心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司 古事記、易経、論語、大學、中庸、その他日本で古来から學ばれている古典に関する情報及び時事的な情報(偏向マスメディアでは報道されないトピックスなど)を毎日発信しております。

心の経営コンサルタント白倉信司の天命(使命)は「日本の心を取り戻す」ことです。経営コンサルタント(中小企業診断士)として独立して二十年、山梨県内において数多くの中小企業及び団体組織の経営指導と人材育成に取り組んで参りました。現在、力を入れているのは企業(組織)経営の基礎に「日本の心」を定着させることです。「日本の心」を端的に言い表すと「思いやりの心」です。これを神道では「知らす」と云い、仏教では「仏(慈悲心)」と云い、儒教では「仁」と云います。「知らす」とは「お互いの価値観を認め合う」こと、その上で、「日本という共同体を永遠につなげていく」ことです。

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

64.火水未済

□卦辞(彖辞)
未濟、亨。小狐汔濟、濡其尾。无攸利。
○未(び)濟(せい)は亨(とお)る。小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとし、其(その)尾(お)を濡らす。利(よろ)しき攸(ところ)无(な)し。
 未済は、下卦坎、上卦離。坎は水、離は火である。炎上して用を為す火が上に在り、下って用を為す水が下に在る。水火交わらない形である。造化は陰陽交わって行われるが、陰陽交わらずに造化を一休みする時。天地宇宙の造化が混沌として停滞する時である。太陽の光熱エネルギーが地球にまで届かず、地球の水氣が蒸発しない形になっている。
 易経の物語は完成する時である水火既済で終わらずに、未完成の時である火水未済で終わる。地球の軌道が常道から外れて、太陽から遠ざかり、太陽の光熱エネルギーが地球に届かず、地球が氷で覆われ、地球上で行われる活動が停滞し、完成した状態から未完成の状態に至ったのである。
 未完成は完成に向かって行くのである。地球の軌道は常道に戻ろうとして、地球は太陽に近付いていき、再び造化の作用が機能する。火水未済の時は乾為天の時に移行して、旧い時代は終わり、新しい時代に突入して、限りない循環(生成発展)に戻っていく。天地の作用は万物を生成発展させる根源的なエネルギーであり、水と火の交わりは万物を産み出す作用である。
 未済の形は火が水の上に在って用を為さない。水火が未だ交わらないので、万物を産み出すことはできないが、未完成は完成に向かって行くので、やがて水火が交わって、万物を産み出す時に移行する。それゆえ、未済と名付けたのである。
 未済は、未だ事を為さない時である。未済の未には待つと云う意味がある。事を為すことを待っているのである。何事も為さないままでは終わらない。時が至れば事を為す時がやってくる。
 未済を人間社会に例えれば、下卦坎の中男が下に在り、上卦離の中女が上に在る。中男と中女が相対しているが、未だ結ばれないと云う形である。しかし、男女はやがて結ばれる。いつまでも結ばれないと云うことはない。未完成は完成に向かい、男女はやがて結ばれるのである。

□彖伝
彖曰、未濟亨、柔得中也。小狐汔濟、未出中也。濡其尾、无攸利、不續終也。雖位不當、剛柔應也。
○彖に曰く、未(び)濟(せい)は亨(とお)るは、柔、中を得れば也。小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとすとは、未だ中(なか)を出でざる也。其尾を濡らす、利(よろ)しき攸(ところ)无(な)しとは、續きて終らざる也。位(くらい)に當(あた)らずと雖(いえど)も、剛柔應(おう)ずる也。
 未済は下卦坎水と上卦離火が相交わらないので、物事は成就しないのである。下卦坎水と上卦離火の感情が協調しないことが物事が成就しない原因である。だが、物事が成就しない時は、やがて成就する時に移行する。これが天の運行である。すなわち、今、成就しないと云うことは、将来は成就すると云うことである。
 人間社会に当て嵌めれば、物事が成就しそうだけれども、まだ成就しない時。物事を成し遂げられそうだけれども、また成し遂げられない時である。例えば、花が咲きそうで、まだ咲かない初春の頃であり、やがて満月になる新月のようである。
 内卦の段階では、物事が成就する兆しは見えないが、外卦の段階になれば、物事が成就する兆しが見える。すなわち、下卦三爻は未済中の未済であり、上卦三爻は未済中の既済である。
 内卦坎水は、大川を渡ろうとすれば、危険が待ち受けている。心を引き締めて、坎の険難によく耐えて、上卦離火の氣運が到来するのを待って、物事を成し遂げるべきである。
 未済の時は、相手と自分の気持ちが交わらない時だから、強引に物事を進めれば、必ず失敗する。柔軟に対応して時が至るのを待つことにより、はじめて物事が成就する。六五は柔順な性質で中庸の徳を具えており、剛健な性質で中庸の徳を具えている才能豊かな九二に応じている。上卦離の文明の徳をもって下卦坎の険難から脱出することを任務としている。
 以上のことから、下卦の段階で物事が成就しないからといって、上卦の段階になっても、物事が成就しないということはない。それゆえ、「未濟は亨るは、柔、中を得れば也」と言う。
 既済も未済も共に「亨る」と言うが、既済の「亨る」は既に成就しているのである。未済の「亨る」はこれから成就するのである。天下の物事が成就しないのは人材が不足しているからである。勇気や戦略のある人が出てきて、始めは慎重に熟慮し、時が至れば大胆に実行すれば、物事が成就するのである。
 知恵が少なく力が弱いのに、慎重に物事を熟慮しない若者は、どんなに発奮しても物事を成就することはできない。子狐が大川を渡ろうとしても尻尾を濡らして引き返してくるように、失敗するのが関の山である。どうして利益を得ることができようか。
 狐の尻尾は身体に比べてとても大きいから、大川を渡ろうとすれば、尻尾を持ち上げないと濡れてしまう。尻尾が水に濡れると重くなって、大川を渡ることはできない。
 年老いた狐は経験が豊富で思慮深いので、尻尾を濡らすことを察して、安易に大川を渡ろうとして引き返してくるようなことをしない。尻尾を濡らすような失敗は犯さないのである。
 しかし、子狐は経験不足の上に物事をよく考えない。だから、勇ましく大川を渡ろうとして尻尾を濡らしてはじめて失敗したことに気付くのである。けれども、大川の半ばまで渡ってしまっているので、どうすることもできない状況に陥る。以上のことを「小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとすとは、未だ中を出でざる也」と言うのである。
 「小狐」とは初六を指しているのである。人間に当て嵌めれば、賢い人と愚かな人は、年齢とは関係ないが、経験豊富で人徳具えた年寄りは、過去の経験から愚かな過ちを犯さないものである。今、自分が置かれている状況をよく考えて、未済中の未済の時である内卦の段階では、よく困難に耐えて、未済中の既済の時である外卦の段階に至って、困難から脱出すべく動き出すべきである。
 ところが経験不足で思慮も足りない若者は、時勢を察することができないので、未済中の未済の時に困難から脱出しようとして大失敗するのである。自分の身すら救えない人がどうして他人を救えるだろうか。経験も思慮も足りない者は、何に取り組んでも、始めは順調だったとしても、一つのことを継続してやり続けることはできない。それゆえ「其(その)尾(お)を濡らす、利(よろ)しき攸(ところ)无(な)しとは、續(つづ)きて終らざる也」と言うのである。
 未済の時は六爻全て不正の地位に在るが、応比の関係においては全て陰陽相交わっている。適材適所の配置にはなっていないが、全員が協力して物事に中り、困難から脱出することを図っている。全員が協力して物事に中れば、最初は困難から脱出できなくても、最後には困難から脱出できるはずである。このことを「位に當(あた)らずと雖(いえど)も、剛柔應(おう)ずる也」と言う。陰陽よく交わって困難に対処すべきことを明示しているのである。

□大象伝
象曰、火在水上、未濟。君子以愼辨物居方。
○象に曰く、火、水の上に在るは、未濟なり。君子以(もつ)て愼(つつし)みて物を辨(べん)じ方(ほう)に居(お)く。
 天地は万物を生成する機能。水火は万物を化成する作用。水と火が相交わり相調和することによって、万物は生成化成する。これが既済の卦の形である。水と火が相対峙しても、相交わらなければ、万物は生成化成しない。これが未済の卦の形である。
 また、坎水は物事を潤して下に降(くだ)る存在である。未済は上卦が離の火、下卦が坎の水である。水と火が相交わるか交わらないかは、水と火の上下の位置関係で決まる。未済は未だ相交わらないと云う意味だが、未だ相交わらないと云うことは、遂には相交わることになると云う意味でもある。
 下卦は未だ交わらない段階であるが、上卦に至れば交わる段階に移行するのである。君子たる者、水と火の位置関係の違いが、既済と未済の違いであると云う卦の形を見て、社会において然るべき地位を得、物事に対処するには、何事も慎みをもって、物事の性質を分析し、物事の始まりと終わり、進むか退くかと云う処置を明確に示して、その時々に適切に対処すべきである。物事は、交わり、集まり、分かれるから、その時々に適切に対処できるのである。
 例えば、君子と小人が居るとして、君子が小人の上に立ち、小人が君子に柔順に従えば、君子と小人はお互いにその役割を全うし、社会も人々の心も安定して楽しく暮らすことができる。治国平天下である。ところが、小人が君子の上に立ち、君子を力で押さえ付ければ、君子は小人の力に屈して、明智と人徳を包み隠すようになる。小人と君子はお互いにその役割を全うできないので、社会も人々の心も不安定になり、楽しく暮らすことができない。このような在り方は混迷であり、治乱であり、無道である。
 君子と小人の上下関係を入れ替えれば、治国平天下の状態は、混迷、治乱、無道となり、逆に、混迷、治乱、無道の状態は、治国平天下となる。すなわち、混迷、治乱、無道の状態を、治国平天下の状態に正すことが大切なのである。それゆえ、「君子以(もつ)て愼(つつし)みて物を辨(べん)じ方(ほう)に居(お)く」と言うのである。水と火の上下の位置関係によって社会は治まり、また、乱れるのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。濡其尾。吝。
象曰、濡其尾、亦不知極也。
○初六。其(その)尾(お)を濡らす。吝(りん)。
○象に曰く、其(その)尾(お)を濡らすとは、亦(また)、極(きよく)を知らざる也。
 初六は未済中の未済の始めの段階。物事を成し遂げ功を上げる時ではない。何事も慎みまた警戒して見守るべきである。
 初六は陰爻陽位の不正。柔順な性質で下卦坎険の下位に居る。絶対前に進んではならない立場である。しかし、初六は剛健な性質を具えている九四に応じているので、自分は才能が無いことを忘れて、過大な志を抱く。彖辞に云う「小(しよう)狐(こ)」である。
 今が未済中の未済の時であることを察することができないので、無闇に進み功を上げようとする。成し遂げようとすることに才能が追い付かず、大失敗してしまう愚人である。例えれば、小狐が深さを知らずに大川を渡ろうとして、尻尾を濡らし溺れてしまうようなものである。
 剛健な性質を具えている九四と応じていても、未済中の未済の始めの段階なので、初六を助けることはできない。初六は自分に才能が無いことを忘れて、無闇に進むので、志を実現することができない。だから、「其(その)尾(お)を濡らす。吝(りん)」と言うのである。
 初六は自分を救うことはできないので、人を救うこともできない。「吝」とは、自分も恥ずかしいけれども、相手も恥ずかしいことを云う。初六で象徴的なのは、小狐が尻尾を濡らすことである。象伝に「亦(また)、極(きよく)を知らざる也」とある。己の分(ぶん)際(ざい)を弁(わきま)えず、今が未済中の未済の始めの段階であることも知らず、無闇に進んで功を上げようとして、下卦坎の険難に陥るのは、無知にもほどがあるとを云うことである。
 初六が失敗するのは、無知だからであって、大川を渡ることはできないことではない。もし、初六に知恵があれば、未済中の未済の初期の段階であっても、大川を渡ろうとして、尻尾を濡らすことはない。大川を渡ろうとして挫折するのは、初六が未済中の未済と云う時を知らないからである。

九二。曳其輪。貞吉。
象曰、九二貞吉、中以行正也。
○九二。其(その)輪(わ)を曳(ひ)く。貞にして吉。
○象に曰く、九二の貞にして吉とは、中(ちゆう)以(もつ)て正を行ふ也。
 未済は君子が艱難の道を歩む時である。九二は剛健にして中庸の徳を具えて、六五の王さまと応じている。険難の時を救うことを任務としているが、今は未済中の未済の真っ只中に居り、下卦坎の主爻なので、軽々しく険難に立ち向かっていかない。
 九二は剛健柔順なので、車が進まないように車輪を繋ぎ止め、時が至るのを待ってから進むのである。決して失敗することはない。それゆえ、「其(その)輪(わ)を曳(ひ)く。貞にして吉」と言うのである。
 剛中の徳を具えて才能が高い九二が、その力に頼って応ずる六五の王さまを蔑(ないがし)ろにする心配は全くない。九二は、上位者から信任されており、下位者から信頼されている。剛中の才能が衰えることなく、王さまに仕えて決して裏切ることはない。だから、吉運を招き寄せないはずがない。
 既済の時は坎(輪)が外卦に、離(牛)が内卦に在ったので、既済の初九には「其輪(外卦坎のこと)を曳く」とある。完成した時なので、これ以上前に進まずに止まろうとしている。
 それに対して、未済の時は坎(輪)は内卦、離(牛)は外卦である。内卦(輪)の九二が外卦(牛)の六五に応じている。それゆえ、外卦(牛)が内卦(輪)を曳いて、内卦坎の険難の中に在る九二を険難から脱出させようとしている。六五の王さまが九二の賢臣を重用しようと欲しているのである。
 九二は未済中の未済から未済中の既済に移行する時を待っており、六五の王さまに感謝している。
 象伝に「中以て正を行ふ也」とあるのは、今は功を上げ、事を成し遂げる時でないことを九二は知っているので、剛健中庸の徳を発動し、今、進むべきか退くべきかを明らかにするので、時に適切に対処することができると云うことである。
 未済中の未済の真っ只中に在る九二の段階では、大川を渡らずに止まっていることが正解である。九二は陽爻陰位であるが、中庸の徳を具えているので止まることができる。今と云う時をよく知っているから妄動しないのである。
 昔、太公望が紂王を避けて北海の浜辺から動かなかったのは、今は止まることが正解だと云うことを知っていたからである。その後、文王と出逢って功を上げたのは、今は動くべきだと、正しい判断をしたから吉運を招き寄せたのである。

六三。未濟。征凶。利渉大川。
象曰、未濟征凶、位不當也。
○六三。未だ濟(わた)らず。征(ゆ)くは凶。大川を渉るに利し。
○象に曰く、未だ濟らず、征くは凶とは、位(くらい)、當(あた)らざる也。
 六三は陰湿で柔弱な性質である。その上、才能乏しく地位は不正でやり過ぎるところがあり、内卦坎険の極点に居る。志は剛強だが力不足である。今はまだ未済中の未済の時なので、事を成し遂げ、功を上げる時ではない。強引に事を成し遂げようとすれば、時に逆らって凶運を招き寄せることになる。
 六三は下卦と上卦の境目と云う危険なところに居る。今の場所から進み行くことができれば険難から脱出できるが、一歩誤れば大失敗して大変なことになりかねない。
 六三は下卦坎と互体三四五坎の中におり、坎険に挟まれている。しかも才能も力も足りないので、進み行けば凶運を招き寄せる。それゆえ、「未だ濟(わた)らず。征くは凶」と言うのである。
 しかし、六三は下卦の極点に居て上卦に接している。未済中の未済の時が、未済中の既済の時に移行しようとしているのである。険難の中に在ると云うことは、やがては険難から脱出すると云うことである。しかし、今は一人の力で険難から脱出することはできない。それゆえ苦しむのである。
 だが今、未済中の未済の時は未済中の既済の時に移行しようとしている。応じている上九の君子の力を借りれば、険難から脱出することもできる。このことを「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」と言うのである。
 互体三四五の離(真ん中が虚なので舟に見立てられる)の舟が内卦の坎水の上に浮かんでいる形になっている。六三は離の舟の主爻である。しかも、六三は、内卦から外卦(三爻から四爻)に移行しようとする段階である。内卦から外卦に移行する時は瞬発力が求められる。昔から大きな困難に遭遇して脱出しようとした時に大きな功を上げることが多いのである。
 「征(ゆ)くは凶」とあるが、瞬発力がある誰かが、周りの支援を得て思い切って行動すれば、必ずしも凶運を招き寄せるとは限らない。六三は強風に乗って荒波を乗り越えようとしている。風が穏やかならば波は靜かで安定している。
 今は未済中の未済から未済中の既済に移行しようとしている時だから、聖人は時を逃してはならないと戒めているのである。その一方で軽挙妄動してはならないとも戒めている。その絶妙な戒めを感じ取るべきである。
 「征(ゆ)くは凶」とは、時勢を考慮しての戒めである。「大川を渉るに利し」とは物事の道理に基づいた言葉である。
 困難を克服するために進み行くのは自分の意志である。大川を渡るためには舟に乗らなければならない。自分の意志だけでは進み行くことはできないが、周りの人々や舟の力を借りれば進み行くことができると見立てているのである。

九四。貞吉。悔亡。震用伐鬼方。三年有賞于大國。
象曰、貞吉、悔亡、志行也。
○九四。貞にして吉。悔(くい)亡ぶ。震(しん)して用(もつ)て鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして大(たい)國(こく)に賞(しよう)有り。
○象に曰く、貞にして吉、悔亡ぶとは、志行わるる也。
 九四は未済中の未済から未済中の既済に移った時である。未済中の未済の時には何事を成し遂げようとしても後悔することになるが、未済中の既済に移行した今ならば、後悔することはない。それゆえ、「貞にして吉。悔(くい)亡ぶ」と言うのである。
 天下国家に生じた大きな困難に対処するには、剛健の性質と才能が必要である。九四は陽爻(剛健)だが、陰位(不正の位)なので「貞(ただ)しくあれ」と戒めているのである。
 九四は王さまの側近として、文明の時に在り、陽剛の才能と道徳を具えて、時勢を改革しようしている。未済の困難を乗り越える人物である。九四の邪魔をする人物は、田畑に生える雑草と同じなので、抜き去らなければならない。
 九四を邪魔する雑草を討伐するのが九四の役割である。それゆえ、「震(しん)して用(もつ)て鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ」と言うのである。昔の人々がよく争ったのは、このような邪魔者を討伐するためである。
 九四は互体三四五の坎の真ん中に在るので、耳を覆うと云う意味がある。未済の困難を取り除いて、既済の調和を実現することは、一朝一夕にできることではない。始めは中々結果が出ないものである。しかし、時間をかけて邪魔者を取り除く工夫をすれば、邪魔者を討伐することができる。
 それゆえ、「三年にして大(たい)國(こく)に賞(しよう)有り」と言う。三年とは十年以上の長期間と云う意味であり、大国とは六五の王さまのことである。すなわち、王さまからご褒美を賜るのである。
 また、九四は六五の王さまを凌ぐ実力がある。その実力を正しく用いなければ大変なことになる。自らが仕える王さまに刃向かえば後悔することになる。王さまに心から仕えてこそ、その役割を果たすことになり、吉運を招き寄せるのである。
 九四は既済の九三がひっくり返った形なので、既済の九三も未済の九四も「鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ」と云う言葉が使われている。
 既済の九三は衰運に向かおうとする時に功業を成し遂げようとするから苦労するので、殷王朝の中興の祖と称される武(ぶ)丁(てい)に例えて「高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ」と表現した。衰運に向かおうとしている時に功業を成し遂げようとしてはならないのである。九四は未済中の未済から未済中の既済に移行した時であるから、物事を成し遂げることが可能となる。
 九四は六五の王さまを補佐する側近として、王さまに仕えるべきである。九四が側近としての役割を全うすれば、未済中の未済の時は未済中の既済の時に移行する。未済中の既済の時に移行すれば、何事も静かにゆったりと完成していくのである。
 未済の時は、また既済に向かって行くために、困難に立ち向かう時である。それゆえ、既済中の既済から既済中の未済の時に移行しようとする既済の九三の象伝には「憊(つか)れる也/国力が衰えたのである」と言い、この爻の小象伝には「志行わるる也」と言うのである。「志行わるる也」とは、国家のために尽くして治国平天下を実現することである。
 共に「三年して/十年以上の長期間の例え」とあるが、共に長期間かけて完成から衰退に向かい、衰退から完成に向かって行くのである。

六五。貞吉、无悔。君子之光。有孚、吉。
象曰、君子之光、其暉吉也。
○六五。貞にして吉、悔(くい)无し。君子の光なり。孚(まこと)有り、吉。
○象に曰く、君子の光とは、其れ暉(かがや)きて吉なる也。
 六五は王さまの地位に在るが、陰爻陽位の不正ゆえ、王さまとして後悔する心配がある。しかし六五は志が強固なので、王さまとしての役割を全うすべく、よく賢臣の諫言を受け容れる。未済中の未済から、未済中の既済の時に完全に移行した今、九四の側近の力を借りて、確実に吉運を招き寄せる。それゆえ、九四では「悔(くい)亡ぶ」と言い、六五では「悔(くい)无(な)し」と言う。「貞にして吉」とあるのは、「正しくあれ」と戒めているのである。
 六五の王さまは柔順な性質で中庸の徳を具えている。上卦離・文明の主爻として、九四の側近と陰陽相比しており、九二の大臣と応じている。私利私欲を捨てて、九二の賢臣に政治を委任する。真心が外面に溢れ出て、未済中の未済を完全に脱出して、未済中の既済を実現する。文明社会を築き上げる聖人のような王さまである。悪を憎み善を好むので、天下国家は精神的に豊かになる。以上のことから、六五の明徳を称賛して「君子の光なり。孚(まこと)有り、吉」と言うのである。
 六五を天に例えるとお日さまである。お日さまと火の性質を兼ねているので、柔順ながら剛健、陰柔ながら豪快である。柔順中庸なので正しく、明徳(離の主爻)を具えているのでぴかぴかと光り輝いており、真心が外面に溢れ出ている。
 象伝に「其(そ)れ暉(かがや)きて吉なる也」とあるのは、この爻は六十四卦の中で最後の六五として離の主爻であるから、その明智・明徳により光り輝いて吉運を招き寄せるのである。また、明智・明徳を具えている君子ゆえ、善美で光り輝く天下国家を築き上げることができる、と云うことである。
 六五の王さまは陽剛の賢者(上九・九四・九二)に囲まれているから、共に親しみ合い和合して、未済中の未済の時を未済中の既済の時に完全に移行することができる。王さまとしての仁徳が天下国家に光り輝き、吉運を招き寄せることを誰も邪魔することはできないのである。
 「暉(かがや)きて吉」とは、光り輝く状態が常に倍増していくから、乱が治まり和合するのである。大雨が降った後に、太陽の光が輝いて、キラキラしている空気のような状態である。
 易経には「悔い亡ぶ」と「悔い无(な)し」と云う言い方がある。「悔い无し」は「悔い亡ぶ」よりも、後悔することが少ない状態を示している。つまり、四爻の「悔い亡ぶ」から五爻の「悔い无し」と云う状態に至るのである。四爻に「悔い亡ぶ」とあり、五爻に「悔い无し」と続いてあるのは、沢山咸、雷天大壮、そして火水未済の三つの卦だけである。

上九。有孚于飲酒。无咎。濡其首、有孚失是。
象曰、飲酒濡首、亦不知節也。
○上九。酒を飲むに孚(まこと)有り。咎(とが)无(な)し。其(その)首(こうべ)を濡らせば、孚有れども是(ぜ)を失う。
○象に曰く、酒を飲み首を濡らすは、亦(また)、節(せつ)を知らざる也。
 上六は剛健の性質を具えて卦極に在る。究極の剛健の性質を具えている。明るい性質の離の極点に居り究極の明るい性質も具えている。剛健で明るい才能を具えて王さまの後ろに居る。文明社会を統治する王さまをサポートする相談役である。
 時は未済中の未済から未済中の既済に移行したので、もはや何もすることはない。酒でも飲んで泰然自若と楽しむがよい。未済の時は六五の段階で未済中の既済に完全に移行して、上九に至れば既済は目の前に在るから、ほとんど既済の時となる。
 だが、未だ未済の時から既済の時に完全に移行したわけではない。君臣和楽して未済中の既済の時に安らぎ、既済の時に完全に移行するのを待っていれば、自然と既済の時が到来する。それゆえ「酒を飲むに孚(まこと)有り。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「酒を飲む」とは宴会を楽しむと云う意味。心身ともにリラックスすることの例えである。「孚(まこと)有り」とは、六五の王さまのことである。上九は「酒を飲む」人である。この言葉はじっくりと味わうべきである。「酒を飲む」と云う言葉を用いているのは、未済中の未済から未済中の既済に移行した今、功を上げることを貪り、私利私欲を追求して、小狐が大川を渡るように盲進すれば、吉運転じて凶運を招き寄せ、未済中の既済の時から未済中の既済の時に逆戻りしてしまう恐れがある。それゆえ「其(その)首(こうべ)を濡らせば、孚(まこと)有れども是(ぜ)を失う」と言うのである。
 「是(ぜ)を失う」の「是」とは、富裕な状態、成功した状態である。天下国家は困難に陥っている時に治まる方向に向かい、安定した状態が続いている時に乱れる方向に向かう。上九は安定した状態なので、お酒を飲み過ぎて安逸に溺れれば、小狐が盲進して大川を渡り溺れてしまうだけでなく、六五の王さまの真心を台無しにしてしまうのである。
 既済の上六の時に狐の首を濡らすのは水である。未済の上九の時に狐の首を濡らすのは酒である。水が首を濡らしても自分が溺れるだけだが、酒が首を濡らせば自分が溺れるだけでなく、天下国家が乱れることになる。易経に書いてある戒めの言葉を甘く見てはならない。
 象伝に「節を知らざる也」とあるのは酒に溺れてはならないと戒めているのである。「亦(また)、節を知らざる也」の「亦(また)」とは、吉凶二つの道を示している。上九の時は真心を内に秘めて泰然自若としているべきだが、私利私欲を貪欲に追求すれば、吉運は凶運に転じて全てを失うことになる。節度を知らないととんでもないことになる。「孚(まこと)有れども是(ぜ)を失う」とは、聖人が親切に人の道を教示しているのである。上九が変ずれば外卦は震となり躍動する形となり、節度を知らないことを示している。
 爻辞は周公旦が言葉をかけたと伝わる。周公旦は、既済の終わりに、首を濡らして時を失うと書き、未済の終わりに首を濡らして人としての節度を失うと書いた。未済の六五に至れば、未完成の時から完成に向かう時に転じるが、上九に至ると油断しやすいから気を付けなさいと戒めているのである。

  高島嘉右衛門著「高島易断」 古典解釈の超意訳
      第一刷発行
      令和三年(皇紀二八六一年)一月吉日
            著者 白倉信司  発行人 白倉事務所
                 〒四〇〇の〇〇〇六
                         山梨県甲府市天神町八の八

 

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呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

63.水火既済

□卦辞(彖辞)
既濟、亨小。利貞。初吉、終亂。
○既(き)濟(せい)は亨(とお)ること小なり。貞(ただ)しきに利(よろ)し。初めは吉、終りは亂(みだ)る。
 既済は上卦坎、下卦離。坎は水、離は火である。下る性質を有する水が上に在り、上る性質を有する火が下にある。
 太陽の火の熱が大地を照らして、大地に在る水が水蒸気となり蒸発していく形である。天地交われば万物を生ずる。水と火が交われば万物を生成化成する。天地の交わりの中で水と火の交わりよりもダイナミックな作用を及ぼすものはない。
 そのダイナミックな作用は八卦の中では坎水と離火に内包されている。それゆえ、乾と坤が交われば、坎と離となり。坎と離が交われば水火既済となるのである。
 易の物語が乾為天と坤為地から始まり、水火既済と火水未済で終わるのは、陰陽相互作用のシナリオを示している。
 水火既済は天地の交わりの中でもっともダイナミックな交わりである水と火が交わって大事業を成し遂げる。万物創造の妙用である。坎の中男が上に在り、離の中女が下に在るのは、男女がそれぞれの役割を全うしていることを示している。
 上卦に中男、下卦に中女と云う形は、女性が男性の家にお嫁入りして家庭を築いていることを現している。それゆえ、この卦を既済(既に嫁入り済み)と名付けたのである。
 既済とは既に造化が済(な)ると云う意味である。陰陽それぞれがその役割を全うした時は靜かで安定した状態になる。陰陽相互作用は、限りない創造活動による安定した秩序の形成である。
 この卦は、水が火の上に在るので、火が炎上して火災になることはない。火は水を温め、水は水蒸気となり、やがて慈雨が降ってくる。火と水がそれぞれの役割を全うしているのである。
 既済とはあらゆる物事が通じ合い、事業を成し遂げることである。また、相互作用、救済と云う意味もある。
 易経を学ぶ上で大切なことは六爻の応比の関係である。六十四の物語の中で陰陽応比の関係が正しく作用する物語は、地天泰、沢山咸、風雷益、水火既済の四つの物語である。その中でも完璧に陰陽応比の関係が正しいのは水火既済である。
 上卦と下卦の関係で見ると、地天泰の時が陰陽正しく交わる形であるが、六爻それぞれの関係で見ると、応比の関係が全て成立して、かつ各爻がそれぞれ正しい地位を得ている(陽爻陽位、陰爻陰位)のは水火既済だけである。
 天下国家が円滑で調和する状態に至るには、天下国家の構成員がその役割を全うすることが肝要である。水火既済は六爻全てがその役割を全うする時ゆえ、円滑で調和する状態に至っている。

