政治論か法律論か。
毎日新聞3月26日の夕刊コラムで金子秀敏氏が、小沢一郎民主党代表
の公設秘書の起訴に関して、朝日新聞のジェラルド・カーティス氏と堀田力氏
との間の議論に触れている。
朝日新聞紙上の2人の議論は、一方が政治的観点、他方が法律的観点に立脚
しており、噛み合っていないと指摘されている。ようやく冷静な記事が出たと思うが、
しかし、金子氏は単に紹介するという傍観者の立場でしかないことには、
不満もある。
私は、法律を学んだ者としては、法律論に組みしたいとは思うが、どうにも釈然と
しないものがある。
戦後、食管法のもとヤミ米が流通していた時代、法を守って餓死した裁判官が
いたことを想起するのである。法律を万能として、墨守する態度は、一面立派
ではあるが、現状を分析して、ヤミ米に頼ってでも生き延びる事を志向する
ほうが、現実的であったと言えよう。
政権交替の可能性が取り沙汰されている状況下で総選挙前に、違法か合法か
境界線上にあるとしか思えない、最高刑が5年にすぎない事件の立件に拘るのは
まさに法律を墨守して国の招来を危うくする愚行としか思えないのである。
まして、検察が意図的かどうかは知らず、本来密室でおこなわれている筈の捜査
状況が逐一報道される状況には異様なものを感じるのである。
持てる高齢者と持たざる老人
高齢生活保護者が火事により死亡した老人施設「静養ホームたまゆら」
が明らかにした、生活保護を受けざるをえない困窮老人に対する施策の
貧しさが浮き彫りとなった。
一方には、入居時に数千万円を払い、月々20万円を超えるお金を払う
裕福な高齢者が存在している。その資金は当然自弁するものであり、
何ら文句の付けようがないように、一見すれば、思われる。
しかし、それは現役労働の時代を通じて手にした資金、あるいはその資金の
運用によっているとばかりはいえない状況であることも考慮すべきであろう。
現役時の収入の額により、受け取る厚生年金の額は、現在、生活に困窮を
余儀なくされている非正規雇用従事者、若年労働者、パート労働者の収入を
凌駕する金額である例も多い。
これに対し生活保護を受給する老人は、せいぜいが年間70万円に満たない
国民年金受給者か無年金者である事が多い。
自ら好んで無年金となったのならば知らず、現役時に年金を掛ける金銭的な
余裕もなかった老人が多く存在する。
厚生労働省の関与する分野に余りにも社会的矛盾が集中している。
医療、年金の混迷、迷走ぶりは目を覆うばかりである。
富める高齢者に、高額の年金を払わずに、貧しき老人に救助の手を差し伸べる
政策は夢なのであろうか。
違法か合法か、誰が決める。
さすがに新聞紙上では、見られなくなったが、テレビでは西松建設の
献金問題につき、【西松建設違法献金事件】という名称を何の思慮も
なく使い続けている放送局もある。
いったいキャスターやアナウンサーは政治資金規正法の条文を
読んだことがあるのであろうか。少なくとも、現在携わっている仕事に
関する資料を事前に調べておくのは、どの職業に携わるのかに拘わらず
必要な事では無いのか。
西松建設のどの行為が政治資金規正法のどの条文にどのように関係するのか
当然みずからの見解として用意すべきであろう。
他の誰かが言った事を鵜呑みにして、鸚鵡返しに述べているのでは、無責任
のそしりを免れまい。
違法か合法かは最終的に裁判所の判決の確定を待つ必要があるのは、
論をまたない。検察といえども、起訴をして有罪の求刑をするのは当然の業務
ではあるが、起訴以前には違法の疑いがあるとしか言ってはならないのである。
また、三権分立の原則により、立法府、行政府は司法を尊重する必要がある。
政府とは、行政府という事である。総理大臣が簡単に違法と発言するのでは、
法治国家の行政の責任者として、余りの無知、傲岸としかいえない。
それにしても、以前の政治に関する疑惑、疑獄事件では、例えばロッキード事件
とか佐川急便事件とかいった名称が付けられ、その内容については巧妙に触れない
