証拠の王様。……自白からDNA鑑定へ
糾問的捜査観、糾問主義のもとで証拠の王様とされていた自白に変わり、
最近の論調ではDNA鑑定の結果がその地位にあるようである。
弾劾的捜査観、弾劾主義により自白は相対的に比重を下げてきつつあるが、
依然としてその必要性は認めざるを得ないところである。
それに変わってDNA鑑定の結果が余りにも尊重される状況となっている。
それは、最近の公訴時効撤廃論者の主張の骨子となっていることで示されている。
ここに来て足利事件の再審請求がDNA鑑定との関係で大きな話題となっている。
足利事件は平成2年(1990年)4歳女児が殺害された事件で無期懲役が確定
したものである。平成3年(1991年)実施の足利事件のDNA鑑定は「MCT118型」
と呼ばれる方法であり、現在行なわれている「フラグメントアナライザー」と呼ばれる
鑑定装置の導入により行なわれる鑑定よりはるかに制度の低いものである。
新たな鑑定方法による再鑑定の結果、無期懲役で服役中の受刑者のDNAと犯行
現場から採取されたDNAが一致しなかったことが、再審開始につながるものとして、
話題になったのである。
これに対して捜査幹部の話が報道されている。以下の通りである。
「DNA型が本当に犯人のものか確認する必要がある。」
東京高検などは、当時事件にかかわった栃木県警捜査員らのDNA鑑定を実施し、
女児の着衣に付いた体液のDNA型と照合する方針を固めたと報道されている。
着衣に犯人以外の汗などが混じっていた可能性もあるためとしているのである。
そして、受刑者が1審の途中まで自白していた。確定判決は自白や状況証拠なども
考慮しているから、DNA鑑定だけが決めてではないとの見方をしている。
公訴時効の撤廃論の主たる論拠としているDNA鑑定が、それのみでは正確な
裁判を実施することが困難であることを、これらの捜査当局側からの見解が如実
に示しているのである。
法務大臣の勉強会は今年4月、時効を見直す場合として
① 時効廃止
② 時効期間延長
③ 容疑者不明でもDNA型情報を被告として起訴
④ 検察官の請求で停止(延長)
の4案を示したが、この足利事件の推移を見るに、既に③のDNA型情報を被告
として起訴することは、徒にDNA鑑定絶対という神話の形成をもたらすのみで、
百害あって一理なしと云う事になろう。
そして、DNA鑑定の存在を盾にしての時効の撤廃は、将来公判廷でアリバイ等
の被告側の主張を立証することの困難さを無視できるほどの論拠を持たないこと
を示しているのでは無いか。
犯罪を規定する刑法等は、犯罪の構成要件を簡潔に表現しており、同じひとの死
をもたらすものが殺人、傷害致死、過失致死、業務上過失致死、重過失致死、
強盗致死、強盗強姦致死、強姦致死など多岐にわたっている。
特に殺人と傷害致死は、ひとを死に至らしめる意図を持っていたかどうかが、
どちらの犯罪となるかの分岐てんである。
外形的な状況のみでは、どちらとも判断がつかないため、動機、意図の解明が
必要とされるのである。そのためにはやはり、自白が有効な証拠であることとなる。
そして、自白が証拠能力を持つためには、その任意性を確保することが必要になる。
捜査段階での取調べの録画等の可視化も、任意性を担保する手段なのである。
拷問、誘導、長期間にわたる取調べの後に得られた自白にはけっして任意性を
認める事はできないのである。
刑事裁判において、有罪か無罪かを判断する者と、犯罪を糾弾する者の役割を
分離し、裁判官は、「検察官対被告人」という対立構造のもと、そのどちらにも与すること
なく、双方の主張を判断し、真相を解明し、犯罪者を処罰することがその任務とされる。
この弾劾主義裁判の歴史は我が国ではまだ浅い、有罪無罪の判定者が犯罪を糾明
する捜査、検察の役割と分離されない糾問手続きの歴史には遠く及ばない。
新たな裁判員制度も前提に糾問主義を徹底しておかないと、法廷に予断と偏見を
持ち込むこととなり、健全な運用が出来ないこととなる。報道にも慎重さが要請される
所以である。
心を原ねて罪を定む
漢書 哀帝紀
厚生労働省の分割への提案。
麻生総理大臣はやはり、我が意を迎えてくれる所謂有識者による
諮問を口実に厚生労働省を「社会保障省」と「国民生活賞」に分割
したい意向を表明し、その検討を指示したとのことである。
行財政改革のための省庁再編で誕生した巨大省庁を巨大がゆえに
解体再編するならば、何も厚生労働省だけが対象ではあるまい。
