呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 329 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司 古事記、易経、論語、大學、中庸、その他日本で古来から學ばれている古典に関する情報及び時事的な情報(偏向マスメディアでは報道されないトピックスなど)を毎日発信しております。

易経・易占解説動画・毎日アップしてます

皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

57.巽為風

□卦辞(彖辞)
巽、小亨。利有攸往。利見大人。
○巽(そん)は小しく亨(とお)る。往く攸(ところ)有るに利(よろ)し。大人を見るに利し。
 巽為風は上卦・下卦共に巽、空気が宇宙に流通している形。巽は風であり木である。風は見えないが、樹木が風で揺れているのを見れば風が吹いていることが分かる。風が発生するのは空気の温度差(寒気と冷気の配置)による。
 巽為風の互卦は火沢睽である。火沢睽の上卦(この卦の互体三四五)は離であり、下卦(この卦の互体二三四)は沢である。火は万物を乾燥させる存在である。火の大きなものは太陽である。沢には水が満ちている。水の大きなものは海である。太陽の熱エネルギーは大地を照らし、川や海の水分は太陽の熱エネルギーによって蒸発する。以上がこの卦の形である。
 陰の性質は下に降り退くことである。この卦は上卦・下卦共に、一陰が二陽の下に位置して、塞がれている形になっている。しかし、陰が内側に伏せていれば、外側に居る陽は陰を散じようとする。陰は陽に応じて、陰陽和合する。この卦の全体の形を見れば、上卦は天上の風、下卦は地下の風である。
 互卦の火沢睽は風が起こる原因であり、大気が流通することを現している。火沢睽は上と下が背き合う時だから、天上の風と地下の風が背き合って吹き荒れる。
 これを人の心に当て嵌めると、微妙な兆しを察して、心の中に隠れ伏せている思いを推測する時である。国家に当て嵌めると、侫人を除去して、弊害を刷新する時である。
 以上は風のようにスッと相手に入り込まなければできないことである。この卦は入り、従い、伏せることにより成立する。相手に柔順であり恭(うやうや)しく帰服すると云う意味もある。