表現となっていたことを思うと、マスコミの劣化は、憂慮すべき段階に達している。
自らはニュースソース秘匿を主張し、検察等からの、本来守秘義務違反を問われ
かねない情報を、政治的リークかどうか疑うこともなく、伝言、伝聞を含め、われこそ
正義なりという傲慢な態度で臨む態度は、5月にも開始される裁判員制度に向けての
検討内容に寒気を覚える次第である。
商品と製品、投資と投機
日本語の曖昧さによって、商品と製品、投資と投機は同義語のように
使用されている。
商品は、経済活動において生産・流通・交換される物財の事とされる。
具体的な形状を持つ物と、荷物の配達や、法律相談といったサービス、
証券などの権利、情報など広い範囲にわたる概念である。
これに対して製品は、主として工業において原材料を加工して作成された
完成品のことを言い、具体的な形状を有することがその本来の特徴である。
しかし、サービスをも製品と解釈する誤った見解も散見されるようになっている。
サービースは商品ではあっても、製品では無い。
金融商品ではありえても、金融製品ではありえないのである。
同様に投資と投機もその定義づけを明確にしないまま論議されている現状を
放置したままでは、日本をギャンブル国家へと推し進める結果を招来することとなる。
貯蓄から投資へという、いわば標語で使用されている投資は、本来の意味での
投資でなければならないのである。
投資とは、主に経済において、将来的に資本を増加させるために現在の資本を投下
する活動と定義される。招来への資本投下という点では教育投資と同様の側面を持つ。
金融における投資は、投下したお金が経済活動に使用されることにより獲得される
利益を資金提供の見返りとして受け取ることである。端的に言えば、貸し付けた資金
を利息とともに返済してもらう、株式に投下した資金には、配当金を受け取るといった
活動が、投資活動なのである。
これに対して投機とは、短期的な価格変動によって利益を挙げることを目的とする
行為である。株式、先物商品、不動産、通貨、債券、市場作成が容易で、相場が
変動するものであれば、投機の対象とされる範囲は大きい。
株式投資は、その対象とされる企業の内容を知らなければ本来成り立たないが、
株式投機は、価格変動の可能性さえあれば、取引の対象足りうるのである。
マネーゲームという言葉は、この投機のギャンブル性を、一面で現し、多面で
覆い隠す役割をも果たしている。
健全な投資は必要だが、投機的な色彩を払拭することは容易では無い。
投資の皮をかぶった投機、安全を擬製する金融商品、よほど気を付けないと
危機は何度もオ訪れる。
蟻とキリギリス
別に童話の話しを書こうという訳では無い。
経済対策といて高速道路の一部値下げに絡む話しである。
東京湾アクアラインが、創業時のほんの一時を除けば、大いに利用されている
そうである。無論、値下げの効果である。
しかし、従来利用したくても高額な料金のため、迂回を余儀なくされていた人々の
利用ならば、特に触れる必要のない話題である。
ここに取り上げるのは、千円なら話しの種に一度行ってみようという単純な動機
によって出かけた人々のことを書こうとしているのである。
確かにこうして通行料が増える事は、海ホタルの売店、ガソリンスタンド等、関連
する消費も増加し、経済対策としては、それなりのこ効果があるといえる。
しかし、この値下げは恒久的な値下げではなく、麻生政権では3年後の消費税
の増税が計画されているのである。
ほんの一時の楽しみのために、後で莫大な金額の請求書がくると覚悟しているの
ならば良し、さもなくば童話のキリギリスのような悲惨な状態も甘受する必要がある。
刹那的な快楽をよく考えずに享受する風潮は、ほんの小遣い稼ぎ、アルバイト感覚
で振り込め詐欺の片棒をかつぐのと同様、今後増加の一途をたどりそうである。
存在の意識規定性
AIGの巨額賞与に関して考えた。
能力が高い人材を確保するために、高い報酬、賞与を支払う契約を
