唐突だが、今年の読書のテーマのひとつ、「女性の書いた本を読む」。ある人からも、占いからも、神示からも、ことごとく女性性の解放だ~と言われて、ええ、そうなの~と思っていたら、思いついたことだが、、、


先日、江國香織の「号泣する準備はできていた」という短編集を読了。ずっと読みたいと思っていた作家ではあるのだが、


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全体を通じて、正直よくわからん笑

女性って男性と全然違う視点、考えをもっているんだなあと。

つまらんと思いながら読んでいたところもあった。

女心わからんからそっち方面だめなのかとネガな方向にいきかけることも。


これじゃあんまりなので、今、この文章を書きながら少しよみなおしてみる。「熱帯夜」という女性同士の愛について描かれた作品がある。最初読んだとき、あ、美しいと思った事を思い出した。お互いを、自分自身以上に愛する関係。だと登場人物はいう。こんなことが男女の間で存在するだろうか。いろいろ反論はあると思うが、女性は、相手のことをすべてわかろうとし、自分のことをすべてわかってほしいと要求する気がする。

僕もこれが「究極」の愛のような気がする。しかし、これはやはり「究極」なのだ。たどりつこうとして、みんな脱落する世界。男性にも、そうありたいと思う人もいたとしても、男性という性質、そして女性との差が理解の壁となる。半分言い訳とひがみですが笑

たしかに、同性同士の方が、お互いが求めることがわかっている分、楽なのかもしれない。そして、この小説のように精神的に深いつながりになることもあるかもしれない。しかし、いうまでもなく、同性間の愛は、長い人生の中で行き止まりにぶつかるのが必然である。しかし、それでもこの禁断を超えようとする本能か、今この瞬間に、愛をむさぼることをただ幸せとする。

うん?もしかして僕やばい世界にいきそう???いやいや、また女性を好きになって、ああでもこうでもないと右往左往して、泣きごとをいうぜ。


今後は、ちょっと時代をくだって、ずっと読みたかった岡本かの子、林芙美子を読んでいきます。



今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。



なんだ、そうだったのかあ。

「受容する」ということは他人ではなく、まず自分を受け入れることだったのねえ。


何も変わらなくてよかった

なかなか結果がでなくてあせって自分を責めている自分も

どうでもよくなって酔っぱらってへべれけになる自分も

女性に思いを伝えることが苦手な自分も

あの人が怖くて遠慮してしまう自分も

親に助けてもらって情けないと思っている自分も

寝坊して落ち込んでいる自分も

お金がなくて、先が見えなくて苦しんでる自分も

嫌われたくなくて、言いたいことを抑えちゃう自分も

受け入れられたくて、自由なふりをしたり、格好つけたりする自分も

全部受け入れて

みんな自分だから

書くことだけでも楽になる

ごめんね、認めることができなくて

よかったら、これからは仲よくしてね

でもまた責めてしまったらごめんね

少しずつでも自分を愛せるように

みんなのおかげで僕は生きています

ありがとう


今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。

昨日のEdgeProject。久々に「作業」(絶対に制限時間に終わらせなくてはいけない動機を持った何らかの作業をしながらリピテーションする)のトレーニングをやったが、面白かった。作業の設定を本当に信じられると、思いもよらないことがおこるんですね。それは意識的に表現されることよりも、見る側も演じる側もはるかに面白い瞬間。少しは戯曲をやった成果がでてるんかな。


帰り道、少しへこんだ、、、が、へこむということは握っているプライドがあるということ。これは稽古やっていても、思うことだけど、プライドが邪魔して出せない感情って一杯あるんだよね。相手を抑えられなくてどうしたらわからなくて「苦しい」のに、格好悪くて言えない、とか、つらくて落ち込んでいるのに、情けなくなるし、バカにされるから我慢するとかかなあ。前も書いた気がするけど、これが本当につらいことで、なかなか相手に伝えられない。


でも「格好悪い」「情けない」「バカにされる」とか、そう思う自分を握りしめていることは実は表現することより、生きる上でつらいというか悲しいことではないかと、最近日常生活を通じて痛切に感じている。自分が苦しくなって、他人とうまく意志疎通できなかったり、時には傷つけてしまうことさえある。だから、早く救いだして、自由にさせてあげなくてはいけないと思う。そして、ありのままの自分を相手に伝えれば、芝居においては相手のためになる。日常生活でも、自分の気持ちを相手が理解してくれるかもしれない。それは他の人を観ていても感じた。もっとみんなで自由になりたい。そのためにはまずほんとうの自分に誠実であることだと思う。一杯一杯になるまえにひとつひとつ出していくこと。恥ずかしくてつらいけどそれでもやる。それが役者に、そして人間にとって必要なことだと思うから。