分割すれば行政コストが増大する事は、素人目にも明らかである。
真の目的はどこにあるのか知らないが、巨大ゆえの組織の意思疎通
が円滑でないためと言うのならば、ひとりの大臣で充分管理できる
3つの省庁は当然合併されなければおかしいということになろう。
無論、大臣が極めて優秀で余人ならば不可能であるなどという見解
だとすれば、それこそ噴飯物にすぎないが。
厚生労働省をどうしても分割するのであれば、これまでに数多の不祥事を
産んだ部門を、不良部門として分離し、その更正を図るため、「更正しよう」
とひらがな交じりの役所にして、残る部門を「健全風厚労省」とでも名乗れば
良かろう。
何しろ現在の厚生労働省は、不祥事、不手際の巣窟なのであるから。
三利あれば、必ず三患あり。
韓詩外傳
二兎を追う者は一兎をも得ず
いわずと知れたエコポイント事業のことである。
補正予算の国民に対するアピールの目玉として、既に開始されたこの制度、
その目的は、補正予算案であるところから、一見すると緊急経済対策のよう
である。
しかし、その本当の目的はテレビのデジタル放送に対応するテレビの買い替え
を促そうとするものであり、さらに排出ガスの削減という目的をも持っている。
ひとつの政策で3つの目的を果たそうとしているわけである。
このエコポイント制も、麻生内閣の政策全般にみられる格差拡大の傾向が顕著
である。
エアコン、冷蔵庫、地デジ対応テレビを対象とし、大型高額商品ほど
高いポイントを付与しているのである。当然ながら、大型の商品は、その設置に
要する面積などからみても、裕福であるほど、有利である。そしてエコポイントを
考慮しても、購入者の支払う金額は、大型ほど高価であるから、富裕層への
補助が多い事となる。
同じく省エネといっても、元来多くのエネルギーを消費するのは、論理的に考え
れば大型商品では無いだろうか。大型商品への優遇は、果たして省エネに有効
であろうか。
緊急経済対策といいながら、需要の前倒しにすぎず、持続的な効果がないことも、
素人考えでもわかることである。
地デジ対策としては、やはり需要の前倒しではあるが、想定されているアナログ放送
停止の時期からすれば、前倒しという意味で政策としては、一部首肯しうる
ものである。
しかし、地デシ対策のみに限定しなかったために、エアコン、冷蔵庫へ資金を
投下し、地デジ対応テレビに振り向ける資金が不足する消費者が出てくること
は、予測に難くない。
省エネ対策であれば、付与するポイントの基準に疑義があり、効果にも疑問符
がつく。
地デシ対応策としては、散漫な政策である。
エコポイントをどう使用できるかの議論を置き去りにした見切り発車は、エコ
ポイント制を実質官僚が牛耳るための、あるいは、目先のことがらに目を奪
われる国民に対する選挙対策としてのものとも思われる。
いっそ、地デシ対応テレビに限定し、その購入にしか使用できない金券を
各家庭を単位として配賦するほうが、まだ効果は在ったであろう。
とにかく、複雑な制度にしたがるのは、官僚の得意技ではある。
官公庁用の地デシ対応テレビの購入も、この補正予算の中に含まれている。
不急の費用であり、電気業界救済でしかあるまい。しかし、その規模には
唖然とするしかない。
7万1千台、総額70億3千万円、平均単価9万9千円である。
いったい何処に何台設置されるものであろうか。まさか福利厚生用とは
言わないであろうが。
補正予算はいったい、何を目的としているのでいあろうか。
緊急性のないものを、これでもかと詰め込んだ、世紀の愚策としか思えない。
それにしても、官公庁が購入予定のエコカーも凄い。1万5千3百台で、
総額588億円、平均単価は実に384万円、うらやましい高級車である。
裁判員制度開始。事件報道は変わるか。
裁判員制度が法律制定から5年の周知期間゛経て、この5月21日から
運用が開始された。
新聞等のマスコミは、ぎりぎりになって連載、特集を組んだが、いまさらの
感無きにしも非ず。
さて報道期間は裁判員制度の開始にあわせて事件報道をどう変えるのか
興味が尽きないところであった。
裁判員制度は、裁判員に予断を抱かせないことが、前提条件とされている。
職業裁判官は当然ながら、たとえマスコミ報道がどのようになされていようと
事件に対する有罪無罪の心証は、公判廷における検察側、弁護側の立証
活動とそれに対する反証を通して形成するという作業に習熟している。
しかし、素人たる裁判員は報道等により、公判廷に臨む以前に心証を、
そしておそらくは、有罪の心証を得ていることが危惧される。