□彖伝
彖曰、重巽以申命。剛巽乎中正而志行。柔皆順乎剛。是以小亨、利有攸往、利見大人。
○彖に曰く、重(ちよう)巽(そん)にして以て命を申(かさ)ぬ。剛、中正に巽(したが)ひて志行はる。柔、皆剛に順ふ。是を以て小しく亨り、往く攸(ところ)有るに利しく、大人を見るに利し。
 天地においては一日たりとも風が吹かない日はない。誰もが知っていることである。風には形がないが、風が吹けば風の動きに順わざるを得ない。風はどんなに小さな隙間にも入り込む性質がある。それゆえ「小しく亨る」と言うのである。
 風は流通するから用を為し、閉塞すれば腐敗につながる。何事も腐敗すれば虫が生じる。コレラ菌が伝染するのは、天に飛散して伝染するのではなく、大地に侵食して伝染するのでもなく、風によって人から人へと伝染するのである。だから、風の字の中には虫の字が入っているのである。
 風は人が呼吸するように出たり入ったりする。風は上下左右に飛んだり伏せたりして自由自在に流通することによって、万物の化育に影響する。万物が生成発展するのは風の力に寄るところが大きい。それゆえ「往く攸(ところ)有るに利し」と言うのである。
 風の方向は風を受ける立場に立てば、順風の時と逆風の時がある。また、風が吹けば万物が動き、風が止まれば万物は静かになる。さらには強風の時と弱風の時もある。すなわち、風はその時と所によって自由自在に姿を変えて現れる。風は次から次へとその形を変化させて通ずるのである。
 天地が生成発展するのは風の力によるところが大きい。天地にとって風は一日も欠かせない存在である。
 人の心も同じである。風のように何時も変化して止むことがない。動けば震となり、入れば巽となる。時に善いことを考え行動して天下国家に寄与することもある。時には悪いことを考え行動して天下国家に迷惑をかけることもある。神仏に報いることもあるが、時には背くこともある。
 震の動き(出る性質)と、巽の柔順さ(入る性質)によって、万物は生成発展する。震は陽の作用であり、巽は陰の作用である。それゆえ、巽は志の強さや氣力の強さに欠けるところがある。だから、「大人を見るに利し」と言うのである。
 人事に当て嵌めれば、巽の卦は、一陰が二陽の下に在るので、人が自分の身を卑下して、社会的地位の高い人に柔順に従う形になっている。また、二陽の下にある一陰は柔弱で闇の中にいるから、自ら事を為すことができない。二陽の剛健にして明智を具えた君子の命令に柔順に従って、君子の力に頼って物事を成し遂げる。それゆえ「巽は小しく亨る」と言うのである。
 巽の時は君子でも一人では功を上げることはできない。大人に順い、大人と共に行動することによって、風が吹けば草木が風の動きに順うようにして功を上げることができる。それゆえ、「往く攸(ところ)有るに利し。大人を見るに利し」と言うのである。
 大人の補佐がなければ、功業を成し遂げることはできない。下に在る一陰が上に在る二陽に従うから「往く攸(ところ)有るに利し」と言う。巽は風だから高い所を流通して休むことがない。
 風の流れは上は天まで届き、横は東西を貫いて吹き続ける。風は一時たりとも休むことなく、年中無休二十四時間活動して、上下左右自由自在に流通し続ける。
 一年三百六十五日、数千万年前から現在に至るまで、一時たりとも休むことなく活動し続けている。時には寒風となり、時には熱風となり、時には温風となり、時には冷風となり、時には強風となり、時には弱風となり、時には激しく吹き、時には静かに吹く。どんなに姿を変えても、風は風である。
 人間も風を見倣って、苦しい時も、楽しい時も、哀しい時も、嬉しい時も、その時々に応じて対処すべきである。適切に対処することができれば、どうして事を誤ることがあろうか。それゆえ「重(ちよう)巽(そん)にして以て命を申(かさ)ぬ」と言うのである。
 風はどんな所にも入り込んでいく。このことを、命令が人の心に入り込んでいくことに例える。命令も風のように形がないので見ることはできない。見ることはできないけれども、万事に通ずるのが命令であり風である。
 命令や風の心は鉄や石のようでもあるし、婦人や女性のようでもある。どんなことになっても倒れない翁のようでもある。本当の剛健である。始終元気で本末を貫く。風や命令が通過するところには、何らかの影響が残る。以上のことを「剛、中正に巽(したが)ひて、志行(おこな)はる」と言う。その理由は卵のように角がないからである。このことを「柔、皆剛に順(したが)ふ」と言うのである。

□大象伝
象曰、隨風巽。君子以申命行事。
○象に曰く、隨(ずい)風(ふう)は巽なり。君子以て命を申(かさ)ね事を行ふ。
 「随(ずい)風(ふう)」の「随」は、相継ぐこと。「命を申(かさ)ね事を行ふ」とは、君主が命令を伝えて臣下がその命令を実行することである。
 巽は従う(随う)ことである。巽は風でもある。風が風に随うことを「随風」と言う。随風は従風であり、巽が重なっていることの呼び方である。
 風に風が随って向かうところはみな風の影響を受ける。政治における命令も、理屈に適っていれば、民はその命令に随わないはずがない。論語の「君子の徳は風」とは、このことである。
 また、上卦巽は君主が命令を発する形であり、下卦巽は臣下や民が君主の命令に随う形である。上卦の風が吹けば、下卦の風が随うのは、君主の命令が実行される形である。
 風が万物に影響するのと同じように、君主の命令を万民に伝えて、万民は命令に随う。君主が命令して臣下が実行するのは君臣の大義であり、国家の正しいルールである。それゆえ「君子以て命を申(かさ)ね事を行ふ」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。進退。利武人之貞。
象曰、進退、志疑也。利武人之貞、志治也。
○初六。進退す。武人の貞に利し。
○象に曰く、進退すとは、志疑ふ也。武人の貞に利しとは、志治まる也。
 巽為風は巽従する(柔順に従う)時である。六爻全て柔順に従う時に居る。初六は柔順な性質で組織の下位に居る。すぐ上に居る剛健九二の影響を受けているが、巽為風の時の主人公である。
 主人公にしては卑賤に過ぎて、志や意志が弱いので、不安定である。それゆえ九二の影響を受けて、あれこれと迷っている。九二を恐れたり、疑ったりしながら、進むべきなのか、退くべきなのか、一向に決まらない。最後には陰陽比する関係にある九二に従うことになるが、従いながらも九二を信じ切れずに疑っている。以上のことから「進退す」と言うのである。
 人間は志が固まれば、天下のあらゆる事業を成し遂げる力がある。だから、まずは志を固めて、その志を実現すべく先生に従い実力を身に付けて、志を体現していく。
 柔弱な性格の人でも、志が強固であれば、その弱さを克服して、志を体現することができる。狩猟をして鳥を射ようとすれば必ず射ることが出来るし、獣を狩ろうとすれば必ず得ることができる。以上のことから「武人の貞に利し」と言うのである。
 武人とは志が強固な人の例えである。武人のような強固な志で、物事に対処すれば、柔弱な性格を強固な志でカバーすることができる。「武人の貞に利し」の「貞」とは、志に導かれて正しいあり方を固く守るので、道を踏み外さないことである。
 象伝に「志治まる也」とあるのは、必ず柔弱な性格を克服できると云うことではなく、志を強固にすれば柔弱な性格を克服することもできるから、努力しなさいと云うことである。また初六は陰爻陽位なので「武人」と云う言葉が使われているのである。

