ついに眠狂四郎シリーズに参入だ!と勢い込んでみたが、おそらく知らぬ人がほとんどだと思う。

眠狂四郎とは、数年前から追いかけている市川雷蔵が演じたニヒルかつダンディな剣豪で、追いかけてくる忍者や間者をバッタバッタと斬りまくる。

今回は眠狂四郎シリーズの第1作目「眠狂四郎殺法帖」を鑑賞。なんといっても円月殺法のシーンがかっこいい。「この剣が弧を描く前にお前は死ぬ」というセリフから人の命をなんとも思わない残虐性が伝わる。一方でなんともいえない虚無感は「大菩薩峠」の机龍之介を彷彿とさせる。

この作品はこの虚無感がやや弱かったことで、あまり評価が高くなかったようだが、いやいや、十分楽しめる作品。ちなみに、狂四郎の名セリフが全シリーズにわたり、楽しみの一つである。本作品では中村玉緒演じる加賀の女性間者・千佐が身体を狂四郎にあずけてくる刹那、「抱かれても、お前の身体は燃えるものか」とキザにかわす姿。こんなセリフや所作は雷蔵ならではだと多くの男性が納得してくれるに違いない。

敵役はどこまでも悪く、わかりやすい勧善懲悪。狂四郎のライバルで少林寺拳法の使い手・陳孫を演じる若山富三郎は殺陣の達人で、確か新陰流を嗜んだこともあるとどこかで読んだが、流石の身のこなし。本作品では決着がつかなかったが、また出てくるのか?

脇役も狂四郎を慕う粋な若者と芸者2人の掛け合いが粋でいい。やはり雷蔵が出演した「婦系図」もそうだが、今じゃ歯の浮くような、口上のようなセリフ回しが飛び交うのは大映時代映画の特徴だ。芸者2人は浮世絵から出てきたかのような品と表情を作って作品を彩る。

作品の最後、千佐を失った狂四郎は「もうこの世には美しいものはないのか!どこにあるのか!」と絶叫する。十分に美しいものが伝わってくる秀作だと思う。

今週は仕事づくめで、明日も朝は家庭教師。仕事があることは大変ありがたいわけだが、昨日も夜痛飲したせいか、いささか眠い。

昨日は通信制の学校の授業で倫理のレポート作成を手伝う。ハンナ・アーレント、ヴァルター・ベンヤミン、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥールズ。なにやら懐かしい名前がたくさん出てくる。上記の名前でワクワクしちゃう人はよっぽどの思想好きだろう。作品の内容云々の前にまず名前がすごい。口に出して言ってみたくなる。もちろん日本人の名前がダサいとか言いたいわけではないが、耳慣れないせいもあってか、とにかくインパクトがすごい。

忙しいのと、Youtubeを見る時間が増えたのと、目も少し見えづらくなったこともあり、読書の習慣がおろそかになっているが、そう自覚した今こそ切り替えどき。10年以上に購入しながら読むことがなかった「差異と反復」にチャレンジしたくなってきた。簡単には読めない難解な本だが、あえて険しい山を選ぶのが我が人生。

新陰流を鍛錬する日々は続く。じっくり稽古する時間には恵まれないが、手順はあせらず丁寧に、ポイントを外さない。身づくりは怠らず、注意されたことは克服するよう努力する。少し考えを向ければシンプルではある。

最近道具の大事を思う。入門以来使ってきた模擬刀も柄頭がとれ、鍔もはばきもゆるゆるである。恥ずかしながら今まで道具にこだわらず稽古してきたが、やはりこの道、刀が主だ。近々新しいのを手に入れたい。師匠から頂いた真剣もそろそら活用できるよう、拵を整えて作り上げる方向になった。今年入った塾生の中に拵師の方がいて、週末お店に伺って見させていただくことになった。引っ込み思案で、物臭なところもあって、なかなか踏み込めずにいたが、最近入ってきた新しい塾生の皆様の後押しで日本刀の道に参入できるのはうれしい。10年以上続けてようやく本当の道に入る。厳しい道だが自らを励ましながらさらによき道を模索する。