確かに日本の刑事裁判の有罪率は90%を遥かに超える高さではあるが、
それは、起訴以前での起訴猶予等により、確実に有罪となる事件を取り上げよう
とする検察官の努力に負うところ大ではあるが、世間一般が、起訴された時点で
有罪と思い込むという悪しき傾向をも生む一因でもある。
無罪の推定という大原則が、有罪の推定という風潮へと変質していると言って
も過言ではない状況がある。
刑事裁判に不慣れな裁判員のためには、出来うる限り予断を排除できる報道を
各報道担当者に要請するというのは、当然すぎる事柄である。
新聞等のマスコミも報道のあり方について、各社研究、協議をしてきたはずである。
さて、折しも今年1月14日に発生した中央大教授刺殺事件の被疑者が逮捕された。
この事件に対する報道は、裁判員制度を意識して、従来の事件報道とどう変わった
であろうか。
新聞は従来の殺人事件と同様の構成をとり、テレビも以前と何ら変化のない報道
形式をとっているとしか、言いようがない。
この報道は全国紙、地方紙をとわず全国の新聞購読者が当然読むこととなる。
テレビニュースも繰り返し殆どのテレビ局のニュース番組等で報道されている。
これまた当然に視聴者に予断を抱かせる効果を持つといえよう。
この事件が裁判員制度の適用事件となったとき、はたして裁判員として適格な
な裁判員候補者は存在しうるのであろうか。
裁判員となることのできない裁判員候補を輩出する報道は、マスコミが5年間
無為に過ごした結果と言わざるを得ない。
蒼蝿蒼蝿、吾れ爾の生爲るを磋く
古文真宝 欧陽永叔
両辞に私家すること或る無れ。
書経
報道盲従型民主主義
西松建設事件の報道により、民主党の小沢一郎代表は、代表辞任を
余儀なくされ、新しい代表が選出された。
翻って考察するに、小沢一郎氏は逮捕、検挙、送検、起訴、有罪判決
のいずれも受けてはいない。
辞任の原因は報道が、訳のわからない説明責任なるなんとも中身の
しれないものを要求し、説明責任が果たされていないと追及したことに
よるとしか言いようがない。
その際、マスコミが問題となった政治資金規正法を詳しく解説する報道
をしたかといえば、そうでは無い。ただ声高に説明責任と連呼したに過ぎ
ない。
何らかの行為を行なったものは、その行為について説明することは可能
であるが、行為を行わなかったものは、説明を求められても果たして
聞き手の満足を得られる説明が可能なものであろうか。
卑近な例をとれば、痴漢を疑われても、痴漢行為をしていないものが
その事実を説明、証明するには、痴漢が事実を告知するより、遥かに
困難なのである。
マスコミは正義を振りかざし、全ての国民を代表するかの如くであるが、
例えば、小泉政権下の衆議院選挙で自民党が大勝したのも、麻生政権が
首相の失言、誤読がもとで急激に支持率をさげたのも、全てその報道を
真実として理解し、疑うことのない国民の存在抜きには、かんがえられない
ものである。
これを報道盲従型民主主義と呼ぶ。
行政肥大化への道
麻生太郎首相は現在の厚生労働省を分割して、医療・年金・介護など
を所管する「社会保障省」と、雇用や少子化などを担当する「国民生活省」
を新設したい意向のようである。
その大義名分は社会保障分野の度重なる不祥事の原因を組織の肥大化
にあるとするものである。安心社会実現会議という訳のわからない会議に
いわゆる有識者をメンバーとし、その発言を盾に自己の意思をと通そうとする
政権の常套手段に拠っている。
組織の弛緩は、その組織が指揮命令系統や指導、監視体制を整備できて
いないことが主たる原因であって組織の大きさによるものでは無い。
いくら組織を分割しても不祥事を防ぐことなど、組織制度の確率なくして
実現できるはずもない。
現在の省庁にその自浄作用が働かないのは、役人、政府の怠慢に他ならない。
省庁の分割は、いわゆる庶務部門の増設を意味するだけである。
そしてその経費は言うまでもなく税金なのである。
行政改革を唱え、省庁の再編が行なわれ、民でできるものは民へとの方針
は遠い昔の子とでは無い。
増税に結びつく大きな政策転換は、その方針を掲げて、国民の審判を受ける
必要があるものである。
過去の政権の遺産たる衆議院の圧倒的議席を武器に、一気呵成にことを
終わらせようとするのは政権のとるべき道では無い。
有識者代表として各種会議のメンバーとなる学者、経営者はいったいどうやって
選ばれるものであろうか。
学者は全国に多数存在し、経営者も文字通り企業の数だけ存在する。
