被害者参加制度と証人尋問
これも裁判員制度初適用事例を見て感じた問題点であり、もう一度
あらためて検討する必要があると思われるテーマである。
被害者が近隣と度々問題を起こしトラブルメーカーと呼ばれていた
との被告側の主張に対して、被害者の遺族、長男は捜査段階での
トラブルメーカーであったとの調書を否認し、トラブルはなかったと
主張した点である。
近隣の住民が、犯罪の目撃証人として、法定で証言する際、被害者
がはたしてトラブルメーカーだったか否か、証言を求められた場合に
被害者遺族を、傍聴席ではなく、まさに目の前にして、真実の証言か゜
可能かどうかである。
古来、死者に鞭打つような発言を慎むことが美学とされてきた。
しかし、それが犯罪の原因、一因となっているかも知れない場合にまで
死者を美化することは避けるべき事柄に属する。
例えば証言者自身が被害者とトラブルをかかえていたとしても、自らが
加害者で無い場合にトラブルの存在自体を告白することは、少なくとも
今後も近隣に住み、日常生活のうえで何かとかかわりがある被害者遺族
の意向に逆らうことは、実は非常に困難と言えるのでは無いだろうか。
被害者の遺族が裁判に参加する事によって、真実を見誤る可能性が
あるのでは無いだろうか。
職業裁判官は、教育、訓練によって、証人に対峙できるとしても、素人裁判員が
見分けることが困難な事柄というのも存在するのではないか。
被害者遺族が参加することにより判断が歪められるのならば、より適切な
方法が求められる事になろう。
いずれにしろ、あらためて検討すべき問題点であると思われる。
犯罪報道と裁判報道
裁判員制度を初適用した裁判が終結して判決が下された。
この裁判についての新聞、テレビ等のマスコミの報道姿勢
について思うところをのべることにする。
裁判員制度の開始に向けて事件報道、犯罪報道について
マスコミは従来の報道の問題点について、それなりに検討を
加えて、改善したと主張して来た。
その主な改善点は、ニユースソースを「捜査機関によれば」
とか「関係者によれば」とか標記する程度のものてしか無かった。
無罪の推定をより強調する方向への改善とは到底呼べるもの
ではなかったと断定していい、自己満足であった。
括弧内の人の一方的な主張である旨の指摘は終ぞ見かけることは
出来ないままである。
せめて、発言者を特定する表現でもあれば、少しはましであろうが、
やはり従来通り、いわば匿名性を少し薄めたていどでお茶を濁して
いるに過ぎない。
そして、今回の裁判員制度初適用裁判の記事、報道は、なんとも
お粗末、独りよがりのものであったことか。
裁判員は身柄を拘束されているわけでは無いため、当然ながら
自宅に帰って自らが参加している裁判の報道に接する事になる。
そこで、裁判員への記載、論述があれば、何らかの反応が起こるのは
当然である。
裁判員からの質問が無かった、もう少し質問してほしかった、などと
報道されれば、翌日の公判に臨む態度への影響があるのは、当然
である。
しかしこれは、前日までの態度が変更されることであり、裁判を通じての
一貫性を蔑ろにするものといえる。
具体的に言えば、裁判員が質問したのは、被害者遺族に対する1件
を除けば、専ら被告人に対する質問である。
証人に対しては、何らの質問もなされておらず、もし報道が無ければ
被告人に対しても質問がなされなかったと考えても不自然ではあるまい。
裁判が終結したのちに、裁判員の質問といったことを総括して議論するのと、
現在進行中の裁判につき論評するのとは、まるで別の物である。
今後は年間2千件を越す事件が裁判員裁判の対象となり、今回のような
報道が続くとは到底考えられないが、やはり謙虚に検討、反省する必要が
テレビ、新聞には求められよう。
クールビズはどうなっている
金融期間や官公庁はこの夏もクールビズを実施している、
と思うのだが、テレビで見る麻生太郎総理大臣は、仕立ての良い
スーツにきっちりとネクタイをしている。
省エネ、二酸化炭素の排出量削減は政府の大いなる目標の筈であり、
