元旦、2日と深夜1時に目が覚める。元日は前日の食べ過ぎの影響。今夜は用意していた鍋料理をつまみに酒を嗜みつつ。20時過ぎに寝た。

昨年から夜9時前後に食事をすると、深夜目が覚めてしまい、そのまま眠れなくなり、朝を迎える日が何度かあった。おそらく消化が追いつかないらしく、胃腸に残食感があることで起きてしまうようだ。以前から夜食はなるべく避けてきたが、如実に身体に出てきたのは老化の一現象かもしれないが、いい変化だと思う。夕食はかならずしもとる必要がないのだろう。

酒も、いまだに深酒する時はするが、昨日もそうだが、これでよし!とすぱっと切れる日が出てきた。

今夜はせっかく起きたので、そのまま昨年からのテーマ、高校地理の勉強をした。気候に変化が起こる要因、現象を理解した上で気候区分を捉えて、植生や土壌との関連性を覚える。

植生や土壌の種類も、気候の特徴から理解していくから、丸暗記じゃないところが楽しい。昨年秋はまったく進まず、焦っていたが、思い切って仕事をセーブして年末から挑んだ結果、共テレベルの問題もポイントを理解しながら解けるようになってきた。

今年で40代も最後の年となるが、まだまだ成長できる余地があると感じている。若い頃と違って、構想していることを着実に進めている自分がいる。あゆみは遅けれど、やり続ければかならずどこかに辿り着く。そんな人生の醍醐味を満喫したい。

年明けまであと1月。12月は師走という言葉もある通り、一気に疾走するように過ぎていく。

この年末で、来年への新たな、確かな足掛かりを作っていきたい思いで、珍しく少し焦っているかもしれない。

やりたいことがたくさんあって目がくらみそうだが、日々やるべきことを全力でやるだけだ。


日本史の大学受験の過去問を読みこむ時間が今までになく増えた。史料問題では自分が今まで知らなかった知識に出会えてためになる。論述問題もあるトピックで触れておくべき出来事を整理できて、有意義である。

世界史は第一次世界大戦前の英仏協商交渉について、生徒と学んでいる。先日はモロッコ問題について、大学の論文のテキストを題材に授業したが、現在の台湾問題とも通ずるところもあり、地政学的な観点を養う必要性を痛感している。

という中で、今月から本格的に地理を学び、教える機会に恵まれた。来年は世界史と並行して地理を研究する一年になるだろう。世界史といっても現代史を掘り下げながら、地理の知識を付け加えながら、現在の世界の諸問題について考える力を向上させたい。世界を理解するためには諸地域の自然や地形、気象、産業、宗教、あらゆることへの見識が重要である。系統地理を一通り学んだら、特定の地域に絞って調査研究しても面白い気がしている。


先週末、秋の演武会を終えた。抜刀演武と今年から稽古し始めた型を演じた。

まだまだ上があると思うのはいつものことだが、自分の演武を映像で確認したが、もっといける、と欲が出るのは今後の稽古の糧となる。

今年は素晴らしい人材が次々と入塾したため、稽古も充実したものになった。演武会も今までに感じたことのないようないい意味での緊張感があった。

来年にかけて、打太刀と小太刀の稽古に重点を置きたい。特に打太刀は師範より長く期待をかけられているのでもういい加減なんとかしたい。

年を重ねて体力の衰えがあるにせよ、なお年を重ねたゆえの芸の境地を目指して精進したい。


11月に入った。秋なのか?天気を味わっているといっきに冬に突入していきそうな気もする今日この頃。1年の中では珍しくのんびりできる時期なので、ぼーっとしながら今後何しようかと妄想する。


昨日は剣術のちょっとした演武会。初めて公開する型だったが、中身はともかく、完遂できたのはよかった。普段から必要な手順をいかに細かくイメージするか、そしてそのイメージを身体に落とし込むか。稽古時間をもっと確保したいところ。

刀や拵の研究もぼちぼち進める。


読書。あんまり出来てないのだが、世阿弥の伝記を細々と読んでいる。先日は泉鏡花の天守物語を読了。泉鏡花が戯曲書いていたのか、と思って思わず買ったが、新派や歌舞伎の戯曲として有名らしい。まだまだ知らないことたくさんあるのね。