諮問機関のメンバーはその主催者の都合の良い答弁をしてくれる人に限られる
ことは多いに考えられることである。国民の代表として諮問委員が選択されている
わけではない。
近時すべての政策に公務員の自己保身、自己増殖の悪臭が芬芬とする。
政事なければ、則ち財用足らず。
孟子
文化財保護の迷走
さきに、今般の補正予算案の中の「国立メディア芸術総合センター」
の愚策について触れたが、今回はもう少し広く文化財一般について
書いてみたい。
文化財保護法は第2条で「文化財」の定義をしている。
そのなかで、有形文化財について、
「建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡、古文書その他の有形の文化的
所産で我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの並びに
考古資料その他の学術上価値の高い歴史資料」
と定義している。
現在作成されているアニメ、映像モ確かに保護に値する文化財に
該当しないわけでは無い。
だが、その前にもっと重要なものを見落してはいないだろうか。
いわゆる人間国宝といわれる人々が創作した、工芸品、絵画、書跡
などは、それ自体を文化財として保護すべきものでは無いのか。
できる限り国家が購入し、国内に留め置く工夫をしない限り、国外に
流失し、再び戻ってくる事が困難になりそうなものは、なにもすでに
創作より長い年月を経たものとは限らない。
10年後100年後に国宝指定することが出来ない、外国所有の日本人
の手による作品の存在を予想することは、それほど困難では無い。
もっとも、現在の我が国の文化財保護の実情に嫌気を覚え、あるいは
不安を感じて、作者自らが外国へ売却、寄贈するような事態も起こりうる。
そして、我が国の文化行政は、そうした外国への寄贈者に対して、
極めて冷酷に報いている。
自国の保護行政に対する諦観を払拭しなければ、文化財の国外流失
が延々と続くであろう。
私は、連休中に、山口伊太郎遺作、源氏物語錦織絵巻展を、大倉集古館
で見た。ご承知の方も居られるであろうが、37年の歳月をかけた織物
による源氏物語絵巻であり、千年の後にも残るようにと精魂を傾けられた
作品である。
この作品全4巻は完成と同時にフランス国立ギメ東洋美術館に寄贈された。
そして、その功績により、フランス国オフィシエ芸術文化勲章が送られた。
山口伊太郎氏には、昭和43年黄綬褒章、昭和48年に勲五等瑞宝章が
国から授与されたのみである。
京都市や京都府、文化財団等からの賞はもちろんあるけれど、フランスへの
寄贈が気に入らないのか、国の無視ぶりには驚くばかりである。
こうした傾向はひとり山口伊太郎氏にとどまらず、多くの日本人芸術家が
被る国家による嫌がらせであろう。
源氏物語錦織絵巻は今回の展示のあとフランスで展示されることとなり、
再び我が国、国内で見る事ができるのは、いったい何時のことであろうか。
日本人芸術家、職人が、安心して作品を国内に留められる文化財保護
の方向が確率しない限り、文化財保護行政に将来は無い。
国立漫画喫茶と揶揄されるような施設を作っている場合では無い。
基あれば壊るることなし。
春秋左氏伝
加害の歴史と被害の歴史
今年になって南京大虐殺をテーマにした外国映画が公開されている。
日本国内での上映は現在のところ未定である。
外国で公開された1本は、第59回ベルリン映画祭で初公開された
ドイツ・フランス・中国合作映画「ジョン・ラーベ(John Rabe)」
もう1本は4月17日公開の「南京!南京!」である。
日本国内では南京虐殺はなかったとの主張で「南京の真実」という映画
が撮影されたが、国内向けは別として、外国で受け入れられるかは、
甚だ微妙である。
現実に南京で虐殺があったのか、なかったのか。当事者が真実を話さないかぎり
どこまでいっても証明は難しい。
だが、ふりかえってわが国で太平洋戦争が語られる時、それは、原爆、空襲など
被害ばかりである。
日本固有の領土では沖縄のみで地上戦が行なわれたが、疎の他本州、北海道
四国、九州のいずれにおいても、アメリカ軍の軍靴に踏みにじられた地域は無い。
沖縄における日本軍の民間人に対する自殺の強要についてさえ、国内でも論争
の種となってもいる。
中国をはじめとするアジアの各地に日本軍が侵攻したのは、紛れも無い歴史上の
事実である。そこで、沖縄の同胞に対して取ったといわれる虐待がなかったと言う