□彖伝
彖曰、既濟亨、小者亨也。利貞、剛柔正而位當也。初吉、柔得中也。終止則亂。其道窮也。
○彖に曰く、既濟は亨(とお)るとは小なる者亨る也。貞しきに利しとは、剛柔正しくして位(くらい)當(あた)れば也。初めは吉とは、柔、中を得(う)れば也。終りに止まれば則ち亂(みだ)る。其(その)道(みち)窮(きわ)まる也。
 この卦を人間社会に当て嵌めると、あらゆる事業が完成する時である。しかも、六爻全てが陰陽定位を得ているので、これ以上望めないほど完全な状態である。
 それゆえ、既済の氣運を招き寄せることができれば、実力のない人でもそれなりの事業を完成させることができる。実力のある人は実力に見合った大きな事業を完成させることができる。全ての事業は完成し、全ての人が功を上げる時である。
 以上のようであるから、完成した事業を維持すべきである。軽々しく変更してはならない。些末なことなら変更してもよいが、事業の根幹を覆すような大変革を起こしてはならない。
 もし、事業の根幹を覆すような大変革を起こせば、自ら墓穴を掘って自滅する。例えるならば、牛の角を手に入れようとして、うっかり牛を逃してしまうようなものである。このことを「既濟は亨るとは、小なる者亨る也。貞しきに利しとは、剛柔正しくして位當れば也」と言うのである。
 治乱興亡は循環する。栄枯盛衰の理(ことわり)である。既済の時の始めはまだ緊張感が漂っている。だから、完成した事業を維持・継続できる。だが、既済の時も半ばを過ぎると緊張感が緩み、驕(おご)り高ぶる心が生まれて、災いを招き寄せることになる。
 あるいは、完成した事業を維持・継続することを退屈に思って、無闇に事業を変更しようとして失敗する。このような事態に陥れば、せっかく完成した事業の成果を全て失うことになる。このことを「初めは吉とは、柔、中を得れば也。終りに止まれば則ち亂る。其の道窮まる也」と言うのである。
 六二は柔順の性質を有して、初九と九三の陽爻の間に在り、中庸の徳を具えているから、内卦は吉運の真っ只中にある。けれども、九五は六四と上六の陰爻の間に挟まれて動きがとれなくなっている。すなわち、困窮に陥るのは、既済の時が内卦から外卦に移行してからである。
 卦辞・彖辞に「終りは亂(みだ)る」とあり、彖伝に「終りに止まれば則ち亂(みだ)る」とあるのは、人情として物事が何の問題もなく順調に進んでいるときは、ついつい怠る心が生じて、怠れば何か問題が起こることに気が付かない。だから、何の対策も講じないので終には乱れることを云う。それゆえ、既済の時は内卦の段階で何事にも慎んで自重することが肝要だと諭しているのである。
 「終りに止まれば則ち亂(みだ)る」と云う文章の「止まる」と云う言葉を味わうべきである。

□大象伝
象曰、水在火上、既濟。君子以思患而豫防之。
○象に曰く、水、火の上に在るは既濟なり。君子以(もつ)て患(うれい)を思うて豫(あらかじ)め之(これ)を防ぐ。
 水の性質は常に潤っており下ろう下ろうとする。火の性質は常に炎が燃えており上ろう上ろうとする。この卦は常に下ろう下ろうとする水の下に、常に上ろう上ろうとする火が在る。
 水は火で温められて水蒸気となり上っていくので、火を消してしまう心配はなく、上ろう上ろうとする火は水を温めるという役割を果たして、他に燃え移って炎上する心配はない。
 すなわち、陰陽よく交わり、お互い補完し合う関係だから、万事物事が成就する時である。既済の既済たる所以である。
 けれども、天下国家の心配事は、備えのないところに発生するものである。だから、備えあれば憂いなしと云うことである。
 あらかじめ心配事が起こらないように備えておかなければ、後日、心配事が発生して後悔することになる。心配事が発生してから対応しても遅い。そこで、君子は応比の関係が全て成立して、かつ各爻がそれぞれ正しい地位を得ている(陽爻陽位、陰爻陰位)既済の形を見て、日は昇ればやがて傾き、満月はやがて新月となるように、天の運行は循環しているので、後日、この形が崩れて心配事が発生しないように備えるのである。
 そこで、少しでも長くこの形を維持するために、何事にも慎みの心を忘れず、懼(おそ)れ警戒して、この形が崩れることを予防する。坎の険難が外卦に在るのは、心配事を予防する形である。離の明智が内卦に在るのは、予防することをよく考える形である。
 既済はあらゆる物事が通じ合い、事業を成し遂げる時だから、すぐに心配事が発生することはない。だが、事業を成し遂げた後には、心配事が発生するものである。
 それゆえ、予(あらかじ)め心配事を予防して、あらゆる物事が通じ合う形を維持すれば、心配事は発生しない。だから「君子以(もつ)て患(うれい)を思うて豫(あらかじ)め之(これ)を防ぐ」と言うのである。
 また、人間の文明生活に必要不可欠なのは火の存在である。だが、大火事などで大災害を引き起こすのも火が在るからである。既済は火の上に水があるので、火が炎上して大火災を引き起こすことはない。すなわち、心配事が大災害に発展することはないのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。曳其輪。濡其尾。无咎。
象曰、曳其輪、義无咎也。
○初九。其(その)輪を曳(ひ)く。其(その)尾を濡らす。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)輪を曳(ひ)くとは、義、咎(とが)无(な)き也。
 水火既済と火水未済の二つの卦の関係は、大凡(おおよそ)地天泰と天地否と同じである。地天泰は下卦の三爻を泰中の泰(本来在るべき泰の時)として、上卦の三爻を泰中の否(泰の時が崩れて天地否の時に以降しつつある時)とする。また、天地否は下卦の三爻を否中の否(本来在るべき否の時)として、上卦の三爻を否中の泰(否の時から泰の時に以降しつつある時)とする。
 水火既済もこれと同じように考える。既済と未済の時が分かれるのは、離の明智と坎の険難である。泰と否の時が分かれるのは、乾の積極性を満たされているものと考え、坤の消極性を不足していると考えるのと同じである。
 既済は物事が完成したと云う意味である。下卦三爻は既済中の既済(本来在るべき既済の時)だから、今の状態を維持することが肝要である。もし、迂(う)闊(かつ)に動き進んで、その状態が崩れれば、既済中の未済に向かい、内卦の離(明智)の時から、外卦の坎(険難)の時に移行してしまう。それゆえ、既済は下卦三爻の段階で、今の状態を固く維持することを教えるのである。
 未済は未だに物事が完成しないと云う意味である。とくに下卦三爻は未済中の未済(本来在るべき未済の時)であるから、その事業は未だに完成せず、その時(時機)は未だに至らない。それゆえ、時が至るのを静かに待つことが肝要である。
 天下国家で起こることは、上手くいかなかったり、乱れたりすることが多く、丘の上から石が転がり落ちるようである。
 物事を完成させたり、天下国家を治めることは難しいことである。功を上げるのは、車を押して急な坂を登っていくようなものである。それゆえ、既済の内卦においては、勝っている状態から一転して敗れる状態に移行したり、治まっている状態から一転して乱れる状態に移行することを回避するために、今の状態を固く維持することを肝要とする。
 未済の内卦においては、物事を完成させることや天下国家を治めることは難しいことなので、未済の時から既済の時に移行するまで静かにじっと見守っていることを肝要とする。
 以上のことから、既済と未済の時においては、初爻と二爻は共に進み行くことを戒めており、「其(その)尾を濡らす」と云う同じ文章が用いられている。共に「其(その)尾を濡らす」と云う失態を演じることになるが、大事には至らず、戒めることによりそれ以上事態は悪化しないのである。すなわち、初九は自らを戒めることによって、希望を将来につなげることができたのである。
 初九は陽剛の性質を有して最下に在り、六四と応じている。最下と云う卑賤な地位に在るので前に進もうとはしないのである。六四に抜擢任用されようなどと云う野心は抱かない。川を渡る時に例えているのは、既済の済の字が水を渡ると云う意味があるので、その意味に従って文章を作ったのである。
 六四は険難の中に在るので、初九は力を尽くして六四を救おうとする。すなわち、車に乗って前に進もうとするが、後から尻尾を掴まれて進まないように曳き戻されるのである。狐が川を渡る時に尻尾が濡れると渡れないように、初九は六四のところに進み行くことができない。狐が川を渡ろうとして尻尾を濡らし渡ることができないように、進み行くことができない。気力が足りないのである。それゆえ、狐が尻尾を濡らす話に例えているのである。
 初九が気力に満ち溢れており、六四のもとに果敢に進み行こうとすれば、既済中の既済の時は、既済中の未済の時に移行する。しかし、結局は、狐が尻尾を濡らすように、後から尻尾を掴まれて曳き戻されるので、溺れることを回避できる。すなわち、何も問題は起こらないのである。
 既済の時は、それぞれが自分の役割を全うするために、安易に行動を起こさない。強引に行動を起こせば凶運を招き寄せる。
 象伝に「義、咎(とが)无(な)き也」とあるが、「義」とは、安易に行動を起こさないことである。安易に行動を起こさないから、問題が発生しないのであり、強引に行動を引き起こせば、凶運を招き寄せる。よって、初九は安易に行動を起こさないのである。
六二。婦喪其茀。勿逐。七日得。
象曰、七日得、以中道也。
○六二。婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ。逐(お)ふ勿(なか)れ。七(なぬ)日(か)にして得(う)。
○象に曰く、七(なぬ)日(か)にして得(う)とは、中(ちゆう)道(どう)を以(もつ)て也。
 「茀(ふつ)」とは、宝石をちりばめた女性用の首飾りである。五爻が夫の位ならば、二爻は妻の位である。上卦坎には「盗む」「喪(うしな)う」と云う形がある。下卦離は家族に例えれば中女であり、女性の形がある。それゆえ、六二を「婦」と云うのである。
 この爻辞は、上卦坎と下卦離の性質と二爻と五爻の関係から、二爻と五爻を夫婦と見なして、文章を作っている。
 六二の婦人は文明的で中庸の徳を具えて正しい地位に就いており、陽剛の性質で中庸の徳を具えて正しい地位に就いている夫と陰陽相応じている。しかし、三爻と四爻がその間に居て邪魔するので、お互いに逢うことができないのである。
 九五の夫は王さまの地位に居て、驕り高ぶるところがあるので、六二の妻に謙ることができない。妻を立てることができない。既済の時の在るべき人間関係に反しているのである。
 それゆえ、九五も六二も共に傷付く。以上のことから、九五も六二も優れた才能を持っていながら、それを活かすことができない。女性が大切な首飾りを失うことを恐れて外出しないようである。このことを「婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ」と言うのである。
 物事が失われるのは、既済の時の在るべき人間関係を怠ったからである。「婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ」とは、六二が九五と応じているが九五の下へは行くべきではないことの例えである。六二は性急に九五の下に行ってはならないと教えているのである。
 九五の夫は驕り高ぶる気持ちがあるので、六二の妻に謙ること、妻を立てることができない。六二の妻は九五の夫が自分を立ててくれないので、内助の功を発揮することができないのである。
 女性が大切な首飾りを失うことがあっても、やがては首飾りは見つかるように、現在の六二と九五の関係は良好ではないが、やがて時が至れば六二の妻と九五の夫は助け合うようになる。
 六二の妻は従順な性質で中庸の徳を具えている。性急に夫の元に行こうとせずに時が至るのを待つので、夫との関係はやがて良好になる。だから「逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得(う)」と言うのである。
 「得」は「喪」に対して用いている言葉であり、失われた人間関係が回復すると云う意味である。「七日」とは卦の時が一巡すると云う意味であり、震為雷の六二の爻辞にある「逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得(え)ん」と同じ意味である。「逐(お)ふ勿(なか)れ」と云う言葉は重い。人間と云うものは、喜怒哀楽の感情で動いてしまうものなので、求める人に逢いたい気持ちを抑えることができない。「逐(お)ふ」とは、感情のままに行動することである。感情のままに行動すれば人間関係を損なう。それゆえ、感情のままに行動することを戒めているのである。
 象伝の「中道を以て也」とは、時が至るのを待って共に助け合うようになる理由を、六二と九五が共に中庸の徳を具えて、正しい地位に就いているからだと示しているのである。

九三。高宗伐鬼方。三年克之。小人勿用。
象曰、三年克之、憊也。
○九三。高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ。小人は用(もち)ふる勿(なか)れ。
○象に曰く、三年にして之に克(か)つとは、憊(つか)るる也。
 「高(こう)宗(そう)」は古代中国・殷王朝の中興の祖と称される「武(ぶ)丁(てい)」のこと。「鬼(き)方(ほう)」は遠方の地にある異民族のことである。
 九三は下卦の終わりに居て、既済中の既済から既済中の未済に移行しようとする時である。完成する時である既済といえども、やがて少しずつ衰え、遠方の地にある異民族が攻めてくることもある。九三はやり過ぎる性格と地位に在るので、異民族が攻めてくる前にこちらから攻めていこうとしかねない。
 陰陽五行の見方からは、下卦の火(離)は上卦の水(坎)にやっつけられる形になっている。既済と未済の卦は、離(火)と坎(水)の組み合わせとなっている。離は明智でもあるので、君子が明智で善き行いを尽くすことを物語っている。殷王朝の中興の祖と称される武(ぶ)丁(てい)に例えることができるので「高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ」と言うのである。
 三年にして之に克(か)つ」の「三年」は、「長い年月」である。長い年月かけてようやく成し遂げることができるので、割が合わないのである。中興の祖と云われる武(ぶ)丁(てい)だから、ようやく成し遂げることができたのである。さんざん苦労したのである。
 あらゆる物事が完成する既済の時において、小人を迂闊に任用すれば、安定している社会秩序を自ら壊すことになる。それゆえ「小人は用ふる勿れ」と言うのである。
 綻びが生ずるのは、いつも小人の言行からである。綻びはやがて動乱や反乱につながるので、武力を用いて抑えなければならなくなる。社会の秩序を保ち、民衆を安心させることができるのは名君だけである。小人を用いて、社会の秩序を壊せば、動乱や反乱を招き寄せて、民衆を苦しめることになる。
 象伝に「憊(つか)るる也」とあるが、「憊(つか)るる」とは苦労して疲労困憊することである。既済中の既済から既済中の未済に移行する時において、既済中の既済の状態を保つことの難しさは、殷王朝中興の祖である武丁にして、散々苦労したことを見れば明らかである。武丁は既済中の既済の状態を保とうとして長い年月をかけてようやく成し遂げたものの、割が合わなかったのである。だから。九三の如く小人にできることではない。災いを招き寄せて民衆を苦しめるのが関の山である。
六四。繻有衣袽。終日戒。
象曰、終日戒、有所疑也。
○六四。繻(ぬるる)に衣(い)袽(じよ)有り。終日戒(いまし)む。
○象に曰く、終日戒(いまし)むとは、疑う所有る也。
 「繻(ぬるる)」とは、これまで安定して航行していた舟の底に穴が開いて水が漏れ始めることである。「衣(い)袽(じよ)」とは、水が漏れるのを防ぐために古い衣服を用いて穴を塞ぐことである。昔は舟の底に穴が開いた時は、破れた衣服を用いて穴を塞いだのである。
 六四は既済中の既済の時から、既済中の未済の時に移行した段階。安定していた秩序が崩れ始める時である。舟の底に小さな穴が開いた程度なら古い衣服を用いて穴を塞げば、舟が転覆することはないが、既に秩序は乱れ始めている。六四は外卦坎の険難の始めに居るから、終日自らを戒めることが肝要である。
 水火既済には水を渡ると云う意味がある。六四は互体二三四の坎と上卦坎に挟まれており、舟が水難に次ぐ水難に遭遇している形である。それゆえ、舟の底に穴が開いたことに例えて、危険な状況を説明している。舟に乗って渡航する人は、予め舟が沈んだ時のことを想定して溺れないように備えておくものである。
 今、六四は既済中の未済の時に居て、互体二三四の坎と上卦坎の間に挟まれている。既済中の既済の時が終わり、既済中の未済の時が来たことを恐れ慎んでいる。穴が開いた舟で大海を渡るように、穴を古い衣服で塞いで舟が沈没しないようにしなければ、いつ舟が沈んでしまうかわからない。それゆえ「繻(ぬるる)に衣(い)袽(じよ)有り。終日戒む」と言うのである。
 六爻全てが陰陽定位を得て、これ以上望めないほど完全な状態である既済の時に在って、既済中の既済から既済中の未済の時に移行した今、常に舟が沈まないように備えなければならない。六四は王さまの側近として、既済中の既済から既済中の未済に移行した危うい状況に在ることを認識して天下を治めるべきである。このことを象伝で「疑う所有る也」と言う。
 舟に穴が開いて沈没するのではないかと疑って、常に古い衣服で穴を塞いで、舟が沈まないようにしなければならない。既済の時だからといって決して安心してはならないのである。

九五。東鄰殺牛、不如西鄰之禴祭、實受其福。
象曰、東鄰殺牛、不如西鄰之時也。實受其福、吉大來也。
○九五。東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して、實(じつ)に其(その)福(さいわい)を受くるに如(し)かず。
○象に曰く、東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の時なるに如(し)かざる也。實(じつ)に其(その)福(さいわい)を受くとは、吉大いに來(きた)る也。
 「東(とう)鄰(りん)」とは、九五の陽爻を指しており、「西(せい)鄰(りん)」とは、六二の陰爻を指している。東に陽の君主が居て、西に陰の臣下が居るのは、君臣の在るべき形である。
 九五の王さまは既済の時に在って、剛健中正の徳を具えて既済中の未済と云う険難の中に居る。既済の時の王さまで在りながらも、上卦坎の険難の主爻だから、心配事が絶えないのである。
 けれども、王さまの役割を全うすべく、何事にも畏れ慎み神仏を尊崇している。王さまとして、やるべきことをやり、足りないところは神仏にお願いするしかないのである。
 わが国・日本においては、伊勢神宮を始めとして、各地の神社に参拝して神仏のご加護を賜る。天下国家を治める者の王道である。天下泰平の時の王さまは、驕り高ぶり、神仏を尊崇する心を忘れる。為政者が陥りやすい落とし穴である。それゆえ、古(いにしえ)の教えは神仏を尊崇することを説くのである。
 今、既済中の既済の時は終わり、既済中の未済の時に至った。それゆえ、神仏を尊崇する心が大切である。神仏をお祀りするのは、真心と敬う心が何よりも大切である。真心と敬う心で神仏をお祀りするから、天下国家を治めることができる。神仏をお祀りする者は、虚飾を取り除かなければならない。このようであってこそ天命を全うすることができるのである。
 それゆえ、わが国においては、天照大神の末(まつ)裔(えい)であられる皇室が質素倹約を重んじている。これを「東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して、實(じつ)に其(その)福(ふく)を受くるに如(し)かず」と言うのである。真心があれば、神仏をお祀りするべきである。それゆえ、「西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して」と言う。「西(せい)鄰(りん)」とは六二のことである。
 六二は真心があるので、中庸の徳を発揮して、最初は九五に疑われるが、最後は吉運を招き寄せることを示している。
 「禴(やく)祭(さい)」の「禴(やく)」は、質素と同じ意味なので、「禴(やく)祭(さい)」とは、質素なお祭りである。「東(とう)鄰(りん)に牛を殺す」の「東(とう)鄰(りん)」は九五のことで、「牛を殺す」とは、贅沢なお祭りである。
 小人は質素なお祭りよりも贅沢なお祭りをして、御利益を求めるものであるが、質素なお祭りを行って誠実さを貫けば、贅沢なお祭りよりも御利益を賜ることができる。
 困難なことを嫌い、無難なことを求めるのが、人間の感情だが、無難な時には幸福感を味わうことはできない。それゆえ、聖人は困難に立ち向かうのである。
 六二が誠実さを貫いて質素なお祭りを行うのは、九五が贅沢なお祭りを行うことと、その内容において劣らないのである。神仏を尊崇する気持ちは誠実さに現れるもので、お金をかければ尊崇すると云うことにはならない。贅沢なお祭りを行っても、神仏の御利益を賜るとは限らないのである。
 それゆえ、象伝に「東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の時なるに如(し)かざる也」と言うのである。「實(じつ)に其(その)福(ふく)を受く」のは、誠実だから幸福を招き寄せるのである。
上六。濡其首。厲。
象曰、濡其首厲、何可久也。
○上六。其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)し。
○象に曰く、其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)しとは、何ぞ久しかる可(べ)けん也。
 「其(その)首(こうべ)を濡らす」のは、己を戒め慎むことを忘れるから、頭まで水に浸かってしまうのである。「厲(あやう)し」とは、凶運を招き寄せると云うことである。
 物事は盛んになれば衰え、治まれば乱れるものである。上六は既済の時の終わりに居て、未済に移行しようとしている。上卦坎の険難の極点で、大川を渡ろうとして、頭まで水に浸かってしまう。身を滅ぼすまでには至らないが危険である。
 治まっている時に乱れることに思いが至らないと危険を招き寄せる。健康であることに安心しきって病気にかかるようなものである。以上のことを「其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)し」と言うのである。
 もはや完成の時は終わろうとしているのに、その自覚がないから、無謀にも大川を渡ろうとして頭まで水に浸かってしまうのである。尻尾が水に浸かる程度ならは、反省してやり直すこともできるが、頭まで水に浸かってしまえば、反省してもやり直すことはできない。このことを「何ぞ久しかる可(べ)けん也」と言うのである。

 

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62.雷山小過

□卦辞(彖辞)
小過、亨。利貞。可小事。不可大事。飛鳥遺之音。不宜上、宜下。大吉。
○小過は亨る。貞しきに利し。小事に可なり。大事に可ならず。飛(ひ)鳥(ちよう)、之(これ)が音(ね)を遺(のこ)す。上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し。大吉。
 小過は上卦震、下卦艮。震は雷、艮は山。山の上に雷が轟き渡る形である。雷は天から大地に向かって発する雷電エネルギー。震い動く性質で、万物の生成発展を奮い立たせる自然現象である。
 今は、山の上で雷鳴を轟き渡らせているので、万物を生成発展を奮い立たせる力はない。そこで、この卦を小過と名付けた。
 また、陽爻を大きなもの、陰爻を小さなものとした場合、陽爻が二つ陰爻が四つであり、しかも中庸の徳を具えている二爻と五爻が陰爻なので、小さなものが過ぎている形である。
 また、主人は二陽、賓客は四陰と云う形。賓客が主人よりも過ぎている形である。また、艮は止まり、震は動く、止まったり、動いたりしている。止まり過ぎることもなく、動き過ぎることもなく、少しく過ぎる程度の形である。以上のことから、小過とは小さなものが過ぎると云う意味である。
 この卦を人間社会に当て嵌めれば、内卦の自分は山の性質を具えているから動かない。篤実な性格で静粛さを保ち、守るべき事をきちんと守る。外卦の相手は雷鳴の性質を具えているから積極的に動いて物事を推進させる。そのため、自分は相手を軽率に動き過ぎると捉え、相手は自分を頑固だと捉える。
 お互い志が噛み合わず、行動が一致しない。一方は止まることに過ぎて、一方は動くことに過ぎる。論語に「過ぎたるは、猶(な)お、及ばざるが如し」とあるが、止まることに過ぎても、動くことに過ぎても、中庸を欠くことになる。
 止まることに過ぎている位置と動くことに過ぎている位置の両端を計ると、随分と開きがある。中庸に「知者は之に過ぎ、愚者は及ばず。賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばず」とあるが、「過ぎたる」状態で中庸を欠いているよりも、「及ばない」状態で中庸を欠いていることの方が問題は大きいのである。
 「及ばない」状態は暗愚であり不肖である。だから、易に「大過」と「小過」と云う卦名はあるが、「不及」や「不足」と云う卦名はない。時運の盛衰により、少し過ぎたることが、時に適合することもある。だから、大象伝に「行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ」とあり、「小過は亨(とお)る。貞しきに利し」と言うのである。少し過ぎたることが、時に適合するのは、「貞しきに利し」と云う前提条件が付いている。
 この卦は上卦と下卦を合わせると大きな坎の形になる。下卦の自分も上卦の相手も困難に陥っている。小過の時は規則やルールに基づいて物事に取り組むべきであり、大事業を成し遂げようとしてはならない。もし、大事業に取り組もうとすれば事を誤る。それゆえ「小事に可なり。大事に可ならず」と言うのである。
 軽率に妄動して事を誤るよりも、何事も慎重に自制して過ちを犯さないようにすべきである。
 この卦は「飛ぶ鳥」の形をしているので、「飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す」と言う。鳴き声が聞こえる範囲までは行き過ぎてもよい。鳴き声が聞こえなくなるまで行き過ぎるのは、やり過ぎである。
 「上るに宜しからず、下るに宜し」の「上る」「下る」とは、鳥が上ったり下ったりすることである。人間に当て嵌めれば、「上る」は傲慢不遜であり、「下る」は謙譲謙遜である。傲慢不遜は悪徳に通ずる道であり、謙譲謙遜は人徳を磨く道である。それゆえ「上るに宜しからず、下るに宜し。大吉」と言うのである。

□彖伝
彖曰、小過、小者過而亨也。過以利貞、與時行也。柔得中。是以小事吉也。剛失位而不中。是以不可大事也。有飛鳥之象焉。飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉、上逆而下順也。
○彖に曰く、小過は小なる者過ぎて亨る也。過ぎて以て貞しきに利しとは、時と與(とも)に行ふ也。柔、中を得(う)。是(ここ)を以て小事は吉なる也。剛、位を失ひて中ならず。是を以て大事に可ならざる也。飛(ひ)鳥(ちよう)の象有り。飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す、上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し、大吉とは、上るは逆にして下るは順なれば也。
 この卦は上卦と下卦を合わせて陰爻が四つある。小人が主導権を握っている形である。けれども、六二と六五が中庸の徳を具えているので、「小過は小なる者過ぎて亨(とお)る也」と言うのである。
 「過ぎて以て貞しきに利しとは、時と與(とも)に行ふ也」とは、小過の時でも、君主の地位と忠臣の地位が無くなるはずがないと云う意味なので、「柔、中を得。是を以て小事は吉なる也。剛、位を失ひて中ならず。是を以て大事に可ならざる也」と言うのである。
 この卦の中央に在る九三と九四の陽爻は鳥の胴体に中り、初六・六二・六五・上六の四つの陰爻は鳥の翼に中る。それゆえ「飛鳥の象有り。飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す」と言うのである。
 鳥は天から大地に降りてきて住み家(鳥の巣)を作り、大地にある山川草木や農耕による農産物などを取って食べる。鳥の翼は鳥が休息するためにあるのではない。生きるために移動したり害から避けて身を守るためにある。翼があるから安心できるわけではない。翼は鳥の胴体を守るための道具である。
 鳥の意志に反して翼が動き、それに胴体が従うのではない。鳥の意志を見ることや聴くことはできないが、翼が羽ばたく音は聴くことができる。翼は遠くまで移動するための能力を有している。鳥が大空を飛んでいる時は休息することはできない。遠くまで飛翔すればするほど、胴体は疲労する。胴体が安んずることができるのは翼が休んでいる時である。
 鳥が無闇に翼を動かすことを人間に例えると、軽率な人間が欲望の赴くままに妄想して、身の丈に合わない事業を計画し、遂には目的を見失って、災難を招き寄せるようなものである。だから、上るときは天命に逆らい、下るときは天命に順うと解釈する。このことを「上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し、大吉とは、上るは逆にして下るは順なれば也」と言うのである。
 以上のようであるから、上るか下るかの進退決定は、吉運を招き寄せるか、凶運を招き寄せるかの分かれ目であり、闇雲に上下進退を決定してはならないのである。
 上卦震の長男は、下卦艮の少男の上で動いている。互体三四五兌は喜ぶ性質を有している。まるで男色のようである。
 三爻は下卦艮の主爻だから何事に対しても止まることができる。すなわち篤実な性格と見ることができる。しかし、篤実であることから、人に依頼されると拒絶することができずに、相手に騙されて身を過つこともある。

□大象伝
象曰、山上有雷、小過。君子以行過乎恭、喪過乎哀、用過乎儉。
○象に曰く、山の上に雷(かみなり)有るは、小過なり。君子以て行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ。
 雷山小過は、上卦震の雷が進んで止まらないのに対して、下卦艮の山は止まって動かない。すなわち、上卦と下卦の志が噛み合わずに行き違いが生ずるので「小過」と名付けたのである。
 正しい地位に就き、中庸の徳を具えている人物を君子と称するが、世の中には清濁があり、物事には通ずる時と塞がる時がある。それゆえ、往々にして「ちょっとやり過ぎる(中庸の徳をちょっと超える)」ことで、物事が通じる時がある。
 「ちょっとやり過ぎる」時に適合するためには、君子は大事業を成し遂げようなどと考えてはならない。「ちょっとやり過ぎる」時に大事業を成し遂げられないのはやむを得ないことである。何事も「ちょっとやり過ぎる」程度に抑制すべきである。
 喪においては「ちょっと悲しみ過ぎる程度」に抑制し、日々の生活は「ちょっと節約過ぎる程度」に抑制する。けれども、「ちょっと過ぎる程度」を超えてはならない。
 喪においては軽率であってはならない。日々の生活は傲慢であってはならない。それゆえ、「君子以て行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ」と言うのである。
 何事も「ちょっとやり過ぎる」程度に抑制するのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。飛鳥、以凶。
象曰、飛鳥以凶、不可如何也。
○初六。飛(ひ)鳥(ちよう)、以(もつ)て凶。
○象に曰く、飛鳥、以て凶とは、如(いか)何(ん)ともす可(べ)からざる也。
 「以(もつ)て凶」の「以(もつ)て」とは、春(しゆん)秋(じゆう)の「凡(およ)そ師(し)能(よ)く之を左右に以(もつ)て曰(い)う」の「以(もつ)て」と同じ用い方である。
 「飛(ひ)鳥(ちよう)、以(もつ)て凶」とは、左の方に進もうと欲し、あるいは、右の方に進もうと欲するけれども、どうすることもできないので凶運を招き寄せると云う意味である。
 この卦の全体像は飛ぶ鳥の形をしている。真ん中に在る三爻と四爻が鳥の胴体であり、両端に在る初爻と二爻、上爻と五爻は鳥の翼である。初爻と上爻は翼の先端である。
 鳥は翼を羽ばたかせて飛ぶから、その先端にあたる初爻と上爻に「飛(ひ)鳥(ちよう)」と云う言葉を使っているのである。
 初六は下卦艮山の一番下に在る。陰気で柔弱で中庸の徳も具えておらず地位も正しくない。このような人物にどうして大事なことを任せることができようか。
 だが、九四と陰陽応じる関係にある。すなわち、一番下に居ながら上に居る九四の力を借りて分不相応な出世を謀る侫人である。ずる賢い小人が時を得て羽ばたこうとしているのである。
 その一方で、小過は鳥が大空に飛び立とうとしている姿である。大空から人間社会を眺めている形でもある。
 けれども、初六は小過の始めに居て、陰柔不中正でありながら、自分の身の丈を考えずに大空に飛翔しようとする。どうがんばっても実現することはできないのである。
 だが、初六は九四の力を借りて分不相応な出世を謀る侫人なので、大空に飛翔しようとする気持ちを抑制することができない。
 本来ならば下卦艮に属しているので静かに止まるべきだが、初六はそれができない侫人である。
 九四は王さまの側近として絶大な権力を有しているので、初六は九四の力を借りて分不相応な出世を謀ろうとしている。
 実力の無い小鳥が邪心を抱いて大空に飛翔すれば、あっという間に力が尽きて墜落する。自ら招いた凶運である。それゆえ「飛鳥、以て凶」と言うのである。
 象伝に「如(いか)何(ん)ともす可(べ)からざる也」とあるのは、力の無い鳥が天空まで飛んでいけば、帰って来ることもできないし、飛んでいってしまった以上、それを止めることもできないと云うことである。
 すなわち、初六は何をどうすることもできないのである。佞人が身の丈を考えずに九四の力を借りて、分不相応な出世を謀り、凶運を招き寄せたのである。自業自得である。