福田恒存の戯曲「龍を撫でる男」を年末までには読みたい。


映画図書館でソビエト時代の映画の本を読んでいたら、セルゲイ・パラジャーノフという映画監督がいることを知った。ジョージア出身。ウクライナのことも描いている。「ざくろの色」という作品を買ったがまだ見ていない。

イブン・バットゥータもそうだが、名前がすごい人は響くね。


物思いシリーズはまだ続く。

かつてベルクソンの「笑い」という本を読んだことがあるが、いまさらながら、笑いについて思索した哲学者がかなりいたことに驚いている。古代ギリシャの哲学者からカント、ニーチェ、アラン、フロイト、さがせばまだまだいるだろう。

各人、笑いについての評価はさまざまで、それは笑いの機能の多様性に依拠するのだと思う。人々が笑うという行為をすることにはさまざまな理由がある。喜びを表現する、緊張感をほぐす、余裕を見せる、なんらかの感情を隠す。共同体の視点からみれば、笑顔が見せ合うことは安心感、信頼感を作り上げることにつながるが、強制的になるとまたおかしくなる。

とこんなことを考え始めたきっかけは、見事大学の一次選考を突破した生徒の二次選考の課題「大学で勉強したいこと」というテーマ作文を一緒に考えたことからだった。明るい生徒だが、大学行くのにどこかふらふらして、今後心配だが、持ち前の笑顔を大切にして、笑いについて4年間じっくり研究してほしいと切に祈る。

ついに眠狂四郎シリーズに参入だ!と勢い込んでみたが、おそらく知らぬ人がほとんどだと思う。

眠狂四郎とは、数年前から追いかけている市川雷蔵が演じたニヒルかつダンディな剣豪で、追いかけてくる忍者や間者をバッタバッタと斬りまくる。

今回は眠狂四郎シリーズの第1作目「眠狂四郎殺法帖」を鑑賞。なんといっても円月殺法のシーンがかっこいい。「この剣が弧を描く前にお前は死ぬ」というセリフから人の命をなんとも思わない残虐性が伝わる。一方でなんともいえない虚無感は「大菩薩峠」の机龍之介を彷彿とさせる。

この作品はこの虚無感がやや弱かったことで、あまり評価が高くなかったようだが、いやいや、十分楽しめる作品。ちなみに、狂四郎の名セリフが全シリーズにわたり、楽しみの一つである。本作品では中村玉緒演じる加賀の女性間者・千佐が身体を狂四郎にあずけてくる刹那、「抱かれても、お前の身体は燃えるものか」とキザにかわす姿。こんなセリフや所作は雷蔵ならではだと多くの男性が納得してくれるに違いない。

敵役はどこまでも悪く、わかりやすい勧善懲悪。狂四郎のライバルで少林寺拳法の使い手・陳孫を演じる若山富三郎は殺陣の達人で、確か新陰流を嗜んだこともあるとどこかで読んだが、流石の身のこなし。本作品では決着がつかなかったが、また出てくるのか?

脇役も狂四郎を慕う粋な若者と芸者2人の掛け合いが粋でいい。やはり雷蔵が出演した「婦系図」もそうだが、今じゃ歯の浮くような、口上のようなセリフ回しが飛び交うのは大映時代映画の特徴だ。芸者2人は浮世絵から出てきたかのような品と表情を作って作品を彩る。

作品の最後、千佐を失った狂四郎は「もうこの世には美しいものはないのか!どこにあるのか!」と絶叫する。十分に美しいものが伝わってくる秀作だと思う。

今週は仕事づくめで、明日も朝は家庭教師。仕事があることは大変ありがたいわけだが、昨日も夜痛飲したせいか、いささか眠い。

昨日は通信制の学校の授業で倫理のレポート作成を手伝う。ハンナ・アーレント、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥールズ。なにやら懐かしい名前がたくさん出てくる。上記の名前でワクワクしちゃう人はよっぽどの思想好きだろう。作品の内容云々の前にまず名前がすごい。口に出して言ってみたくなる。もちろん日本人の名前がダサいとか言いたいわけではないが、耳慣れないせいもあってか、とにかくインパクトがすごい。