自民党政権が党、政府をあげて取り組んでいるのではなかったか。
たしかに外国からの賓客の接待などで礼を欠くことのないよう、正装
の必要な場合があることは否定しないが、日常においてはクールビズを
率先する立場にあるのが行政府全体の長たる総理大臣の役割では
無いのか。
自分が実践しないことを、部下たる閣僚、公務員にさせることは、なんだか
奇異な感じがする。
結局は全てが口先だけで、国の事、国民の事、部下の事、何一つ真摯に
取り組んでいないことの証左では無いか。
そんなに自分のおしゃれに拘りたいのであれば、総理大臣、国会議員など
さっさとやめて、好きな格好をして、好きなところで好きなものを飲み食い
すれば良いのである。
経済界に無理なCO2削減を求めるならば、自らも可能な限り努力する
必要がある。
さぞかし、首相官邸、公邸は冷房がよく効いているのであろう。
衆議院ようやく解散
私はこのブログで1月12日に衆議院の解散はないと書いて以来、
任期満了選挙を予想していた。満了までほんの僅かを残しての
形式的な解散と理解している。
都議選の敗北を受けて、議員総会をめぐる自民党内のごたごたは、
あらためて考えさせられるものがある。
党内恐怖制とでも呼ぶべき状態が自民党内にあると思われる。
衆議院選での党公認を盾に翻意を強要したとしか、考えられない
のである。
脅すほうも脅すほう、脅されるほうも脅されるほうではあるが。
いったい今度の衆議院選挙で、自民党の公認がどれほどの力を
発揮出来るのであろうか。選挙費用の面では確かに公認と非公認
では大いに差があろうが、当選の可能性では如何なものであろうか。
自民党の凋落は先の衆議院選での造反組の復党を許し安倍政権
から始まっている。
選挙での公約がいとも簡単に破られ、政権の目指すものが、不明確
になるのであれば、いったい何をよすがに、投票すれば良いのか。
目下のところ民主党のマニフェストをみてからマニフェストをつくり、
いわば後出しジャンケンで有利な状況を作ろうとしているとしか思えない。
マスコミはここで自民党の総裁選をすることを無責任と非難しているが、
衆議院選のあとで総裁が変わり、政治路線が大きくかわることの方が
より無責任では無いか。
小泉政権をついだあとの政権が小泉路線を踏襲しなかった事は、
だれが見ても明らかであり、そのために早期の解散が求められたのでは
なかったのか。経済対策を名目に延命をはかったが、時期をのがした
解散は、国民の怨嗟の声を無視することであり、大きなしっぺ返しが
待っていよう。
形式的でも解散権を行使できて麻生総理も面目をつぶさずにすんだ
のであろうか。
殺人罪の時効廃止……法務省内勉強会
殺人罪の時効問題について、法務大臣が17日に、法務省内勉強会
の検討結果を発表した。
前提となっている法務省内勉強会のメンバーは一体どうやって選出され、
何人で構成されているのかは、公表されていない。
また、法務省の意見公募に寄せられた意見は341件とされ、その約7割
が廃止に賛成であったとされるが、公募したにしては余りにも件数が少なすぎは
しないだろうか。
ブラックボックスの中で構成員不明の団体の出した結論を、さも最終結論の
ように報道することにも、違和感を覚える。
殺人の時効年数の変遷として、治罪法から4年前の刑事訴訟法改正までの、
法律による変遷と同列に、単なる法務省内勉強会、おそらくは法務官僚のみ
による検討を取り上げるべきであろうか。
時効廃止が法律改正によってのみ可能であることを、蔑ろにすべきでは無い。
報道の常として、条文を表示しないことが定着していると見られるのも問題である。
遡及適用について憲法解釈が問題とされると指摘しながら、憲法39条の条文
が示されている事がない。
憲法39条は [刑罰法規の不遡及、二重処罰の禁止] として次のように
規定しているのである。
憲法第39条 [ 刑罰法規の不遡及、二重処罰の禁止 ]
何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、
刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任
を問はれない。
この条文の解釈は、憲法学、刑法学の智恵を結集して、検討すべきものであって
官僚が密室で解釈すべきものとは思われない。
人の死を招来させる犯罪には、何通りもの類型が存在する。殺人、傷害致死、
強盗致死、強姦致死、 過失致死、放火致死、遺棄致死……罪名としてだけでも
数多く存在する。
人の死という同じ結果について、勿論刑罰には軽重がつけられている。
そしてその軽重により公訴時効の期間も定められている。時効を全て、人の死を
もたらしたものを対象としなければ、刑罰法規としてのバランスを欠く事に
ならないか。
公訴時効の更なる延長、廃止は、果たして実効性があるものであろうか。
以前からこのブログに何度か書いたが、犯罪は事件発生後5年を経過すると、
極端に検挙率が低下する。ドラマでは時効完成寸前に検挙するものがあるが、
実際には、特殊な数例を除けば、時効完成前後に検挙、あるいは犯人が明らか
になることは無い。
捜査経済も無視すべきものではないことも、再三指摘した。警察官も公務員
である限り税金によって活動する。公務員の定員は無限に増やすことは
不可能である。
時効が延長、廃止された場合、増員がなければ、当然個別の事件の捜査
にあたる人数を減らすしか方法は無い。事件発生から多くの時間が経過した
事件の捜査を中断しないかぎり、新たに発生した事件の検挙率は現在より低下
すると考えるのが自然であろう。
時効廃止は、過去の事件の検挙につながらず、今現に起きたばかりの
犯罪の検挙をも困難にするものであれば、かえって、百害あって一利なし
ということになりはしないだろうか。
二兎を追うもの一兎をも得ず。死者は決して甦る事は無い。
新た犯罪による死者を生み出さないための施策こそが重要である。
遺族の処罰感情の峻厳さを尊重するあまり、冷静さを欠くと招来に禍根を
残すおそれなしとはしないのである。
家族中心の発想はいまや国全体を多い、他者の存在を平然と無視
する社会へと変貌を遂げている感がある。冷静な議論を期待したいものである。
臓器移植法改正さる
今日7月13日、臓器移植法が改正され、法律上は小児の脳死移植
が可能となった。
脳死移植が増えると予測する報道もあるが、果たして相であろうか。
確かに改正前の法によると本人の書面による提供の意思表示と家族
の承諾を必要とし、15歳以上に限定されていた。
今回の改正により、本人の拒否の意思表示が無ければ、年齢を問わず、
年齢制限なしに提供できる事となった。
しかし、脳死移植は過去12年間で81例のみの実施となっている。
改正前であっても、提供の意思表示をしていたひとの数は、81例にとど
まっていたとは思えない。むしろ家族の承諾が得られず、移植ができなかった
例のほうが多かったのでは無いだろうか。
最近の我が国の状況を鑑みるに、家族愛が極めて濃密となっているように
思われる。
それは、犯罪被害者の遺族が犯人に対して厳罰、極刑を求め、公訴時効の
延長、撤廃を求める姿勢に如実に現れているようである。
我が子の脳死を受け入れ、提供の承諾を容易に与える家族が、目に見えて
増加するとは、とても思えない。
一方に我が子にどうしても脳死移植を必要とする家族があり、他方に我が子
の脳死を受け入れられない家族が存在するという、何とも悩ましい状況に
拍車がかかるだけに終わりはしないだろうか。
臓器移植が必要な親族に優先提供できるという規定にも、問題があろう。
親族の範囲を、民法上の親族とすれば、子供の場合でいえば、その両親
以外の親族が、両親に心理的圧力をかけて、無理やり承諾をせまることも
ありうるものと考えるべきでは無いだろうか。
無論、親族に脳死移植を必要とするひとがいるにも拘わらず、親族以外
に移植されるのは釈然としないものがあるのは、当然と言えば当然でもある。
真意からの承諾を担保する方法が必要であろう。
施行までにはまだ時間がある。啓蒙活動によっては、かえって脳死移植
