呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 336 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

64.火水未済

□卦辞(彖辞)
未濟、亨。小狐汔濟、濡其尾。无攸利。
○未(び)濟(せい)は亨(とお)る。小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとし、其(その)尾(お)を濡らす。利(よろ)しき攸(ところ)无(な)し。
 未済は、下卦坎、上卦離。坎は水、離は火である。炎上して用を為す火が上に在り、下って用を為す水が下に在る。水火交わらない形である。造化は陰陽交わって行われるが、陰陽交わらずに造化を一休みする時。天地宇宙の造化が混沌として停滞する時である。太陽の光熱エネルギーが地球にまで届かず、地球の水氣が蒸発しない形になっている。
 易経の物語は完成する時である水火既済で終わらずに、未完成の時である火水未済で終わる。地球の軌道が常道から外れて、太陽から遠ざかり、太陽の光熱エネルギーが地球に届かず、地球が氷で覆われ、地球上で行われる活動が停滞し、完成した状態から未完成の状態に至ったのである。
 未完成は完成に向かって行くのである。地球の軌道は常道に戻ろうとして、地球は太陽に近付いていき、再び造化の作用が機能する。火水未済の時は乾為天の時に移行して、旧い時代は終わり、新しい時代に突入して、限りない循環(生成発展)に戻っていく。天地の作用は万物を生成発展させる根源的なエネルギーであり、水と火の交わりは万物を産み出す作用である。
 未済の形は火が水の上に在って用を為さない。水火が未だ交わらないので、万物を産み出すことはできないが、未完成は完成に向かって行くので、やがて水火が交わって、万物を産み出す時に移行する。それゆえ、未済と名付けたのである。
 未済は、未だ事を為さない時である。未済の未には待つと云う意味がある。事を為すことを待っているのである。何事も為さないままでは終わらない。時が至れば事を為す時がやってくる。
 未済を人間社会に例えれば、下卦坎の中男が下に在り、上卦離の中女が上に在る。中男と中女が相対しているが、未だ結ばれないと云う形である。しかし、男女はやがて結ばれる。いつまでも結ばれないと云うことはない。未完成は完成に向かい、男女はやがて結ばれるのである。

□彖伝
彖曰、未濟亨、柔得中也。小狐汔濟、未出中也。濡其尾、无攸利、不續終也。雖位不當、剛柔應也。
○彖に曰く、未(び)濟(せい)は亨(とお)るは、柔、中を得れば也。小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとすとは、未だ中(なか)を出でざる也。其尾を濡らす、利(よろ)しき攸(ところ)无(な)しとは、續きて終らざる也。位(くらい)に當(あた)らずと雖(いえど)も、剛柔應(おう)ずる也。
 未済は下卦坎水と上卦離火が相交わらないので、物事は成就しないのである。下卦坎水と上卦離火の感情が協調しないことが物事が成就しない原因である。だが、物事が成就しない時は、やがて成就する時に移行する。これが天の運行である。すなわち、今、成就しないと云うことは、将来は成就すると云うことである。
 人間社会に当て嵌めれば、物事が成就しそうだけれども、まだ成就しない時。物事を成し遂げられそうだけれども、また成し遂げられない時である。例えば、花が咲きそうで、まだ咲かない初春の頃であり、やがて満月になる新月のようである。
 内卦の段階では、物事が成就する兆しは見えないが、外卦の段階になれば、物事が成就する兆しが見える。すなわち、下卦三爻は未済中の未済であり、上卦三爻は未済中の既済である。
 内卦坎水は、大川を渡ろうとすれば、危険が待ち受けている。心を引き締めて、坎の険難によく耐えて、上卦離火の氣運が到来するのを待って、物事を成し遂げるべきである。