今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。





昨日今日と、割とのんびりとすごしている。

会社員の時の習性からか、のんびりすることに罪悪感がでてくるの

だが、少しそうさせてほしいという気がしている。

もうそろそろ働かなくてはならなくては経済的にもたないのは確か

なこと。そのことも含めて、本来の自分で生きるにはどうすべきか、

大きな流れを自分のすべてを使って感じながら、心に聞いている。


昨日、東京は寒い上に冷たい雨が一日降りつづけた。

そんな悪天候の中だったが、久々に美術館へ行った。

場所は、白金にある庭園美術館。

イタリアの印象派の作品を集めた「マッキアイオーリ」展である。

この美術館を訪れるのははじめてで、少しわくわくしていたが、正面

玄関ガラス・レリーフ扉にかたどられた天使には癒されつつ、全体的

に重々しい雰囲気だった気がするが、まあたまにはいいかな。

印象派は見慣れてしまって、あきてしまったかな。もちろんいいなあ

と思うものもあるのだけど、自分が勉強不足なのかもしれないが、

絵で表現されていることと解説で書かれていることの関連がよくわ

からなかった。まあ他のこと考えていて集中できなかったというのも

ありますが。


昨日今日は、EdgeProjectの稽古。

昨日の想像力のトレーニングでは、想像力を使いながら、身体

の力を抜いていくことで、かなり深いところから感情を表現できたと

思う。やはり事前の精神集中と発声で、感情が生まれやすい情緒

ができるんだな。呼吸とかイメージとか普段使わない顔や声帯

まわりの筋肉を使って声を出すとか、いろいろ試したい。

ある水準の情緒が作られれば、昔の出来事をイメージするだけで

感情が出てきて、あとは身体の状況を観察しながら、ゆるめていく

だけでよかった。

今日は何を試そうかな。


リピテーションは、自分の中に生まれた欲求にしたがっていろいろな

行動(適応)をしながら、相手との間で生まれる感情をできるだけ細か

く観ていこうと思っている。今は、特にがっちりと課題を設けずにやら

させてもらっているので、余裕をもって気楽にやるという感じ。

うまく表現できなかったが、今までにない感情が出てきたかも。


訓練方法について

http://edgeproject2007.blog116.fc2.com/blog-entry-15.html


終わった後、師匠である渡部氏と映画畑の年下の俳優と

熱く芝居談義をする。こういう機会は最近なかなかないので、

うれしかった。ドラマとは何か?ドラマが及ぼす変化とか何か?

面白いテーマをいただいた。


愛という関係に縛られて自分を見失うことから自由になる。

ただ愛するということ、それだけだ。

そして愛するというのはただ二人で共にいるということではないということ。

時には別れること、突き放すことも愛することだ。

自分で自分自身であること、相手も相手自身であるということ。

それが何よりも大事だ。




下北沢でのビラ配りを終えて、声のワークショップに向かう。

電車の中で、しばし休んでいたら、

となりに、フランス語の本を読んでいる女性がいる。

へえ、すごいなあ。僕も少しだけフランス語をかじったことがあって。

テキストをのぞき見する。少しわかる気がする。ああ、フランス語

勉強したい。教えてほしいなあ。うん?やばい?なんだろう???この気持ち。

抑えられない。どうしてもこの人と話がしたい。

「あなたは運命の人だ」

いや笑、それはやばいだろう。確実に拒まれる。ていうか恥ずかしい。

でもでもでも。。。

ふっと横を見る。ていうかfrancaiseやん笑

フランスは愛の国。大丈夫。


「vous avez Francaise?」

そんな唐突な質問の瞬間、はじめて彼女の顔をまじまじと見た。

美しい。こんな美しい女性がいたのか・・・(大げさ)

フランス語はそんなに知らないと思ったのだろうか、彼女は

英語で話しかけてきた。英語もハッタリだったりするのだが笑

フランスに興味があるとか、フランス語を勉強したことがあるとか、

何とかかんとか伝えていた。

「ホント急にごめんなさい」「ううん、ぜんぜん大丈夫」話がとぎれる。

でも、間に流れている空気が僕と彼女を優しく包んでくれる気がして、

とても幸せな気持ちになる。

彼女は何かを話したがっている気がする。でも・・・

「ここで降りなくてはいけない」「ありがとう」「また会いましょう」

ドアが開く。もう一度彼女の顔を見る。


声のワークショップ、最高に面白い。

ぜんぜん声帯使えてないんだなあ、と実感する。

いろいろな声を出してみることで、自分の可能性を開く。

発声練習を重ねることで、顔の緊張もかなりほぐれるだろう。

芝居に必要な即興力も鍛えられるワークショップ。


夜は、経堂でパーティー。幸せな瞬間を過ごす。

欲張って大盛りにしたカレーの味。

今も頭の中で歌ってくれた人の声がこだまする。

そして聞いている人たちの幸せそうな顔。

涙が出そうになる。昨日は旧暦の大みそか。

今日から新たな気持ちで生きる。


今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。





紀伊国屋サザンシアター、初見参!!