のは俄には首肯し難いものがある。
なにより、外国は日本が虐殺を行なったと解釈していることは、映画が作成された
事実からも明白である。
たとえ本当に虐殺が無かったとしても、三人市虎をなすという言葉がある。
虐殺を事実とする世界の理解が広範に広がることは当然予想される事態である。
最近のわが国の刑罰の重罰化傾向は、主に被害者、その遺族の処罰感情が
長く続くことを前提としている。
戦争という異常な状況下で、個人によるものではなくとも、被害を受けた側が
処罰感情を持ち続けることは、容易に理解出来ることである。
被害の歴史に拘泥し、加害には目をつぶるのでは、国際的に受け入れがたい
ものとして、諸外国、とくにアジア諸国から信頼される国家になることは不可能
であろう。歴史の精算が済んだと思っているのはひとりわが国だけなのである。
孚ありて之れに比すれば、咎なし
易経
早期警戒衛星のもたらすもの
北朝鮮のミサイル発射時の混乱を理由として、早期警戒衛星の
打ち上げを目論む動きがあるが、どうも大事な視点が欠落している
ように思われる。
早期にロケット、衛星の発射、打ち上げを把握できたとして、それを
どう生かすかの議論が中心であり、憲法上の位置づけが中途半端
なのである。
ロケットだとしてミサイル防衛システムを発動し、迎撃用ミサイルを
いつ発射するのか、あるいはどう避難するのかだけが問題なのでは無い。
ロケットを認識し、低い弾道で迎撃ミサイルを発射した場合、命中すれば
双方のミサイルの破片が地上に落下するであろうが、それは一体どこに
落下するのか。命中しなかった場合、迎撃ミサイルは一体どこに着弾し
破裂するのか。
島国日本において、太平洋側から正体不明のロケット、飛翔体が飛来
するおそれは小さい。
想定されているのは、専ら日本海側、より詳しくいえば北朝鮮からの
ロケットであろう。
だが、海上から迎撃ミサイルを発射すれば、発射する船舶の位置によっては
着弾点は、中国、韓国、ロシアとなるおそれがある、事前の通告をしたと
しても、着弾を甘受する必要があるとはいえないため、日本からの戦闘行為
として、反撃を受けることともなりかねない。
早期に発射の事実を把握しても、避難するための時間的余裕は、アメリカ
からの情報にたよった場合と、どれほどのゆとりが得られるものであろうか。
戦争の放棄を謳った憲法9条の改定なしに、軍事行動を行うことを可能にする、
むしろ積極的に武力を行使することを前提とする早期警戒衛星の打ち上げは
いかなる大義名分をもってしても、許されるものとは思えない。
兵は国の大事、死生の地、存亡の道なり。察せざる可からず。
孫子 始計篇
「殺人事件被害者遺族の会(宙の会)」に異議あり
5月3日宙の会の全国大会が開かれ、
「時効の廃止」
「時効の停止」
「時効が成立した遺族に対する国家賠償責任」
が嘆願書の内容とされ、法務省や各政党に提出されるそうである。
時効制度については以前このブログで何度か取り上げたので、
今回は国家賠償について検討して見る。
すでにわが国には、犯罪被害給付制度が存在する。
これは、生命身体を害する罪に当たる故意による犯罪行為によって
死亡、重傷又は障害が発生した場合に給付金を支給する制度である。
昭和55年5月1日に「犯罪被害者等給付金支給法」として制定され、
平成13年7月1日、平成18年4月1日にそれぞれ改正法が施行されている。
被害者、遺族にとって十分な金額かどうかは別として、法律による給付の
道が既にひかれているのである。
このうえに、時効が成立した遺族に、しかも国家賠償として支給するには
明確な根拠が必要となる。
賠償であるためには、先行する違法行為が存在することが必要である。
国家賠償というからには、国家による違法行為が前提と言わざるを得ない。
警察、検察が必死の捜査体制をひいたにも拘わらず、犯人の検挙が出来
なかったことを、国家の違法行為とするにはいささか無理がある。
時効の廃止、時効の停止の2つの主張と、国家賠償の主張には矛盾が
存在する。時効が廃止されれば、犯人検挙の可能性をいつまでも追い続ける
こととなり、国家賠償請求の機会は、永遠に訪れないこととなる。
国家賠償の機会だけに注目すれば、むしろ時効完成の期間を短縮するほうが
よいという結果になろう。
犯罪被害者給付制度と両方が並立する根拠をどこに求めるのかの説明も
必要になる。
新聞も徒に宙の会の主張のみを掲載し、同情的な解説を書くだけでは、本質
を見誤ることになる。
一曲に蔽われて、大理に闇し。
荀子 解蔽篇