締結していたから、やむを得ずしはらったとのことである。
しかし、本当にそんなに優秀な人材が、そんなに多数存在しているのだろうか。
地位が人を育てるという言葉がある。
責任ある地位に就任することにより、好業績を残す事が可能になるのであって
能力はそれほど問題とはならない。普通程度の能力でも、意欲さえあれば
結果を残すことは可能と考えたほうが良いのでは無いか。
古来、千里の馬は常にいるがその才能を見抜く名伯楽は常には存在しないとされる。
人を登用し、自由に活動させ、失敗を咎めない経営者がいれば、従業員全員が
有能な社員たりうるのではないか。
哲学的な表現をすれば、会社の命運を担っているという意識が、その実力ある社員
としての存在をもたらすものだといえよう。
AIGにだけ有能な人材が集まるなどということは、けっしてない。
どこにでも、有能な人材となりうる人間は数多存在している。
ただ、それを遇することのできる上司がいないだけの事である。
一握りの存在を尊重するあまり、他の才能の萌芽をつぶすことは、けっして賢明な
道では無い。
人型ロボットのもたらす未来、その功罪
人間型ロホットの顔が喜怒哀楽の表情を表現できる段階に来たようである。
現在ではその制作費が本体2千万円、外部の制作費を含めると、まだ
その販路は限られていよう。
しかし大量生産等により、いわゆる大衆車なみの値段での販売が実現する
ことも想定しておかなければならない段階とも言えよう。
重い荷物を運ぶ、調理をする、掃除をする等の機能が現時点でどの程度
可能なのかしらないが、早晩そうした機能を獲得するであろうと思われる。
体力を要する介護等に利用されることが予想されるが、ロボットにはロボットの
限界があることをしっかりと認識しておく必要があろう。
ロボットのみに介護され、一切人間と触れ合う事のない老後とは、いったい
どんな老後なのであろう。完璧な人間型ロボットであっても、血の通った人間
に変えられるものかどうか。
無論、体温を持たせ、擬似血液を流すことくらいは技術的には可能であろうが
はたしてそれで十分なのであろうか。
個人の家庭で使用される場合、例えば食料品をはじめとする買い物を全て
ネットを通じて行ない、調理、清掃等の家事を全てロボットに任せ、パソコンを
使っての株式のデイトレードで稼ぐ。そんな様子を想像すると何だか引きこもり
人間ばかりが存在し、人間関係という言葉が死語になりそうな予感がする。
人の補助的役割にとどめない限り、どこまで社会への影響が及ぶのか
空恐ろしい感じがする。
最初はすばらしい技術、製品であっても長期的な視点にたてば、けっして全てが
ばら色でなかったことは、アスベストの例がしめしてはいないだろうか。
夢の材料だったはずが、15年から40年もの後に人に危害を加えているのである。
すべからく新技術は、ある程度の年月の経過を待たなければ、正確な評価を
下せない事を肝に銘じておく必要がある。
刑の必要的減軽と任意的減軽
ともに刑法に規定する用語である。
必要的減軽の例は刑法39条2項の心神耗弱者(しんしんこうじゃくしゃ)の行為。
刑法43条の規定するいわゆる中止未遂の場合などである。
必要的減軽が認められる理由は、心神耗弱の場合は、心神喪失の場合は完全に
責任能力がないが、自己の行為の是非善悪を判断する能力の不足のゆえに、
犯罪を実行下ものとして、刑を軽減するものである。そして中止未遂の場合は
犯行に着手したがその犯罪の完遂を自らの意思により避けるべく行動し、犯罪の完成
にいたらなかった場合、悪しき結果の発生がなかったことにより、刑を減軽するものであり、
刑法の講学上は、【後戻りの黄金の橋】とよばれ、はんざいに着手してもじこの意思で
ひきかえすことを期待するものである。もちろん犯罪が完成してしまえば中止未遂は成立
しないし、中止行為が驚愕や他者に夜場合にも成立しない。
任意的減軽の例は3月18日の名古屋地裁が判決を下した闇サイト殺人事件で適用された
刑法42条1項に定める自首の成立である。