六二。過其祖、遇其妣。不及其君、遇其臣。无咎。
象曰、不及其君、臣不可過也。
○六二。其(その)祖(そ)を過ぎ、其(その)妣(ひ)に遇(あ)ふ。其(その)君に及ばず、其(その)臣に遇ふ。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)君に及ばず、臣は過(す)ぐ可(べ)からざる也。
 易経の例えとして、陰陽相応ずる場合は、君臣、夫婦など結び付きが深い関係とする。陰陽相応じない場合は、父子、友人、妻妾、嫁姑など同じタイプ(同類)の関係とする。
 また、五爻は父母の位、祖父・祖母の位とする。陽爻は父・祖父であり、陰爻は母・祖母である。五爻を父母とすれば二爻は子である。五爻を祖父祖母とすれば二爻は孫である。また、五爻を君主とすれば、二爻は臣下である。
 この卦は二爻五爻共に陰爻ゆえ相応じない。祖母と母(陰と陰)の関係であり、君臣(陽と陰)の関係ではない。それゆえ五爻は君ではなく祖母(妣(ひ))なので、君主には逢えないと解釈する。
 六二は柔順中正の賢臣なので、謙遜謙譲の徳を具えて、臣下としての役割を全うする。だが、何事も「和らぎ悦ぶ」だけでは大きな利益を得ることはできないのである。
 卦辞・彖辞の「小事に可なり。大事に可ならず。上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し」とは、そのことを意味している。だから、六二は君主に逢うことを求めず、陽剛の人(九三と思われる)に逢って、自分の志を実現すべきである。そうすれば、互いに助け合って小さな利益を得ることができる。災難には巻き込まれない。
 過ぎるべき時には過ぎ、及んではならない時に及ばないのは、中庸の徳を発揮することである。偏りがないことである。
 六二は柔順中正の徳を具えて六五に逢う。このことを「其(その)祖(そ)を過ぎ、其(その)妣(ひ)に遇ふ」と言う。「祖(そ)」とは九四、「妣(ひ)」とは六五のことである。九四の「祖(そ)」とは、陽剛の大きな道と云う例えであり、六五の「妣(ひ)」とは、柔順な小枝の例えである。
 六二と六五は陰同士で応じない関係なので、六二は陰陽比している九三(陽剛の人)と逢うべきである。そうであれば、陰陽助け合って災難を招き寄せることはない。以上のことから「其(その)君に及ばず。其(その)臣に遇(あ)ふ。咎(とが)无(な)し」と言うのである。

九三。弗過、防之。從或戕之、凶。
象曰、從或戕之、凶如何也。
○九三。過ぎず、之を防ぐ。從って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶。
○象に曰く、從って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶如(いか)何(ん)せん也。
 「戕(そこな)はば」とは、「殺される」と云う意味である。九三は互体二三四兌に属する。兌には毀損する、毀(こわ)れると云う意味がある。
 九三はやり過ぎる性質で下卦の一番上に居る。陽爻陽位で正しい地位に在るが、陰爻の害悪を被(こうむ)りかねない。九三はそのことに全く気付いていない。しかも九三は上六の侫(ねい)人(じん)と陰陽相応じる関係にある。九三は侫人上六との関係を拒むべきである。しかし、九三は上六に逢うために上っていこうとするのである。
 九四もまた陽剛ゆえ動こうとする。九三が止まれば下卦艮の主爻としての役割を全うするが、上六に逢うために上っていこうとする。止まることが順当で、上っていくのは反逆である。今は非常時ではないので、侫人上六に逢うべきではない。
 しかも、今は陰爻が陽爻よりも「過ぎたる」状態なので、陰爻に近付いてはならない。九三は上六に逢うために上(のぼ)っていってはならないのである。このことを「過ぎず、之を防ぐ」と言う。
 上六に逢ってはならない時に、九三が上六に逢うために上(のぼ)っていけば、侫人上六は必ず君子九三に害悪を及ぼす。甚だしい場合は殺害されるかもしれない。それゆえ「從(したが)って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶」と言うのである。「或(あるい)は」とは、「場合によっては」「甚だしい場合には」と云う意味である。
 九三が侫人上六から自分を守るためには、自分を正しく律することが肝要である。九三が自分を正しく律することができれば凶運を招き寄せることはない。侫人上六に逢いに行かなければ九三は凶運を免れるのである。
 「從(したが)って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶」とは、もし間違えを犯せば(侫人上六に逢うために上っていけば)、最悪の場合殺害されるような凶運を招き寄せることになると云うことである。
 象伝に「凶(きよう)如(いか)何(ん)せん也」とあるのは、「自分が凶運を招き寄せたのだから、どうにもならない」と云うことである。「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時においては、九三が上六に逢いに行くことは「過ぎたる」ことなのである。
 本来ならば小人は君子に対して害悪を及ぼすことは難しい。小人は君子の威厳を恐れるからである。しかし、九三は自ら侫人上六に逢いたいと思って、自発的に上っていき、上六のことを全く疑わないのである。それゆえ、上六の害悪は九三に及ぶのである。最悪の場合は「殺害される」かもしれない。しかし、自業自得であるから、「凶(きよう)如(いか)何(ん)せん也」と言うのである。

九四。无咎。弗過、遇之。往厲。必戒。勿用。永貞。
象曰、不過遇之、位不當也。往厲必戒。終不可長也。
○九四。咎(とが)无(な)し。過ぎず、之(これ)に遇(あ)ふ。往けば厲(あやう)し。必ず戒めよ。用ふる勿(なか)れ。永く貞(てい)なれ。
○象に曰く、過ぎず之(これ)に遇(あ)ふとは、位(くらい)、當(あた)らざる也。往けば厲(あやう)し。必ず戒めよとは、終に長かる可(べ)からざる也。
 九四は「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時において、陽剛の人徳と動く性質を有し、六五の王さまと陰陽相比している。それゆえ「咎(とが)无(な)し。過ぎず、之(これ)に遇(あ)ふ」と言うのである。「遇ふ」とは自らの意志ではなく、偶然に出逢うことである。
 「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時において、「上る」ことは「程よく過ぎたる」ことを「過ぎたる」ことになる。「下る」ことが宜しい時なので、九四のように動く性質を有していることは宜しくない。それゆえ「往けば厲(あやう)し。必ず戒めよ」と言うのである。卦辞・彖辞に「上るに宜しからず、下るに宜し」と、妄動することを戒めているのと同じである。
 この卦は四陰二陽である。陰爻が陽爻を覆っている時なので、大きく行き過ぎることはないはずだが、柔順な性質を引っ込めて、剛毅な性質を表に出し、傲慢に振る舞えば、危うい立場に置かれて、凶運を招き寄せかねない。そのようになることを戒めて「用ふる勿(なか)れ」と言うのである。剛毅な性質を表に出して傲慢に振る舞うことを戒めた上で、終身そのようなことがないように正しい道を固く守りなさいと釘を刺しているのである。そのことを「用ふる勿(なか)れ。永く貞なれ」と言うのである。
 象伝に「位(くらい)、當(あた)らざる也」とあるのは、九四が陽爻陰位で正しい地位に就いていないことが、逆に「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時に適合していると判断している。それゆえ「過ぎず之(これ)に遇(あ)ふとは、位(くらい)、當(あた)らざる也」と言うのである。
 これは褒め言葉なのである。雷天大壮の六五の象伝の言葉「羊を易(さかい)に喪(うしな)うとは、位当たらざれば也/六五は君主なのに賢臣に順って後悔しないのは、君主にして柔順だからである」と全く同じ意味で用いられているのである。

六五。密雲、不雨、自我西郊。公弋取彼在穴。
象曰、密雲不雨、已上也。
○六五。密雲、雨ふらず、我が西(せい)郊(こう)よりす。公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る。
○象に曰く、密雲、雨ふらずとは、已(はなはだ)だ上(のぼ)れば也。
 「密雲、雨ふらず」は、風天小畜の卦辞・彖辞と同じで、大きな事業を成し遂げることはできないと云うことである。卦辞・彖辞にある「大事に可ならず」と同義である。
 六五は柔弱な性質で君主の地位に居て、陰に過ぎたる小過の時に中っている。以上のことから、天下国家は非常事態に突入する。それゆえ「密雲、雨ふらず」と言うのである。
 「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」の「弋(よく)して」とは、糸を矢に繋いで鳥を狩猟することである。易経でよく用いられる比喩として、大きなものは「田」に例え、より大きなものを「狩り(狩猟)」に例える。また、小さなものは「弋(よく)」に例える。 陰陽の相互作用はお互いに相和して応じ合ってから後に雨が降ってくる。小過は陰陽相和して応じ合う関係に至らないので「密雲、雨ふらず」と言う。
 風天小畜の場合は、柔よく剛を制するので雨が降らない。小過は、雷が山の上に在って雲の位置が高いから雨が降らない。陰陽の相互作用は、お互いに相手の様子を探って後に和合して相応ずる。過ぎても及ばなくても相応じないのである。
 六五の王さまは雲のように上に在り、六二の忠臣は山の下に在る。上下隔絶して意志が通じ合わないのである。それゆえ「密雲、雨ふらず」と云い、六二と六五の仁徳は天下に遍く行き渡らないことを示している。けれども、終には雨を降らせる勢いも秘めているので、「我が西郊よりす」と言うのである。「穴に在る」とは、下に居る六二の忠臣を指している。
 六五は柔順にして中庸の徳を具えており、中庸の徳と正しい地位を得ている六二の忠臣と応じ合う位置関係にあるが、陰爻同士なので君臣相和することが難しい。六五の王さまが目線を下げて六二の忠臣と相和することができれば、君臣和合して密雲雨となり、天下国家に遍く行き渡らせることも不可能ではない。それゆえ「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」と言うのである。
 「公」とは六五のことである。「弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、六二の忠臣を鳥に例えたのであり、六五の王さまが六二の忠臣を手に入れると云うことである。
 小人の勢力が盛んな時には、賢者は山林のような人里離れた所に遁れる。また「弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、卦辞・彖辞の「下るに宜し」と同義である。
 大事業が成し遂げられる時には、君主のことを「王」と例えるが、小事業しか成し遂げられない時には「公」と例える。六五は「小事は可」だが、「大事は不可」であるから、「王」とは称さずに「公」と称する。「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、六五が目線を下げて六二と和合すべきことを教えているのである。
 象伝に「已(はなは)だ上(のぼ)れば也」とあるのは、密雲が雨とならずに、遍く民衆に行き渡らないのは、王さまである六五の目線が、忠臣である六二の目線よりも高いところにあることを戒めている。もっと目線を下げて忠臣と和合しなさいと諭しているのである。

上六。弗遇、過之。飛鳥離之。凶。是謂災眚。
象曰、弗遇過之、已亢也。
○上六。遇(あ)はず、之を過ぐ。飛(ひ)鳥(ちよう)、之に離(かか)る。凶。是を災(さい)眚(せい)と謂ふ。
○象に曰く、遇(あ)はず之を過ぐとは、已(はなは)だ亢(たかぶ)る也。
 この卦は、陽爻が二つ、陰爻が四つと、陰爻が過ぎたる形をしている。その陰爻が過ぎたる時に上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、しかも卦極に居る。陰の過ぎたる状態が甚だしい存在である。九三と九四の陽爻の爻辞「遇わず、之を過ぐ」は、上六の爻辞と全く同じだが、その意味は全く異なる。
 上六は陰に過ぎて正しい道を歩むことができない。過ぎたることが甚だしい存在だから「遇わず、之を過ぐ」と言うのである。「遇わず、之を過ぐ」の「之」とは、「正しい道」のことである。
 上六は飛(ひ)鳥(ちよう)の翼の先端にあたるので、初六と同じ「飛鳥」と云う言葉が用いられている。だが、初六とは異なり、卦極に居るので、動き過ぎて止まることを知らないのである。
 柔弱な小人が調子に乗り妄動して高ぶる(亢ぶる)のである。傲慢不遜な輩(やから)である。飛鳥が大空に飛翔したところ、予測していなかった災害に遭遇し、網にかかって捕らえられてしまう。凶運を招き寄せることは疑う余地もない。以上を「之を過ぐ。飛鳥、之に離(かか)る。凶」と言うのである。
 「凶」とは、天災や人災を次々に招き寄せることである。それゆえ「是を災(さい)眚(せい)と謂う」とある。「天災」を「災(さい)」、「人災」を「眚(せい)」と言うのである。小人は「人災(眚)」を招き寄せる。驕り高ぶり(亢ぶり)傲慢に過ぎるので、凶運を招き寄せる。天の道から大きく外れて人間としての情理を忘れるのである。これが飛鳥であれば、網にかかって捕らえられ、人であれば、ありとあらゆる天災と人災を次から次へと招き寄せるのである。
 だから、「之に離(かか)る」と言うのである。ありとあらゆる天災と人災を招き寄せることを「之に離(かか)る」と表現したのである。「離」は「羅」と同じ意味である。凶運を招き寄せることを知りながら、凶運から逃れることができないよりも、最初から凶運を招き寄せないように、慎み戒めることが望ましい。上六が陽爻に変ずれば上卦は離となる。それゆえ離の文字を用いているのである。
 象伝に「已(はなは)だ亢(たかぶ)る也」とある。「亢」とは過ぎること。上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、しかも卦極に居る。陰の過ぎたる状態が甚だしいことを責めているのである。

 

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

61.風沢中孚

□卦辞(彖辞)
中孚、豚魚吉。利渉大川。利貞。
○中(ちゆう)孚(ふ)は、豚(とん)魚(ぎよ)吉。大川を渉(わた)るに利し。貞しきに利し。
 中孚は上卦巽、下卦兌。巽は風、兌は沢である。沢の上に風が吹いている形である。沢は水を貯めておく凹(くぼ)地で、もっとも大きな沢は海である。風は空気が時にはゆったり時には激しく移動する現象である。沢の上に風が吹けば、風は沢の水気を含んで雲となり、雲からは雨が降って空気を清浄にする。
 最も大きな沢である海上に風が吹けば波となる。沢の働きは風を助け、風の働きは沢を助けている。沢も風も助け合っている。しかも、沢と風が交わる時には、お互いの性質を尊重して、その性質を損ねることなく、親しみ合い、信じ合って、お互いに従う。これが、「中孚」の名前の由来である。
 「中孚」の「孚」の字は、爪と子から成っている。親鳥が雛が卵から孵化する瞬間を、卵の上に爪を当てて、雛が嘴(くちばし)で叩く瞬間を、愛情を込めて、じっと待っている。この親鳥と雛の関係が「孚」である。お互いに信頼し合っているから成り立つ関係である。常に思いやりの気持ちを忘れないのである。
 「孚」は相手を信頼する純粋な心。相手を信頼することは良いことである。「孚」も「信」も共に「誠」と云う意味だが、中庸の徳で(真っ直ぐな気持ちで)相手に接することを「孚」と言い、相手を思いやる行為を「信」と言うのである。
 この卦は、中庸の徳で相手に接することを要する。上爻と五爻の陽爻、二爻と初爻の陽爻が、四爻と三爻の陰爻を挟んで、大きな離の形をしている。四爻と三爻の陰爻が、己を虚しくして、中庸の徳で相手に接している(真心・至誠の心を尽くしている)。二爻と五爻が共に剛健の性質で中庸の徳を具えている。己を強く鍛えて、中庸の徳を発揮しているのである。
 二爻と五爻の「真心(至誠の心)」は剛健であり、三爻と四爻の「真心(至誠の心)」は柔順である。それゆえ、「真心(至誠の心)」にして「明徳」であり、「明徳」にして「真心(至誠の心)」である。すなわち、「真心(至誠の心)」と「明徳」で相手に接することを「中孚」と言うのである。

□彖伝
彖曰、中孚、柔在内而剛得中、説而巽、孚乃化邦也。豚魚吉、信及豚魚也。利渉大川、乘木舟虚也。中孚以利貞、乃應乎天也。
○彖に曰く、中孚は、柔、内に在りて、剛、中を得、説(よろこ)びて巽(したが)ひ、孚(まこと)あり、乃(すなわ)ち邦(くに)を化する也。豚(とん)魚(ぎよ)吉とは、信、豚(とん)魚(ぎよ)に及ぶ也。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、木に乘りて舟虚(きよ)なる也。中孚にして以(もつ)て貞(ただ)しきに利(よろ)しとは、乃(すなわ)ち天に應(おう)ずる也。
 中孚とは、真心に溢れて、中庸の徳で実行することを云う。単なる卦名ではない。真心を大切にして、中庸の徳を発揮するのである。全体の形を見れば、大きな離の形である。心の中に明智と明徳を具えている。心は離の火の中にあり、離の主爻である。己を虚しくして人を思いやるから真心が芽生えるのだ。
 卦の形は上卦巽と下卦兌が向かい合っている。巽順な性質を具えた巽が上に、悦ぶ性質を具えた兌が下に在る。
 この形を人間関係に当て嵌めれば、自分と相手の志が相通じる形である。自分が兌の口で相手を口説けば、相手は巽順な性質で自分の意見に従ってくれる。また、自分が喜ぶ時は相手も喜んでくれる形でもある。
 この形を百八十度ひっくり返しても同じ形になるので、相手が自分を口説けば、自分は巽純な性質で相手の意見に従い、相手が喜ぶ時は自分もまた喜ぶ。すなわち、自分と相手が真心で信頼し合っているから、お互い和合する。大きく解釈すれば、お互い真心で信頼し合っているから、国家も一体化するのである。このことを「中孚は、柔、内に在りて、剛、中を得、説(よろこ)びて巽(したが)ひ、孚(まこと)あり。乃ち邦を化する也」と言うのである。
 「中を得」の「中」とは、二爻と五爻が共に中庸の徳と剛健の性質を具えていることを云うのである。すなわち、「中孚」は二爻と五爻に支えられている。卦全体から見れば己を虚しくして至誠を尽くすので中虚である。上卦と下卦に分けて見れば、それぞれ二爻と五爻が真ん中に在るので中実である。
 中虚は信頼関係の本質、中実は信頼関係の内容である。遯(とん)魚(ぎよ)は豚と魚であるが、共に無知なので、感動させることは難しい。しかし、真心と信頼関係に満ち溢れていれば、遯魚をも感動させることができる。遯魚を感動させることができれば、間違いなく人間を感動させることができるのである。
 論語に「言(げん)忠信行い篤(とつ)敬(けい)なれば蛮(ばん)狛(ぱく)の邦(くに)と雖(いえど)も行わる矣(や)」とあるように、何処に行っても、大衆と和合しないことはない。大衆と和合すれば、事を成し遂げ志を実現することができる。そのことを「豚魚吉とは、信(しん)豚魚に及ぶ也」と言うのである。
 上卦巽は木、下卦兌は大川である。巽の木が沢の水の上に浮かんでいる。しかも、四つの陽爻が外に在り、二つの陰爻が内に在る。それゆえ「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」と言うのである。
 舟が中虚なら、沈没する心配はない。舟が中虚とは無心の例えである。大川は険難の例えである。険難を乗り越えることができるのは、無心だからである。
 この卦は中虚なので「中孚」と云う。けれども、「中孚にして以て貞しきに利し」と戒めているのは、中虚に正と不正があるからである。朋友にも善悪ある。正しいことに至誠を尽くせば、吉運を招き寄せて、善い結果となる。しかし、正しくないことに至誠を尽くせば、凶運を招き寄せて、悪い結果となるのである。
 例えば、盗賊が群れを成して悪人を集めて私利私欲を肥やすようなものである。これは偽りの至誠だから、お天道さまに顔向けできない。一緒に活動する人々が善人か悪人かを見極めて、活動する事業の内容が正しいか間違っているかを、判断しなければならない。至誠の気運に乗っても、一緒に活動する人や事業内容を見極めないと、騙されることになりかねない。天の道を全うしなければならないのである。
 以上を「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し、木に乘りて舟虚(きよ)なる也。中孚にして以(もつ)て貞(ただ)しきに利(よろ)しとは、乃(すなわ)ち天に應(おう)ずる也」と言うのである。

□大象伝
象曰、澤上有風、中孚。君子以議獄緩死。
○象に曰く、澤の上に風有るは、中孚なり。君子以(もつ)て獄(ごく)を議(ぎ)し死を緩(ゆる)やかにす。
 上卦巽は風であり、命令でもある。風は形がなく、万物を動かすものである。至誠の心にも形はなく、天地を動かし、神仏を感動させる。また、命令は国の政令である。下卦兌は民衆であり、口舌の徒である。民衆が政府に何かを訴える時は、政府は訴えをよく聞いて、その内容を反映させた政令を発布して、民衆の支持を得る。
 訴えをよく聞けるのは至誠の心である。孔子は「情无(な)き者は其の辭(ことば)を盡(つく)すを得ず/情のない人は、その言葉を実現することができない」と言っている。だから、人の上に立つ者は、下々の事情をよく察して、その不満を少なくするような方法を考えるべきである。
 悪事を裁く場合は、至誠の心で関係者に納得してもらえるように図り、刑罰は寛大にすべきである。刑罰を寛大にすることは、罪を犯した人が反省してやり直す機会を与えることである。
 この卦は、大きな「離」であり「文明」の形をしているが、下卦兌には「毀損」の形があるので、まずは、悪事を裁く場合の、刑罰に関して考えることにする。
 君子の徳は風、小人の徳は波である。風が東に向かって吹けば、波も東になびくし、風が西に向かって吹けば、波も西になびく。東西南北同じである。王さまの徳は民衆から帰服されていることが求められる。民衆から帰服されているから、刑罰を執行することができるのである。
 刑罰のやり方は、互体二三四の震の雷動のように、乱暴に刑罰を執行せず、下卦兌の民衆の声をよく聞いてから、刑罰の内容を考え、上卦巽の仁愛と大離の文明の心で刑罰を寛大にして、罪を犯した人がよく反省してやり直す機会を与えることが肝要である。
 上卦巽には風のように巽順に従う心がある。それゆえ、雛や小鳥に例え、遯魚に例えている。以上のことから、君子たる者、相手を傷付けることを恐れて、悪事を働いた人を刑罰に処する場合であっても、なぜ、そのような悪事に至ったかを熟慮して、情状酌量の余地がある場合は、刑罰を寛大にする。それゆえ「君子以て獄(ごく)を議(ぎ)し死を緩(ゆる)やかにす」と言うのである。
 君子が悪事を働いた人の刑罰を寛大にするのは、どんな人間にも至誠の心があることを信じているからである。中孚は、どんな人間にも至誠の心があることを信じる時である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。虞吉。有他不燕。
象曰、初九虞吉、志未變也。
○初九。虞(おもんばか)れば吉。他有れば燕(やす)からず。
○象に曰く、初九虞(おもんばか)れば吉とは、志未だ變(へん)ぜざる也。
 「虞(おもんばか)れば吉」の「虞」とは、虞(ぐ)人(じん)の「虞」であり、虞(ぐ)人(じん)とは、狩猟の際に山林の道案内をする役人である。初九は下卦兌(沢)の始めに居て、時を楽しんでいる。楽しんでいるから安んじており、吉運を招き寄せるのである。
 「他有れば」とは、楽しみ安んじている状態が変化することである。「燕(やす)からず」とは、恐れていることである。
 初九は至誠を尽くす中孚の時の始めに居り、陽爻陽位で正位を得て、応ずるべき相手六四に応じている。六四を心から信頼しているのである。だが六四は九五に比しており、初九を相手にしてくれないので、初九は心安んずることができない。
 だからといって、初九は六四を怨んではならない。六四を怨めば、心が乱れて至誠を尽くすことはできない。天命に反することになる。吉運を招き寄せるどころか、凶運を招き寄せることになる。
 初九は六四と応じているから、時を楽しみ安んずることができる。それゆえ「虞(おもんばか)れば吉。他有れば燕(やす)からず」と言う。「虞(おもんばか)れば吉」とは、今、この時を楽しみ安んずることができれば、どんな時でも楽しみ安んずることができると云うことである。母鳥が卵を温めて雛鳥を孵化する気持ちと同じである。初九は母鳥の愛情で雛鳥が孵化して、飛び立つように、人は今与えられた状況を楽しみ安んじて、与えられた役割を全うすべきである。
 象伝に「志未だ變(へん)ぜざる也」とあるのは、志を立てた以上、絶対に志を忘れてはならないと云うことである。すなわち、初九は六四に応じる志を絶対に変じてはならないのである。

九二。鳴鶴在陰。其子和之。我有好爵、吾爾靡之。
象曰、其子和之、中心願也。
○九二。鳴(めい)鶴(かく)、陰に在り。其(その)子、之(これ)に和す。我(われ)、好(こう)爵(しやく)有り、吾、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん。
○象に曰く、其(その)子、之に和すとは、中(ちゆう)心(しん)願ふ也。
 「之(これ)を靡(とも)にせん」の「靡(とも)」とは、志を同じくして和合一致することである。礼(らい)記(き)に「相観て而(しか)して善き之(これ)を摩(ま)と謂う/同志だから、相応じて善き人となる」とある。「我、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん」とは、自分と相手が同じ志を抱いて和合一致することである。
 「鳴(めい)鶴(かく)」の「鶴」とは、湖に集う鶴のこと。その姿は優雅で美しく、至誠の心を現している。下卦兌を鶴の鳴き声とする。
 この卦は下卦の兌と上卦の転倒した兌(巽)が向き合っている形である。口と口とが向かい合い話し合うので、お互いに気持ちが通じ合う形になっているのである。
 二爻と五爻は共に陽剛ゆえ、通常は応じない関係だが、中孚は至誠の心で通じ合う時なので、志を同じくして相応じることができる。それゆえ「其(その)子、之に和す」と言うのである。
 「鳴(めい)鶴(かく)」とは親の鶴、「其(その)子」とは子鶴である。「陰に在り」とは、幽玄で神秘的な存在であると云うことである。
 親鶴は子鶴を見失うことを恐れ、子鶴は親鶴を見失うことを恐れている。親鶴と子鶴は幽玄で神秘的に相応じ合いながら、ゆったりと大空を飛翔しているのである。
 至誠を尽くす中孚の時において、共に中庸の徳を具えて相応じており、親鶴が呼べば、子鶴が応じる。鶴に例えて、人と人のあるべき関係を示しているのである。
 至誠の心を尽くし合うのが本当の人間関係である。親鶴が呼べば、子鶴が応ずるのは、ごく自然なことである。
 「我、好(こう)爵(しやく)在り、吾、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん」とは、天の理法、天の真心である。九二と九五の関係は霊妙にして至誠を尽くしている。君主と臣下の関係は、共に中庸の徳を具えて、共に真心を尽くす関係なのである。
 「我」も「吾」も共に九二が自らを称して初九に呼びかけているのである。「爾(なんじ)」とは初九のことである。「好(こう)爵(しやく)」の「爵」とは、「爵位」のことである。「好(こう)爵(しやく)」とは、人間として信頼できる人徳を具えた社会的地位の高い人(好爵)のことである。高い爵位を賜ったのは、自ら人徳を磨いたからである。だから、爾(なんじ)(初九を指す)も人徳を磨けば、わたしと同じように高い爵位を得ることができると初九に諭しているのである。
 母子以上の愛情はないように、爵位による君臣関係以上に、強い結びつきはない。九二は九五の王さまから高い爵位を賜っているので、至誠の心を尽くして王さまに仕えることができる。
 象伝の「中(ちゆう)心(しん)願ふ也」とは、至誠の心とは、人情の極み、人徳の極みと云うことである。九二が九五の王さまから賜った高い爵位を名誉として誇ることなく、民衆のために真心を尽くして仕えるのは、九二が心の底から願っていることである。