が減少する可能性もあると思うべきであろう。
投票率50%超
東京都議選が終了した。投票率は54.49%であったと言う。
随分大騒ぎをしたにしては、決して良い数字とは言えない。
投票率100%はファッショ、強権国家でなければありえない数字では
あるが、50%前後に過ぎないことを、もっと深刻に反省すべきでは
無いのか。
勿論、反省すべきは、各政党であり、選挙権者たる都民である。
国全体を通しても、各選挙の投票率は、押しなべて高いとは言えない。
憲法が予定し、世界か推進している民主主義は国民の権利としての
選挙を前提としている。
悪名高い北朝鮮でさえ、形式的ではあっても選挙を実施しているのである。
棄権することによる不利益が、具体的に生命、財産に対する危険を招来
する国では、当然ながら投票率は100%か、それに近い数字となる。
政治に無関心で、白紙委任となる棄権が30%を超える事は民主主義が
定着した状況とは呼べないのでは無いだろうか。
生物学の成果に拠れば、蟻や蜂でも、真面目に働かないものが約3割
存在するそうである。
政治に何の興味をも抱かない層もそれくらいの割合で存在する事が、
健全なのかもしれない。
しかし、50%以下の場合は、政治に対する無関心だけでは説明が
付かないのでは無いか。
魅力ある政党、候補者の不存在が、投票所に足を運ぶことを妨げては
いないだろうか。
若者に国民年金を払わない人が増えていると言う。国家を信頼しない
国民の増加こそ憂うべき問題であろう。
やさしい裁判講座……裁判官の独立
今回のテーマは裁判制度の根幹を為す、裁判官の独立にしました。
憲法で三権分立が規定されています。司法権は、立法、行政とは独立、分立
しています。但し、司法権のトップに位置する最高裁判所の判事の任命権は
内閣に在ります。そして、裁判は立法府の制定する法律にしたがって具体的、
個別の事例につき法的判断をする事となります。
裁判は原則として、三審制が取られています。この三審制を担保するものとして、
裁判官の独立が保証されています。裁判官は独立して、事件を法律にしたがって
判断することになります。
その際、他の裁判官の指示にしたがって解釈を変更することはありません。
裁判は、具体的な公訴提起を前提に、その事例についての事実認定を行ないます。
刑事裁判に限定すれば、犯罪の事実を認定し、刑罰の重さ、つまり量刑を、検察官
の求めた罰条を基に決定します。
裁判官の独立のゆえに、同様の事件でも、判断が異なることが、制度として予定
されています。
それゆえ、判決に不服、疑問があれば、上級審への上訴が認められることに
なります。
地方裁判所の判断に対しては、高等裁判所に控訴します。
第二審たる控訴審までは、事実調べを行なう事が出来ます。一審の地方裁判所の
事実認定と異なる結論が出されることも、制度として保証されているのです。
これに対して、第三審たる最高裁判所は、原則として事実認定を行ないません。
最高裁判所への上告理由には、憲法違反、判例違反の主張が必要とされます。
単なる事実誤認は上告理由なしとして、いわゆる門前払いの決定が為されます。
史実審ではなく、形式審が原則です。
これらの、制度の前提として、裁判官が個別に自己の法律知識、世間の常識を
十分に蓄えているという事が必要とされています。
法律家としての知識を必要としない、裁判員制度のもとでは、第二審たる高等裁判所
の判断の重要性が一段と増加することになりそうです。
一審、地方裁判所の判決がそのまま確定する事案の減少が予測されます。
迅速な裁判という目標は、第一審のみの課題で無いとすれば、手放しで目標達成
とは言えないようです。
やさしい裁判講座……免訴
今回は横浜事件で世間に知られる「免訴」を取り上げてみます。
まず、免訴の定義です。
免訴とは、公訴権の消滅を理由として有罪・無罪の判断をせずに裁判を
打ち切る事です。
免訴の実質的な根拠は訴訟条件が欠けていることに求められ、刑事訴訟法