 未済の時は、相手と自分の気持ちが交わらない時だから、強引に物事を進めれば、必ず失敗する。柔軟に対応して時が至るのを待つことにより、はじめて物事が成就する。六五は柔順な性質で中庸の徳を具えており、剛健な性質で中庸の徳を具えている才能豊かな九二に応じている。上卦離の文明の徳をもって下卦坎の険難から脱出することを任務としている。
 以上のことから、下卦の段階で物事が成就しないからといって、上卦の段階になっても、物事が成就しないということはない。それゆえ、「未濟は亨るは、柔、中を得れば也」と言う。
 既済も未済も共に「亨る」と言うが、既済の「亨る」は既に成就しているのである。未済の「亨る」はこれから成就するのである。天下の物事が成就しないのは人材が不足しているからである。勇気や戦略のある人が出てきて、始めは慎重に熟慮し、時が至れば大胆に実行すれば、物事が成就するのである。
 知恵が少なく力が弱いのに、慎重に物事を熟慮しない若者は、どんなに発奮しても物事を成就することはできない。子狐が大川を渡ろうとしても尻尾を濡らして引き返してくるように、失敗するのが関の山である。どうして利益を得ることができようか。
 狐の尻尾は身体に比べてとても大きいから、大川を渡ろうとすれば、尻尾を持ち上げないと濡れてしまう。尻尾が水に濡れると重くなって、大川を渡ることはできない。
 年老いた狐は経験が豊富で思慮深いので、尻尾を濡らすことを察して、安易に大川を渡ろうとして引き返してくるようなことをしない。尻尾を濡らすような失敗は犯さないのである。
 しかし、子狐は経験不足の上に物事をよく考えない。だから、勇ましく大川を渡ろうとして尻尾を濡らしてはじめて失敗したことに気付くのである。けれども、大川の半ばまで渡ってしまっているので、どうすることもできない状況に陥る。以上のことを「小(しよう)狐(こ)汔(ほとん)ど濟(わた)らんとすとは、未だ中を出でざる也」と言うのである。
 「小狐」とは初六を指しているのである。人間に当て嵌めれば、賢い人と愚かな人は、年齢とは関係ないが、経験豊富で人徳具えた年寄りは、過去の経験から愚かな過ちを犯さないものである。今、自分が置かれている状況をよく考えて、未済中の未済の時である内卦の段階では、よく困難に耐えて、未済中の既済の時である外卦の段階に至って、困難から脱出すべく動き出すべきである。
 ところが経験不足で思慮も足りない若者は、時勢を察することができないので、未済中の未済の時に困難から脱出しようとして大失敗するのである。自分の身すら救えない人がどうして他人を救えるだろうか。経験も思慮も足りない者は、何に取り組んでも、始めは順調だったとしても、一つのことを継続してやり続けることはできない。それゆえ「其(その)尾(お)を濡らす、利(よろ)しき攸(ところ)无(な)しとは、續(つづ)きて終らざる也」と言うのである。
 未済の時は六爻全て不正の地位に在るが、応比の関係においては全て陰陽相交わっている。適材適所の配置にはなっていないが、全員が協力して物事に中り、困難から脱出することを図っている。全員が協力して物事に中れば、最初は困難から脱出できなくても、最後には困難から脱出できるはずである。このことを「位に當(あた)らずと雖(いえど)も、剛柔應(おう)ずる也」と言う。陰陽よく交わって困難に対処すべきことを明示しているのである。

□大象伝
象曰、火在水上、未濟。君子以愼辨物居方。
○象に曰く、火、水の上に在るは、未濟なり。君子以(もつ)て愼(つつし)みて物を辨(べん)じ方(ほう)に居(お)く。
 天地は万物を生成する機能。水火は万物を化成する作用。水と火が相交わり相調和することによって、万物は生成化成する。これが既済の卦の形である。水と火が相対峙しても、相交わらなければ、万物は生成化成しない。これが未済の卦の形である。