六三。得敵、或鼓或罷、或泣或歌。
象曰、或鼓或罷、位不當也。
○六三。敵を得、或(あるい)は鼓(こ)し或(あるい)は罷(や)め、或は泣き或は歌ふ。
○象に曰く、或(あるい)は鼓(こ)し或(あるい)は罷(や)むるは、位、當(あた)らざる也。
 易において、陰爻陽位を「或(あるい)は」と表現することがある。「鼓(こ)し」とは、鼓舞して事を成し遂げることである。「罷(や)め」とは、道半ばにして諦めることである。「泣き」とは、物事が成就しないことを憂えることである。「歌ふ」とは、物事が成就しないことを憂えても憂えてもどうにもこうにもならないことである。
 六三は卦全体の形から見ると、私利私欲が空虚で真心に満ち溢れている象である。爻から見ると、陰気で柔弱な性質なのにやり過ぎるところがある。陰爻陽位の正しからざる地位に居る下卦兌の主爻である。口舌の侫人である。同じくやり過ぎるところがあり陽爻陰位の正しからざる地位に居る上九と陰陽応じている。とうてい至誠の心を貫くことなどできるはずがない。
 口舌の侫人六三は、同じくやり過ぎる性質の上九と陰陽応じており、至誠の心を貫くことができずに、心の中は上九のところへ動こう、動こうとする。それゆえ「敵を得」と言うのである。
 「敵」とは、自分にとって害悪となる相手である。至誠の心を貫く人は、周りの人を味方に付ける。至誠の心を貫くことができない侫人は、周りの人を敵に回すのである。
 小人は一つのことをコツコツと続けることができないので、心が安定しないのである。どんな人とお付き合いしても、損得勘定しか頭にない。喜怒哀楽全てが私利私欲に基づいているのである。
 このような人間は誰にも信用されず、好かれないので、六三を指して「或(あるい)は鼓(こ)し或は罷(や)め、或は泣き或は歌ふ」と言う。 善いことも悪いことも最初は何もないところから起こる。人間は天地自然の一部だが、天地の理法と人間の欲望は一致しない。天地の理法では喜怒哀楽は時に中るが、人間の喜怒哀楽は時に中るとは限らない。その時々の状況に適切に対応できない場合に不信感が生ずる。
 人を愛することは、その人を生かすためには何をしてもよいと考えるようになりかねない。人を憎むことは、その人が死んでしまえばよいと考えるようになりかねない。六三の心はいつも不安定である。それを、象伝に「位(くらい)當(あた)らざる也」と言うのである。

六四。月幾望。馬匹亡。无咎。
象曰、馬匹亡、絶類上也。
○六四。月、望(ぼう)に幾(ちか)し。馬(ば)匹(ひつ)亡ぶ。咎无し。
○象に曰く、馬(ば)匹(ひつ)亡ぶとは、類を絶ちて上(のぼ)る也。
 「月」とは「臣下」の例え。「月、望(ぼう)に幾(ちか)し」とは、「臣下」が「王さまのように勢力が盛んになる」ことの例えである。
 月は自ら光を発しない。太陽の光を受けて明るく光る。易の理屈で言えば、陰は陽の光を受けて始めて明るく光る。六四は九五と比しているので「月、望に幾(ちか)し」と言うのである。
 六四は王さまの側近の地位に居て、柔順で正しい人徳を具え、九五の王さまと陰陽相比している。至誠の心を尽くして王様に仕える人物なので「望(ぼう)に幾(ちか)し」と言うのである。
 王さまのように勢力が盛んでありながら、王さまに取って代わろうとはしない。風天小畜の上九と同義である。「馬(ば)匹(ひつ)に亡ぶ」の「馬」とは、進むことの例えで、初九を指しているのである。
 「匹(ひつ)」とは、「夫婦」のことである。初九と六四が陰陽相応じていることを云う。火沢睽の初九の爻辞「馬を喪(うしな)う(初九は陰陽相応じていない九四を失う)」と同じ用い方である。
 六四の側近は九五と陰陽相比しており、初九と陰陽相応じている。しかし、至誠の心を尽くす相手は二人いてはならない。そこで、六四の側近は可愛い部下でもある初九との縁を絶ち切って、九五の王さまに仕えることを決断する。臣下としての人間関係を犠牲にしてまで、王さまに至誠の心で仕える。私心を全て捨て去って、公に奉じる覚悟を決めたのである。
 象伝に「類を絶ちて上(のぼ)る也」とあるのは、側近として王さまに仕えることに徹して、決して、自分が取って代わろうとしないと云う側近の真心を表現したのである。
 一つを立てれば、もう一つを立てることはできない。六四が初九と陰陽相応ずる関係になれば、九五と陰陽相比することはできない。どんなに辛くても初九との関係を断ち切るしかない。九五の側近としての役割を全うするのである。
 「類を絶ちて」の「類」とは初九を指し、「上(のぼ)る也」の「上(のぼ)る」とは、九五の王さまに仕えるべきことを云う。
 易経の中では「月、望(ぼう)に幾(ちか)し」と云う言葉が三つの卦で使われている。風天小畜の上九では、柔よく剛を制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。雷沢帰妹の六五では、妻が夫を制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。本卦では側近が王さまを制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。
 六四は陰爻陰位で正しい地位を得ており、王さまの側近としての役割を全うするので「咎无し」と言うのである。

九五。有孚攣如。无咎。
象曰、有孚攣如、位正當也。
○九五。孚有り。攣(れん)如(じよ)たり。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、孚有り攣(れん)如(じよ)たりとは、位正(まさ)に當る也。
 九五は陽剛の性質にして中庸の徳を具えている。至誠の心を尽くす中孚の時において、王さまの地位に在る。地位と人徳が調和しており、その真心は天下国家を周く照らしている。それゆえ、「孚有り。攣(れん)如(じよ)たり」と言うのである。
 「攣(れん)如(じよ)」の「攣(れん)」とは、牽引すること。繋ぎ止め連ねることである。すなわち「攣(れん)如(じよ)」とは、お互いに牽き合って連なり繋がることである。連なり繋がるから絶えないのである。
 王さまが至誠の心を貫いて臣下を処遇する。臣下は王さまを慕って王さまにお仕えする。王さまが臣下を真心で処遇するから、臣下は王さまをお慕いする。絆は金の石のように固いのである。
 この卦は九二を人の性質に見立て、六三と六四を己を虚しくして真心を尽くしていると見立てている。そして九五を人の情実に見立てている。すなわち、九五は卦辞・彖辞にある「乃(すなわ)ち邦(くに)を化する也」を体現する人物なのである。
 王さまは、真心が天下国家に溢れるようになってこそ、王さまに相応しい仁徳を具えたと云えるのである。王さまの人徳が発信源となって人徳が天下国家に満ち溢れてこそ、王さまとしての役割を全うすることができるのである。
 風天小畜の九五の爻辞にも、また「孚有り攣(れん)如(じよ)」とある。風天小畜は六四が主人公だが、この卦も六四が主人公である。そのことをよく理解して、この卦を解釈しなければならない。

上九。翰音登于天。貞凶。
象曰、翰音登于天、何可長也。
○上九。翰(かん)音(おん)、天に登る。貞なるも凶。
○象に曰く、翰(かん)音(おん)、天に登る、何ぞ長かる可(べ)けん也。
 鶏を「翰(かん)音(おん)」と言う。鶏は羽を振って鳴き声を発する。「翰(かん)音(おん)」の「翰(かん)」は羽である。鶏は小さな動物だが、鳴き声は遠くまで聞こえる。中身が無いのに、声だけ大きい人に似ている。
 上九は至誠の心を尽くす時の極点に居て、中庸の徳を欠いていながら、至誠の心を装って人から信頼され、人を欺(あざむ)こうとしている。至誠の心を貫く時に至誠の心を装う侫(ねい)人(じん)である。
 鶏の鳴き声が遠くまで聞こえるように、至誠の心を装って発するので中身が無い。鶏は、他の鳥に比べて体重が重いので、遠くまで飛ぶことはできない。しかし、鳴き声だけは遠くまで聞こえる。それと同じように、上九は至誠の心が無いのに、有るように装って、人から信頼されようとするのである。
 上九は、蒙昧なのに誠実を装う侫(ねい)人(じん)であり、巧言令色の詐欺師である。人から信頼されない人は人間失格である。速やかに反省して改めることが肝要である。反省することができなければ凶運を招き寄せるのである。それゆえ「貞なるも凶」と言うのである。
 象伝に「何ぞ長かる可(べ)けん也」とあるのは、遠くまで飛ぶことができない鶏なのに普通の鳥を装って遠くまで飛ぼうとしても、能力が無いので飛ぶことができないと云うことである。自分に無いものを有るように装っても長続きしない。上九のようであってはならないと云うことである。水雷屯の上六の小象伝の「泣血漣如たり、何ぞ長かる可(べ)けん也」と同義である。

 

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

60.水沢節

□卦辞(彖辞)
節、亨。苦節不可貞。
○節(せつ)は亨(とお)る。苦(く)節(せつ)は貞(てい)にす可(べ)からず。
 節は、下卦兌、上卦坎。兌は沢、坎は水。沢の上に水が満ち溢れている形である。また、沢は水を貯めておくところである。
 草木は水から養分を得て繁茂する。沢にある水が乾涸らびてしまえば、草木は枯れてしまう。これが沢水困の形である。
 だが、沢から水が満ち溢れれば、堤防を壊して家屋や田畑を流してしまうほどの水害に至ることもある。
 沢は自分の大きさに応じて水を貯める。これが節の時である。それゆえ、物事に適切に対処することを「節」と言うのである。
 すなわち、節は何事も「ほどよい程度」に保つこと、物事が過不足ない状態を保つことである。「品節」、「節度」、「節制」、「節倹」、「節操」と云う言葉がある。いずれも、物事に適切に対処する「節」と云う単語から作られた言葉である。
 地球上の四分の一は陸地であるが、四分の三は海である。海水が水蒸気として上昇しなければ、陸地は海に飲み込まれてしまう。海水が水蒸気として上昇し、水蒸気が雲となって雨が降る。雨が降るからこそ、万物が養育される。陸地と海が「ほどよい程度」の状態を保つことを「節」と言うのである。
 それゆえ、人は「節」、すなわち「ほどよい程度」を保たなければ、何事も成し遂げることはできない。万事「節」を保たなければ成り立たないのである。
 この卦は沢の上に水が貯まっているが、沢が貯められる水の量には限りがある。水そのものには節度がないので、沢がなければ水は溢れて水害に至る。沢に水が収まっていれば問題ないが、沢から水が溢れ出れば水害になる。水を制するのは沢の大きさである。それゆえ、「ほどよい程度」に保つこと、すなわち「節(物事に適切に対処すること)」が大切である。
 水が沢の上にある形が「ほどよい程度」を保つこと(水沢節の形)であり、水が沢から溢れ出て、乾涸らびている形が「ほどよい程度」を保てずに水害に至ること(沢水困の形)である。
 沢に貯まっているから水は止まるが、沢がなければ水はあらゆるところに流れていく。節の互体二三四は震であり、動き行く性質を持っている。互体三四五は艮。艮は止まる性質がある。すなわち、行くにも止まるにも節度があると云うことである。
 下卦兌には喜ぶと云う性質が、上卦坎には険難と云う性質がある。喜びに対処するのも、険難に対処するにも節度がある。また、下卦兌には酒食と云う意味があり、上卦坎には口と云う意味がある。二爻から五爻までの形をアゴとする。すなわち、君子は飲食を節制すると云う意味も含まれているのである。
 人生を全うするには「ほどよい程度」の状態を保つこと(節度)が肝要である。下卦兌は波波と水を貯えて、上卦坎の水は金を算出する。坎の方角は北であり、兌の方角は西である。それぞれ「ほどよい程度」の状態(節度)を保っている。上卦坎の水は流水である。水の流れを止めることは道理に反する。沢(湖や海)は流れる水を貯える。決して流水を拒まない。それでいて常に一定の水位を保っており、その状態を楽しんでいる。
 孔子の孫である子思は「喜怒哀楽の未(いま)だ發(はつ)せず之(これ)を中と謂う。發して皆節(ふし)に中る之を和と謂う」と、中庸に書いている。孔子の弟子である有子は「禮(れい)の和を用(もつ)て貴(たつと)しと爲(な)すは先王の道も斯(これ)を美と爲(な)す。小(しよう)大(だい)之(これ)に由(よ)れば行われざる所あり。和を知りて和すれども禮を以て之を節せざれば亦(また)行うべからざるなり」と論語の中で言っている。
 以上の先賢の言葉から、節度を保つから調和していることがわかる。調和していない状態は、節度を保っていないのである。「節」の字には「竹」かんむりが使われている。「竹」には程よい間隔で「節」があるから、生育を抑制している。抑制することによって、撓(しな)っても折れない強(きよう)靱(じん)な樹木となる。抑制と生育が程よく調和した状態を「節」と言うのである。
 心の中が調和している状態を「中庸」と云う。物事に適切に対応する状態を「幾(兆)」を見て対応すると云う。「中庸」とは髪の毛一本ほども偏っていない状態であり、「幾(兆)」とは一瞬たりとも速くても遅くても駄目な状態である。「中庸」を外れれば徳を失い、「幾(兆)」を外せば物事は成就しないのである。
 あらゆる物事には程よい「節度」がある。程よい「節度」とは原理原則のことである。日月が往来するのも、寒暑変化して四季が循環するのも原理原則である。これは天地の程よい「節度」である。このような原理原則をよく理解した上で、物事を推し進めれば、天下国家のあらゆる事業は過不足なく行われて調和した状態が実現するので「節は亨(とお)る」と言うのである。

□彖伝
彖曰、節亨、剛柔分而剛得中。苦節不可貞、其道窮也。説以行險、當位以節、中正以通。天地節而四時成。節以制度、不傷財、不害民。
○彖に曰く、節(せつ)は亨(とお)るとは、剛柔分れて、剛中を得(う)ればなり。苦節は貞にす可(べ)からずとは、其(その)道窮(きわ)まる也。説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行ひ、位(くらい)に當(あた)りて以(もつ)て節(せつ)し、中正にして以て通ず。天地節(せつ)して四(しい)時(じ)成る。節以て度を制し、財を傷(そこな)はず、民を害(そこな)はず。
 節の形は、陰陽半々で、上卦と下卦の中央に位置する五爻と二爻が剛健の性質を具えているので、物事が通る形である。「節」と云う字にも「通る」と云う意味が含まれている。「節」は、私利私欲を節制して、天地の原理原則に従う時である。財政支出を節制して、物事の在り方を節制し、言葉の使い方を節制して、飲食を節制することは、天地の原理原則である。何事も節制して天地の原理原則に従えば物事はすらっと通るのである。
 以上を人間に当て嵌めれば、前途が困難であることが分かっていても、よく考えて、適切且つ機敏に行動すれば、何かしら得ることがあると云うことである。それゆえ、事に臨むに、前途が困難であるからと云って何もしないのは、節制すると云うことの本当の意味を知らない人である。
 「節」は「程よい節度」を保つこと。物事に臨機応変に対応して、その時々に適切に対処すること。それゆえ、節の形は陰陽半々であり、上卦と下卦の中央に位置する五爻と二爻が剛健の性質を具えている。陰陽半々であるのは、剛に過ぎず、柔に過ぎず、何事に対しても偏りがなく公明正大なことである。その時々に応じてピタリと的を射るように対応できるのである。それゆえ、「剛柔分かれて、剛中を得ればなり」と言うのである。
 人間社会の中で生きていくために、幼い時には古典をよく読み、偉人の言行や生き方を学び、社会に出て働くようになってからは、幼い時に学んだことを実行するのである。どんな困難や苦労が立ち塞がっても、決して挫(くじ)けることなく、様々な困難や苦労を乗り越えるために、心を磨いていくのである。以上を、「説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行う」と言うのである。
 あらゆる困難に立ち向かい、危険なことに怖(お)じ気(け)づくことなく、時には冒険的な事にも挑戦して、最後には自分の志を体現する。これもまた、「説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行う」ことである。
 だが、時には氣運と云うものがあり、物事には難しいことと容易なことがある。そこで自分の力と地位を客観的に捉えて、実現すると確信できる事は何があっても実行し、どんなに頑張っても実現できないと思うことは止める。その時々の宜しきに順い、中庸を貫くことが「節」である。
 以上のことを「説(よろこ)びて以(もつ)てを行い、位(くらい)に當(あた)りて以て節(せつ)し、中正にして以て通ず」と言うのである。上卦と下卦の性質が相(あい)俟(ま)って、「程よい節度」を保つことができるのである。
 険難が立ち塞がれば進み行くことは困難だが、険難に真正面から立ち向かえば、険難を乗り越えることができる。永遠に険難に陥ったままの状態であり続けることはない。何事にも真正面から立ち向かえば、苦しみはやがて喜びとなり、険難や困窮を脱することができるのである。
 この卦において、上六は柔弱な性質で卦極に居り、度を超えた節度を自分で定めてそれを守ろうとして苦しんでいる。これを「苦節(度を超えた節度を定めて苦しむこと)」と言うのである。度を超えた節度を定めて、それを守ろうとすれば、苦しむことになる。度を超えた「正しさ」に苦しみ、度を超えた「形式」に苦しみ、度を超えた「心の節度」に苦しむのである。
 「苦節(度を超えた節度)」は、人々の心から安心を奪うので、正邪の判断ができなくなる。「苦節」に安んずることはできない。「苦節」を守ろうとすれば、「苦節」に固執して、あらゆることが閉塞状態に陥り、何事も成就しなくなる。「苦節」を守らせようとすれば、その人を艱難辛苦の状態に導くことになる。
 以上のことから「苦節」に固執してはならない。このことを「苦節は貞(てい)にす可(べ)からずとは、其(その)道窮(きわ)まる也」と言うのである。天地の原理原則に春夏秋冬・温涼寒暑の循環がある。この循環があるから万物は生成発展する。秋から冬にかけての、収穫と蓄えがあるから、春から夏にかけて、草木が繁茂するのである。
 人々が天地の循環を受け容れて、欲望を程よく抑制し、人徳を程よく磨き上げれば、誰もが礼節を弁(わきま)えるようになり、欲望と欲望がぶつかり合って罪を犯すこともなくなる。それぞれが自由にかつ調和して生かし合うようになる。
 人々が程よい節度で自分の言行を抑制すれば、驕り高ぶることがなくなり、欲望と欲望がぶつかり合うこともなくなって、誰もが幸せになる。以上のことを「天地節して四(しい)時(じ)成る。節以(もつ)て度を制(せい)し、財を傷(そこな)はず、民(たみ)を害(そこな)はず」と言うのである。

□大象伝
象曰、澤上有水、節。君子以制數度、議徳行。
○象に曰く、澤の上に水有るは節なり。君子以て數(すう)度(ど)を制し、徳(とつ)行(こう)を議す。
 沢に満ちていた水が乾涸らびてしまえば、沢の役割を果たせない。沢の水が乾涸らびて、険難に陥っている形が沢水困である。水沢節は下卦の沢の上に上卦の水が満ちている形なので、沢の役割を果たしているが、水が溢れ出れば、堤防が決壊して大災害を招き寄せることになる。
 沢に満ちている水の量には限りがある。水の量が少なくなれば、水を容れる必要があり、溢れ出そうになれば、排水する必要がある。水が溢れ出ることなく乾涸らびることもない。これが沢のありかた(節に中る)である。すなわち「程よい節度を保つ」ことが節の時である。
 「数(すう)度(ど)」とは、「礼を尽くして尊崇する心」の多寡(多い少ない)を云い、「徳(とつ)行(こう)」とは、「人徳を磨いて社会に貢献する」程度の優劣を云う。「数(すう)度(ど)を制し」の「制し」とは「作る」と同じ意味ではない。何も無いところから作り出すことを「作る」と言い、すでに有る物事を制御することを「制する」と言う。「作る」ことは一部の人の仕事だが、「制する」ことは万人の仕事である。それゆえ、「君子以て数(すう)度(ど)を制す」と言うのである。
 君子(立派な人物)は、沢の上に水が有る「節」の卦の形を見て、貴賤上下の身分に応じて、生活や仕事の規律を定める。貴賤上下の身分に応じて、それぞれの分度があり、役割がある。その分度や役割に応じて、生活や仕事の規律を定めるのである。
 それぞれの分度や役割に応じて「人徳を磨いて社会に貢献する」程度を定めて、天下国家を治める。物事の「大小」「軽重」「上下」「文質」それぞれに「数(すう)度(ど)(礼を尽くして尊崇する心の多寡)」がある。その多寡に応じて、生活や仕事の規律を定めることは、「程よい程度を保つ」ことにつながるのである。
 また、「人徳を磨いて社会に貢献する」程度に応じて、それぞれが徳を磨くことが、「程よい程度を保つ」ことである。
 「数(すう)度(ど)」を制御することは、社会の調和を保つことにつながるので「数(すう)度(ど)」に応じて、生活や仕事の規律を定める。このことを「君子以て数(すう)度(ど)を制し、徳行を議す」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。不出戸庭。无咎。
象曰、不出戸庭、知通塞也。
○初九。戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、戸(こ)庭(てい)を出(い)でずとは、通(つう)塞(そく)を知る也。
 「節」とは、物事の「要」や「要点」である。君子(立派な人)は吉凶(吉運か凶運か)の兆しを見て、物事の「要」や「要点」を適切に判断して対応する。これが「節(程よい節度を保つ)」である。
 「節」を踏まえないと、物事に適切に対応することができないので、タイミングが早すぎたり遅すぎたりするのである。
 この卦は沢の上に水がある。沢の大きさに適切に対応して水の量を調整するのである。沢の大きさに対して水の量が少なければ水を容れ、水の量が多ければ排水する。沢の大きさに対して水の量を「程よい節度」に保つのである。
 下卦兌(下の三爻)は沢である。沢の大きさに応じて人々が必要とする水の量を「程よい程度」に保つのである。上卦坎(上の三爻)は水である。水の量を「程よい程度」に保つために、調整されるのが水の役割である。水の量は沢の大きさを超えてはならない。それゆえ「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず」と言うのである。
 初九は陽爻陽位で正しい地位に在る。だが、九二とは陽同士なので比さない。水の量を「程よい程度」に保つためには、比さない九二の下に進むべきではない。物事には時と使命の関係において、通ずる時と塞がる時、進むべき時と退くべき時があることを認識して、今は家の中に閉じ籠もって庭にも出ない。そのことが「程よい程度」を保つことにつながるのである。
 君子が天下国家を調和した状態に保とうとすれば、国家を構成する最小単位の組織である家庭の人間関係を「程よい程度」に保つことが肝要である。家庭の人間関係を「程よい程度」に保とうとすれば、家庭を構成する一人ひとりの心身の状態を「程よい程度」に保つことが肝要である。庭は家族が出入りするたびに通過する場所である。
 初九は「程よい程度」を保つ時の始めに居て、九二の下に進むことができない。「程よい程度」を保つために、家の中に閉じ籠もって庭にも出ない。どうして咎められようか。咎めることなどできないのである。以上のことを「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し」と言う。初九は君子たることを自覚して妄進しないのである。
 象伝に「通(つう)塞(そく)を知る也」とあるのは、時には通ずる時と塞がる時があり、道には進むべき道と退くべき道がある。そのことを認識すべきと云うことである。
 初九と六四は陰陽応ずる関係にある。共に出逢うことが可能である。それゆえ「通ずる」のである。初九と九二とは陽同士なので比さない関係にある。初九は九二の下に進み行くことができない。それゆえ「塞がる」のである。
 初九が変ずれば下卦兌は坎となる。坎には「思索する」と云う意味がある。それゆえ、物事には「通ずる」時と「塞がる」時があることを認識することができる。君子が世の中で活動する場合、時には「通じる」時と「塞がる」時があることを認識しておかなければならない。兌を口と見れば、言葉を慎むべきである。初爻を足と見れば、行動を慎むべきである。

九二。不出門庭。凶。
象曰、不出門庭、凶、失時極也。
○九二。門(もん)庭(てい)を出(い)でず。凶。
○象に曰く、門(もん)庭(てい)を出(い)でず、凶とは、時を失ふこと極(きわ)まれる也。
 沢は水を容れるための凹(くぼ)みである。水が満ちれば、何かに役立たせるために貯えておく。初九はその役割を果たすと考える。
 水が増えて溢れ出そうになれば、排水して水害の発生を防ぐのである。その役割を九二が担っている。九二は沢の水を程よい量に保つのである。九二の時は沢に水が満ちていることが前提だから、水が増えて溢れ出ないようにしなければならない。
 初九は位が低く、野に下っている形で。「程よい程度」に保つ「節」の時の始めに居て、陽爻陽位と正位を得ている。沢の中の水を貯えて「程よい程度」に保つためには、排水して(動いて)はならない。それゆえ「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 九二は剛健な性質で中庸の徳を具えており、臣下の中心的存在である。すなわち、何事も「程よい程度」に保つ「節」の時に適合している。それゆえ、初九のように「排水してはならない」という態度を貫けば、終には沢から水が溢れ出て水害を招くことになる。このように無理な態度を貫くことを「苦節(度を超えた節度)」と云い、大凶に至る道である。
 君子は、動くべきでない時は岩のように動かず、動くべき時は駿馬のように疾走する。これが「程よい程度」に保つことである。その時の兆しを察して、どの程度に保つことが、「程よい程度」を保つことになるかを判断するのである。
 九二は大臣の位と見ることもできるが、王さまの忠臣と見た場合は、剛健の性質で中庸の徳を具えている九五の王さまと志を同じくして、相応ずる関係にある。すなわち、九二が忠臣としての「程よい程度」を保って、王さまを補佐することが、「数(すう)度(ど)(礼を尽くして尊崇する心の多寡)」を制御して、民衆の私利私欲を抑制し、道徳的な気風を高めることになる。
 志を同じくする九五の王さまが王さまとしての「程よい程度」を保つべく、乾為天の九二(見龍)のように、王さまを大人として尊敬して自らを高める。以上のようであれば、九二と九五が、共に「程よい程度」を保つことができる。
 九二は互体(二三四)震の長男だからリーダーの資質がある。節の時は上卦坎険なので、九五の王さまは険難に陥っている。九二は王さまの下に駆け付けて、王さまが険難から脱出するために「程よい程度」を保つべきであるが、どっしりと構えて、王さまの下に駆け付けないので、「程よい程度」を失して凶運を招き寄せる。それゆえ「門(もん)庭(てい)を出(い)でず。凶」と言うのである。
 九二は剛健の性質と中庸の徳を具えており、九五と応じるべき関係にある。九五を補佐して忠臣としての役割を果たすべきなのに、微動だにしない。これは「苦節(度を超えた節度)」であり、天命に反している。動くべき兆しを見誤っており、その罪は重く責任重大である。以上のことを「時を失ふこと極(きわ)まれる也」と言う。

六三。節若、則嗟若。咎无。
象曰、節嗟、又誰咎也。
○六三。節(せつ)若(じやく)せざれば、則ち嗟(さ)若(じやく)す。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、節(せつ)せざるの嗟(なげき)は、又誰(たれ)か咎(とが)めん也(や)。
 六三は陰柔の性質でやり過ぎるところがある。しかも、下卦兌の主爻なので、物事を壊して「程よい節度」を保てない形。それゆえ、節度を制御することはできないのである。
 「程よい節度」を保つ時において、険難を制御したり、節約したりすることができない。己を制御する度量がなく、財産を失い、徳を損なう。以上のようであるから、何をやっても憂うことになり、嘆き悲しむことになる。それゆえ「節(せつ)若(じやく)せざれば、則ち嗟(さ)若(じやく)す」と言うのである。
 下卦兌の極点に居て「程よい節度」を保つべき時に、「程よい節度」を保つことができずに、喜びが悲しみに変ずるのである。
 全体の形から見れば、上卦坎の水を下卦兌の沢の中に貯えることができず、三爻から見れば、沢の上に水が溢れ出てしまう形。六三が嘆き悲しむのは、自分自身が不中正なので、「程よい節度」を保つことができないからである。自業自得だから人を責めることなどできない。ひたすら、自分がやったことを反省して悔い改めるべきである。それゆえ、「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 六三は「程よい節度」を保てないから、嘆き悲しむことになる。「程よい節度」を保つことができれば、嘆き悲しむことにはならない。「則ち」とあるのは、このことを表現している。
 「程よい節度」を保つ者は物事を楽しみ、保てない者は物事に甘える。六三が「程よい節度」を保てないのは、すでに沢の水が溢れ出ているのに、排水しようとしないからである。

六四。安節。亨。
象曰、安節之亨、承上道也。
○六四。節に安んず。亨(とお)る。
○象に曰く、節に安んずるの亨るは、上(かみ)の道を承(う)くる也。
 六四は下卦兌の沢の上に貯まっている上卦坎の水である。水が土(沢)の中に満ちて、互体三四五の艮は坎の険難を見て止まるので、沢から溢れ出ることはない。
 六四は柔順にして正しい地位を得ており、九五と陰陽比している。九五と親しみ調和して柔順に従い、下卦兌の初爻にも陰陽応じている。側近としての「程よい制度」を保ち、その役割を全うする。それゆえ「節に安んず。亨る」と言うのである。
 上卦坎の水が沢から溢れ出る時は「程よい節度」を保っていない状態である。沢に程よく水が貯まっている時は「程よい程度」に保っている状態である。
 「節に安んず」の「安んず」とは、安心して行動することである。上卦坎の水は、沢に程よく貯まっている形である。
 六四は側近(大臣)の地位に在り、「程よい程度」を保つ時に安んじており、九五の王さまを補佐している。天下国家の財産を「程よい程度」に保ち、民衆の生活を「程よい程度」に保つことができる。六四が九五の側近(大臣)としての役割を全うすることが、天下国家を「程よい程度」に保つことになる。
 象伝に「上(かみ)の道を承(う)ける也」とあるのは、六四が柔順な性質と正しい地位を得ているので、九五の側近としての役割を全うして、九五の王さまを補佐すると云うことである。