劇団銅鑼の「はい、奥田製作所。」


http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=309749


思っていたよりぜんぜんよかった~

まあ、人の芝居、あらさがししたらきりがないんですけどね。

他人の中で気になることは自分の中にもあるってことで。。。


ストーリーが、失業者の僕には厳しくも優しくて笑

ほんとうの悲哀、喜び、いくつか感じさせてもらいました。

仕事って、きついし、苦しいし、でも本当は愉しくて、わくわくするもんなんだなあ。

今日が楽日。ぜひぜひ見に行ってみて!!!!


ビラ配りしていて思ったこと。

ほんとうの自分で配りたい。そしてそれは相手に伝わるのだということを信じたい。


今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。



昨日も下北沢でビラ配り。

月曜日から4日。。。本当になれてきた。

最初は心がおれそうだったけど、昨日は

1時間強で80枚近く配る。

声を出しながら元気よくやっていると、

とってくれるんだなあ。

とってくれなくても笑いかけてくれる人もいる。

下北沢ありがと~

でも少し雑になってきたかな???

渡すことで満足しちゃうんじゃなくて、

劇場に来て下さいという心をこめて。

とりあえず今日あと一日。。。



銀河鉄道の夜を見る。

教会にいるかのような神聖な瞬間を味わう。

思わず祈りたくなる。

「あなたのほんとうの幸いってなんですか?」

ああ永遠だな。



今日は、劇団銅鑼の芝居を、劇団の人と観にいくぞ~

他の劇団の芝居、久しぶり~

楽しみだ。




今日も一日一生涯。生きていることを祝い、喜びましょう。

昔好きだった女と飲んだ

気が楽だ、たのしい
あなたは意志の人だ
愛されていたことを思い出します
好きだったことをはじめて告げる
驚きとはじらい
再び求める
拒まれる
落ち込む
タクシーで家に着いたのは4時
寒い、静かだ
財布の中はからっぽ
でも感謝しかない
僕が生きていること
人間的課題を単純にみただけではわからない。
むしろ逆説的になることもある。

世界的に有名な劇作家、アントン・チェーホフと同じ世代に活躍した、ロシアの演出家、コンスタンチン・スタニスラフスキーというひとがいます。この人は、天才的な俳優を研究して、俳優における創作方法を研究した人です。現在、「スタニスラフスキーシステム」と言われ、ヨーロッパ、アメリカ、もちろん日本の演劇界に大きな影響をあたえ、現代演劇の源流といわれています。現在、私は、このシステムをベースとした俳優教育を行う劇団のスタジオに所属しています。

俳優の創作活動において一番大切なことは何か?スタニスラフスキーはいろいろな視点から、そのカギについて説明していますが、私は役者である以上、「シーン、作品における役の人物の行動課題」、つまり何のために行動するかが大切であると考えています。そして、スタニスラフスキーは、この課題が、役を演じる人間の真実、「人間的課題」でなければならないと言っています。私は、この人間的課題を導くための方法を具体的に知りたいと考えて、スタニスラフスキーが書いた「俳優の仕事(俳優修業)」を昨年からよみ始めました。

その中で「適応」という対象への作用の手段について、書いています。

スタニスラフスキーは、適応の目的について次のようにいってます。
・内面の感情や全体的な状況をできるだけはっきりと示そうとする
興味深いのはもう一つの目的です。
・自分の感情や状況を隠し、カムフラージュする

日常生活では、感情や状況を隠そうとすることが無意識に行われています。たとえば素晴らしい芝居を見たときに、人間は席を立ち、賞賛するが、一方で、圧倒されて打ちのめされた気分があったり、俳優であれば、自分にはとてもこんな芝居はできないという絶望感にかられるかもしれないということ。賞賛するという行動によって、それらの気分は隠される。いや隠されたに見えるだけではないか。身体器官もしくは細胞のレベルでは、隠された気分が何らかの作用をしているのではないか。要は、人間は、これら無意識的な、有機的な自然がある、という仮説です。

俳優は、舞台上でしばしば意識的な適応を行おうとします。対象を笑わせるために変な顔をしようとか、説得するために厳しい顔をしようとするということです。しかし、変な顔とはなんだろう?そして厳しい顔とは?やがて適応だけが目的になり、酷い時にはそれを観客にみせようとする余興になるのです。そして、自分の真実ということからはまったく離れてしまう。 適応は、なるべく無意識的で、人間の有機的な自然が生み出されるべきだと、スタニスラフスキーは言っています。だから俳優は、意識だけでなく、有機的な自然に従った、本当の人間でなくてはならないと。であれば、人間的課題も、意識レベルでは計り知れない、隠された気分から発掘されるのではないか。
隠された気分は何か?シーンごと、または作品全体と、似たような自分の体験を引き出し、細かく思い出して、考えていく作業が、スタニスラフスキーシステムにのっとって、創作活動を行う俳優の大切な仕事です。