 また、坎水は物事を潤して下に降(くだ)る存在である。未済は上卦が離の火、下卦が坎の水である。水と火が相交わるか交わらないかは、水と火の上下の位置関係で決まる。未済は未だ相交わらないと云う意味だが、未だ相交わらないと云うことは、遂には相交わることになると云う意味でもある。
 下卦は未だ交わらない段階であるが、上卦に至れば交わる段階に移行するのである。君子たる者、水と火の位置関係の違いが、既済と未済の違いであると云う卦の形を見て、社会において然るべき地位を得、物事に対処するには、何事も慎みをもって、物事の性質を分析し、物事の始まりと終わり、進むか退くかと云う処置を明確に示して、その時々に適切に対処すべきである。物事は、交わり、集まり、分かれるから、その時々に適切に対処できるのである。
 例えば、君子と小人が居るとして、君子が小人の上に立ち、小人が君子に柔順に従えば、君子と小人はお互いにその役割を全うし、社会も人々の心も安定して楽しく暮らすことができる。治国平天下である。ところが、小人が君子の上に立ち、君子を力で押さえ付ければ、君子は小人の力に屈して、明智と人徳を包み隠すようになる。小人と君子はお互いにその役割を全うできないので、社会も人々の心も不安定になり、楽しく暮らすことができない。このような在り方は混迷であり、治乱であり、無道である。
 君子と小人の上下関係を入れ替えれば、治国平天下の状態は、混迷、治乱、無道となり、逆に、混迷、治乱、無道の状態は、治国平天下となる。すなわち、混迷、治乱、無道の状態を、治国平天下の状態に正すことが大切なのである。それゆえ、「君子以(もつ)て愼(つつし)みて物を辨(べん)じ方(ほう)に居(お)く」と言うのである。水と火の上下の位置関係によって社会は治まり、また、乱れるのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。濡其尾。吝。
象曰、濡其尾、亦不知極也。
○初六。其(その)尾(お)を濡らす。吝(りん)。
○象に曰く、其(その)尾(お)を濡らすとは、亦(また)、極(きよく)を知らざる也。
 初六は未済中の未済の始めの段階。物事を成し遂げ功を上げる時ではない。何事も慎みまた警戒して見守るべきである。
 初六は陰爻陽位の不正。柔順な性質で下卦坎険の下位に居る。絶対前に進んではならない立場である。しかし、初六は剛健な性質を具えている九四に応じているので、自分は才能が無いことを忘れて、過大な志を抱く。彖辞に云う「小(しよう)狐(こ)」である。
 今が未済中の未済の時であることを察することができないので、無闇に進み功を上げようとする。成し遂げようとすることに才能が追い付かず、大失敗してしまう愚人である。例えれば、小狐が深さを知らずに大川を渡ろうとして、尻尾を濡らし溺れてしまうようなものである。
 剛健な性質を具えている九四と応じていても、未済中の未済の始めの段階なので、初六を助けることはできない。初六は自分に才能が無いことを忘れて、無闇に進むので、志を実現することができない。だから、「其(その)尾(お)を濡らす。吝(りん)」と言うのである。
 初六は自分を救うことはできないので、人を救うこともできない。「吝」とは、自分も恥ずかしいけれども、相手も恥ずかしいことを云う。初六で象徴的なのは、小狐が尻尾を濡らすことである。象伝に「亦(また)、極(きよく)を知らざる也」とある。己の分(ぶん)際(ざい)を弁(わきま)えず、今が未済中の未済の始めの段階であることも知らず、無闇に進んで功を上げようとして、下卦坎の険難に陥るのは、無知にもほどがあるとを云うことである。
 初六が失敗するのは、無知だからであって、大川を渡ることはできないことではない。もし、初六に知恵があれば、未済中の未済の初期の段階であっても、大川を渡ろうとして、尻尾を濡らすことはない。大川を渡ろうとして挫折するのは、初六が未済中の未済と云う時を知らないからである。