自首が成立するためには、犯罪が捜査当局に知られる以前、犯人自らが犯罪の事実を
告知することにより成立する。既に犯罪が知られ、あるいは容疑者が手配されたあとでは
単なる出頭として自首の要件を満たさない。
この自首に任意的減軽を認める事は、同一犯による更なる犯罪の発生を防ぐ、あるいは
早期解決を図るのに有益である事による。
今回の闇サイト殺人事件の判決は共犯者3人のうち1人のみ、自首を認めて期懲役とし、
他の2人を死刑としたのは、実によく考えられた判決だと思う。
匿名性の高いネットを利用した犯罪に警鐘を鳴らして、その抑止効果を期待するとともに
犯罪の早期発見、早期解決を図ろうとする判決だと思うからである。
3人全員が死刑では、今後の同種の犯罪の場合、犯人たちの結束を固くし、容易に
解決できないおそれがある。かといって全員無期懲役では、悲惨な犯罪に対する
一般予防効果が薄いとかんがえるからである。
死刑制度についての議論はまた別のものであろう。
有識者会合ーー船頭多くして船山に登る。
「経済危機克服のための有識者会合」なるものが発足し、16日より活動を
開始下らしい。
景気対策の愚対案もいくつか出されたのだそうである。
しかし所謂有識者の中には、業界代表のような人物も散見される。
これでは自己の属する業界へと政策を誘導する意見が、さも景気全般に
有効であるがごとき錯覚を植えつけることにはなるまいか。
我田引水は口舌の徒の得意とする分野である。
経済専門家の無能ぶりは、あのバブル崩壊時に、株価の回復を半年から
1年としたが、あれから十年以上がたっても、その水準に回復する兆しすら
なく、新たに別の危機を迎えている現状を考えれば、なんら改善されて
いない。
失敗に平然としていられる神経と、失敗でも贅沢を続けられる財布を
持っている人間など、信頼するに足りない。
総合対策を叫ぶ新聞もあるが、のんびりと時間をかけている余裕は無い。
今一番大事なのは、対策の本気度を示す象徴的な思索を、直ちに実行
する事である。そしてその思索は、例えば高速道路を千円にするという政策に
ETCの普及といった別の目的を密かに潜り込ませるといった、姑息な手段
ではなく、単純な施作こそが望ましい。
会合の開催を優先し、政策の実行がおくれるのでは、本末転倒である。
それにしても、有識者に頼らなければ政策の立案もできない政権がいつまで
その地位に留まるのであろうか。
責難は成事にあらず。
特に報道に多く見られることではあるが、後になって政策の欠点を
あげつらう傾向がある。
製造業への派遣を許可した政策につき、いわゆる識者の批判を
掲載し、その過ちを指摘するが如き例である。
過ちだと思うなら、なぜもっと早く、法案が提出され、議会で審議されて
いるときに、声を大にして叫ばなかったのか。
その時々で、自らのみを正義として恥じる事のない、場当たりの態度
で果たして世論をリードする公器としての自覚はいずこへ行ってしまったのか。
たしかに昨今の製造業での派遣社員切りは、悲惨ではあるが、製造業
への廉価な派遣労働がもたらしたのは、けっして悪い事ばかりでは
なかった筈である。むしろ大きく欠けていたセーフティネットこそが失敗
の根源である。
派遣やパートといった労働形態も、望んでそうして働く労働者が存在した
ことも事実であり、やむなくそうした形態で働く人がいることも事実なのである。
同一労働同一賃金を追求しようとすらしなかった労働組合運動に何の罪も
なかったとは言えまい。
過去の自らの行為を不問にし目下の正義をきどるのは、そろそろおしまいに
しよう。
未来にむかって建設的な提案こそが求められているのである。
他人の行為を責めてみても、何の好結果も得られない。
では、かわりにこうすべきだという提案がなければ、ただの野次馬にすぎない
のである。
民主政治は一歩間違えれば衆愚政治に脱する危険をつねに孕んでいる。
自分で考え自分で判断するためには、多くの正確な情報が必要となる。
そして自己の行動の責任は全て自己のものである。