九二。巽在牀下。用史巫紛若。吉无咎。
象曰、紛若之吉、得中也。
○九二。巽して牀(しよう)下(か)に在り。史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり。吉にして咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、紛(ふん)若(じやく)たるの吉は、中を得(う)れば也。
 「史(し)巫(ふ)」の「史」とは「卜(ぼく)筮(ぜい)・占い」を司る役人である。明察な視点で将来を予測する。「史(し)巫(ふ)」の「巫」とは「お祓(はら)い」を司る役人である。諂(へつら)う者を退ける役割を果たしている。
 また、「史」は鬼神の意向を人に伝え、「巫」は人の意向を鬼神に伝える役割を担っている。「史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり」の「紛(ふん)若(じやく)」とは「多い」こと。重巽の形である。
 九二は忠臣の位に居て、剛健の性質で中庸の徳を具えている。位正しく中庸の徳を具えた九五の君主と応じる位置関係にあり、志を同じくしている。今は巽順に従う時だから、自分は寝台の下に潜るよう坐っているのである。
 巽の時はみんなが寝台の下に潜るように巽順に従っている。だから「巽して牀(しよう)下(か)に在り」と言うのである。
 昔は人々から尊ばれる人が寝台に坐っており、卑しい立場の人々は寝台の下に潜るように跪(ひざまず)いていた。上卦巽が寝台であり、下卦巽は寝台の下に潜るように在ると云う形に倣(なら)って言葉をかけている。
 九二は忠臣にして大臣の位に在り、天下国家の難問に中っている。人智の及ばないところは、神仏に接することができる「史(し)巫(ふ)・卜(ぼく)筮(ぜい)・占いを司る役人、お祓(はら)いを司る役人」を任用して、神仏の教えに従うべきである。
 今は巽の時、君主の忠臣は巽順に従うことと諂(へつら)うことを混同してはならない。周りの人々が諂(へつら)っているからと云って九二も諂(へつら)うようなことをしたら、君主に対して不忠不義の臣下と言われても仕方がない。表面は巽順に従っているように装い、媚び諂っている小人共を放逐すべきである。それゆえ「史(し)巫(ふ)を用ふること紛(ふん)若(じやく)たり。吉にして咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「史(し)巫(ふ)」とは、真心で神仏と通じることができる人々である。また、「牀(しよう)下(か)」とは淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)が潜んでいるところである。すなわち、「史(し)巫(ふ)」を任用して、淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)を浮かび上がらせ、お祓(はら)いによって淫(いん)祠(し)邪(じや)教(きよう)を除去する必要がある。
 巽は感覚が研ぎ澄まされている。真心で神仏を感じるようであり、風があらゆる所に入り込むようである。それゆえ、吉祥を招いて、災難を除去することができる。
 象伝に「中を得(う)れば也」とあるのは、巽の時に乗じて巽順を装って媚び諂(へつら)う人が蔓延(はびこ)っている中で、九二は剛健の性質で中庸の徳を具えているので、天下国家の難問を解決することができると云う意味である。