九五。甘節。吉。往有尚。
象曰、甘節之吉、居位中也。
○九五。甘(かん)節(せつ)なり。吉。往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り。
○象に曰く、甘(かん)節(せつ)の吉は、位に居(お)ること中なる也。
 「甘(かん)節(せつ)」の「甘」とは、中庸と和合の意味である。「辛い」時や「酸っぱい」時に「甘味」を加えれば、「程よい程度」に調整することができるのである。
 九五は剛健と中庸の徳を具えて君主の位に居る。「程よい程度」に保つ時の王さまとして、自ら率先して「程よい程度」に保つことを楽しんでいる。それゆえ「甘(かん)節(せつ)なり。吉」と言うのである。
 「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」の「往きて」とは、行うことが成就ずると云う意味である。九五の王さまは自ら率先して「程よい程度」に保つことを楽しんでいる。行うことは全て成就し、天下国家を「程よい程度」に保つことができる。
 それゆえ、民衆は九五の王さまを尊敬する。このことを「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」と言うのである。
 礼儀を「程よい程度」に保って、民衆の心を安定させ、法律を「程よい程度」に定めて、民衆の財産を豊かにする。いずれも天地の道理に適っているので、民衆は帰服する。民衆が欲することを実現して、憎むことは取り除くのである。何事も「程よい程度」に保つので、民衆は苦しむことなく和合する。
 象伝に「位に居(お)ること中なる也」とある。「位」とは君位のことである。「中なる也」の「中」とは、九五が中庸の徳を具えて正しい地位に在ることを云う。
 九五は民衆に尊敬される王さまとして、何事も「程よい程度」に保つので、天下国家も「程よい程度」に保たれ、終には、「辛い」時や「酸っぱい」時に「甘味」を加えて、何事も「程よい程度」に調整することができるのである。
 伝説の王さまである禹(う)王が普段は宮中を質素にして、衣服にもお金をかけず、飲食を倹約したのは、何事も「程よい節度」を保つためである。
 神仏をお祀りする時は、美しい衣服を身に着け、ご先祖様と神仏を心から尊崇したのも、また「程よい程度」を保つためである。それゆえ、天下国家はよく治まり、民衆は遍く幸せに暮らすことができたのである。

上六。苦節。貞凶。悔亡。
象曰、苦節、貞凶、其道窮也。
○上六。苦節なり。貞なるも凶。悔亡ぶ。
○象に曰く、苦節なり、貞なるも凶とは、其道窮まる也。
 節の時は「程よい程度」を保つために、何事も抑制的であるべきである。度を超えることは、「程よい程度」を保つことにはならない。それゆえ、卦辞・彖辞に「苦節は貞にす可からず」と言うのである。「苦節」とは「程よい程度」を超えることである。
 爻辞の「貞なるも凶」とは、本人が正しいと思っても「程よい程度」を超える時は凶運を招き寄せると云うことである。「悔亡ぶ」とは、凶運を招き寄せても、本人が正しいと信じて「程よい程度」を超える時は、後悔しないと云うことである。
 九五の爻辞にある「甘(かん)節(せつ)」とは、善き臣下のことを指し、上六の爻辞にある「苦節」とは、忠実な臣下のことを指している。
 親孝行に忠実なあまりに、公の仕事を疎かにして、民族を滅ぼしてしまうような人物は、まさしく「苦節は貞にす可からず」に該当する人物である。
 「程よい程度」に保つべき節の極点に居て、苦節を正しいことと信じて疑わないから、苦しいのである。
 卦辞・彖辞の「苦節は貞にす可からず」とは上六を指す。上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、節の卦極に居る。節に過ぎたる人物である。正しくても凶運を免れない。君子には、気概と節操が求められるが、物事に固執してはならないのである。
 何事も「程よい程度」を保つことができれば、後悔することはない。それゆえ「悔亡ぶ」と言うのである。
 象伝に「其の道窮まる也」とあるのは、気概と節操を保つのは、君子として誇らしいことであるが、「程よい程度」を超えると、凶運を招き寄せて害となる。また、「質素倹約」することは善いことだが、やり過ぎて「程よい程度」を超えると、臣民を圧迫することになり、臣民から怨まれる。それゆえ「苦節なり。貞なるも凶」と言うのである。
 考えてみると、「凶」の次に「悔亡ぶ」とあるのは、苦節が凶運を招き寄せても、なお、苦節を続ける時は、さらに凶運を招き寄せる。そこで「程よい程度」を超えていたことを反省し、苦節を改めれば、凶運から解放されると云う意味であろう。
 あるいは、苦節を続ければ、決して凶運から解放されないが、それを承知で苦節を続ければ、やることはやったのだから後悔はしないと云う意味に解釈することもできる。

 

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呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

59.風水渙

□卦辞(彖辞)
渙、亨。王假有廟。利渉大川。利貞。
○渙は亨(とお)る。王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し。貞(ただ)しきに利(よろ)し。
 渙は上卦巽、下卦坎、巽は風、坎は水。水の上に風が吹く形である。水分が密雲の下に凝縮しており、風がこれを拡散する。
 坎の水は冬になれば凍り、巽は風以外に春や木と云う意味がある。厳寒の冬になれば水は凍るが、春がやって来て春風が吹けば凍っていた水も解けて、風によって拡散する形である。
 内卦に坎の険難があり、外卦に巽の巽順がある。内卦は自分、外卦は相手。相手の方から風が吹いて来て、自分の方の険難を解決してくれる。以上のことから、この卦を渙と名付けたのである。
 渙は、風が吹いて水を拡散する時。風が吹いて険難を解決してくれる時である。
 人間社会に当て嵌めれば、坎水の険難に陥っていることを誰かが察して助けてくれるので険難が解決する時である。あらゆる苦労や困難が解決するので、心配事から解放され、希望や志を実現することができる。それゆえ「渙は亨(とお)る」と言うのである。
 「渙は亨(とお)る」とは、困難が解決することを云うのである。幸運を招き寄せると云うことではない。

□彖伝
彖曰、渙亨、剛來而不窮。柔得位乎外而上同。王假有廟、王乃在中也。利渉大川、乘木有功也。
○彖に曰く、渙は亨(とお)るとは、剛來(きた)りて窮(きわ)まらず。柔、位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり。王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、王乃ち中に在る也。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、木に乘りて功有る也。
 この卦は三陰三陽で陰陽の数が半々で、天地否の変形である。否の時は万事閉塞する。否の九四が二爻に移動して坎の主爻となり、入れ替わった四爻が巽の主爻となったのである。
 それぞれ適切な場所を得て役割を果たす。すなわち、剛が来たりて柔を救い、内側が動いて険難を解決する。柔が動いて剛を助けるので、天地否の閉塞状態が解ける。以上が険難が解決して物事が通じる理由である。
 天地のエネルギーが閉塞する時は、風雨によって閉塞状態を解決する。否の九四が二爻に移動するのは、坎水を蒸発させて雨を降らせるのである。否の六二が四爻に移動するのは、大地のエネルギーが昇って巽の風となるのである。
 これを人間に当て嵌めれば、下卦坎水の主爻である九二は困難に陥るが、六四が九二の気持ちを察して九二を助ける。九二が困難から脱出できるのは六四と志を同じくして、六四が助けてくれるからである。このことを「剛來(きた)りて窮(きわ)まらず。柔位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり」と言うのである。
 「剛來(きた)りて窮(きわ)まらず」とは、艱難の中に陥りながら、その志は揺らぐことはないので、艱難を乗り越えることが出来るのである。「柔、位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり」とは、人の助けを得ることができるのである。
 風水渙は、険難に陥って危機的な状況にある時に、思ってもいなかった助けがあって、険難から脱出することができる時である。危機的な状況から脱出できることを「渙」と言うのである。
 以上のことから、通じることが難しい中にあって通じることができ、成し遂げることが難しい中にあって成し遂げることができ、その結果、恩恵を得て、誰かに助けられる時である。
 心配事がなくなるのは、偶然ではない。神仏のご加護を得て、険難から脱出することができるのである。神仏のご加護を得られるのは、心から神仏を敬って崇拝するからである。神仏を敬う気持ちがなければ、そのご加護を得られるはずもない。それゆえ、聖人は神仏を尊崇するのである。神仏を尊崇するから、険難から脱出することができるのである。
 沢地萃の卦辞・彖辞に「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」とあるのも、風水渙の卦辞・彖辞に「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」とあるのも、心から神仏を敬って尊崇することの大切さを述べているのである。
 以上のことは、親孝行をすることが大切なことと同じである。だからこそ、渙の時に適切に対処するには、祖先の御魂をお祀りして、神仏に感謝することが肝要である。それゆえ、「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、王乃(すなわ)ち中に在る也」と言うのである。王とは九五のことである。「中に在る」とは九五は剛健中正の徳を具えていることである。
 渙の時は九二が困難に陥るけれども、六四がやって来て助けてくれるだけでなく、九五からも助けられるのである。
 九二が神仏を敬って尊崇するから、神仏のご加護を得られるのである。互体(三四五)艮を門とする。これは「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」の形である。「有(ゆう)廟(びよう)」の「有」の字は、尊崇すると云う意味と、離散すると云う意味を兼ねている。人が神仏と心を一つにして尊崇すれば、神仏は必ず人の気持ちに応えてくれる。すなわち、神仏のご加護を賜ることができる。それゆえ、祖先を敬い神仏を信じる気持ちが大切なのである。
 けれども、卦辞・彖辞の最後に「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」とあるのは、別の切り口で渙の時を説明しているのである。
 大きな川を渡るためには船で渡るより方法がない。渙の形は上卦巽、下卦坎だから、巽の木が坎の大川の上に浮かんでいる形である。すなわち、船を用いて大川を渡り大きな利益を得る時である。しかも、巽の風が大川に浮かんでいる船を押し進めてスイスイと大川を渡ることができるのである。
 以上を「木に乗りて功有る也」と言う。人材を用いて世の中を治めることは、船を用いて大川を渡るのと同じことである。

□大象伝
象曰、風行水上、渙。先王以享于帝立廟。
○象に曰く、風、水の上を行くは、渙なり。先(せん)王(おう)以て帝(てい)に享(きよう)し、廟(びよう)を立つ。
 巽を春、坎を冬・水・氷とする。坎の水が流れて、巽の風が吹いている。厳冬の氷も温かい春風が吹く季節になれば、解けて流れるようになる。また、巽の木の船が、巽の風を受ければ、大きな川を渡ることができるように、困難を克服して功を上げる形である。風水共に離散するので、この卦を渙と名付けたのである。
 離散の時は天下国家に険難が起こる。この時に中って神仏とご先祖様をお祀りして天下国家を一つにまとめるのである。昔の王さまはこの卦の形を観て、巽の風から神仏を連想し、坎の孚からお祀りを連想したのである。
 風は形がないが、水の上に吹けば跡を残して、風を見ることができる。水がなければ風を見ることはできない。神仏にも形はないが、御霊屋でご先祖様をお祀りすることにより、神仏の御利益があることを感じることができる。
 ご先祖様を見ることはできないが、お祀りすればその恩沢に感謝することができる。お祀りしなければ感謝の気持ちが無くなってしまう。神仏の存在は風が水の上を吹くようなものである。人々が尊崇する心を抱くのは神仏をお祀りするからである。それゆえ、大きな困難も治まり、人々の心も安定する。
 王さまは率先して御霊屋でご先祖様をお祀りして、神仏のご加護を賜るのである。離散しがちな人々の心を一つにまとめて、神仏を尊崇して、ご先祖様に感謝するのである。
 あらゆる現象は天地陰陽の法則に基づく。人間の存在はご祖先様の営みに基づく。それゆえ、王さまが率先してご先祖様を尊崇して御霊屋でお祀りする。王さまが率先してご先祖様を尊崇するから天下の人々もご先祖様を尊崇して、両親に感謝の念を抱き、天の道、人の道を踏み行うことの大切さを通観する。すなわち社会を一つにまとめることができるのである。それゆえ「先(せん)王(おう)以(もつ)て帝(てい)に享(きよう)し、廟(びよう)を立つ」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。用拯馬壯。吉。
象曰、初六之吉、順也。
○初六。用(もつ)て拯(すく)うに馬壯(さか)んなり。吉。
○象に曰く、初六の吉は、順なれば也。
 この卦は渙散することを中心にした物語となっている。それゆえ、六爻共に渙散の意義について述べている。
 渙散を掘り下げていくと、受動と他動に区分できる。下卦三爻は坎水の一員として受動的に渙散させられる存在であり、上卦三爻は巽風の一員として能動的に渙散する存在である。
 坎は冬であり氷である。巽は春であり風である。厳寒の冬がやってくれば坎水は凍って凝結するが、春がやって来て温かい風が吹けば、氷は忽(たちま)ち溶けて水となる。すなわち、厳寒の険難が春風によって吹き飛んで、困難が解決するのである。
 初六は今、下卦坎のどん底に居て、自分一人の力では険難を克服することはできず、険難の中でもがき苦しんでいる人物である。しかも柔弱で微力だから、険難を吹き飛ばす力があるはずもなく、険難から脱出することができない。以上のことから、初六は何事も成し遂げることはできないのである。
 幸いにして九二と陰陽比するので、九二の賢者に従って険難から脱出しようとする。初六は人の力を借りなければ何も出来ない人物である。九二は剛健にして中庸の徳を具えている力のある人物である。九二のような人徳のある人物に初六が素直に従えば、必ず険難から脱出することができる。それゆえ「用(もつ)て拯(すく)うに馬壯(さか)んなり。吉」と言うのである。
 人間は馬に乗るから疾走することができる。良馬を選べばより速く疾走することができる。九二は良馬である。初六が柔順に剛健中庸の九二に従えば、険難を脱出することができる。それゆえ「吉」と言うのである。
 また「馬壯(さか)んなり」とあるのは、良馬を選べばより速く疾走できること、すなわち、初六が九二に素直に従えば、速やかに険難から脱出できることの例えである。
 象伝に「順なれば也」とあるのは、初六が至って柔順であることを云う。地火明夷の六二(文王)は馬に乗って逃れ去り、上六(暗君紂王)の険難から救われるが、この卦の九二は自らは馬に乗らずに初六の険難を救うのである。

九二。渙奔其机。悔亡。
象曰、渙奔其机、得願也。
○九二。渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)る。悔亡ぶ。
○象に曰く、渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)るは、願(ねがい)を得(う)る也。
 「其(その)机(き)に奔(はし)る」の「奔(はし)る」とは、走ることが迅速なこと。何事も遅れることを恐れることを「奔(はし)る」と言うのである。また「机(き)」は人が依存して身を安んずる存在。上卦巽の木が互体震(二三四)に乗っている。すなわち「机(き)」とは九五を指している。
 震には「奔(はし)る(すみやかに前に進む)」という意味もある。九二は剛健にして中庸の徳を具えているが、下卦坎の主爻だから、自分自身が険難に陥っている。渙散の時はまず自分の身を安全な所に置いて(職を辞して)、様子を見ながら天下の艱難を救うべきである。渙散の時には速やかなことが吉運を招き寄せる。それゆえ「渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)る」と言うのである。
 九二は速やかに九五の所に行くべきと云う教訓である。「悔(くい)亡ぶ」の「悔(くい)」とは、自分の身が険難に陥ることを云い、「亡ぶ」とは、その険難から脱することを云うのである。
 象伝に「願(ねがい)を得(う)る也」とあるのは、机(き)(九五を指す)に依存して、自分の身を安全な所に置き、自分の険難を回避してから、天下の険難を救うべきだと云うことである。
 九二は険難の真っ只中にあるがゆえに、天下の険難を救う時には、九五に頼って自らを安全な所に置き、天下の険難を救う機会を窺うべきである。

六三。渙其躬。无悔。
象曰、渙其躬、志在外也。
○六三。其(その)躬(み)を渙(ちら)す。悔(くい)无(な)し。
○象に曰く、其(その)躬(み)を渙(ちら)すとは、志、外(ほか)に在る也。
 六三は陰柔不中正の身で、内卦坎の極点に居て、心配事が自分の身に及んでいる。自分自身が険難の真っ只中にある。
 けれども、陰陽応ずる関係にある上九が支援してくれるので、険難は自然に消滅する。自分の身の安全を計り、上九の支援により険難から脱出して、国難を救うべく様子を窺っている。
 渙散の時において、六三は下卦坎水に属し、上九は上卦巽風に属している。六三は上九に応じている。水が風によって散じ、木が水を得てすくすくと育つように、陰陽相応じて渙散するのである。それゆえ「其(その)躬(み)を渙(ちら)す。悔(くい)无(な)し」と言うのである。
 外部環境が険しく内部環境も困難に陥る。困難の中にあっても、何とか困難から脱出して国難を救わなければならない。
 象伝に「志、外(ほか)に在る也」とある。六三の志を実現するためには、外卦に在る上九の力を借りて国難を救いなさいと云うことである。

六四。渙其羣。元吉。渙有丘。匪夷所思。
象曰、渙其羣。元吉、光大也。
○六四。其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉。渙のとき丘(きゆう)有り。夷(つね)の思う所に匪(あら)ず。
○象に曰く、其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉とは、光大(おおい)なる也。
 「其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す」の「羣」は、「民衆」である。「渙のとき丘(きゆう)有り。夷(つね)の思う所に匪(あら)ず」とは、六四を賛美しているのである。
 六四は柔順で正しい地位を得て九五の君主の側近としての役割を全うしている。上卦巽の主爻であり、渙の時の主人公でもある。剛健にして正しい位に在る九五の君主と陰陽比する関係に在り、君主を補佐して民衆の険難を解決する。大きな険難を解決する忠実な側近として、君主から信頼されているのである。
 九五の君主も六四の側近も応爻がない。上卦巽の風によって、下卦坎の水を離散して、民衆を救う形である。吉運を招き寄せる形なので「其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉」と言うのである。
 渙散の時には、剛健なやり方だけでは事を解決できない。柔順なやり方だけでも事を解決できない。六四は柔順な性質で剛健にして中正の徳を具えている九五の君主の側近としての役割を全うするので、民衆の険難を解決することができる。
 六四の働きがあるから民衆が救われる。六四に感謝する民衆は丘のように沢山集まる。六四の働きにより険難を脱して、民衆の心が一つになる。それゆえ「渙のとき丘(きゆう)有り」と言うのである。
 六四が実行することは、誠に大切な事業である。その事業が成功することは民衆を救うことになる。六四は英雄である。だが、凡人には英雄の気持ちはわからない。このことを「夷(つね)の思う所に匪(あら)ず」と言って、六四の功績を讃えているのである。
 論語に「君子は恵にして費やさず(恵んでも、ばらまいたりしない)」とあるが、六四は民衆のために必要な事業を実行して、その事業が成功するから、民衆はその恩恵を賜る。それゆえ「光大(おおい)なる也」と言うのである。
 六四は九五の君主の側近としての役割を全うする。私利私欲を追求する人は、心が暗くて小さい。私利私欲に囚われずに公に奉ずる六四の放つ光は高大で遍(あまね)く民衆を照らしてくれる。
 天下国家が険難に陥れば、ほとんどの人が自分のことしか考えなくなる。六四は自分のことはさておき、みんなのことを考えるので、小高い丘のように自分とみんなと心が一つになる。己の利益よりもみんなの利益を大切にするのである。

九五。渙汗其大號。渙王居。无咎。
象曰、王居无咎。正位也。
○九五。渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす。渙のとき王居(お)る。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、王居(お)り、咎(とが)无(な)しとは、位を正しくする也。
 「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす」の「大(たい)號(ごう)」とは、大政令のことである。民衆を救うために発せられる大政令である。
 九五の君主は剛健にして中庸の徳を具えている。天下の険難を自分のこととして考え、険難を解決するために、悩み苦しみ考え抜いて、心の中は汗がびっしょりになる。
 王さまは天下国家のことだけ考えて自分のことは考えない。民衆のことを自分のことのように考え、天下国家を自分の家族のように考える。自分の身を粉にして民衆のために捧げ、私利私欲は一切ないのである。その天命は天下国家に轟き渡り、民衆を険難から救い出す。王さまが汗だらけになって民衆を救うのである。それゆえ「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす」と言うのである。
 人が誰かのために心から苦労して働く時は汗びっしょになる。王さまにとって、天下国家の険難は、自分の病と同じである。天下国家の心配事は王さまの思いやりの政治によって救われる。自分の病気は熱が出るから治る。王さまの言葉は天下国家に轟き渡り、大政令となる。天下国家の心配事は雲散霧消するのである。
 王さまが発する大政令には逆らってはならない。王さまが発する汗は誰にも止められない。王さまの発する大政令は民衆を救うためのものである。以上は、天下が泰平になり国が治まるための、禅問答のように難解な問題でもある。
 幸いなことに九五の王さまの直ぐ下には柔順で地位が正しい側近六四が居る。六四は渙の時の主人公だから、九五は六四に非常事態を救済するための大号令を発して、天下国家の心配事が雲散霧消するように導く。渙の時の険難から脱出すれば、九五の王さまは偉大な王さまとして民衆から支持される。何ら恥じることはなく、問題は一切生じない。以上を「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす。渙のとき王居(お)る。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 天下が渙散するのは、民衆に課された賦役が厳しくて、民衆が疲弊しているからである。賦役を民衆に実行させるために、過酷な刑罰を執行するので、民衆は手足を伸ばすこともできないほど追い詰められている。以上のようであるから、民衆は朝廷を怨むようになり、政治を嘆き悲しむようになる。終に社会は瓦解して、収拾できない状態にまで陥ってしまう。
 このような状況に至れば、王さまが大号令を発しない限り、天下国家を治めることはできない。それと同時に予算を投入しなければ、民衆の心を捉えることはできない。
 それゆえ、王さまは大号令を発して、天下国家を治め、民衆の心を一つにする。王さま自らが財産を投じて、困窮した民衆を救うのである。民衆が従わないはずがない。まずは、民衆の心を捉えて、民衆の支持を取り戻すことが肝要である。
 象伝に「位(くらい)を正しくする也」とあるのは、九五の王さまが剛健にして中庸の徳を発揮して、側近六四と陰陽協力し、天下国家の険難を渙散すると云うことである。九五の王さまは、正統派の君主として、世の中を正すのである。

上九。渙其血。去逖出。无咎。
象曰、渙其血、遠害也。
○上九。其(その)血(ち)を渙(ちら)す。去りて逖(とお)く出づ。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)血(ち)を渙(ちら)すとは、害に遠ざかる也。
 「其(その)血(ち)を渙(ちら)す」の「血」は、六三を指している。また、民衆が塗炭の苦しみに陥ることを「血」と表現している。人間の身体の中に血が正常に流れていれば健康だが、血の流れが滞れば病に罹る。下卦坎を血に例える。坎は血の形をしている。
 人の心が動揺することを「去りて逖(とお)く出づ」と言う。上卦巽風に属する上九が下卦坎の血に属する六三に応じている。すなわち、巽の風が坎の血を渙散する。あるいは、下卦坎の険難から離散するのである。上九は外卦に居るので、内卦の険難から離れている。このことを「去りて逖(とお)く出づ」と言うのである。
 上六は渙の時の終極に居て、高尚な志を抱いている。九五の君主の相談役として、天下国家を険難から救う役割を担っている。大いに苦労して天下国家を険難から救うのである。
 天下国家を険難から救うためには大いなる苦労が伴う。渙の時の終極に居て、天下国家の険難を救うために、武力を用いて悪人を討伐する。それゆえ「其(その)血(ち)を渙(ちら)す」と言うのである。
 自分は名誉を求めず、自分が立てた手柄を人に譲って、民衆を立てる人物である。それゆえ、人から嫉(ねた)まれることなく、天下国家の険難を救うことができるので「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 以上のことを象伝では「害に遠ざかる也」と言っている。上九が天下国家の険難を救うので、民衆は障害を受けたり、心配したりすることがなくなるのである。
 易経の考え方として、険難の真っ只中に在る人には、険難から脱出する方法を説き、険難から脱出した人には、再び険難に襲われない方法を説くのである。
 上九は外卦に居て巽の高尚(巽順で清潔)な性質を具えている。人と争うことを好まず、自己主張をしない。だから、自分が成功を成し遂げても、社会から身を引いて超然としている。それゆえ「咎(とが)无(な)し」と言い、「害に遠ざかる也」と言うのである。

 

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呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

58.兌為沢

□卦辞(彖辞)
兌、亨。利貞。
○兌は亨る。貞しきに利し。
 兌為沢は上下共に兌(沢)が重なっている。坎(水)は一陽が上下の陰爻に囲まれて、川の水が流れている形。兌は陰爻の下に陽爻が重なっており、川の水のように流れることができない。すなわち、池や湖や海の形である。
 兌を自然に当て嵌めると沢になる。一番大きな沢は海である。海は沢山の川から水が流れ込んでいる。大きな凹みが沢山の川の水を貯めている。沢からは水が流れ出て行かないから、沢山の生物が水の中に生息することができる。それゆえ、兌には「説(よろこ)ぶ」と云う性質がある。大きな凹みに水を貯めているので清濁併せ飲み、万物が喜ぶと云う意味もある。
 一陰が二陽の上に在るので二陽から尊ばれている。陽は強くて陰は弱い。弱い者が強い者から尊敬されて上座に坐っているので、喜びが顔いっぱいに溢れ出ている。人が喜ぶ時には、気持ちが伸び伸びとして、顔がほころび、口元がゆるむのである。
 兌の字は口元がゆるんでいる形にも見える。兌には喜び和合する性質を読み取ることができる。兌の喜びは言葉にはできないような喜びである。それゆえ、喜びを説びと書く。
 「説」から「言」を除いた形が「兌」。沢山咸の「咸」は「無心の感」だから「感」から「心」を除いているのと同じ。兌は口である。口は心で感じた言葉が出入りする門である。
 乾の一番上に在る陽爻が陰爻に変じたのが兌である。陰爻が陽爻に持ち上げられているので「少女」の形である。美しい少女を上に載せて、下の陽爻が喜んでいるのである。
 また、巽は木(五行)で季節は春、離は火で季節は夏、兌は金で季節は秋である。春に芽を出し、秋に収穫となる。収穫は喜びの時である。種が実となり、実はお金になる。
 兌為沢の中には互体三四五の巽(春)と互体二三四の離(夏)と兌(秋)が同居している。三位一体自然の形である。
 また、兌が重なっていることから、内外共に喜ぶと云う意味もある。天地が喜べば万物が生じて、上下の人々が喜べば万事に通ずる。それゆえ「兌は亨る」と言うのである。

□彖伝
彖曰、兌、説也。剛中而柔外。説以利貞。是以順乎天、而應乎人。説以先民、民忘其勞。説以犯難、民忘其死。説之大、民勸矣哉。
○彖に曰く、兌は説(よろこ)ぶ也。剛は中にして柔は外なり。説びて以て貞しきに利し。是を以て天に順ひて人に應ず。説びて以て民に先だてば、民(たみ)其(その)勞(ろう)を忘る。説びて以て難を犯せば、民其死を忘る。説びの大なる、民勸(つと)む哉。
 兌は真ん中に在る陽爻が剛健で中庸の徳を具えており、上に在る陰爻が和合柔順の性質を具えている。陰陽共に喜ぶのが兌の性質である。上に在る陰爻は下に在る陽爻に支えられており、下に在る陽爻は上に在る陰爻に謙(へりくだ)っている。二つの陽爻が一つの陰爻を支えて喜んでいるのである。
 それゆえ、この卦を人間に当て嵌めれば、内面は剛健にして質実、外面は温和な人物である。このような人物はいつも心が安定しており、周辺の人々にも喜ばれて信頼されている。
 内面が「ふにゃふにゃ」で、外面は「へこへこ」している人物は、媚(こ)び諂(へつら)う侫(ねい)人(じん)であるから、周辺の人々には喜ばれない。
 兌の卦は陰陽共に喜ぶことが肝要であり、周辺の人々に喜ばれるから、物事が成就するのである。人間社会における大小軽重さまざまな事業は、人々に喜ばれるから成功するのである。相手に対して喜びの気持ちで接すれば、相手もまた喜んでくれるので、共に満足する。それゆえ「兌は亨る」と言うのである。
 これを巽の爻辞「少しく亨る」と比べれば、やや成就する度合いが高い。巽も兌も一陰二陽の形である。しかし、兌の方がやや成就する度合いが高いのは、巽は順うこと、自分を捨てて人に順うことに重きを置くので、力強さに欠けるからである。兌は喜ぶことである。相手も喜ぶが自分もまた喜ぶ。それゆえ、巽より力強さにおいて勝っているのである。
 けれども「喜ぶ」ことには「正邪」がある。「正しい」ことを喜べば、自分の身を修めて国家も治まる。だが、「不正」なことを喜ぶようになると、自分の心身が乱れて、家族が不和となり、国家の秩序も崩壊に向かって行くのである。
 「喜ぶ」ことは「柔順にして和合する」場合と「柔弱にして媚び諂う」場合がある。「真心」や「素直な心」を失えば、「正しい心」は「邪な心」になりかねない。それゆえ「兌は説(よろこ)ぶ也。剛は中にして柔は外なり。説(よろこ)びて以て貞しきに利し」と言うのである。「剛は中にして」とは、九二と九五のことを云い、「柔は外なり」とは、六三と上六のことを云う。「貞しきに利し」とは、自分も相手も喜ぶから実現することである。
 正義や大義があるから喜ぶのである。私利私欲を満たして喜ぶのではない。人に喜んでもらえるのは公に奉ずるからである。私利私欲を求めるからではない。公に奉ずれば、人々は幾久しく喜ぶので、天下国家は安泰となる。
 兌は口の形である。「好言も口よりし、秀言も口よりす」と云う詩があるが、口から出る言葉によって吉凶禍福を招き寄せることになる。だから、「貞しきに利し」と戒めているのである。
 全ての人々が、私利私欲を求めることなく、公に奉ずるようになれば、天下国家は喜びに満ち溢れて、お天道さまに感謝するようになる。わたしたちは神仏によって生かされていることに思いを致せば、共に思いやりの気持ちを懐いて共生することができる。公に奉ずることを喜びとするようになれば、自分の喜びは家族の喜びとなり、家族の喜びは地域の喜びとなり、地域の喜びは国家の喜びとなる。国家の喜びは天下の喜びであり、天下国家は安泰となる。
 上六と六三は共に兌の主爻だから、柔順に和合して共に喜び合い、上の下もお天道さまに感謝すると云う形になっている。以上のことから「天に順ひて人に應(おう)ず」と言うのである。
 沢火革の彖伝に「湯(とう)武(ぶ)、命(めい)を革(あらた)め、天に順ひて人に應(おう)ず」とあるのも、革命の本質は公に奉ずることであり、天の道に順うことだからである。その目的は自分の喜びは家族の喜びとなり、家族の喜びは地域の喜びとなり、地域の喜びは国家の喜びとなり、国家の喜びは天下の安泰であると云う考え方に帰着するので、「天に順ひて人に應(おう)ず」と言うのである。
 わが国において革命はあり得ないことだが、神武天皇によって国家と云う形になったことは、天下国家の喜びであると同時に、わたしたち日本人一人ひとりの喜びである。自分の喜びを家族の喜びとして、家族の喜びを地域の喜びとして、地域の喜びを国家の喜びとすれば、天下国家は安泰となり、全ての人々は喜びに満ち溢れて、人生の苦労など吹っ飛んでしまう。
 「説(よろこ)びて以て民に先だてば」とは、思いやりのある人物の感情である。「民(たみ)其(その)勞(ろう)を忘る」とは、人々が思いやりに包まれるからである。「民に先だてば」とは、思いやりのある人物が中心となって人々を導くことである。
 思いやりのある人物が立派な人間となって、剛健にして中庸の徳を身に付ける。常に陰徳を積み、周りの人々の喜びを自分の喜びとして、先頭に立つ。そのようであれば、世間の人々はみな喜んで、苦労も忘れて物事に取り組むようになるので、大事業を成し遂げることができるのである。
 人々の先頭に立って困難に立ち向かえば、人々から慕われるようになるので、終には人々は死ぬような苦労も忘れて無我夢中で取り組むようになる。
 思いやりのある人物が立派な人間となり、普く天下の人々に慕われるようになれば、天下国家は喜びに満ち溢れる。これ以上の喜びはないのである。
 天下国家を治めることが、天下国家の人々を幸福に導くことになるのである。それゆえ「説(よろこ)びて以て民に先だてば、民(たみ)其(その)勞(ろう)を忘る。説(よろこ)びて以て難を犯せば、民(たみ)其(その)死(し)を忘る。説(よろこ)びの大なる、民(たみ)勤(すす)む哉(かな)」と言うのである。