九二。曳其輪。貞吉。
象曰、九二貞吉、中以行正也。
○九二。其(その)輪(わ)を曳(ひ)く。貞にして吉。
○象に曰く、九二の貞にして吉とは、中(ちゆう)以(もつ)て正を行ふ也。
 未済は君子が艱難の道を歩む時である。九二は剛健にして中庸の徳を具えて、六五の王さまと応じている。険難の時を救うことを任務としているが、今は未済中の未済の真っ只中に居り、下卦坎の主爻なので、軽々しく険難に立ち向かっていかない。
 九二は剛健柔順なので、車が進まないように車輪を繋ぎ止め、時が至るのを待ってから進むのである。決して失敗することはない。それゆえ、「其(その)輪(わ)を曳(ひ)く。貞にして吉」と言うのである。
 剛中の徳を具えて才能が高い九二が、その力に頼って応ずる六五の王さまを蔑(ないがし)ろにする心配は全くない。九二は、上位者から信任されており、下位者から信頼されている。剛中の才能が衰えることなく、王さまに仕えて決して裏切ることはない。だから、吉運を招き寄せないはずがない。
 既済の時は坎(輪)が外卦に、離(牛)が内卦に在ったので、既済の初九には「其輪(外卦坎のこと)を曳く」とある。完成した時なので、これ以上前に進まずに止まろうとしている。
 それに対して、未済の時は坎(輪)は内卦、離(牛)は外卦である。内卦(輪)の九二が外卦(牛)の六五に応じている。それゆえ、外卦(牛)が内卦(輪)を曳いて、内卦坎の険難の中に在る九二を険難から脱出させようとしている。六五の王さまが九二の賢臣を重用しようと欲しているのである。
 九二は未済中の未済から未済中の既済に移行する時を待っており、六五の王さまに感謝している。
 象伝に「中以て正を行ふ也」とあるのは、今は功を上げ、事を成し遂げる時でないことを九二は知っているので、剛健中庸の徳を発動し、今、進むべきか退くべきかを明らかにするので、時に適切に対処することができると云うことである。
 未済中の未済の真っ只中に在る九二の段階では、大川を渡らずに止まっていることが正解である。九二は陽爻陰位であるが、中庸の徳を具えているので止まることができる。今と云う時をよく知っているから妄動しないのである。
 昔、太公望が紂王を避けて北海の浜辺から動かなかったのは、今は止まることが正解だと云うことを知っていたからである。その後、文王と出逢って功を上げたのは、今は動くべきだと、正しい判断をしたから吉運を招き寄せたのである。

六三。未濟。征凶。利渉大川。
象曰、未濟征凶、位不當也。
○六三。未だ濟(わた)らず。征(ゆ)くは凶。大川を渉るに利し。
○象に曰く、未だ濟らず、征くは凶とは、位(くらい)、當(あた)らざる也。
 六三は陰湿で柔弱な性質である。その上、才能乏しく地位は不正でやり過ぎるところがあり、内卦坎険の極点に居る。志は剛強だが力不足である。今はまだ未済中の未済の時なので、事を成し遂げ、功を上げる時ではない。強引に事を成し遂げようとすれば、時に逆らって凶運を招き寄せることになる。
 六三は下卦と上卦の境目と云う危険なところに居る。今の場所から進み行くことができれば険難から脱出できるが、一歩誤れば大失敗して大変なことになりかねない。
 六三は下卦坎と互体三四五坎の中におり、坎険に挟まれている。しかも才能も力も足りないので、進み行けば凶運を招き寄せる。それゆえ、「未だ濟(わた)らず。征くは凶」と言うのである。
 しかし、六三は下卦の極点に居て上卦に接している。未済中の未済の時が、未済中の既済の時に移行しようとしているのである。険難の中に在ると云うことは、やがては険難から脱出すると云うことである。しかし、今は一人の力で険難から脱出することはできない。それゆえ苦しむのである。
 だが今、未済中の未済の時は未済中の既済の時に移行しようとしている。応じている上九の君子の力を借りれば、険難から脱出することもできる。このことを「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」と言うのである。