現代の世の中は日々「何かをする」ことで時間を埋め尽くそうとする。いうまでもなく我々にはいつしかわからぬが確実に死の瞬間が予定されている。死がある以上、人間にとって時間は有限であるのは自明だが、「する」という能動的存在方法のみで日々を過ごすことが習慣化されている。スケジュール(schedule)という言葉は日常よく使われることばだが、もともとは一枚の紙という意味だ。ある1日にすべきことを一枚の紙に誓約することで業をなせるよう祈りをささげたのだろうか。現代の人間が頭の中にインプットされている日々の予定をわざわざ書き記したり、今風だとスマホのスケジュール帳にメモしたりするのはおそらくそんな祈りの行動のなごりではないか、と思った。

そこで何より自分自身に対して、もちろんこのブログを読む人にも強く勧めたいのが、「何もしない」という受動的存在方法をとることである。何をしない、と聞くと、さぼる、なまける、無駄ということばが耳をかすめるが、「何もしない」ことからこそ時間の無限性が現れるのではなかろうか。

人間が「何もしない」と意思したことと、意思した人間が実際に「何もしなかった」かという現実との一致はここでは問題にはならない。何をしない、と意思したところで、人間は呼吸し、心臓は鼓動する。生命活動をとめることはよほど卓越した霊能者でない限りは出来ない。意思すること、時間を手放すこと、そのものが大切なのである。

明日から我々はスケジュール帳に「瞑想」という文字を書き込まなくてならない。

8月も終わりに近づいた早朝はほんのりと汗をかきそうな暖かさもありながら、ふわりとした、涼やかな空気にも包まれつつ、なんだかとても気持ちがよい。今年も暑い、暑い、と散々愚痴をたらしながら過ぎていった夏も、もうすぐ終わりなのだ、と思うと少し寂しくなる。海にも行かず、花火も見ず、盆踊りの音も聞かず、夏らしいことを何も味わずにあっという間に過ぎていった季節は終わりに近づきつつある今になって私の前にはっきりと現れてくるのだった。何の音を立てずに、ただうっすらと波打ち漂う水の面に何の前触れもなく、雫がひとひら、ぽつんと落ちる。

空には雲ひとつなく、遠くを望めば山の陰がうっすらと見えてくる。ゆとりのない時の流れにあがなうこともなく、ただその日をやり過ごすことも、またそれもよい、と受け入れて生きてきた。ただ、心を広く持って、丁寧に耳を澄ませなければ聞こえない時の声があることも知っている。さあ、今こそ大きく息を吸って、どこからか吹く天つ風がくるのを待たむか。

おっす!暑い、暑いいうとるが、心頭滅却すればなんとやらだ。

今朝は吉祥寺で仕事。いつもは指導のため、教室によって、すぐ離れる街だが、今日は生徒が大幅に遅れるとの連絡を受けたため、食事がてら教室の近くのサンロード商店街を歩いてみることに。


吉祥寺というと、なんとなく雑多なイメージだ。商店街を歩いていても、さまざまな食堂、ガチャガチャ屋、本屋、肉屋、靴屋などなど、色んな店が目に飛び込んできて、飽きない。それにしてもラーメン屋が多い。ラーメン、ラーメン、飯、ラーメンみたいな食生活に一新を図るべく、泣く泣くではあるが、好物を横目に歩き回る。吉祥寺に限らないが、和食が少なくなった。下手したら吉野屋、松屋かと思いながら、またしばらく歩く。ようやく見つけたしんぱち定食という店でアジの開き定食を食す。

精算は自動支払い機のみ。吉祥寺はデジタル化が進んでいる。先日行った春木屋もそうだった。人とのふれあいが薄れる今日このごろ。


50年ちかく生きてきて、特にこの街に特別な思い出はない。母が学生時代によく訪れていたことを聞かされていたくらいだ。あ、劇団にいた時、たまに井の頭公園でビール飲みながら日向ぼっこをしていたことを思い出した。あの頃はなんて暇だったんだろうな。今はすっかり忙しい日々だが、縁のできた街なので、せっかくなので街を味わいたい。