□大象伝
象曰、麗澤兌。君子以朋友講習。
○象に曰く、麗(れい)澤(たく)は兌なり。君子以て朋(ほう)友(ゆう)講(こう)習(しゆう)す。
 兌は口から出る言葉、人、沢を意味する。この卦は兌が重なっているから、人が向き合って言葉を発し合う形、討論している様子である。上下の沢が潤(うるお)し合って乾涸(ひか)らびることがない形でもある。
 朋友が議論・討論すれば、物事の大義や真理を議題にして、お互いを高め合うことができる。
 天下国家の喜びを自分の喜びとできる人は、自己主張するところが少なくて、大義や真理を大切にする。天下国家をよりよくしようと公に奉ずる人は、自分の利益を考えることが少なく、朋友と天下国家について議論・討論することが多い。
 それゆえ、君子を目指す人々は、兌の卦象を見倣って、天下国家の大義や真理を追求して、朋友と議論・討論を活発にするのである。朋友が沢山集まって、議論・討論を深めることにより、お互いに刺激し合う。相手の見識が自分よりも高ければ自分はそれを見倣い、自分の見識が相手よりも高ければ相手がそれを見倣うのである。互いに切磋琢磨して、それぞれの見識を高め合う。まさに、沢が重なって潤(うるお)し合う形と同じである。
 それゆえ「君子以て朋(ほう)友(ゆう)講(こう)習(しゆう)す」と言う。兌が重なっているのは人と人とが討論して学習している形でもある。
□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。和兌。吉。
象曰、和兌之吉、行未疑也。
○初九。和(やわら)ぎて兌(よろこ)ぶ。吉。
○象に曰く、和(やわら)ぎて兌(よろこ)ぶの吉は、行(おこない)未(いま)だ疑(うたが)はざる也。
 初九は兌の和らぎ喜ぶ時に中り、正しい人徳を具えて、剛健にして位正しい人物である。応じる関係にある九四もまた剛健の性質を具えているので、関係を深めることができない。九四の支援を得ることはできないのである。
 それゆえ、自分一人の力では事を為すことが難しい。だが初九は剛健の性質なので、邪心がなく人に媚(こ)び諂(へつら)ったりしない。人の力を借りて自分の目的を叶えようとも思わない。黙々と頑張るけれども報われないのである。
 和らぎ喜ぶことに重きを置き、真っ直ぐに正しい道を歩んで九四と向き合えば、九四と志を同じくして、共に和らぎ喜ぶこともできる。九四と共に和らぎ喜ぶ関係になれば、事を成し遂げることが可能になる。よって「和らぎて兌(よろこ)ぶ。吉」と言うのである。
 初九・九四共に陽剛の徳を具えているから、喜び合っても邪心が芽生えることがない。和合することができる。和合の和の字は、穀物を口に入れる形である。和には、剛に過ぎず、柔に過ぎず、節に中ると云う意味がある。
 その喜ぶ気持ちの中には、背(そむ)き悖(もと)るような私心はなく、真っ直ぐに公に奉ずる気持ちで一杯である。喜ぶ時の最初に居て、誰と争うわけもなく、和合する気持ちに偽りはないのである。
 兌を季節に当て嵌めれば秋であり、秋は利(よろ)しき季節である。利は義の和なりとも云う。和合して喜ぶ所以である。以上のことから初九は吉運を招き寄せるのである。
 象伝に「行(おこない)未(いま)だ疑(うたが)はざる也」とあるのは、喜ぶ時の最初はよく和合するが、しばらく経つと必ず疑いが生ずるものだが、初九の段階では疑いが生ずることはない、と云う意味である。
 和合して喜ぶことを大切にして、柔順な態度に終始するので、九四も初九を信頼して、事を成し遂げることができる。事を成し遂げることができないのは、相手を疑うからであり、相手を疑わなければ、大体のことは成し遂げられるのである。
 「未だ」は「絶対」と同じ。この爻が変ずると下卦坎となる。坎は疑うと云う意味がある。疑ってはならないのである。

九二。孚兌。吉。悔亡。
象曰、孚兌之吉、信志也。
○九二。孚(まこと)ありて兌(よろこ)ぶ。吉。悔亡ぶ。
○象に曰く、孚ありて兌ぶの吉は、志を信ずる也。
 九二は臣下の位である。九五は君主の位である。九二と九五は応ずる関係にあるが、共に陽爻同士なので、一般的には応ずる関係は成立しない。けれども、九二は臣下としての役割を全うして、人徳を磨き続ける忠臣である。
 九二は下卦の喜ぶ主体六三と比する関係にあるが、六三は巧言令色の侫人であり、私利私欲を追求することを喜びとしている。九二が本来応ずる関係にある九五と応ずる努力を怠って、安易に六三と比することを喜べば、後悔することになる。
 九二が臣下の道を全うして、真心を抱いて九五と和合ずる関係になれば、吉運を招き寄せる。後悔することもなくなる。
 以上のことから「孚ありて兌ぶ。吉。悔亡ぶ」と言う。九二の真心が君主に通じて共に喜ぶことができるのである。「孚ありて兌ぶ」とは、至誠を貫いて君主に仕えるからである。「吉」とは君主から信頼されることである。
 象伝に「志を信ずる也」とあるのは、九二は剛健にして中庸の徳を具えており、自らを修める賢者ゆえ、喜ぶ気持ちは自分の中にあり、自分の外にはないことを弁えている。喜びを自分の外に求めず、自分の志を信じているのである。
 喜びは外部から訪れるものではなく、自分から掴み取るものである。九五は自分の志を信じており、九二は吉運を招き寄せる。比する関係にある侫人の六三との関係を自ら断ち、陽剛同士で本来応じる関係にない九五と志を同じくして和合する。至誠を貫いて九五に仕えるから、九五も終には九二の真心を信頼する。以上のことを、論語では「君子は和して同ぜず」と言っている。
 九二は剛中を失わないので喜ぶことができる。「孚ありて兌ぶ」とは、九五は九二の真心を信じるから共に喜ぶと云うことである。六三は小人だが、初九と九二は君子である。君子の喜びは、天下国家に尽くすことにある。小人は私利私欲のために動くが、君子は己の損得を超えて、公に奉ずるために動くのである。

六三。來兌。凶。
象曰、來兌之凶、位不當也。
○六三。來(きた)りて兌(よろこ)ぶ。凶。
○象に曰く、來(きた)りて兌(よろこ)ぶの凶は、位(くらい)當(あた)らざる也。
 「來(きた)りて兌(よろこ)ぶ。凶」の「來りて」とは、自分の外から自分の方にやって来ると云うことである。自分の方から外に向かって行くのではない。六三はやり過ぎる性質で地位も正しくない。陰爻陽位なので、能力がないのに傲慢である。下卦兌の主爻で、少女の性質を持ちながら、陽爻の上に乗って喜んでいる。
 六三は自己愛が強く、巧言令色の侫(ねい)人(じん)ゆえ、外面の華やかさに騙されて六三の所にやって来る者がいる。六三には応じる相手がいないので、比する九二と九四に媚(こ)び諂(へつら)って、自分に尽くすように誘惑する。正しい和合ではないので、凶運を招き寄せることは間違いない。それゆえ「來りて兌ぶ。凶」と言うのである。
 象伝に「位(くらい)當(あた)らざる也」とあるのは、陰爻陽位の侫人六三が巧言令色で周りの人々を欺(あざむ)けば、世の中は侫(ねい)人(じん)だらけになり、天下国家に凶運を招き寄せることになると云う意味である。
 「來りて兌ぶ」とは、侫人としての婦人の道である。人と話を適当に合わせ、賛同していないのに賛同したふりをして、媚(こ)び諂(へつら)って自分の思うままに操り、内心あざ笑っている。その笑いの中には毒があり、腹に一物ある人物である。このような人物は最後には人に憎まれて、凶運を招き寄せるしかない。

九四。商兌、未寧。介疾有喜。
象曰、九四之喜、有慶也。
○九四。商(はか)りて兌(よろこ)び、未だ寧(やす)んぜず。疾(やまい)を介(へだ)つれば喜(よろこび)有り。
○象に曰く、九四の喜びは、慶(よろこび)有る也。
 「疾(やまい)を介(へた)つれば喜(よろこび)有り」の「介(へた)つれば」とは、節操が堅固であると云う意味である。雷地豫の六二の爻辞「介(かた)きこと石の于(ごと)し」の介と同じである。また両方の間を「介」と言う。
 九四は六三と九五の間に在り、上は九五の剛健中正を承けており、下は陰邪の六三に比している。君子と小人の間に介する人物である。九五の君主とは陽同士なので比することは難しく、陰陽比している六三は陰邪ゆえ安易に比することを喜べない。
 九四には二通りの喜び方がある。一つは、易きに流れれば巧言令色の侫(ねい)人(じん)六三と比して喜ぶというあり方である。もう一つは、陽同士だが剛健にして中庸の徳を具えている九五と志を同じくして比することを喜ぶというあり方である。
 九五と志を同じくすることを諦めて、安易に六三と比する関係を喜べば、心には忸怩たる思いが残る。六三と比する気持ちを振り切って、九五と志を同じくして比する関係を実現しようとすれば苦労することは目に見えている。
 九四の心は易きに流れて六三と比するか、苦労しても九五と志を同じくして比するか揺れ動いている。揺れ動いて安定しない。それゆえ「商(はか)りて兌(よろこ)び、未だ寧(やす)んぜず」と言う。「商(はか)る」のは「どっちにしようか計っている」のである。
 また「疾(やまい)を介(へた)つれば喜(よろこび)有り」の「疾(やまい)」とは、巧言令色の侫人六三のことである。九四がどうしようか計っている答えには二通りあるが、私利私欲を求めて六三と比することなく、公に奉じて九五と志を同じくすべきである。
 易きに流れて六三と比すれば六三の病が九四に伝染する。六三は九四を苦悩させる侫人ゆえ、媚(こ)び諂(へつら)う六三を振り切って、九五と志を同じくして比する関係を実現すべきである。このことが本当に喜びにつながる道である。
 だから「疾(やまい)を介(へた)つれば喜(よろこび)有り」と言う。堅固に節操を守って正義を実現し邪悪を退ければ本当の喜びが実現する。九五に比することは正義であり、六三に比することは邪悪である。
 九五にも六三にも比することはできない。公に奉ずる気持ちと私利私欲を追求する気持ちは両立しない。善き心であろうとすれば悪い心を憎むようになり、正しい道を踏み行おうとすれば、邪なことからは遠ざかっていくのである。
 以上のあり方が君子と小人の違いである。しかしながら、人間は邪心を取り除くことは容易でなく、ちょっと油断をすれば、君子は小人に堕落してしまう。何と恐ろしいことではないか。
 君主の立場で考えれば、君主が政治を執り行う際に、いたずらに楽しむ気持ちがあれば、君主として公正でなくなる。
 侫人六三はいたずらに楽しもうとする小人である。九四は六三に近付いてはならない。剛健にして中正の徳を具えた九五に近付くべきである。そうすれば病にかかることはない。
 六三は君主の心を惑わす侫人である。九四は君主の心を正す君子である。九四は六三を相手にしてはならない。
 六三の喜びは私利私欲を追求することにある。九四の喜びは公に奉ずることにある。九四が喜ぶことは天下国家の喜びに通ずる。それゆえ、象伝に「九四の喜びは、慶(よろこび)有る也」と言う。「慶び」とは、君主にあっては、国家を安定させることであり、臣下にあっては、その役割を全うすることである。

九五。孚于剝。有厲。
象曰、孚于剝、位正當也。
○九五。剝(はく)に孚(まこと)あり。厲(あやう)き有り。
○象に曰く、剝に孚ありとは、位正しく當(あた)れば也。
 「剝(はく)に孚(まこと)あり」の「剝(はく)」とは、陰気で邪心に覆われた人物が陽気で正しい人物を排除すると云う意味である。
 九五にとって「剝(はく)」とは上六のことである。「孚」とは、信頼と愛情が深いことである。「剝(はく)に孚あり」とは、相手が陰気で邪心に覆われた人物であることを察することができずに、信頼して愛情を感じてしまうことである。
 九五は剛健にして中庸の徳を具えているが、陰気で邪心に覆われた上六と陰陽比する関係にある。君主の地位に在りながら、小人の害悪に迷惑している。上六は上卦兌の主爻であり、兌為沢の極地に居て、陰柔不忠の侫(ねい)人(じん)である。九五に媚び諂って取り入ろうとしているのである。九五にとって害悪以外の何物でもない。上六のような侫人は、天下国家を知らず知らずのうちに堕落させる恐るべき人物なのである。
 九五が自分が聡明なことに胡坐(あぐら)をかき、国家の治安を忽(ゆるが)せにして、侫人上六の存在を恐れるに足りないと軽く見て油断していると危ない。上六の媚び諂いに惑わされて、上六の邪心に気付かなければ、上六に排除されかねない。君主は周りの人々に持ち上げられて、喜ぶことに馴れてしまうところがある。以上のことから「剝(はく)に孚あり。厲(あやう)き有り」と言うのである。
 君主は私利私欲を抑えるが、侫人は私利私欲で誘惑する。君主はできるだけ軍事力を使わないようにするが、侫人は軍事力を利用しようとする。陰に隠れて、君主の心を誘惑し、天下国家の攪乱を計っている。油断の出来ない危ない人物である。
 九五以外の爻辞には「兌」と云う言葉が使われているが、九五の爻辞には「兌」と云う言葉はなく「剝」と云う言葉が使われている。九五に君子たれと戒めているのである。
 象伝に「位正しく當(あた)れば也」とあるのは、九五と上六が陰陽比している関係にあることを云う。陰が陽の存在を喜んで、陽が陰の存在を有り難く思うのは、天地(陰陽)の法則である。九五の君主は陽剛の性質なので、同じく陽剛の性質の九二の忠臣とは陰陽応ずる関係ではない。側近の九四も陽剛の性質なので比する関係ではない。上六の侫人だけが陰陽比する関係なので親しむことが容易である。だから、九五は上六を寵愛してしまいかねない。だから「剝(はく)に孚あり」と言うのである。
 九五が部下から疑われる理由はここにある。だが、九五は陽爻陽位、上六は陰爻陰位で、陰陽比している。それゆえこれを解釈して「位正しく當(あた)れば也」と言うのである。
 しかし、九五の場合、陰陽比する法則に従うことが「剝(はく)に孚あり」と云う凶運を招き寄せる。雷天大壮の六五が位當(あた)らざることを以て咎なしとしていることと相反している。雷天大壮は位當(あた)らざるを以て吉運を招き寄せるとして、この爻は位正當なるを以て凶運を招き寄せるとしている。相反することだが、これも易に見られる解釈の例として知っておくべきである。
 君主のところには沢山の人々が訪れる。小人は君主に取り入ろうとして喜んで君主に擦り寄ってくる。上六は六三と同じ陰柔の性質で、九五は上六と同じ上卦に在る。上六と六三は九五と九四をサンドイッチのように挟んでいる。九五は上六に用心すべきである。だが九五は剛健中正の君徳を具えており、至誠を尽くすので、侫人上六に取り入れられることはない。どうして小人上六が易々と九五に取り入ることができようか。
 九五は侫人上六のことを警戒して近付かない。それゆえ「剝に孚あり。厲き有り」と言うのである。

上六。引兌。
象曰、上六引兌、未光也。
○上六。引きて兌(よろこ)ぶ。
○象に曰く、上六の引きて兌ぶは、未(いま)だ光(おおい)ならざる也。
 「引きて兌ぶ」の「引きて」とは、「招かざる人物がやって来るように感じて引く」と云う意味である。
 上六は兌の卦極に在って、喜ぶと云う兌の時の主人公であり、上卦兌の主爻である。自分自身が喜ぶ時の極点であるから、周りの人々にも喜びを与える人物である。人々が集まって来て、お互いに喜び合う。それゆえ「引きて兌ぶ」と言うのである。
 しかし同時に周りの人に媚(こ)び諂(へつら)って君徳を貶(おとし)める人物でもある。なぜ、そういうことをするのか分からないが、その害悪は深刻である。まるで磁石が鉄を引き付ける理由を知らない馬鹿者のようである。
 以上のように、上六の喜ぶ様(さま)は正邪合わせているため、時には吉運を招き寄せることもあるし、時には凶運を招き寄せることもある。よって、ここでは吉凶の言葉を用いない。
 象伝に「未(いま)だ光(おおい)ならざる也」とあるのは、九五の君主は剛健中正の徳を具えており威厳があるので、小人が入り込む隙はないはずだが、上六は喜ぶ時の極点に居て、巧言令色の限りを尽くして九五に近付き親しみ合おうとする。
 上六は正邪併せ持っているので、上六が九五に接近することがどのような結果となるかは不明である。しかしながら、九五は君主に相応しい大徳で上六を包み込んで泰然としている。
 また、九五の下には陽剛の臣下が居て六三と上六の侫人から九五を守っている。上六は権力の外に居るので、その影響力は限られている。上六の影響によって天下国家が乱れるまでには至らない。それゆえ「未(いま)だ光(おおい)ならざる也」と言うのである。
 ちょっと分かり難いのは、上六は九五にとって巧言令色の侫人として害悪を及ぼす小人と云う側面もあるが、同時に喜ぶ兌の時の主人公として、周りの人々を喜ばせると云う側面もある。地山謙の時において、九三は労謙の君子であるが、六五の君主にとっては逆賊にもなり得るのと同じである。
 いずれも易経の中で描かれる一つの事例である。六三と上六は共に侫人であるが、上六が吉凶併せ持っているのは上六が喜ぶ兌の時の主人公だからである。「引きて」とは陽爻を引くと云うことである。上六は下二陽(九五と九四・君主と側近)を引いて喜ぶ。それが悪影響を及ぼすことにもなる。それゆえ、九五に「厲(あやう)き有り」と言うのである。

 

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

57.巽為風

□卦辞(彖辞)
巽、小亨。利有攸往。利見大人。
○巽(そん)は小しく亨(とお)る。往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。大人を見るに利し。
 巽為風は上卦・下卦共に巽、空気が宇宙に流通している形。巽は風であり木である。風は見えないが、樹木が風で揺れているのを見れば風が吹いていることが分かる。風が発生するのは空気の温度差(寒気と冷気の配置)による。
 巽為風の互卦は火沢睽である。火沢睽の上卦(この卦の互体三四五)は離であり、下卦(この卦の互体二三四)は沢である。火は万物を乾燥させる存在である。火の大きなものは太陽である。沢には水が満ちている。水の大きなものは海である。太陽の熱エネルギーは大地を照らし、川や海の水分は太陽の熱エネルギーによって蒸発する。以上がこの卦の形である。
 陰の性質は下に降り退くことである。この卦は上卦・下卦共に、一陰が二陽の下に位置して、塞がれている形になっている。しかし、陰が内側に伏せていれば、外側に居る陽は陰を散じようとする。陰は陽に応じて、陰陽和合する。この卦の全体の形を見れば、上卦は天上の風、下卦は地下の風である。
 互卦の火沢睽は風が起こる原因であり、大気が流通することを現している。火沢睽は上と下が背き合う時だから、天上の風と地下の風が背き合って吹き荒れる。
 これを人の心に当て嵌めると、微妙な兆しを察して、心の中に隠れ伏せている思いを推測する時である。国家に当て嵌めると、侫人を除去して、弊害を刷新する時である。
 以上は風のようにスッと相手に入り込まなければできないことである。この卦は入り、従い、伏せることにより成立する。相手に柔順であり恭(うやうや)しく帰服すると云う意味もある。

□彖伝
彖曰、重巽以申命。剛巽乎中正而志行。柔皆順乎剛。是以小亨、利有攸往、利見大人。
○彖に曰く、重(ちよう)巽(そん)にして以て命を申(かさ)ぬ。剛、中正に巽(したが)ひて志行はる。柔、皆剛に順ふ。是を以て小しく亨り、往く攸(ところ)有るに利しく、大人を見るに利し。
 天地においては一日たりとも風が吹かない日はない。誰もが知っていることである。風には形がないが、風が吹けば風の動きに順わざるを得ない。風はどんなに小さな隙間にも入り込む性質がある。それゆえ「小しく亨る」と言うのである。
 風は流通するから用を為し、閉塞すれば腐敗につながる。何事も腐敗すれば虫が生じる。コレラ菌が伝染するのは、天に飛散して伝染するのではなく、大地に侵食して伝染するのでもなく、風によって人から人へと伝染するのである。だから、風の字の中には虫の字が入っているのである。
 風は人が呼吸するように出たり入ったりする。風は上下左右に飛んだり伏せたりして自由自在に流通することによって、万物の化育に影響する。万物が生成発展するのは風の力に寄るところが大きい。それゆえ「往く攸(ところ)有るに利し」と言うのである。
 風の方向は風を受ける立場に立てば、順風の時と逆風の時がある。また、風が吹けば万物が動き、風が止まれば万物は静かになる。さらには強風の時と弱風の時もある。すなわち、風はその時と所によって自由自在に姿を変えて現れる。風は次から次へとその形を変化させて通ずるのである。
 天地が生成発展するのは風の力によるところが大きい。天地にとって風は一日も欠かせない存在である。
 人の心も同じである。風のように何時も変化して止むことがない。動けば震となり、入れば巽となる。時に善いことを考え行動して天下国家に寄与することもある。時には悪いことを考え行動して天下国家に迷惑をかけることもある。神仏に報いることもあるが、時には背くこともある。
 震の動き(出る性質)と、巽の柔順さ(入る性質)によって、万物は生成発展する。震は陽の作用であり、巽は陰の作用である。それゆえ、巽は志の強さや氣力の強さに欠けるところがある。だから、「大人を見るに利し」と言うのである。
 人事に当て嵌めれば、巽の卦は、一陰が二陽の下に在るので、人が自分の身を卑下して、社会的地位の高い人に柔順に従う形になっている。また、二陽の下にある一陰は柔弱で闇の中にいるから、自ら事を為すことができない。二陽の剛健にして明智を具えた君子の命令に柔順に従って、君子の力に頼って物事を成し遂げる。それゆえ「巽は小しく亨る」と言うのである。
 巽の時は君子でも一人では功を上げることはできない。大人に順い、大人と共に行動することによって、風が吹けば草木が風の動きに順うようにして功を上げることができる。それゆえ、「往く攸(ところ)有るに利し。大人を見るに利し」と言うのである。
 大人の補佐がなければ、功業を成し遂げることはできない。下に在る一陰が上に在る二陽に従うから「往く攸(ところ)有るに利し」と言う。巽は風だから高い所を流通して休むことがない。
 風の流れは上は天まで届き、横は東西を貫いて吹き続ける。風は一時たりとも休むことなく、年中無休二十四時間活動して、上下左右自由自在に流通し続ける。
 一年三百六十五日、数千万年前から現在に至るまで、一時たりとも休むことなく活動し続けている。時には寒風となり、時には熱風となり、時には温風となり、時には冷風となり、時には強風となり、時には弱風となり、時には激しく吹き、時には静かに吹く。どんなに姿を変えても、風は風である。
 人間も風を見倣って、苦しい時も、楽しい時も、哀しい時も、嬉しい時も、その時々に応じて対処すべきである。適切に対処することができれば、どうして事を誤ることがあろうか。それゆえ「重(ちよう)巽(そん)にして以て命を申(かさ)ぬ」と言うのである。
 風はどんな所にも入り込んでいく。このことを、命令が人の心に入り込んでいくことに例える。命令も風のように形がないので見ることはできない。見ることはできないけれども、万事に通ずるのが命令であり風である。
 命令や風の心は鉄や石のようでもあるし、婦人や女性のようでもある。どんなことになっても倒れない翁のようでもある。本当の剛健である。始終元気で本末を貫く。風や命令が通過するところには、何らかの影響が残る。以上のことを「剛、中正に巽(したが)ひて、志行(おこな)はる」と言う。その理由は卵のように角がないからである。このことを「柔、皆剛に順(したが)ふ」と言うのである。

□大象伝
象曰、隨風巽。君子以申命行事。
○象に曰く、隨(ずい)風(ふう)は巽なり。君子以て命を申(かさ)ね事を行ふ。
 「随(ずい)風(ふう)」の「随」は、相継ぐこと。「命を申(かさ)ね事を行ふ」とは、君主が命令を伝えて臣下がその命令を実行することである。
 巽は従う(随う)ことである。巽は風でもある。風が風に随うことを「随風」と言う。随風は従風であり、巽が重なっていることの呼び方である。
 風に風が随って向かうところはみな風の影響を受ける。政治における命令も、理屈に適っていれば、民はその命令に随わないはずがない。論語の「君子の徳は風」とは、このことである。
 また、上卦巽は君主が命令を発する形であり、下卦巽は臣下や民が君主の命令に随う形である。上卦の風が吹けば、下卦の風が随うのは、君主の命令が実行される形である。
 風が万物に影響するのと同じように、君主の命令を万民に伝えて、万民は命令に随う。君主が命令して臣下が実行するのは君臣の大義であり、国家の正しいルールである。それゆえ「君子以て命を申(かさ)ね事を行ふ」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。進退。利武人之貞。
象曰、進退、志疑也。利武人之貞、志治也。
○初六。進退す。武人の貞に利し。
○象に曰く、進退すとは、志疑ふ也。武人の貞に利しとは、志治まる也。
 巽為風は巽従する(柔順に従う)時である。六爻全て柔順に従う時に居る。初六は柔順な性質で組織の下位に居る。すぐ上に居る剛健九二の影響を受けているが、巽為風の時の主人公である。
 主人公にしては卑賤に過ぎて、志や意志が弱いので、不安定である。それゆえ九二の影響を受けて、あれこれと迷っている。九二を恐れたり、疑ったりしながら、進むべきなのか、退くべきなのか、一向に決まらない。最後には陰陽比する関係にある九二に従うことになるが、従いながらも九二を信じ切れずに疑っている。以上のことから「進退す」と言うのである。
 人間は志が固まれば、天下のあらゆる事業を成し遂げる力がある。だから、まずは志を固めて、その志を実現すべく先生に従い実力を身に付けて、志を体現していく。
 柔弱な性格の人でも、志が強固であれば、その弱さを克服して、志を体現することができる。狩猟をして鳥を射ようとすれば必ず射ることが出来るし、獣を狩ろうとすれば必ず得ることができる。以上のことから「武人の貞に利し」と言うのである。
 武人とは志が強固な人の例えである。武人のような強固な志で、物事に対処すれば、柔弱な性格を強固な志でカバーすることができる。「武人の貞に利し」の「貞」とは、志に導かれて正しいあり方を固く守るので、道を踏み外さないことである。
 象伝に「志治まる也」とあるのは、必ず柔弱な性格を克服できると云うことではなく、志を強固にすれば柔弱な性格を克服することもできるから、努力しなさいと云うことである。また初六は陰爻陽位なので「武人」と云う言葉が使われているのである。