 互体三四五の離(真ん中が虚なので舟に見立てられる)の舟が内卦の坎水の上に浮かんでいる形になっている。六三は離の舟の主爻である。しかも、六三は、内卦から外卦(三爻から四爻)に移行しようとする段階である。内卦から外卦に移行する時は瞬発力が求められる。昔から大きな困難に遭遇して脱出しようとした時に大きな功を上げることが多いのである。
 「征(ゆ)くは凶」とあるが、瞬発力がある誰かが、周りの支援を得て思い切って行動すれば、必ずしも凶運を招き寄せるとは限らない。六三は強風に乗って荒波を乗り越えようとしている。風が穏やかならば波は靜かで安定している。
 今は未済中の未済から未済中の既済に移行しようとしている時だから、聖人は時を逃してはならないと戒めているのである。その一方で軽挙妄動してはならないとも戒めている。その絶妙な戒めを感じ取るべきである。
 「征(ゆ)くは凶」とは、時勢を考慮しての戒めである。「大川を渉るに利し」とは物事の道理に基づいた言葉である。
 困難を克服するために進み行くのは自分の意志である。大川を渡るためには舟に乗らなければならない。自分の意志だけでは進み行くことはできないが、周りの人々や舟の力を借りれば進み行くことができると見立てているのである。

九四。貞吉。悔亡。震用伐鬼方。三年有賞于大國。
象曰、貞吉、悔亡、志行也。
○九四。貞にして吉。悔(くい)亡ぶ。震(しん)して用(もつ)て鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして大(たい)國(こく)に賞(しよう)有り。
○象に曰く、貞にして吉、悔亡ぶとは、志行わるる也。
 九四は未済中の未済から未済中の既済に移った時である。未済中の未済の時には何事を成し遂げようとしても後悔することになるが、未済中の既済に移行した今ならば、後悔することはない。それゆえ、「貞にして吉。悔(くい)亡ぶ」と言うのである。
 天下国家に生じた大きな困難に対処するには、剛健の性質と才能が必要である。九四は陽爻(剛健)だが、陰位(不正の位)なので「貞(ただ)しくあれ」と戒めているのである。
 九四は王さまの側近として、文明の時に在り、陽剛の才能と道徳を具えて、時勢を改革しようしている。未済の困難を乗り越える人物である。九四の邪魔をする人物は、田畑に生える雑草と同じなので、抜き去らなければならない。
 九四を邪魔する雑草を討伐するのが九四の役割である。それゆえ、「震(しん)して用(もつ)て鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ」と言うのである。昔の人々がよく争ったのは、このような邪魔者を討伐するためである。
 九四は互体三四五の坎の真ん中に在るので、耳を覆うと云う意味がある。未済の困難を取り除いて、既済の調和を実現することは、一朝一夕にできることではない。始めは中々結果が出ないものである。しかし、時間をかけて邪魔者を取り除く工夫をすれば、邪魔者を討伐することができる。
 それゆえ、「三年にして大(たい)國(こく)に賞(しよう)有り」と言う。三年とは十年以上の長期間と云う意味であり、大国とは六五の王さまのことである。すなわち、王さまからご褒美を賜るのである。
 また、九四は六五の王さまを凌ぐ実力がある。その実力を正しく用いなければ大変なことになる。自らが仕える王さまに刃向かえば後悔することになる。王さまに心から仕えてこそ、その役割を果たすことになり、吉運を招き寄せるのである。
 九四は既済の九三がひっくり返った形なので、既済の九三も未済の九四も「鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ」と云う言葉が使われている。
