさらに
 文中の 「CIAは、これまで海外で数多く違法な工作  をしており」のリンク先の
 「CIAと岸信介 」 でため息という感じです。 確かに噂には聞いたことがあるような内容です。


そういえば、安倍元首相とブッシュ大統領との日米首脳会談は素人目に見ても、なにか不自然さを
感じました。 

ケネディがフルシチョフとの会談の際にナイフを突き立てられたことを聞いた覚えがありますが、

お爺さんには世話になったくらいのことはいわれたのではないでしょうか。

                               関連    『完敗だった』? 日米首脳会談

                                      「一方的に終わった日米首脳会談」


    ケネディとフルシチョフとの会談については

    「44年前のモスクワ放送は、キューバ危機が日本でも起こると警告しました。 」に当時の写真

    とともに、「ケネディはフルシチョフにいいようにされていた。」様子やキューバ危機

    の状況が鮮明に描かれていました。


アフガニスタンやイラクではうまくいっていない活動も、こと日本では成功をおさめています。

 「CIA 田中角栄 」 で検索したもののリンクの抜粋を残しておくことにします。


[ 関連 ]
カイバー峠 英軍、峠道の確保に失敗
http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/afghan03b.html
 
●仕組まれたロッキード事件  『暴かれた「闇の支配者」の正体』(ベンジャミン・フルフォード著)
なぜロッキードが仕組まれた事件であるのか。ここにもまた、岸の盟友である右翼の大物・児玉誉士夫が介在する。ロッキードからのカネは、日本におけるその代理人であった児玉を通して分配されていた。児玉は「コンサルタント料」として個人で21億円のカネを受け取っていたといわれている。つまり30億円のほとんどは児玉個人に渡っているのだ。ところが、捜査やマスコミの関心は田中に流れた5億円ばかりに集中し、児玉が受け取ったカネについてはまったく解明が進まなかった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=157878

ロッキードの闇
世間ではこの事件の裏側でCIAが動いたとか、アメリカの内政に巻き込まれただとか、笹川ラインが児玉ラインを追い落としにかかったとか、三木が角栄に止めをさしたとか様々な観測があります。現在でもはっきりしたことは分かりませんが、あれだけ普段政治家には腰の引けており、外事案件に慎重な検察庁が大物を逮捕にかかったという事実から見て誰かが検察をプッシュしたのは間違えないところです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-18-2.html


1905.資源外交の軋轢

資源外交の軋轢を見ておこう。   Fより

日本の資源外交を行ったのは、田中角栄であり、日本の位置づけを
脱米国にシフトして、東南アジア(ASEAN)に接近した。それ
と同時に、脱米国を行うための準備として、石油資源を自前で確保
することを目指して、中東イランに石油開発協力を申し出た。

しかし、この石油を獲得する行動と、脱米国をするためにはアジア
で覇権を2分する中国を友好関係を確立する必要がありと、中国と
の友好関係を、米国が予想していたスピード以上に上げたのです。

このため、CIAがロッキード事件を仕掛けて、敢え無く田中首相
は辞任になり、それでも権力を保持したために、刑事事件にして失
脚させたのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k7/170218.htm


* これは笑えます。

3) 社会主義への道
ケネディーとマクミランとフルシチョフがドライブをしていたら、後ろからギャング団の車が追ってきた。ケネディーは小切手に金の万年筆で100万ドルとなぐり書きして車の窓から投げる。ギャングたちは止まってそれを拾うが、額が少ないと怒ってまた追いかけてきた。そこでマクミランが銀の万年筆で小切手に 100万ポンドと書いて投げた。しかしギャングはまた追ってくる。そこでフルシチョフが鉛筆でボロ紙になにやら書いて投げた。すると、それを拾ったギャングたちは一目散にUターンして去っていった。ケネディーとマクミランはフルシチョフの気前のよさに感心して訊く。「いったい小切手にいくらと書いたんだ?」フルシチョフは答えた。「ビタ1文書いとらん。この道は社会主義に続くと書いただけだ!」

http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/invest-log/invest-4-07.htm

M-1 グランプリ、サンドウィッチマン

去年、はじめて M-1 グランプリの決勝をテレビで見たのですが、チュートリアルの決勝の芸は
凄いと思いました。 今年は特にみていなかったのですが、「行列のできる法律相談所」に
今年の優勝者である サンドウィッチマン が出演していて、おもしろかったです。

今日、ふと サンドウィッチマン のBlogをみつけたのですが、いまや売出しかけている芸能人は
事務所からも強制的に blog を強いられるくらいになっているのを今頃気がつきました。

それでM-1の決勝がみたくなったのですが、
案の定、 YouTube に投稿している人がいてみることができました。

今年で7回目になるM-1グランプリだそうですが、敗者復活戦からの優勝ははじめてだとか。
決勝のネタもよかったですが、その1つ前のがもっとよかったです。
キングコングも気合が入っていましたが、こういうのは勢いがある方がやはり勝者となります。

M-1 に優勝すると人生がかわるくらいの影響があるようで、バブルのころの漫才ブームとは
また違い、今回のものは長くつづいていくのではないかと、M-1の審査員の様子をみていて
感じます。