九二。巽在牀下。用史巫紛若。吉无咎。
象曰、紛若之吉、得中也。
○九二。巽して牀(しよう)下(か)に在り。史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり。吉にして咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、紛(ふん)若(じやく)たるの吉は、中を得(う)れば也。
 「史(し)巫(ふ)」の「史」とは「卜(ぼく)筮(ぜい)・占い」を司る役人である。明察な視点で将来を予測する。「史(し)巫(ふ)」の「巫」とは「お祓(はら)い」を司る役人である。諂(へつら)う者を退ける役割を果たしている。
 また、「史」は鬼神の意向を人に伝え、「巫」は人の意向を鬼神に伝える役割を担っている。「史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり」の「紛(ふん)若(じやく)」とは「多い」こと。重巽の形である。
 九二は忠臣の位に居て、剛健の性質で中庸の徳を具えている。位正しく中庸の徳を具えた九五の君主と応じる位置関係にあり、志を同じくしている。今は巽順に従う時だから、自分は寝台の下に潜るよう坐っているのである。
 巽の時はみんなが寝台の下に潜るように巽順に従っている。だから「巽して牀(しよう)下(か)に在り」と言うのである。
 昔は人々から尊ばれる人が寝台に坐っており、卑しい立場の人々は寝台の下に潜るように跪(ひざまず)いていた。上卦巽が寝台であり、下卦巽は寝台の下に潜るように在ると云う形に倣(なら)って言葉をかけている。
 九二は忠臣にして大臣の位に在り、天下国家の難問に中っている。人智の及ばないところは、神仏に接することができる「史(し)巫(ふ)・卜(ぼく)筮(ぜい)・占いを司る役人、お祓(はら)いを司る役人」を任用して、神仏の教えに従うべきである。
 今は巽の時、君主の忠臣は巽順に従うことと諂(へつら)うことを混同してはならない。周りの人々が諂(へつら)っているからと云って九二も諂(へつら)うようなことをしたら、君主に対して不忠不義の臣下と言われても仕方がない。表面は巽順に従っているように装い、媚び諂っている小人共を放逐すべきである。それゆえ「史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり。吉にして咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「史(し)巫(ふ)」とは、真心で神仏と通じることができる人々である。また、「牀(しよう)下(か)」とは淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)が潜んでいるところである。すなわち、「史(し)巫(ふ)」を任用して、淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)を浮かび上がらせ、お祓(はら)いによって淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)を除去する必要がある。
 巽は感覚が研ぎ澄まされている。真心で神仏を感じるようであり、風があらゆる所に入り込むようである。それゆえ、吉祥を招いて、災難を除去することができる。
 象伝に「中を得(う)れば也」とあるのは、巽の時に乗じて巽順を装って媚び諂(へつら)う人が蔓延(はびこ)っている中で、九二は剛健の性質で中庸の徳を具えているので、天下国家の難問を解決することができると云う意味である。

九三。頻巽。吝。
象曰、頻巽之吝、志窮也。
○九三。頻(しき)りに巽(そん)す。吝。
○象に曰く、頻(しき)りに巽(そん)するの吝は、志窮(きわ)まる也。
 九三は下卦巽の極点に居て、陽爻陽位でやり過ぎる性質である。部下を従えて傲慢に振る舞い、巽の時にあって巽順に従うことができない人物である。けれども、今は巽順に従う時なので、巽順を装って媚(こ)び諂(へつら)っている。本来傲慢な性質なので、巽順を装っていることは苦痛以外の何物でもない。
 だから、いくら巽順を装って媚び諂っても、やがては化けの皮が剝がれる。化け皮が剝がれたら、また、化けの皮を被り、化けの皮が剝がれたら、また、化けの皮を被る。
 恥ずかしい限りである。化けの皮を被っても、化けの皮は化けの皮でしかないから、誰にも信頼されない。巽順を装って傲慢に戻り、また、巽順を装って傲慢に戻るのである。
 世の中に適合するためには、巽順を装うことも必要であるが、装っては傲慢に戻り、装っては傲慢に戻るのは、まことに恥ずかしいことである。それゆえ「頻(しき)りに巽(そん)す。吝(りん)」と言うのである。
 象伝の「志窮(きわ)まる也」とは、九三は巽の時に適合するために、巽順を装うが、すぐに化けの皮が剝がれて、人に媚び諂って名を上げようとする魂胆が公にさらけ出されることを云う。
 人間にとって謙遜すること巽順であることは、人徳の基本である。それを装うことは人徳を貶(おとし)めることである。巽順であることと巽順を装うことでは、倹約と吝嗇とが異なるように、全くの別物である。その違いをよく弁別すべきである。

六四。悔亡。田獲三品。
象曰、田獲三品、有功也。
○六四。悔亡ぶ。田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)。
○象に曰く、田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)とは、功有る也。
 田(でん)とは、文武の武である。初爻に「武人の貞に利し」とあったが、六四は田の武を用いて功を上げるのである。三(さん)品(ぴん)とは、下卦の三爻のこと。下卦の時が終わって六四が功を上げるのである。
 六四は君主の側近の地位に居るので、大臣が君主の命令を奉じて、下卦三爻に命令を下す形である。今は巽順に従う時だから、みんなが媚び諂って君主の下に集まる。
 君主の側近としては対応に苦慮する。しかも六四は陰爻なので才能が不足して、君主の側近としては役不足である。また応爻が不在なので、部下が補佐してくれない。さらに、陽爻に囲まれているので、次から次に災難に襲われる。以上のことから、本来であれば「悔有り」と言うべきである。
 けれども、六四は巽の時の主人公だから、人徳を磨く努力を積み上げる。また、九五の君主とは陰陽比する関係にあるので、媚(こ)び諂(へつら)う侫(ねい)人(じん)を退けて、天下国家を支える。君主の側近としての役割を全うする。善人に支えられて善政を体現するのである。
 その姿を見て、初六は武人のように確乎不抜の志を打ち立て、六四は側近としての志を体現する。側近として大きな功績を上げることができる。六四は温厚な性格なので、侫人を包み込んで世の中は平和になる。以上のことから「悔亡ぶ」と言うのである。
 「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、狩りに出れば獲物が沢山捕れるように、その功徳は遍(あまね)く上下に行き渡ると云うことである。具体的には、君主の側近である六四が部下に対して恭しく謙るので、沢山の人材が集まることを例えているのである。
 象伝の「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)とは、功有る也」の「功有る也」とは、六四が九五に巽順に従うから「功有る」のである。また、「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、六四が上下二陽と比しており、その助けを得られることを云うのである。
 始めは何の益もなく害あるだけだが、終わりには害はなくなり益があるだけである。何の益もなく害ある者は猪突猛進するからである。何の害もなく益ある者は巽順に従うからである。六四は巽順に九五の君主に従うから、君主にも功がある。巽順に下々に接するから、民に功徳が及ぶのである。
 雷水解の「田(でん)にして三(さん)孤(こ)を獲(う)」とは、小人を除去すること。巽為風の「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、君子の成せる技である。

九五。貞吉。悔亡。无不利。无初有終。先庚三日、後庚三日。吉。
象曰、九五之吉、位正中也。
○九五。貞にして吉。悔(くい)亡ぶ。利しからざる无(な)し。初(はじめ)无(な)く終有り。庚(こう)に先だつこと三日、庚(こう)に後(おく)るること三日。吉。
○象に曰く、九五の吉は、位(くらい)正中なれば也。
 「庚(こう)に先立つこと三日」の「庚(こう)」は、「更」や「革」を意味するので、弊害を更新・刷新する意味がある。また、「庚(こう)に先立つこと三日」とは、十(じつ)干(かん)(甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き))の「丁(てい)(庚(こう)より三つ前)」のことで、「丁(てい)」には丁寧と云う意味がある。弊害を更新・刷新する前段階は、丁寧にすべきなのである。
 また、「庚(こう)に後(おく)るること三日」とは、同じく十(じつ)干(かん)の「癸(き)(庚(こう)より三つ後)」のことであり、「癸(き)」とは、計(はか)ると云う意味があるから、弊害を更新・刷新した後の処理を、事を行う前に計画しておくべきなのである。
 今は巽順の時なので、役人は九五の君主に媚(こ)び諂(へつら)うけれども、君主は騙されてはならない。媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)すれば君徳を穢(けが)すことになるからである。君徳を穢(けが)せば「悔(くい)有る」ことになるが、「悔(くい)亡ぶ」とあるので、九五は媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)することなく、君徳を穢(けが)さないのである。
 九五は剛健中正の徳を具えているから、媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)することなく、善き政治を行い民の心を奮い起こし、ありとあらゆる変化に適切に対応して、民から支持されるのである。
 以上のような君主であるから、侫(ねい)人(じん)を側に寄せつけず、政治の悪習を改め、文明社会を築き上げ、天下国家は安泰となる。社会のあらゆる弊害が刷新され、風通しのよい社会が実現する。
 一時的な安定を実現したのではなく、恒久的な安定を実現したのである。吉運を招き寄せて、媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)して君徳を穢(けが)すことを免れる。すなわち、後悔することがなくなる。それゆえ「貞にして吉。悔(くい)亡ぶ」と言うのである。
 吉とは、善き天下が今後も継続することである。そのためには、君主として正しい命令を発すること、その時その時に適切に対応することが求められる。その時に適合した命令を発して行動が適切であれば、君臣調和して天下国家は治まるのである。
 「利しからざる无(な)し」以下の文章は、後悔することがなくなった後で、また後悔することにならないように戒めているのである。九五は元々媚び諂う部下を寵愛するところがある。九五がちょっと油断すれば部下を寵愛して、「巧(こう)言(げん)令(れい)色(しよく)、鮮(すく)なし仁(言葉巧みで恭しい態度な人物に限って思いやりに欠けていることが多い)」の輩(やから)が蔓延(はびこ)ることになる。
 上位に在る君主が侫人を好めば、朝廷は侫人だらけになり、天下国家は乱れる。天下国家が乱れるのは、君主や側近の言行が民に支持されない時である。
 九五の言行は最初は民から支持されないが、剛健中正の徳を具えているので、よく反省して言行を改め、賢臣を重用して、政治風土を一新する。巽順の時を全うするのである。
 九五は最初は民から支持されないが、終には民に信頼される君主となる。それゆえ、「初(はじめ)无(な)く終(おわり)有り」と言う。「初(はじめ)无(な)く」とは、始めは善くない(悪い)と云うことである。「終(おわり)有り」とは、始めの善くない(悪い)状態を善い状態に改めることである。始めは善くない(悪い)状態にあるのは、原理原則を踏まえず、風見鶏のようにくるくる変化するからである。
 そのような君主は民に信頼されない。命令を発しても誰も従わない。それゆえ天下国家は乱れる。原理原則を踏まえて、正しい方向に民を導けば、民は君主を信頼して君主が発する命令に従うようになる。風見鶏のようにくるくる変化せずに、原理原則を踏まえることが「終(おわり)有り」の所以である。
 今こそ、天下の弊害を刷新する時である。臣民に道徳の大切さを教えて乱れた社会を浄化しなければならない。慎重に事を進めて、終わりを全う(風俗を一新)すべきである。それゆえ「庚(こう)に先立つこと三日、庚(こう)に後(おく)るるること三日。吉」と言うのである。
 象伝の「九五の吉は、位(くらい)正中なれば也」とは、九五は剛健中正の徳を具えているから、よく省察して、人徳を磨き、忠臣九二や六四の大臣と志を同じくしているので、巽の時の弊害である媚び諂う人間関係を一新することができると云う意味である。すなわち、九五は君主としての役割を全うするのである。

上九。巽在牀下。喪其資斧。貞凶。
象曰、巽在牀下、上窮也。喪其資斧、正乎凶也。
○上九。巽して牀(しよう)下(か)に在り。其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)ふ。貞なれども凶。
○象に曰く、巽して牀(しよう)下(か)に在りとは、上にして窮(きわ)まる也。其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)ふとは、正(せい)乎(こ)として凶なる也。
 「資(し)斧(ふ)」とは剛健にして果断の例え。火山旅の九四の爻辞にも使われている。上九は不中正で媚び諂う巽の時の卦極に居る。巽順に過ぎる人物である。すなわち、巧言令色にして陰邪の小人であり、君主に媚び諂って名誉と財産を恣(ほしいまま)にする。
 上九は地位と財産を失うことを恐れているので、媚(こ)び諂(へつら)いの度合いは益々悪化して、それが自分の立場を危うくすることに気が付かない。それゆえ「巽して牀(しよう)下(か)に在り」と言うのである。
 巽の卦象は、上卦巽を「牀(しよう)(腰掛けや床のこと)」として、下卦巽を「従う」とする。爻の象を見ると、上九は九五の上に在るが、相談役として君主の上に居るような立派な人物ではなく、君主に媚び諂ってばかりいる侫人である。
 本来剛健の性質を具えているが、不中正なので名誉や財産を得るために媚(こ)び諂(へつら)ってばかりいて自ら権威を失い侫(ねい)人(じん)に堕ちていく。それゆえ「其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)う」と言うのである。
 上九が剛健の性質を失うだけでなく、名誉や財産に固執する姿勢を改めようとしなければ、凶運を招き寄せることは間違いない。それゆえ「貞なれども凶」と言うのである。
 「凶」とは、人に怨まれることである。自分で自分を貶(おとし)めて行き詰まっているのに心を改めることをしないからである。陰柔の性質は、弱者に当て嵌めれば「邪(よこしま)」なものとなり、強者に当て嵌めれば「正しい」ものとなる。
 巽順の性質は、卑怯者に当て嵌めれば「媚(こ)び諂(へつら)い」となり、勇者に当て嵌めれば「謙遜」となる。
 象伝に「上にして窮(きわ)まる也」とあるのは、巽順の時の極地に居て自ら陽剛の徳を捨てて媚(こ)び諂(へつら)うことを云い、「正(せい)乎(こ)として凶なる也」とは、男たる者が陽剛の徳を失えば凶運を招き寄せることは必然であることを云う。巽順に過ぎて恥辱を受けるのである。窮とは困窮することである。

 

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呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

56.火山旅

□卦辞(彖辞)
旅、小亨。旅貞吉。
○旅は小しく亨る。旅は貞にして吉。
 旅は上卦離・下卦艮、離は日・艮は山。山の上に火がある形。火が山を焼く(山頂で山火事が発生した)姿である。
 火が山を焼いても(山頂で火事が発生しても)、山はどっしりと構えて動かない。旅人が出たり入ったりしても動かない旅館と同じである。山火事が発生すると火は一カ所に止まらずに移動する。旅人が観光地を移動するのと同じである。
 艮は止まると云う性質がある。離は明らかと云う性質がある。旅人は日が暮れると旅館に到着し、日が昇ると旅館から出て行く。以上のことから、この卦を旅と名付けたのである。
 旅は我が家を離れて他所へ行くことである。この卦を人間社会に当て嵌めると、下卦艮の自分は篤実に人に接しても、上卦離の相手は明智の知恵で対応して情実では応えてくれない。情のある人間関係が成立しない時である。
 旅人は各地から各地へと移動するので、物品を交易することができる。その意味で旅の意義は大きいのである。
 その一方で旅人の立場に立てば、自分の家を離れて、時には自分の国を離れ、東西南北・四方八方と移動する。山や川を次々と越え、風雨や台風の中を移動して、色々な人に世話になり、色々な旅館に世話になる。だから、大きな事を成し遂げることは難しい。それゆえ「旅は小しく亨る」と言うのである。

□彖伝
彖曰、旅小亨。柔得中乎外、而順乎剛、止而麗乎明。是以小亨。旅貞吉也。旅之時義大矣哉。
○彖に曰く、旅は小しく亨(とお)る。柔、中を外に得て、剛に順ひ、止まりて明に麗(つ)く。是(ここ)を以て小しく亨(とお)る。旅は貞にして吉也。旅の時義大いなる哉(かな)。
 一般的には陽爻が陰爻に勝るが、この卦はそうではない。六二と六五は柔順であるから吉運を招き寄せるし、九三は剛毅であるから凶運を招き寄せるのである。
 六五は柔順にして中庸の徳を具えているので、上九と九四の陽爻に柔順に従う。旅は他国を旅する時なので、剛毅な人物は受け容れられない。柔順な人物は自己主張をしないので、他国の人々と仲良くすることができる。だから、自国を離れて他国を旅しても他国の人々とうまくやっていくことができる。以上を「柔、中を外に得て、剛に順ひ」と言うのである。
 「柔、中を外に得て、剛に順ひ」の「外」とは外卦のことである。この卦の全体の形を見れば、止まると云う性質の艮の上に明るいと云う性質の離が乗っている。他国に旅行をしている時は、その国のルールに従い、その国の人々の考え方を尊重して、その国の人々に色々と教えてもらうのと同じ形である。以上のようなあり方を「止まりて明に麗く」と言うのである。
 旅行は外国の人が我が国を旅行することも、我が国の人が外国を旅行することも、旅行する人にとっては、自国を離れて他国に行くのである。旅館やホテルで出逢う人々もみな他国の人々である。他国に親戚の人や友達はまずいないので、一人ぼっちで孤独である。その意味では旅行は楽しいだけでなく、苦しいこともある。
 昔は今と違って観光旅行などほとんどなく、必要に迫られて旅したのである。他国のルールに正しく従い、良い行いをして、他国の人々から好かれなければ、色々と障害が発生して、苦労や災難を招き寄せたのである。
 旅の時は、できることは限られているが、旅人の行動が正しければ、得られることの恩恵は多い。それゆえ「是を以て小しく亨(とお)る。旅は貞にして吉也」と言うのである。論語に「言(げん)忠信、行(おこない)篤(とつ)敬(けい)なれば、蛮(ばん)貊(ぱく)の邦(くに)と雖(いえど)も行なわれん」とある。旅人としての理想のあり方を示したものである。
 物事は一つひとつが微妙に異なっており、全く同じと云うことはない。国の数だけ色々な決まり事や習慣がある。お互いにその点をよく考慮して相手の国のことを尊重すべきである。外国と交易する時も同じことである。仕事で外国を訪れる時には、外国の人との人間関係を大切にしなければならないのである。
 男子たるもの世界中を駆け回ることが多く、外国に行き、外国の人々と接することで大きな成功を収めることもできる。どんな国を訪れても、その国の決め事や習慣を尊重して正しく振る舞うことが求められる。外国を訪れることも、人生も、みな旅である。旅をする人は以上のことをよく学んでから旅するべきである。このことを「旅の時義大いなる哉(かな)」と言うのである。

□大象伝
象曰、山上有火旅。君子以明愼用刑、而不留獄。
○象に曰く、山の上に火有るは旅(りよ)なり。君子以て明らかに愼(つつし)みて刑を用ひ、而(しか)して獄(ごく)を留(とど)めず。
 「山の上に火有る」は、山火賁の「山の下に火有る」と対になっている文章。艮は山、離は火。火が山頂で燃えている形である。
 火は山頂の一カ所に止まっておらず、どんどん移動していく。山頂で火が燃えても山は不動である。火は止まることなく移動し続ける。旅人が毎日移動して宿を変えていくのに似ている。
 また、山の上(山頂)で火が燃えているのは、旅人がランチやディナーをゆったりと食べながら、旅館やホテルから遠くを眺めているイメージである。それゆえ、この卦を旅と名付けたのである。
 この卦には上卦離の文明の意味と互体(三四五)兌の武人の意味がある。離には軍人の意味もあるから、懲罰を執行すると解釈することもできる。下卦艮には止まる意味があり、牢獄の形をしている。旅と牢獄は長く居る地(場所)ではない。
 君子は以上の形を見て、明智で刑罰を執行して、火が一カ所に長居しないように罪人を処する。牢獄は必要に迫られて設ける所である。罪を犯せば牢獄に入るが、長居する所ではない。
 下卦艮を逆さにすると震となり、潜在的に揺れ動くことから「愼みて刑を用ひ」と戒めている。艮には止まる性質があるので、牢獄に長居することを戒めて「獄を留めず」と言うのである。
 上卦離は夏、下卦艮は冬なので、夏から後、冬より前の秋(三四五の互体兌)に刑罰を執行する形にもなっている。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。旅瑣瑣。斯其所取災。
象曰、旅瑣瑣、志窮災也。
○初六。旅(りよ)にして瑣(さ)瑣(さ)たり。斯(こ)れ其(そ)の災(わざわい)を取る所なり。
○象に曰く、旅にして瑣(さ)瑣(さ)たりとは、志窮(きわ)まるの災(わざわい)也。
 「旅にして瑣(さ)瑣(さ)たり」の「瑣(さ)瑣(さ)」とは、細小の形容であり、卑劣と云う意味である。初六は最下に居て、卑賤な身分で陰柔ゆえ才能不足である。また、思い切りがなく不正なので、社会的にも人間的にも最低の人物である。
 陰気で柔弱なので、器量が無く、小心者である。地位が低いので社会を怨(うら)み僻(ひが)んでいる。以上のことから誰も相手にしてくれない。このように柔弱な人物が旅をすれば、ちょっとした困難にも対応できずに、どうでもよいことで争うことになる。
 このような人物だから、誰にも相手にされない。それゆえ「旅にして瑣(さ)瑣(さ)たり。斯(こ)れ其(そ)の災(わざわい)を取る所なり」と言うのである。
 大体において、人が旅する時には、旅する土地や国のルールを尊重して柔順に従うことが肝要である。
 それなのに、誰からも信用されずに孤立している初六は、自分の立場を弁えないで自分の利益だけを追求するので、周りの人から軽蔑されて自ら災難を招き寄せる。それゆえ「其(そ)の災(わざわい)を取る所なり」と言うのである。
 象伝に「志窮(きわ)まるの災(わざわい)也」とは、旅人として行き詰まって心に余裕がなくなり、常識的な判断すらできなくなるのである。

六二。旅即次。懐其資。得童僕貞。
象曰、得童僕貞、終無尤也。
○六二。旅(りよ)にして次(やどり)に即(つ)く。其(その)資(し)を懐(いだ)く。童僕の貞を得(う)。
○象に曰く、童(どう)僕(ぼく)の貞を得とは、終に尤(とが)むる無き也。
 「旅にして次(やどり)に即(つ)く」の「即(つ)く」とは、「到着する」あるいは「就任する」と云う意味である。「次(やどり)」とは、旅館やホテルなど旅の宿のことである。
 「其(その)資(し)を懐(いだ)く」の「資(し)」とは、貨幣、すなわちお金のことである。「童(どう)僕(ぼく)の貞を得(う)」の「童(どう)」とは童子や幼児など若い人のことを指し、「僕(ぼく)」とは壮年のことを指す。
 旅行中に苦労するのは、宿泊する旅館ホテルを確保する(次に即(つ)く)こと、よいガイド(童僕)に巡り会うことである。
 六二は柔順な性格で中庸の徳を具えているので、旅人として正しい言行を貫く。それゆえ容易に宿を確保できるし、お金に困ることもない。六二は柔順なのでガイドも六二に忠実であり六二を信頼して、六二のために尽くそうとする。
 六二は自分に正直であり、自分を失うこともない。それゆえ、周りの人から信頼され、多くの人から支援される。六二が人徳者だからである。それゆえ「旅にして次(やどり)に即(つ)く。其(その)資(し)を懐(いだ)く。童僕の貞を得(う)」と言う。「吉」と云う言葉を用いないのは、旅の時には災難を避けることができれば善しとするからである。

九三。旅焚其次。喪其童僕貞。厲。
象曰、旅焚其次。亦以傷矣。以旅與下、其義喪也。
○九三。旅(りよd)にして其(その)次(やどり)を焚(や)く。其(その)童(どう)僕(ぼく)の貞を喪(うしな)ふ。厲(あやう)し。
○象に曰く、旅にして其(その)次(やどり)を焚(や)く。亦(また)以(すで)に傷(いた)まし。旅を以て下(しも)に與(くみ)する、其(その)義(ぎ)喪(うしな)ふ也。
 旅の時は、柔順中正であることが尊ばれる。六二の爻辞を読めば分かる。それに対して九三は剛毅に過ぎて遠慮がない。また内卦の極点に在るのでやり過ぎるところがある。極めて危ない立場に居る。以上のことから、九三は困窮するのである。
 九三は野蛮な性格で、その行動は人の道に反している。自意識過剰で自分を過信しており、驕り高ぶっている。自分勝手な性格なので人を待つことができない。旅のガイドにも横柄な態度で接するので嫌われる。だから「旅にして其(その)次(やじり)を焚(や)く。其(その)童(どう)僕(ぼく)の貞を喪(うしな)ふ。厲(あやう)し」と言うのである。
 互体(二三四)巽は木。木はよく燃える。「旅にして其(その)次(やじり)を焚(や)く」形である。九三が危ないのは、野蛮な性格で驕り高ぶっており、人徳の欠片もないからである。位が正しくてもどうにもならない。
 「其(その)次(やじり)を焚(や)く」のは、九三が野蛮で傲慢なので人と和合することができないからである。旅人が唯一安らぐことができる場所である宿の主人からも信用されない。ガイドからも信用されず、見知らぬ土地を案内してくれる人が不在なので、旅は困難の連続である。
 象伝に「亦(また)以(すで)に傷(いた)まし」とあるのは、九三は宿の主人からも嫌われるので、安らぐ場所が何処にもなく、苦労するしかないと云うことである。「其(その)義(ぎ)喪(うしな)ふ也」とは、ガイドからも信頼されないのは、九三の人品が野蛮で傲慢で卑しいからである。

九四。旅于處。得其資斧。我心、不快。
象曰、旅于處、未得位也。得其資斧、心未快也。
○九四。旅(りよ)にして于(ここ)に處(お)る。其(その)資(し)斧(ふ)を得(う)。我が心、快(こころよ)からず。
○象に曰く、旅にして于(ここ)に處(お)るとは、未だ位を得ざる也。其(その)資(し)斧(ふ)を得(う)とは、心未(いま)だ快(こころよ)からざる也。
 「其(その)資(し)斧(ふ)を得(う)」の「資(し)」は、人が使用する資材で、「斧(ふ)」は文明の利器だから、文明の利器で剛を断ずると云う意味である。また、器用と云う意味もある。旅人は柔順で温和な性格な人が尊ばれる。野蛮で傲慢な旅人は嫌われる。
 九四は陽爻陰位で陰陽調和しているので、旅人の安らぎの場所である宿に恵まれる。だから「旅にして于(ここ)に處(お)る」と言うのである。「處(お)る」とは、しばらく宿に逗留すると云う意味である。公家や大臣など偉い人が長期に渡って旅をする時に例えられる。
 九四はしばらく宿に逗留することができるが、本来は豪快な性格なので、心から人と和睦することが苦手であり、また、応じる関係に在る初六は何の力にもならない。それゆえ、九四が本来持っている才能を伸ばし、志を実現することはできない。
 財産を持っている人は、経済的に豊かになり、文明の利器を持っている人は、社会の中で権威を得ることができる。けれども、九四は社会的地位を得ることはできないので、内心おもしろくない。だから「其(その)資(し)斧(ふ)を得(う)。我が心、快(こころよ)からず」と言うのである。
 「資(し)斧(ふ)」の「資(し)」とは、陽的で実りのあるものであり、「斧(ふ)」とは、豪快なものを断ずることである。いずれも九四が具えているものである。それゆえ「其(その)資(し)斧(ふ)を得(う)」と言うのである。「我が心、快(こころよ)からず」の「我が心」とは、九四の心境である。
 象伝に「未だ位を得ざる也」とあるのは、九四が安らぎの宿を確保できたのは、一定の期間内のことであり、生涯の安らぎの場所を得たわけではない。だから、しばらくは安泰であるが、悠久の安泰を得たのではないと云うことである。
 「心未(いま)だ快(こころよ)からざる也」とは、九四は豪快な性格で人の意見をあまり聞かず独断で物事を進めるところがあるので、人と和合することができない。また、人から愛される性格ではないので、自分でも良くないと思いながら、心の中がモヤモヤしていてすっきりしないと云うことである。

六五。射雉一矢亡。終以譽命。
象曰、終以譽命、上逮也。
○六五。雉(きじ)を射て一(いつ)矢(し)亡(うしな)ふ。終に以て譽(よ)命(めい)あり。
○象に曰く、終に以て譽(よ)命(めい)ありとは、上(かみ)逮(およ)ぶ也。
 六五は王さまの地位に在る。上卦離の主爻ゆえ文明の徳を具えて尊位に居る。王さまは尊い位だから旅人と解釈することはできない。そこで、王さまに命令された臣下である六五が他国を訪問していると解釈して解説していく。
 六五は旅の時の主であり、主役でもある。文明の徳と柔順にして中庸の徳を具えている。旅の時において、最も適切に対処できる人物が六五である。
 「雉(きじ)を射て一(いつ)矢(し)亡(うしな)ふ」の「雉(きじ)」は古代中国においては、士が狩りに用いるものだから、王さまの使者として他国を訪問すると云う意味に解釈できる。王さまの命令によって君子たる士が他国を訪問してお互いの文明を高める役割を果たすことを「雉(きじ)を射る」ことに例えたのである。「一(いつ)矢(し)亡(うしな)ふ」とは、矢は正直(弓に従う)だから、矢のように正直に他国と交渉してお互いの文明を高めるような役割を果たすと云うことである。「亡(うしな)ふ」とは、矢で文明を射るので矢を失うと云うことである。
 六五は王さまの命令で他国を訪問し、決して王さまを辱(はずかし)めることはない。六五は外交のプロフェッショナルとして、君命を賜って使命を成し遂げて称賛される。臣下が他国を訪問して王さまと面会し、見事な外交で世に名を知られる。だから「雉(きじ)を射て一(いつ)矢(し)亡(うしな)ふ。終に以て譽(よ)命(めい)あり」と言うのである。
 他国に赴任したばかりの時は失敗もあったであろうが、終には見事な外交手腕を発揮して、君命を成し遂げ、その名を世界中に轟かすような活躍をする。「一(いつ)矢(し)亡(うしな)ふ」とは、外交におけるコストを最小限に抑えたのである。「終に以て譽(よ)命(めい)あり」とは、かけたコストに対して得た利益は大きいと云うことである。
 象伝に「上(かみ)逮(およ)ぶ也」とあるのは、君命で他国を訪問した臣下が役割を全うして、最初は苦労するが終には君命を成し遂げ、災い転じて福と為すことを云う。