九三。頻巽。吝。
象曰、頻巽之吝、志窮也。
○九三。頻(しき)りに巽(そん)す。吝。
○象に曰く、頻(しき)りに巽(そん)するの吝は、志窮(きわ)まる也。
 九三は下卦巽の極点に居て、陽爻陽位でやり過ぎる性質である。部下を従えて傲慢に振る舞い、巽の時にあって巽順に従うことができない人物である。けれども、今は巽順に従う時なので、巽順を装って媚(こ)び諂(へつら)っている。本来傲慢な性質なので、巽順を装っていることは苦痛以外の何物でもない。
 だから、いくら巽順を装って媚び諂っても、やがては化けの皮が剝がれる。化け皮が剝がれたら、また、化けの皮を被り、化けの皮が剝がれたら、また、化けの皮を被る。
 恥ずかしい限りである。化けの皮を被っても、化けの皮は化けの皮でしかないから、誰にも信頼されない。巽順を装って傲慢に戻り、また、巽順を装って傲慢に戻るのである。
 世の中に適合するためには、巽順を装うことも必要であるが、装っては傲慢に戻り、装っては傲慢に戻るのは、まことに恥ずかしいことである。それゆえ「頻(しき)りに巽(そん)す。吝(りん)」と言うのである。
 象伝の「志窮(きわ)まる也」とは、九三は巽の時に適合するために、巽順を装うが、すぐに化けの皮が剝がれて、人に媚び諂って名を上げようとする魂胆が公にさらけ出されることを云う。
 人間にとって謙遜すること巽順であることは、人徳の基本である。それを装うことは人徳を貶(おとし)めることである。巽順であることと巽順を装うことでは、倹約と吝嗇とが異なるように、全くの別物である。その違いをよく弁別すべきである。

六四。悔亡。田獲三品。
象曰、田獲三品、有功也。
○六四。悔亡ぶ。田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)。
○象に曰く、田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)とは、功有る也。
 田(でん)とは、文武の武である。初爻に「武人の貞に利し」とあったが、六四は田の武を用いて功を上げるのである。三(さん)品(ぴん)とは、下卦の三爻のこと。下卦の時が終わって六四が功を上げるのである。
 六四は君主の側近の地位に居るので、大臣が君主の命令を奉じて、下卦三爻に命令を下す形である。今は巽順に従う時だから、みんなが媚び諂って君主の下に集まる。
 君主の側近としては対応に苦慮する。しかも六四は陰爻なので才能が不足して、君主の側近としては役不足である。また応爻が不在なので、部下が補佐してくれない。さらに、陽爻に囲まれているので、次から次に災難に襲われる。以上のことから、本来であれば「悔有り」と言うべきである。
 けれども、六四は巽の時の主人公だから、人徳を磨く努力を積み上げる。また、九五の君主とは陰陽比する関係にあるので、媚(こ)び諂(へつら)う侫(ねい)人(じん)を退けて、天下国家を支える。君主の側近としての役割を全うする。善人に支えられて善政を体現するのである。
 その姿を見て、初六は武人のように確乎不抜の志を打ち立て、六四は側近としての志を体現する。側近として大きな功績を上げることができる。六四は温厚な性格なので、侫人を包み込んで世の中は平和になる。以上のことから「悔亡ぶ」と言うのである。
 「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、狩りに出れば獲物が沢山捕れるように、その功徳は遍(あまね)く上下に行き渡ると云うことである。具体的には、君主の側近である六四が部下に対して恭しく謙るので、沢山の人材が集まることを例えているのである。
 象伝の「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)とは、功有る也」の「功有る也」とは、六四が九五に巽順に従うから「功有る」のである。また、「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、六四が上下二陽と比しており、その助けを得られることを云うのである。
 始めは何の益もなく害あるだけだが、終わりには害はなくなり益があるだけである。何の益もなく害ある者は猪突猛進するからである。何の害もなく益ある者は巽順に従うからである。六四は巽順に九五の君主に従うから、君主にも功がある。巽順に下々に接するから、民に功徳が及ぶのである。
 雷水解の「田(でん)にして三(さん)孤(こ)を獲(う)」とは、小人を除去すること。巽為風の「田(でん)にして三(さん)品(ぴん)を獲(う)」とは、君子の成せる技である。