忙しいのと、Youtubeを見る時間が増えたのと、目も少し見えづらくなったこともあり、読書の習慣がおろそかになっているが、そう自覚した今こそ切り替えどき。10年以上に購入しながら読むことがなかった「差異と反復」にチャレンジしたくなってきた。簡単には読めない難解な本だが、あえて険しい山を選ぶのが我が人生。

新陰流を鍛錬する日々は続く。じっくり稽古する時間には恵まれないが、手順はあせらず丁寧に、ポイントを外さない。身づくりは怠らず、注意されたことは克服するよう努力する。少し考えを向ければシンプルではある。

最近道具の大事を思う。入門以来使ってきた模擬刀も柄頭がとれ、鍔もはばきもゆるゆるである。恥ずかしながら今まで道具にこだわらず稽古してきたが、やはりこの道、刀が主だ。近々新しいのを手に入れたい。師匠から頂いた真剣もそろそら活用できるよう、拵を整えて作り上げる方向になった。今年入った塾生の中に拵師の方がいて、週末お店に伺って見させていただくことになった。引っ込み思案で、物臭なところもあって、なかなか踏み込めずにいたが、最近入ってきた新しい塾生の皆様の後押しで日本刀の道に参入できるのはうれしい。10年以上続けてようやく本当の道に入る。厳しい道だが自らを励ましながらさらによき道を模索する。

現代の世の中は日々「何かをする」ことで時間を埋め尽くそうとする。いうまでもなく我々にはいつしかわからぬが確実に死の瞬間が予定されている。死がある以上、人間にとって時間は有限であるのは自明だが、「する」という能動的存在方法のみで日々を過ごすことが習慣化されている。スケジュール(schedule)という言葉は日常よく使われることばだが、もともとは一枚の紙という意味だ。ある1日にすべきことを一枚の紙に誓約することで業をなせるよう祈りをささげたのだろうか。現代の人間が頭の中にインプットされている日々の予定をわざわざ書き記したり、今風だとスマホのスケジュール帳にメモしたりするのはおそらくそんな祈りの行動のなごりではないか、と思った。

そこで何より自分自身に対して、もちろんこのブログを読む人にも強く勧めたいのが、「何もしない」という受動的存在方法をとることである。何をしない、と聞くと、さぼる、なまける、無駄ということばが耳をかすめるが、「何もしない」ことからこそ時間の無限性が現れるのではなかろうか。

人間が「何もしない」と意思したことと、意思した人間が実際に「何もしなかった」かという現実との一致はここでは問題にはならない。何をしない、と意思したところで、人間は呼吸し、心臓は鼓動する。生命活動をとめることはよほど卓越した霊能者でない限りは出来ない。意思すること、時間を手放すこと、そのものが大切なのである。

明日から我々はスケジュール帳に「瞑想」という文字を書き込まなくてならない。

8月も終わりに近づいた早朝はほんのりと汗をかきそうな暖かさもありながら、ふわりとした、涼やかな空気にも包まれつつ、なんだかとても気持ちがよい。今年も暑い、暑い、と散々愚痴をたらしながら過ぎていった夏も、もうすぐ終わりなのだ、と思うと少し寂しくなる。海にも行かず、花火も見ず、盆踊りの音も聞かず、夏らしいことを何も味わずにあっという間に過ぎていった季節は終わりに近づきつつある今になって私の前にはっきりと現れてくるのだった。何の音を立てずに、ただうっすらと波打ち漂う水の面に何の前触れもなく、雫がひとひら、ぽつんと落ちる。

空には雲ひとつなく、遠くを望めば山の陰がうっすらと見えてくる。ゆとりのない時の流れにあがなうこともなく、ただその日をやり過ごすことも、またそれもよい、と受け入れて生きてきた。ただ、心を広く持って、丁寧に耳を澄ませなければ聞こえない時の声があることも知っている。さあ、今こそ大きく息を吸って、どこからか吹く天つ風がくるのを待たむか。