 既済の九三は衰運に向かおうとする時に功業を成し遂げようとするから苦労するので、殷王朝の中興の祖と称される武(ぶ)丁(てい)に例えて「高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ」と表現した。衰運に向かおうとしている時に功業を成し遂げようとしてはならないのである。九四は未済中の未済から未済中の既済に移行した時であるから、物事を成し遂げることが可能となる。
 九四は六五の王さまを補佐する側近として、王さまに仕えるべきである。九四が側近としての役割を全うすれば、未済中の未済の時は未済中の既済の時に移行する。未済中の既済の時に移行すれば、何事も静かにゆったりと完成していくのである。
 未済の時は、また既済に向かって行くために、困難に立ち向かう時である。それゆえ、既済中の既済から既済中の未済の時に移行しようとする既済の九三の象伝には「憊(つか)れる也/国力が衰えたのである」と言い、この爻の小象伝には「志行わるる也」と言うのである。「志行わるる也」とは、国家のために尽くして治国平天下を実現することである。
 共に「三年して/十年以上の長期間の例え」とあるが、共に長期間かけて完成から衰退に向かい、衰退から完成に向かって行くのである。

六五。貞吉、无悔。君子之光。有孚、吉。
象曰、君子之光、其暉吉也。
○六五。貞にして吉、悔(くい)无し。君子の光なり。孚(まこと)有り、吉。
○象に曰く、君子の光とは、其れ暉(かがや)きて吉なる也。
 六五は王さまの地位に在るが、陰爻陽位の不正ゆえ、王さまとして後悔する心配がある。しかし六五は志が強固なので、王さまとしての役割を全うすべく、よく賢臣の諫言を受け容れる。未済中の未済から、未済中の既済の時に完全に移行した今、九四の側近の力を借りて、確実に吉運を招き寄せる。それゆえ、九四では「悔(くい)亡ぶ」と言い、六五では「悔(くい)无(な)し」と言う。「貞にして吉」とあるのは、「正しくあれ」と戒めているのである。
 六五の王さまは柔順な性質で中庸の徳を具えている。上卦離・文明の主爻として、九四の側近と陰陽相比しており、九二の大臣と応じている。私利私欲を捨てて、九二の賢臣に政治を委任する。真心が外面に溢れ出て、未済中の未済を完全に脱出して、未済中の既済を実現する。文明社会を築き上げる聖人のような王さまである。悪を憎み善を好むので、天下国家は精神的に豊かになる。以上のことから、六五の明徳を称賛して「君子の光なり。孚(まこと)有り、吉」と言うのである。
 六五を天に例えるとお日さまである。お日さまと火の性質を兼ねているので、柔順ながら剛健、陰柔ながら豪快である。柔順中庸なので正しく、明徳(離の主爻)を具えているのでぴかぴかと光り輝いており、真心が外面に溢れ出ている。
 象伝に「其(そ)れ暉(かがや)きて吉なる也」とあるのは、この爻は六十四卦の中で最後の六五として離の主爻であるから、その明智・明徳により光り輝いて吉運を招き寄せるのである。また、明智・明徳を具えている君子ゆえ、善美で光り輝く天下国家を築き上げることができる、と云うことである。
 六五の王さまは陽剛の賢者(上九・九四・九二)に囲まれているから、共に親しみ合い和合して、未済中の未済の時を未済中の既済の時に完全に移行することができる。王さまとしての仁徳が天下国家に光り輝き、吉運を招き寄せることを誰も邪魔することはできないのである。
 「暉(かがや)きて吉」とは、光り輝く状態が常に倍増していくから、乱が治まり和合するのである。大雨が降った後に、太陽の光が輝いて、キラキラしている空気のような状態である。
 易経には「悔い亡ぶ」と「悔い无(な)し」と云う言い方がある。「悔い无し」は「悔い亡ぶ」よりも、後悔することが少ない状態を示している。つまり、四爻の「悔い亡ぶ」から五爻の「悔い无し」と云う状態に至るのである。四爻に「悔い亡ぶ」とあり、五爻に「悔い无し」と続いてあるのは、沢山咸、雷天大壮、そして火水未済の三つの卦だけである。