九五。貞吉。悔亡。无不利。无初有終。先庚三日、後庚三日。吉。
象曰、九五之吉、位正中也。
○九五。貞にして吉。悔(くい)亡ぶ。利しからざる无(な)し。初(はじめ)无(な)く終有り。庚(こう)に先だつこと三日、庚(こう)に後(おく)るること三日。吉。
○象に曰く、九五の吉は、位(くらい)正中なれば也。
 「庚(こう)に先立つこと三日」の「庚(こう)」は、「更」や「革」を意味するので、弊害を更新・刷新する意味がある。また、「庚(こう)に先立つこと三日」とは、十(じつ)干(かん)(甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き))の「丁(てい)(庚(こう)より三つ前)」のことで、「丁(てい)」には丁寧と云う意味がある。弊害を更新・刷新する前段階は、丁寧にすべきなのである。
 また、「庚(こう)に後(おく)るること三日」とは、同じく十(じつ)干(かん)の「癸(き)(庚(こう)より三つ後)」のことであり、「癸(き)」とは、計(はか)ると云う意味があるから、弊害を更新・刷新した後の処理を、事を行う前に計画しておくべきなのである。
 今は巽順の時なので、役人は九五の君主に媚(こ)び諂(へつら)うけれども、君主は騙されてはならない。媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)すれば君徳を穢(けが)すことになるからである。君徳を穢(けが)せば「悔(くい)有る」ことになるが、「悔(くい)亡ぶ」とあるので、九五は媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)することなく、君徳を穢(けが)さないのである。
 九五は剛健中正の徳を具えているから、媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)することなく、善き政治を行い民の心を奮い起こし、ありとあらゆる変化に適切に対応して、民から支持されるのである。
 以上のような君主であるから、侫(ねい)人(じん)を側に寄せつけず、政治の悪習を改め、文明社会を築き上げ、天下国家は安泰となる。社会のあらゆる弊害が刷新され、風通しのよい社会が実現する。
 一時的な安定を実現したのではなく、恒久的な安定を実現したのである。吉運を招き寄せて、媚(こ)び諂(へつら)う部下を寵(ちよう)愛(あい)して君徳を穢(けが)すことを免れる。すなわち、後悔することがなくなる。それゆえ「貞にして吉。悔(くい)亡ぶ」と言うのである。
 吉とは、善き天下が今後も継続することである。そのためには、君主として正しい命令を発すること、その時その時に適切に対応することが求められる。その時に適合した命令を発して行動が適切であれば、君臣調和して天下国家は治まるのである。
 「利しからざる无(な)し」以下の文章は、後悔することがなくなった後で、また後悔することにならないように戒めているのである。九五は元々媚び諂う部下を寵愛するところがある。九五がちょっと油断すれば部下を寵愛して、「巧(こう)言(げん)令(れい)色(しよく)、鮮(すく)なし仁(言葉巧みで恭しい態度な人物に限って思いやりに欠けていることが多い)」の輩(やから)が蔓延(はびこ)ることになる。
 上位に在る君主が侫人を好めば、朝廷は侫人だらけになり、天下国家は乱れる。天下国家が乱れるのは、君主や側近の言行が民に支持されない時である。
 九五の言行は最初は民から支持されないが、剛健中正の徳を具えているので、よく反省して言行を改め、賢臣を重用して、政治風土を一新する。巽順の時を全うするのである。
 九五は最初は民から支持されないが、終には民に信頼される君主となる。それゆえ、「初(はじめ)无(な)く終(おわり)有り」と言う。「初(はじめ)无(な)く」とは、始めは善くない(悪い)と云うことである。「終(おわり)有り」とは、始めの善くない(悪い)状態を善い状態に改めることである。始めは善くない(悪い)状態にあるのは、原理原則を踏まえず、風見鶏のようにくるくる変化するからである。
 そのような君主は民に信頼されない。命令を発しても誰も従わない。それゆえ天下国家は乱れる。原理原則を踏まえて、正しい方向に民を導けば、民は君主を信頼して君主が発する命令に従うようになる。風見鶏のようにくるくる変化せずに、原理原則を踏まえることが「終(おわり)有り」の所以である。
 今こそ、天下の弊害を刷新する時である。臣民に道徳の大切さを教えて乱れた社会を浄化しなければならない。慎重に事を進めて、終わりを全う(風俗を一新)すべきである。それゆえ「庚(こう)に先立つこと三日、庚(こう)に後(おく)るるること三日。吉」と言うのである。
 象伝の「九五の吉は、位(くらい)正中なれば也」とは、九五は剛健中正の徳を具えているから、よく省察して、人徳を磨き、忠臣九二や六四の大臣と志を同じくしているので、巽の時の弊害である媚び諂う人間関係を一新することができると云う意味である。すなわち、九五は君主としての役割を全うするのである。