上九。鳥焚其巣。旅人先笑後號咷。喪牛于易。凶。
象曰、以旅在上、其義焚也。喪牛于易、終莫之聞也。
○上九。鳥、其(その)巣(す)を焚(や)く。旅人先(さき)には笑ひ、後(のち)には號(ごう)咷(とう)す。牛を易(やすき)に喪(うしな)ふ。凶。
○象に曰く、旅を以て上(かみ)に在り、其(その)義(ぎ)焚(や)かるる也。牛を易(やすき)に喪(うしな)ふ、終に之を聞く莫(な)き也。
 上卦離を飛鳥、また、火とする。下卦艮を止まること、また、宿(旅館やホテル)とする。互体(二三四)巽を木とする。
 上九は互体(二三四)巽の木の上に居て下に降ろうとしない。飛鳥が高く木の上に在り、巣を焼かれてしまったと云う形から見た解釈である。だから「鳥、其(その)巣(す)を焚(や)く」と言うのである。旅人が宿泊している宿が火事になって焼けてしまうことの例えである。
 九三は内卦の極点に居て剛に過ぎることから「其(その)次(やどり)を焚(や)く」と言い、上九は上卦の極点にいて傲慢にして不遜なので「其(その)巣(す)を焚(や)く」と言う。言葉は異なるが意味は同じである。
 旅の旅人とは、主に仕事で他国を訪れる人を指す。上九は陽剛で卦極に居る。自分がやることに対しては何も反省することなく、他人を軽蔑していつも冷笑しており、何かというと自画自賛するようなろくでなしである。
 旅人でありながら傲慢なので、災難を次から次へと招き寄せて、終には失意のあまり号泣することになる。最初は豪快な性格で高所から下々を見下しているが、やがて繰り返し災難に遭遇して行き詰まり、意欲を喪失する。それゆえ「旅人先には笑ひ、後には號(ごう)咷(とう)す」と言うのである。
 聖人は、このような上九のあり方を見て「凶」と断じて、戒めている。上九は傲慢で柔順の徳を喪失しているので、凶運を招き寄せる。それゆえ「牛を易(やすき)に喪(うしな)ふ」と言うのである。「牛」は柔順に人に従う存在。牛を失うとは柔順さを失うことである。
 象伝に「旅を以て上に在り、其(その)義(ぎ)焚(や)かるる也」とある。旅人は柔順かつ謙譲の徳で対処すべきなのに、上九は傲慢で不遜なので、宿が火事になって焼き出されても仕方ないと云うこと。「終に之を聞く莫(な)き也」とは、傲慢なので人の意見を聞く耳を持たず、自分が悪くても反省することがないことである。
 雷天大壮の時に「羊を喪(うしな)ふ」とあるのは、障害がなくなることだが、火山旅の時に「牛を喪(うしな)ふ」とあるのは、柔順の徳を失うことである。障害がなくなることは善いことだが、柔順の徳は失ってはならないのである。

 

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呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

55.雷火豊

□卦辞(彖辞)
豐、亨。王假之。勿憂。宜日中。
○豐は亨る。王、之に假(いた)る。憂ふる勿(なか)れ。日(ひ)中(ちゆう)に宜し。
 豊は下卦離、上卦震。離は火、震は雷。雷電轟き渡る形である。上に雷が鳴り響いて、閃光が大地を遍く照らす。雷電轟き渡り、影響力は遠くに及ぶ形である。
 また上卦震は東の方角であり、下卦離は明るい太陽である。太陽が昇ろうとして東の空は徐々に明るくなる。
 まだ見える星が光を放っている時に太陽が昇り始める。太陽はグングンと勢いよく昇るので「豊」と名付けたのである。
 「豊」と云う字は山の上まで田畑を開拓して五穀を収穫すると云う意味である。五穀豊穣の年を豊年と云い、人々がこれ以上満足できる時はない。神仏に感謝する時。運勢で云えば、世運隆盛の時。人民の衣食が充実して国が豊かになる時が豊の時である。

□彖伝
彖曰、豐大也。明以動。故豐。王假之、尚大也。勿憂、宜日中。宜照天下也。日中則昃。月盈則食。天地盈虚、與時消息。而況于人乎。況于鬼神乎。
○彖に曰く、豐は大なる也。明かにして以て動く。故に豐なり。王、之に假(いた)るとは、大を尚(たつと)ぶ也。憂うる勿(なか)れ、日(ひ)中(ちゆう)に宜しとは、宜しく天下を照らすべき也。日中すれば則ち昃(かたむ)く。月盈(み)つれば則(すなわ)ち食(か)く。天地の盈(えい)虚(きよ)は、時と與(とも)に消(しよう)息(そく)す。而(しか)るを況(いわ)んや人に于(おい)てを乎(や)。況んや鬼神に于(おい)てを乎(や)。
 人間社会に当て嵌めれば、内卦離は明らかに事に臨む時なので、何の疑いも抱かない。外卦震は雷だから星雲が立ち昇るような時である。だから、豊の時は気運が甚だ盛大で、何事も思い通りにならないことはないのである。
 一人ひとりが気運盛大になり、一家一族が豊の光を受けて繁盛し、プラスの影響は周辺に及んで、郷里全体が繁栄する。周辺に居る人々や地域全体がその恩恵を受ける時である。以上を「豊は大なる也。明かにして以て動く。故に豊なり」と言うのである。
 豊の時は繁盛・繁栄して多くの利益を有することになるので、驕り高ぶらないようにすることが肝要である。今の繁栄している状態を維持していくためには、油断すると涌き起こってくる慢心を抑えて、謙譲の心を忘れないように努力すべきである。それゆえ「王、之に假(いた)る」と言うのである。
 「王」とは「帝王」や「トップリーダー」に限定されるものではなく、あらゆる指導者、あらゆるリーダー、万人に当て嵌めるべきである。人々はみな「王」の心を有している。「王」とは天と地と人の三つを一つに繋げる存在である。人間が生まれた時から有している「良心(謙譲の心)」である。
 「之に假(いた)る」とは、人間が生まれた時から有している「良心」によって、あらゆる事を引き受けることである。この「良心」に到ることを「致良知」と云うのである。
 これは誰にでもできることではない。これができるのは大度量を有する人物である。才能や知識に乏しい小人の及ぶところではない。それゆえ「大を尚(たつと)ぶ也」と言うのである。
 天地の道は陰陽消長するので、豊の時は長くは続かない。豊が繁栄を極めれば、凶運がやって来る。豊の時に対処するのに、「足るを知る」ことを忘れれば、上卦震の雷が妄動し、下卦離の太陽が覆われて昼間なのに真っ暗になり星が見えるようになる。このことを六二の爻辞に「日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言い、九三の爻辞に「日(ひ)中(ちゆう)に沬(ばい)を見る」と言うのである。
 「斗(と)」も「沬(ばい)」も星の名前である。真っ昼間なのに太陽が覆われて真っ暗となり、星が見えると云うのは尋常ではない。星は太陽が沈んで夜になり空が真っ暗になるから見えるものである。
 自らが光を発するのではなく、太陽の光を浴びてその姿を確認できる。太陽は自ら光を発するので、日が昇り沈むまで大地を明るく照らし続けるのである。
 豊の時は太陽が真上にあって大地を遍く照らす時である。何とも雄々しい時であるが、何時までもそういう時が続くはずがない。それゆえ「日(ひ)中(ちゆう)に宜し」と云う戒めの言葉がある。
 易を学ぶ者は、ここに着眼しなければならない。豊の互卦は沢風大過である。大過は中身がギッシリと詰まっているのに、建物が脆弱だから、棟(むな)木(ぎ)が撓(たわ)んでしまう形である。それゆえ、何かを為し遂げようとすると棟(むな)木(ぎ)が撓(たわ)み建物が壊れそうになり、難儀する時である。このような組織や社会を治めることは容易ではなく、安定した状態に保つことはすこぶる難しい。
 一般に創業よりも守成が難しいと云われる。何事も安定した状態を保つことは容易ではない。だが、闇雲に心配していても仕方がない。豊の時はやがて凶運に変わり衰退していくことを覚悟しつつ、盛大に繁栄している時を全うすべきである。
 どのような時代であれ、どのような時であれ、中庸の徳を具えていれば何とか乗り越えることができるが、中庸の徳を欠いているとどうにもならないものである。
 豊の時は盛大に繁栄するが、やがて凶運が訪れて昼間なのに真っ暗闇になるほど行き詰まることを覚悟しつつ、中庸の徳で対処すべきである。太陽が常に中庸の徳を発揮するように、依怙贔屓することなく遍く世の中を照らし続ければ、豊の繁栄を維持することができる。このことを「憂(うれ)ふる勿(なか)れ、日(ひ)中(ちゆう)に宜しとは、宜しく天下を照らすべき也」と言うのである。
 この卦は離為火の形に似ているが上爻が陰爻である。太陽が真上に来た時に月と重なり日蝕現象となる。それゆえ「日(ひ)中(ちゆう)すれば則ち昃(かたむ)く。月盈(み)つれば則ち食(か)く」と言うのである。
 太陽が東の空から昇る時は光を四方八方に照らしているが、天上に昇り日暮れに向かうと、その勢いを失い、夕方になると段々暗くなり、終には西の空に沈んで真っ暗になる。
 月も同じように、十五夜の満月になれば誰もが空を見上げて感動するが、その後は形を欠いていきやがて三日月になって新月になる。天地の道はこのように循環(陰陽消長)するのである。
 春になれば花が咲き、夏になれば実が結び、秋になれば収穫して、冬になれば収穫したものを蔵にしまう。万物はこのように陰陽消長して生まれては育ち、育っては実り、やがて枯れて、また生まれるのである。
 以上のようであるから、自分の人生設計から始まり、家族経営、企業経営、組織経営、地域経営、国家の経営(治国平天下)に至るまで、栄枯盛衰があることは天地の法則である。
 だが、あらかじめ、このことを知っていて、物事の栄枯盛衰に対応できる人は滅多に居ない。少なくとも、このことを知っている人は、五穀豊穣、豊作の年であっても、食欲の任せるままに食べ尽くしてしまうことなく、これから不作の年が来ることを予測して、備蓄しておくべきである。
 また、国政を司る人は、天下泰平の時にも慢心して驕り高ぶることなく、将来の事変に備えて手を打っておく。このことを「天地の盈(えい)虚(きよ)は、時と與(とも)に消息す」と言うのである。
 国家の治乱興亡や人間社会の盛衰や得失など、全てを天命に任せて、自分の力の及ぶところは一つもないと考えている人は、陰陽の原理原則(易の教え)を知らない愚かな人である。
 陰陽の原理原則(易の教え)は、吉凶悔吝に見られるように、凶運はやがて吉運に変化して、吉運もやがては凶運に変化するという法則だから、陰陽の原理原則(易の教え)をよく理解して、凶運から吉運に変化する時の法則や吉運から凶運に転落する時の法則を学び、吉運を維持すべきである。
 それゆえ「憂ふる勿(なか)れ。日(ひ)中(ちゆう)に宜し」という教えが書いてある。人間の感情を考えると形のあるものは認識できるが、形のないものは認識できない。太陽や月の満ち欠けや誰もが認識できるが、人間社会の栄枯盛衰は認識できないのである。
 また、人間社会の栄枯盛衰を認識できる人でも、神仏の陰陽消長の原理原則を理解することは容易ではない。雷火豊の時を理解する秘訣はここにある。
 生老病死は天地の法則である。生まれたものは必ず死んでいく。けれども、次々に新しいものが生まれて、全体とすれば生成発展し続ける。経済的に裕福な人・社会的地位の高い人がいつまでも、その経済力や社会的地位を維持できるわけではない。経済的に貧しい人・社会的地位の低い人がいつまでも、そのままでいるわけではない。人の道は天地の道に順うのである。
 神仏は天地の道そのもの。人も神仏もつながっている。神仏は生成発展の原理原則である。生成発展は生老病死の法則による。時に盛衰があるように、人にも社会にも国家にも盛衰がある。
 個別には盛衰に見えるけれども、全体を見れば生成発展している。雷火豊の時は盛大に繁栄している状態から一気に衰退する状態に陥る時である。以上のことを「而(しか)るを況(いわん)んや人に于(おい)てを乎(や)。況(いわ)んや鬼(き)神(しん)に于(おい)てを乎(や)」と言うのである。

□大象伝
象曰、雷電皆至豐。君子以折獄致刑。
○象に曰く、雷電皆至るは豐なり。君子以て獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す。
 この卦は上卦震を雷、下卦離を電(閃(いな)光(びかり))とする。雷電相和合すれば、その勢いは盛大になる。また、離は日(太陽)であり、震を動く性質と見る。日(太陽)が昇り(動き)ゆけば、天下を周く照らしてくれる。
 離を明るい性質、明智と見て、震を威力や勇気と見ることもできる。明智と勇気を兼ね備えれば、その威力は盛大である。
 「雷電皆至る」とは、威力と明智を兼ね備えた形である。それゆえ「獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。
 監獄を用意すれば、悪人が大手を振って天下を渡り歩くことができなくなる。社会は悪人を見逃すことなく、人々は安心して生活できるようになる。また、刑罰を執行すれば、悪人を裁くことができるので、悪人は恐れ戦(おのの)いて心を入れ替えることにもつながる。社会からは悪人が一掃されて平和が訪れる。
 豊の時は、下卦離であり民に明智がある時なので、為政者は民の心を良く理解して、善行を勧め、悪事を戒めて、公平な政治を行うべきである。
 「獄を折(わか)ち刑を致す」の「折(わか)ち」とは、断ずることである。雷が稲妻を発光して人々の目を覚ますことをイメージしている。是非善悪を判断して裁断するのである。「致す」とは下卦離の明らかという性質による。罪の軽重を判断して刑を実行するのである。
 君子は以上のような意味を含んでいる豊の形を見て、君子たる者、威厳と明智がなくてはならないことを認識し、物事の是非善悪を考えて、権威のある政治を行い、刑罰をしっかり定めて悪人を断罪し、是非善悪の基準が行き届いた社会を構築する。
 刑罰を定めて悪人を断罪しても政治に権威がなければ民衆は納得しない。政治に権威があっても刑罰が定まってなく悪人が野放しになっていれば社会は治まらない。政治に権威があり刑罰が定まって悪人を断罪することができてはじめて民衆は安心して暮らすことができるのである。
 人間社会には善人だけでなく悪人が必ずいる。刑罰を定めて断罪しなければ社会が治まらない。それゆえ、「君子以て獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。
 易経の上経に火雷噬嗑と山火賁があり、下経に雷火豊と火山旅がある。いずれも離の明智と云う性質を具えており、大象伝に「刑罰を執行する」と云う内容のことが書いてある。
 火雷噬嗑は上卦離であるから、明智が上に位置している。すなわち、君子が上に存在すると云うことである。
 雷火豊は下卦離であるから、君子は下に存在していることになる。つまり、君子が現場に居て刑を執行する形になっている。それゆえ「獄を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。遇其配主。雖旬无咎。往有尚。
象曰、旬雖无咎、過旬災也。
○初九。其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う。旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し。往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り。
○象に曰く、旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)しとは、旬(ひと)しきを過ぐれば災(わざわい)也(なり)。
 初九は明智を具えて行動する人物。勢力盛んな時。爻辞は内卦離の上に外卦震(陰爻が二つある)が乗っているので、陰爻によって明智が覆われると解釈して、明智ある人は愚昧な人に阻害され、賢人は凡人に理解されないとする。
 今、初九は暗愚に覆われる時であるが、六五と上六の二爻とは応比の関係にないから直接被害が及ぶことはない。それゆえ、ただ闇に覆われるという意味に解釈しない。
 初九と九四とは陽爻同士なので関係を築き難いが、初九は内卦離の明るいという性質を有しており、九四は外卦震の動くという性質を有しているので、明るい性質と動く性質が助け合う関係を築き上げる。明るく動くことによって闇に覆われるという災難を避けることができると解釈することができる。
 豊の時が盛大になる九四の時に、九四の大臣に宰相を任せて志を同じくして補佐する関係になれば、初九は賢人として活躍することができる。それゆえ「其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う」と言うのである。
 「配主」の「配」は身体と身体がぶつかり合うことであり、初九と九四が共に陽爻であることを暗示している。「主」とは九四の尊称である。「遇う」とは偶然に会うという意味である。
 「旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し」の「旬(ひと)し」とは、均一なことである。初九と九四が同じ陽爻であることを云う。本来なら陽爻と陽爻がぶつかり合って咎を生じる形だが、闇に覆われる時に出逢って、明るく動くことによって災難を脱することができる。陽爻同士が同じ志を抱けば相応ずると云う易の約束が当て嵌まるので、咎を免れることができる。それゆえ「旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 初九に才能があっても九四と出逢うことがなければ、才能を発揮することはできない。九四の大臣は賢いので初九を利用して王さまに取って代わろうとは思っていない。
 初九も九四も咎められるようなことはしない。お互い邪魔し合うことなく助け合う。「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」とは、初九が九四のもとに駆け付けて共に動けば、九四は初九を大事にすると云う意味である。このことを「其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う」と言っている。初九は豊の時を救おうとして九四のもとに駆け付けるのである。
 象伝に「旬(ひと)しきを過ぐれば災(わざわい)也」とあるのは、初九が自分の才能に溺れて高慢な態度をとれば災難に遭うぞと戒めているのである。同じ勢力を持っている者同士は互いに意地を張り合うものである。初九が九四に対して謙虚でなければ、九四は快く思わず、お互いぶつかり合って、災難を招き寄せるのである。
 豊の時に対処するには、どのように対応するかが問われるのである。下位に在る初九が上位に在る九四のもとに駆け付けるのは、あくまでも九四を補佐するためであり、自分の才能を世間に誇るためであってはならない。

六二。豐其蔀。日中見斗。往得疑疾。有孚發若、吉。
象曰、有孚發若、信以發志也。
○六二。其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る。往きて疑(ぎ)疾(しつ)を得(う)。孚(まこと)有り發(はつ)若(じやく)すれば、吉。
○象に曰く、孚(まこと)有り發(はつ)若(じやく)すとは、信以て志を發する也。
 「蔀(ほう)」は明るい光を覆う存在である。「蔀(ほう)」が大きい時は社会は暗くなる。六二は内卦離(明るい性質)の主爻である。中庸の徳を具えて正しい位に在る。臣下として賢明な存在である。
 応じる六五は陰湿で暗い性格であり位も正しくない。だから、六二が忠実な賢臣であることを認識していない。それどころか、六二にとって六五は害悪をもたらす存在である。しかも六二と六五の間には九三・九四と云う陽爻が存在しており、六二の存在を覆い隠している。それゆえ「其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす」と言うのである。
 六二は下卦離の真ん中に位置しているから明るい性質だが、その存在を覆い隠されている。だから、昼間なのに真っ暗闇で夜のようである。星が見えるほどに暗い。だから「日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言うのである。「斗(と)」は星の名前である。互体(三四五)兌を星と見立てているのである。六五の暗君は賢臣六二を覆い隠すこと甚だしいことを例えているのである。
 六二の忠臣は真心で六五の王さまを補佐しようとするが、いくら王さまを補佐しようと行動しても、信用されないどころか疑われてしまい、あげくには憎まれることになる。それゆえ「往きて疑(ぎ)疾(しつ)を得(う)」と言うのである。
 この時に対応して、六二は真心に磨きをかけて、善行を積み上げて六五の王さまを感動させることにその存在意義がある。それゆえ「孚(まこと)有りて發(はつ)若(じやく)すれば、吉」と言うのである。
 「吉」とは、王さまに信頼されて、臣下としての役割を果たすと云う意味である。勢力盛んな時は必ず障害が発生するものである。真心を貫いて危機的状態を脱出すべきである。
 象伝に「信以て志を發する也」とあるが、「信」とは六二が臣下として忠実なので周りの人々から信頼されていると云うことである。「志」とは六五の志のことである。時勢が厳しい状況なのにそれを認識せずに、無理矢理王さまの心を開こうとして、正しいことを進言しても、王さまを畏れることがなく、自分が正しいと思って次から次に王さまに進言するようなやり方をとれば、王さまから怨まれて、王さまを補佐することはできない。
 では一体どうすればよいのであろうか。君子が上位の人に使える場合、上位に在る人の心を理解しなければならない。真心を尽くして王さまの心を動かすことが求められる。真心を尽くすとは、相手が蒙昧であろうが柔弱であろうが不正であろうが、真心を貫くことである。六五の王さまに真心を尽くして訴え続ければ、やがては気持ちが通じる時がくる。以上のことを、六五の爻辞に「章(しよう)を來(きた)す、慶(けい)譽(よ)有り。吉」と言うのである。

九三。豐其沛。日中見沬。折其右肱。无咎。
象曰、豐其沛、不可大事也。折其右肱、終不可用也。
○九三。其(その)沛(はい)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に沫(ばい)を見る。其(その)右(う)肱(こう)を折る。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)沛(はい)を豐(おおい)にすとは、大事に可(か)ならざる也。其(その)右(う)肱(こう)を折るとは、終に用ふ可(べ)からざる也。
 「沛(はい)」とは厚い日除けのようなものである。六二の爻辞にあった「蔀(ほう)」に比べてより厚いので、お日様の光をほとんど通さないのである。「沫(ばい)」とは小さな星の名前である。
 九三は剛健の性質で下卦離の明るい中に居る。大事業に対応できる才能を有する人物である。だが下卦離明の極点に居るから動くことができない。しかも上六が害応として九三を邪魔する。上六は暗愚のお頭だから、その害悪は六五よりも甚だしいのである。
 昼間なのに真っ暗闇になる。六二の時よりも真っ暗の度合いが非道くなる。本来は九三と上六は応じる関係にあるが、上六が暗愚のお頭だから、自分に媚(こ)び諂(へつら)わない者を邪魔するのだ。それゆえ「其(その)右(う)肱(こう)を折る」と言うのである。
 「右(う)肱(こう)」とは利き腕のこと。利き腕の骨が折れれば、明智があっても何もできない。九三は正義を主張するから利き腕を折られてしまう。殷王朝の「比(ひ)干(かん)(紂王の叔父、紂王を諫めたので胸を裂かれて殺された)」と云う人物のようである。自分の責任ではないから「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 象伝に「大事に可(か)ならざる也」とあるのは、九三は剛健にして明智を具えているが王さまを補佐して大事を成し遂げられる時ではないことを示しているのである。「終に用ふ可からざる也」とあるのは、九三は上六に用いられることはないと云うことである。

九四。豐其蔀。日中見斗。遇其夷主、吉。
象曰、豐其蔀、位不當也。日中見斗、幽不明也。遇其夷主、吉行也。
○九四。其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る。其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)へば、吉。
○象に曰く、其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にすとは、位(くらい)當(あた)らざる也(なり)。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見るとは、幽(くら)くして明らかならざる也(なり)。其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)ふとは、吉の行(こう)也(なり)。
 「其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)へば、吉」の「夷(い)主(しゆ)」の「夷(い)」とは、先輩後輩の輩(ともがら)のこと。「主」とは、輩(ともがら)の人徳を称賛している言葉である。
 九四は陽爻陰位で王さまの側近だが、王さまが暗愚なので陽剛の才能を覆い隠されている。九四のすぐ上に居る暗君六五が九四を覆い、六五のすぐ上に居る上六が暗君六五を覆っているから、六五はさらに暗くなる。九四はその悪影響により陽剛の才能を覆われている。それゆえ、昼間なのに深夜のように真っ暗闇になる。だから「其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言うのである。
 九四と初九は応じる位置関係にあるが、陽爻同士なので和合することが難しい。九四は上卦震(動く性質)の主爻であり、初九は下卦離(明るい性質)の一員なので、それぞれ陽剛の徳を具えている。上六と六五の陰爻が天下国家を覆って昼間なのに真っ暗闇になる。言わば王さまと相談役の過失であるが、臣下にも責任が全くないとはいえないのである。
 初九と九四が共に天下国家を救おうという志を抱いて暗愚な王さまと相談役を補佐すれば、この真っ暗闇な状態を脱することも可能である。王さまが暗愚でも、賢臣が一生懸命補佐すれば、この真っ暗闇な状態を何とか脱することも不可能ではない。それゆえ「其(その)夷(い)主(しゆ)に遇えば、吉」と言うのである。
 九四は王さまを補佐する大臣の地位に在り、賢臣の力を借り、天下国家を救おうという志を同じくして、暗愚な王さまを補佐する。それゆえ「吉」と云う言葉が用いられている。
 象伝に「位(くらい)當(あた)らざる也(なり)」とあるのは、九四が陽爻陰位であることを表現している。「幽(くら)くして明らかならざる也(なり)」とあるのは、九四が六五の害悪に覆われることを表現している。「吉の行(こう)也(なり)」とあるのは、九四と初九が志を同じくして真っ暗闇の天下国家を脱出することを表現している。「吉」と云う言葉が用いられているのは、九四が行動するからである。

六五。來章。有慶譽。吉。
象曰、六五之吉、有慶也。
○六五。章(しよう)を來(きた)す。慶(けい)譽(よ)有り。吉。
○象に曰く、六五の吉は、慶(よろこび)有る也。
 「章(しよう)を來(きた)す」の「章」とは文章が有する才能や徳性のこと。「慶(けい)誉(よ)有り」の「慶」とは幸せや慶びが自分の身に集まること。「誉」とはその名声が世間に広がることである。「吉」とは国運が大いに盛んになることである。
 この卦の気運は盛大だが、六五と上六の陰爻が天下国家の賢者を覆い隠している。九三と九四の陽爻が剛健の性質でグイグイ天下国家を治めて豊の時の時勢を誤らない。しかし、六五の王さまが賢者でなければ天下国家は真っ暗闇に陥ってしまう。
 六五の爻辞を以上の切り口で見れば、六五の相談役にあたる上六は柔弱にして中庸の徳を欠いており卦極に居る。暗黒社会の頭領にして昼間を真っ暗闇にしている張本人である。六五は柔順にして中庸の徳を具えて、柔弱ながらも豊の時の王さまの地位に就いている。そもそも豊の時の盛大さを保つ力量はないので、上六を制して天下国家を正しい形に戻すことはできない。それどころか、上六に覆い隠されて、自分の地位を保つことすら容易ではない。それゆえ聖人は、六五の王さまに天下国家を安泰にするための道を教えているのである。
 また、六二と六五は応じる関係にあるけれども、陰爻同士なので和合しない。以上のことから六五の王さまは自分の地位を守ろうと思えば、応じる関係に在る六二の賢臣(下卦離の明智の主である)を招き入れて、心を虚しうして謙譲の徳で接する。
 六五と六二は昼間なのに真っ暗闇に陥っている天下国家を救おうという志を共に抱く。そこで六五は六二に礼を尽くして国政を補佐させる。六二は本来具えている明智を発揮して暗黒社会は徐々に明るく開けていく。そのようになれば、王さまの地位を守るだけでなく、名君の誉れも聞こえるようになり、崩壊しかかった天下国家を安寧に導くことができる。それゆえ、「章(しよう)を來(きた)す。慶(けい)誉(よ)有り。吉」と言うのである。
 六二と六五が和合するから天下国家は安泰になる。上卦震雷が下卦離明に応じる。それゆえ「章(しよう)を來(きた)す」と言うのである。
 六五は己の心を虚しうして臣下の明智を採用する。それゆえ野に埋もれていた明智を具えた人々が集まって、闇に覆われた天下国家を明るく照らし出す。民は慶び、王さまは名誉を得て、明るい世の中が実現するのである。
 互体兌(三四五)は悦楽する性質がある。上卦震には声という意味がある。「慶(けい)誉(よ)有り」の形である。
 暗君が名君に変身した。これ以上の慶事があるだろうか。自分は柔弱でも剛健の人材を用いれば、その剛健の性質は自分の性質になる。自分が暗愚であっても明智の人材を用いれば、その明智は自分の明智となる。易経には、含む話と持って来る話がある。含む話は自分が含んでいるものを発揮させる。持って来る話は何かを持って来て何かを成し遂げるのである。
 この爻が変ずれば沢火革となる。革の九五の爻辞に「大(たい)人(じん)虎(こ)變(へん)す。未だ占わずして孚(まこと)有り」とある。熟慮すべきである。

上六。豐其屋。蔀其家。闚其戸、闃其无人。三歳不覿。凶。
象曰、豐其屋、天際翔也。闚其戸、闃其无人、自藏也。
○上六。其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす。其(その)家(いえ)を蔀(おお)ふ。其(その)戸(こ)を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)し。三歳まで覿(み)ず。凶。
○象に曰く、其屋を豐にすとは、天(てん)際(さい)に翔(かけ)る也。其戸を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)しとは、自ら藏(かく)るる也。
 「其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす」とは、自ら高慢になることである。「其(その)家(いえ)を蔀(おお)う」とは、自ら覆い隠すことである。豪華な屋敷を建てて高慢になることが、その家の人々を覆い隠すことになり、昼間なのに真っ暗闇になる。豊の時は昼間なのに真っ暗闇になる形をしている。世の中を真っ暗闇にするのは、六五と上六である。
 上六は暗黒の頭領である。世の中を真っ暗闇にするのは、自分自身が暗愚だからである。陰気な性格で自分を覆い隠してどんどん暗愚になり、それが人に及んで遂には世の中を真っ暗闇にしてしまう。救いようのない小人である。
 上六は六五の陰爻の上に居て豊の時の終局である。上卦震の動きが行き詰まって疲れが生じ、しーんと静まりかえっている。豊の盛大な勢いが行き詰まって真っ暗闇となり、衰退して凋落するのである。例えれば、お日さまが沈んで真っ暗になり、人も家も見えなくなった状態である。上六は高い所に居るので、そんな状況の中でも驕り高ぶって、さらに真っ暗闇になる。
 天下国家は暗黒社会となり、人々の心も真っ暗になる。これ以上暗くならないほど真っ暗である。どうにもこうにもならない状況なので「其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす。其(その)家(いえ)を蔀(おお)う」と言うのである。
 驕り高ぶり自分のやりたい放題にする形である。上六は卦極に居て、誰も上六を助けてくれない。きわめて危ない状況である。それゆえ、「其(その)戸(こ)を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)し」と言う。
 どんなに時が経過しても、誰も助けてくれない。そのことを、「三歳まで覿(み)ず。凶」と言う。以上のようであるから、社会はますます暗黒となる。それゆえ凶なのである。
 象伝に「天(てん)際(さい)に翔(かけ)る也」とあるのは、明徳を喪失することである。天(てん)際(さい)とは明徳である。明徳が走って逃げていくのである。最上位に居て暗愚で高慢、誰の意見も聞こうとしないので衰運が頂点に達したのである。雷火豊の次は火山旅の時である。いつまでの豊の時は続かない。けれども上六は豊の極限であり暗黒社会の極みである。

 

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