上九。有孚于飲酒。无咎。濡其首、有孚失是。
象曰、飲酒濡首、亦不知節也。
○上九。酒を飲むに孚(まこと)有り。咎(とが)无(な)し。其(その)首(こうべ)を濡らせば、孚有れども是(ぜ)を失う。
○象に曰く、酒を飲み首を濡らすは、亦(また)、節(せつ)を知らざる也。
 上六は剛健の性質を具えて卦極に在る。究極の剛健の性質を具えている。明るい性質の離の極点に居り究極の明るい性質も具えている。剛健で明るい才能を具えて王さまの後ろに居る。文明社会を統治する王さまをサポートする相談役である。
 時は未済中の未済から未済中の既済に移行したので、もはや何もすることはない。酒でも飲んで泰然自若と楽しむがよい。未済の時は六五の段階で未済中の既済に完全に移行して、上九に至れば既済は目の前に在るから、ほとんど既済の時となる。
 だが、未だ未済の時から既済の時に完全に移行したわけではない。君臣和楽して未済中の既済の時に安らぎ、既済の時に完全に移行するのを待っていれば、自然と既済の時が到来する。それゆえ「酒を飲むに孚(まこと)有り。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「酒を飲む」とは宴会を楽しむと云う意味。心身ともにリラックスすることの例えである。「孚(まこと)有り」とは、六五の王さまのことである。上九は「酒を飲む」人である。この言葉はじっくりと味わうべきである。「酒を飲む」と云う言葉を用いているのは、未済中の未済から未済中の既済に移行した今、功を上げることを貪り、私利私欲を追求して、小狐が大川を渡るように盲進すれば、吉運転じて凶運を招き寄せ、未済中の既済の時から未済中の既済の時に逆戻りしてしまう恐れがある。それゆえ「其(その)首(こうべ)を濡らせば、孚(まこと)有れども是(ぜ)を失う」と言うのである。
 「是(ぜ)を失う」の「是」とは、富裕な状態、成功した状態である。天下国家は困難に陥っている時に治まる方向に向かい、安定した状態が続いている時に乱れる方向に向かう。上九は安定した状態なので、お酒を飲み過ぎて安逸に溺れれば、小狐が盲進して大川を渡り溺れてしまうだけでなく、六五の王さまの真心を台無しにしてしまうのである。
 既済の上六の時に狐の首を濡らすのは水である。未済の上九の時に狐の首を濡らすのは酒である。水が首を濡らしても自分が溺れるだけだが、酒が首を濡らせば自分が溺れるだけでなく、天下国家が乱れることになる。易経に書いてある戒めの言葉を甘く見てはならない。
 象伝に「節を知らざる也」とあるのは酒に溺れてはならないと戒めているのである。「亦(また)、節を知らざる也」の「亦(また)」とは、吉凶二つの道を示している。上九の時は真心を内に秘めて泰然自若としているべきだが、私利私欲を貪欲に追求すれば、吉運は凶運に転じて全てを失うことになる。節度を知らないととんでもないことになる。「孚(まこと)有れども是(ぜ)を失う」とは、聖人が親切に人の道を教示しているのである。上九が変ずれば外卦は震となり躍動する形となり、節度を知らないことを示している。
 爻辞は周公旦が言葉をかけたと伝わる。周公旦は、既済の終わりに、首を濡らして時を失うと書き、未済の終わりに首を濡らして人としての節度を失うと書いた。未済の六五に至れば、未完成の時から完成に向かう時に転じるが、上九に至ると油断しやすいから気を付けなさいと戒めているのである。

  高島嘉右衛門著「高島易断」 古典解釈の超意訳
      第一刷発行
      令和三年(皇紀二八六一年)一月吉日
            著者 白倉信司  発行人 白倉事務所
                 〒四〇〇の〇〇〇六
                         山梨県甲府市天神町八の八

 

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