と思っていたら、来週から授業の関係で、午前中がまるまる開く日ができることに。朝から久しぶりに井の頭公園あたり散策しようかな。

束の間の街歩きを楽しもう。

3年前から某塾で理科を教える機会をいただいている。大学の進路を選ぶにあたって、文系を選択したせいか、理科にはなんとなく苦手意識がある。高校時代、国公立志望だったため、当時のセンター試験受験科目として、生物を選択したが、日々ラグビー部の練習に追われていたせいか、居眠りの時間で、先生にしょっちゅう名前を呼ばれた記憶が今でもある。今考えるととってももったいなかったなあ、と思う。先月は微生物についての授業があり、いろいろ調べたが、微生物が酸素を地球上に供給したこと、人間には作れない栄養分を蓄えていることを知って、微生物の研究できたら面白いなあと思った。

今週は星座と月の満ち欠けについて授業をした。小学生には苦手な分野で、僕も苦手なので、かなり準備に時間をかけたが、なかなか生徒に伝わらなかったのが残念。

学生時代には苦手で嫌いだった理科が教える立場になって、面白い!と思えること、本当にありがたいなあ、と思う。自らも小学生に理科を教える中で新鮮な気持ちで学び直したいとワクワクしている。

今月から大学推薦入試の志望理由書の添削の仕事を開始した。週2回だが、高校生のさまざまな人生と夢にふれることができて、面白い。おっさんから見るとまだまだ考えが浅いな、という文章がほとんどだが、なかには、君、本当に高校生?と驚くほど壮大なビジョンと文章力を持った生徒もたまにいて、驚く。

我々の世代だと推薦入試は少数派だったが、現在では推薦と一般が半々、将来は一般入試が少数派になるかもしれない。今後の仕事の展開を考えても推薦入試対策の研究は必須である。

何より推薦入試の指導は自分の演劇で培った能力を十二分に生かせる機会である。どんな生徒にも与えられた運命があり、それゆえに人生は物語となる。

志望理由書を添削していると、インターハイ優勝とか、部活のキャプテンとか、立派な実績、肩書を経験しているのに、語りが面白くないのは残念だ。

一方、日本の教育において、自らを表現するということをやってきていないことの弊害もあるのかもしれない。

演劇で学んだこと、今までの指導経験わ軸に自らを物語る力をつける指導を行う準備をする。これが50代に向けての課題だ。


講座 「新陰流の神秘 刀剣と身体の叡智」

柳生新陰流 剣術 月影塾主催
新陰流活人剣
日本刀の本質と身体の叡智の理解から
令和7年7月5日(土) 14:00~16:10
東村山市 栄町ふれあいセンター 
(西武新宿線 久米川駅 徒歩 6 分)
参加費 3000 円
持ち物 なし
体験・体感ワークショップを含みます。
動きやすい服装でおいでください。
 申込・問合せ 月影塾 講座担当 芹澤
080-4165-2962 
tsuki.kage.juku@gmail.com

だいぶ前だが、浜崎洋介さんの影響から、福田恒存の評論集「日本を思ふ」を読んだ。といっても、多忙もあって、全ての論文に目を通すことはできず、のちの楽しみにしたいと思っている。

この方は、お顔もそうなのだが、思想も文体も硬質で、ああ、こういう文章を書く方だから、「明暗」のような戯曲を書いたのね、と思わず納得できる。


読んだ論文の中で「近代の宿命」は、西洋の神との葛藤から近代日本の課題へと突き進む難解な内容だったが、なんで今までこの評論に出会わなかったのか、と悔いるような妙な気分になった。あ、ここに本物がいたな、という感覚といえば伝わるだろうか。現在国難と言える日本の将来を考える上でもて刺さる内容といえる。


戯曲についてはまた書かなくてはいけないのだけど、タブーにどんどん切り込んでいく御仁である。

戦前から評論、翻訳、戯曲執筆だけでなく、戦後は劇団「雲」を立ち上げて、芥川比呂志、杉村春子など、当時の錚々たる役者陣に演出指導したことでも知られるが、そのタフさの一ミリでも頂きたい。50代に向けて自分もまだまだ突き進むぞ、と炎を燃やしている。

中村光夫もそうだが、戦前戦後を生きた文芸人との出会いはまた新たな学びの機会を与えられたと言っていい。また、彼らの教えを継承する浜崎洋介氏の著書も読む機会が欲しい。未だ「日本を思ふ」人がこの国に多くいることがありがたい。