の掲げる免訴事由に該当すれば免訴判決が出る事になります。
刑事訴訟法第337条の定める免訴事由は次の通りです。
1.確定判決を受けている。
2.犯罪後に該当する法律及びその罰則規定ならびに刑が廃止されている。
3.大赦があった。
4.公訴時効が完成している。
この4つの条件の何れかに該当すれば、免訴となります。
時効完成の場合には、この段階以前に不起訴処分となることが多いと思われます。
ここまでの説明で既に、わかりにくい言葉も出ています。
公訴権についても説明する必要がありそうです。
刑事訴訟の目的は、刑事事件につき、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正
且つ迅速に適用実現する事です。(刑事訴訟法第1条)
適用すべき刑罰法令にのっとり、公訴がなされる事になります。これを公訴権
と呼びます。
公訴はまず、刑事事件につき起訴の手続きが取られることから開始します。
起訴は起訴状によっておこなわれますが、起訴状には、訴因、罰条を記載する
ことが必要とされます。(刑事訴訟法第256条)
具体的に言えば、被告人の氏名、犯罪とされる事実、罪名、適用すべき条文
などです。
免訴に関して言えば、この起訴の要件中の罰条、適用すべき条文がなく
なっていると言うことです。ですから、裁判所が公判において判断する対象が
なくなったということになるのです。
免訴の性質については実体判決か形式判決かという議論もあります。
いずれにしても一事不再理の効力は認められています。
免訴判決に対して検察側の控訴、上告、抗告は認められていますが、
被告人側から控訴、上告ができるかどうかについては、学説上争いが
あります。
免訴よりも無罪判決の方が被告人にとっては刑事補償などの点で
より有利だから、上訴の利益があるとする立場と、有罪・無罪の判断のもと
となる罰則の廃止により、判断のものさしがなく、被告人に刑罰が課されない
状況で、不利はないとして打ち切る考えです。
そもそも公訴権が消滅してしまえば。裁判所は審理を進め、有罪・無罪を
判定する権限を失うため、裁判の継続を許されないものとされます。
刑事補償については、免訴の判決を受けた場合も、無罪と同様の刑事補償が既に
認められており、且つ申立に基づいて官報、新聞などに掲載も義務づけられており、
免訴判決の元被告についても、無罪判決の元被告と同様に、名誉回復や補償の
手当は実現しています。
ことさら無罪判決を追及することが必ずしも必要とは思われません。
免訴が問題とされる事例は数少なく、今後もそれほど多くは発生するとは
思われませんが、特に法定犯とよばれる犯罪類型の廃止が行なわれれば、
やはり免訴についても、解釈を統一しておくことが望ましいことには違いありません。
私は、免訴の要件があれば、無罪判決は無用なものとする考えを支持します。
やさしい裁判講座……再審
足利事件の再審開始が決定されました。
その過程が報道されていたので、再審という言葉はある程度理解されて
いるものと思われます。
再審は過去の有罪判決を覆す可能性のある新たな証拠や事実の存在
により開始されることになります。
再審では、原判決の刑より重い刑を言い渡すことはできません(刑事
訴訟法第452条)が、必ず無罪となることを保証するものではありません。
通常は、再審開始決定の要素となった新規証拠と原裁判のときの証拠
とを総合的に判断して、有罪か無罪かを判断することになります。
足利事件の場合は、検察側も無罪を主張する予定のため実質審理なしで、
早期に結審、無罪判決がだされると考えられます。
ただし、弁護側やマスコミが要求するような、原判決が誤った理由を再審
の公判廷で追及することは、ありえません。
なぜなら、再審公判は有罪の原判決を受けた者が有罪か無罪かを判断
する場に過ぎないからです。
再審裁判所はそれ以上の権限を有していません。
起訴が不当がどうかを審議する検察審査会のような、別の組織により誤審
の原因を調査する方法がかんがえられますが、現時点では存在していません。