上九。巽在牀下。喪其資斧。貞凶。
象曰、巽在牀下、上窮也。喪其資斧、正乎凶也。
○上九。巽して牀(しよう)下(か)に在り。其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)ふ。貞なれども凶。
○象に曰く、巽して牀(しよう)下(か)に在りとは、上にして窮(きわ)まる也。其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)ふとは、正(せい)乎(こ)として凶なる也。
 「資(し)斧(ふ)」とは剛健にして果断の例え。火山旅の九四の爻辞にも使われている。上九は不中正で媚び諂う巽の時の卦極に居る。巽順に過ぎる人物である。すなわち、巧言令色にして陰邪の小人であり、君主に媚び諂って名誉と財産を恣(ほしいまま)にする。
 上九は地位と財産を失うことを恐れているので、媚(こ)び諂(へつら)いの度合いは益々悪化して、それが自分の立場を危うくすることに気が付かない。それゆえ「巽して牀(しよう)下(か)に在り」と言うのである。
 巽の卦象は、上卦巽を「牀(しよう)(腰掛けや床のこと)」として、下卦巽を「従う」とする。爻の象を見ると、上九は九五の上に在るが、相談役として君主の上に居るような立派な人物ではなく、君主に媚び諂ってばかりいる侫人である。
 本来剛健の性質を具えているが、不中正なので名誉や財産を得るために媚(こ)び諂(へつら)ってばかりいて自ら権威を失い侫(ねい)人(じん)に堕ちていく。それゆえ「其(その)資(し)斧(ふ)を喪(うしな)う」と言うのである。
 上九が剛健の性質を失うだけでなく、名誉や財産に固執する姿勢を改めようとしなければ、凶運を招き寄せることは間違いない。それゆえ「貞なれども凶」と言うのである。
 「凶」とは、人に怨まれることである。自分で自分を貶(おとし)めて行き詰まっているのに心を改めることをしないからである。陰柔の性質は、弱者に当て嵌めれば「邪(よこしま)」なものとなり、強者に当て嵌めれば「正しい」ものとなる。
 巽順の性質は、卑怯者に当て嵌めれば「媚(こ)び諂(へつら)い」となり、勇者に当て嵌めれば「謙遜」となる。
 象伝に「上にして窮(きわ)まる也」とあるのは、巽順の時の極地に居て自ら陽剛の徳を捨てて媚(こ)び諂(へつら)うことを云い、「正(せい)乎(こ)として凶なる也」とは、男たる者が陽剛の徳を失えば凶運を招き寄せることは必然であることを云う。巽順に過ぎて恥辱を受けるのである。窮とは困窮することである。

 

https://store.shopping.yahoo.co.jp/keiei/20191001.html

↑ヤフーショッピングに出店しました↑

心の経営 易経・易占DVD講座 古事記

日本一分かり易い易経講座→ネットショップへ

語呂合わせで学ぶ易占・易経入門

カードで学ぶ 易占入門講座

「高島易断入門講座 易聖高島嘉右衛門の易占と占例 上巻」

「高島易斷入門講座  易聖高島嘉右衛門の易占と占例 下巻」

「冬至占(易占)入門DVD講座」(フルセット)

「冬至占(易占)入門DVD講座」(DVD16枚組)

好評発売中→ネットショップへ

日本の心を取り戻す! わたしの天命です。