呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 335 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

63.水火既済

□卦辞(彖辞)
既濟、亨小。利貞。初吉、終亂。
○既(き)濟(せい)は亨(とお)ること小なり。貞(ただ)しきに利(よろ)し。初めは吉、終りは亂(みだ)る。
 既済は上卦坎、下卦離。坎は水、離は火である。下る性質を有する水が上に在り、上る性質を有する火が下にある。
 太陽の火の熱が大地を照らして、大地に在る水が水蒸気となり蒸発していく形である。天地交われば万物を生ずる。水と火が交われば万物を生成化成する。天地の交わりの中で水と火の交わりよりもダイナミックな作用を及ぼすものはない。
 そのダイナミックな作用は八卦の中では坎水と離火に内包されている。それゆえ、乾と坤が交われば、坎と離となり。坎と離が交われば水火既済となるのである。
 易の物語が乾為天と坤為地から始まり、水火既済と火水未済で終わるのは、陰陽相互作用のシナリオを示している。
 水火既済は天地の交わりの中でもっともダイナミックな交わりである水と火が交わって大事業を成し遂げる。万物創造の妙用である。坎の中男が上に在り、離の中女が下に在るのは、男女がそれぞれの役割を全うしていることを示している。
 上卦に中男、下卦に中女と云う形は、女性が男性の家にお嫁入りして家庭を築いていることを現している。それゆえ、この卦を既済(既に嫁入り済み)と名付けたのである。
 既済とは既に造化が済(な)ると云う意味である。陰陽それぞれがその役割を全うした時は靜かで安定した状態になる。陰陽相互作用は、限りない創造活動による安定した秩序の形成である。
 この卦は、水が火の上に在るので、火が炎上して火災になることはない。火は水を温め、水は水蒸気となり、やがて慈雨が降ってくる。火と水がそれぞれの役割を全うしているのである。
 既済とはあらゆる物事が通じ合い、事業を成し遂げることである。また、相互作用、救済と云う意味もある。
 易経を学ぶ上で大切なことは六爻の応比の関係である。六十四の物語の中で陰陽応比の関係が正しく作用する物語は、地天泰、沢山咸、風雷益、水火既済の四つの物語である。その中でも完璧に陰陽応比の関係が正しいのは水火既済である。
 上卦と下卦の関係で見ると、地天泰の時が陰陽正しく交わる形であるが、六爻それぞれの関係で見ると、応比の関係が全て成立して、かつ各爻がそれぞれ正しい地位を得ている(陽爻陽位、陰爻陰位)のは水火既済だけである。
 天下国家が円滑で調和する状態に至るには、天下国家の構成員がその役割を全うすることが肝要である。水火既済は六爻全てがその役割を全うする時ゆえ、円滑で調和する状態に至っている。

□彖伝
彖曰、既濟亨、小者亨也。利貞、剛柔正而位當也。初吉、柔得中也。終止則亂。其道窮也。
○彖に曰く、既濟は亨(とお)るとは小なる者亨る也。貞しきに利しとは、剛柔正しくして位(くらい)當(あた)れば也。初めは吉とは、柔、中を得(う)れば也。終りに止まれば則ち亂(みだ)る。其(その)道(みち)窮(きわ)まる也。
 この卦を人間社会に当て嵌めると、あらゆる事業が完成する時である。しかも、六爻全てが陰陽定位を得ているので、これ以上望めないほど完全な状態である。
 それゆえ、既済の氣運を招き寄せることができれば、実力のない人でもそれなりの事業を完成させることができる。実力のある人は実力に見合った大きな事業を完成させることができる。全ての事業は完成し、全ての人が功を上げる時である。
 以上のようであるから、完成した事業を維持すべきである。軽々しく変更してはならない。些末なことなら変更してもよいが、事業の根幹を覆すような大変革を起こしてはならない。
 もし、事業の根幹を覆すような大変革を起こせば、自ら墓穴を掘って自滅する。例えるならば、牛の角を手に入れようとして、うっかり牛を逃してしまうようなものである。このことを「既濟は亨るとは、小なる者亨る也。貞しきに利しとは、剛柔正しくして位當れば也」と言うのである。
 治乱興亡は循環する。栄枯盛衰の理(ことわり)である。既済の時の始めはまだ緊張感が漂っている。だから、完成した事業を維持・継続できる。だが、既済の時も半ばを過ぎると緊張感が緩み、驕(おご)り高ぶる心が生まれて、災いを招き寄せることになる。
 あるいは、完成した事業を維持・継続することを退屈に思って、無闇に事業を変更しようとして失敗する。このような事態に陥れば、せっかく完成した事業の成果を全て失うことになる。このことを「初めは吉とは、柔、中を得れば也。終りに止まれば則ち亂る。其の道窮まる也」と言うのである。
 六二は柔順の性質を有して、初九と九三の陽爻の間に在り、中庸の徳を具えているから、内卦は吉運の真っ只中にある。けれども、九五は六四と上六の陰爻の間に挟まれて動きがとれなくなっている。すなわち、困窮に陥るのは、既済の時が内卦から外卦に移行してからである。
 卦辞・彖辞に「終りは亂(みだ)る」とあり、彖伝に「終りに止まれば則ち亂(みだ)る」とあるのは、人情として物事が何の問題もなく順調に進んでいるときは、ついつい怠る心が生じて、怠れば何か問題が起こることに気が付かない。だから、何の対策も講じないので終には乱れることを云う。それゆえ、既済の時は内卦の段階で何事にも慎んで自重することが肝要だと諭しているのである。
 「終りに止まれば則ち亂(みだ)る」と云う文章の「止まる」と云う言葉を味わうべきである。

□大象伝
象曰、水在火上、既濟。君子以思患而豫防之。
○象に曰く、水、火の上に在るは既濟なり。君子以(もつ)て患(うれい)を思うて豫(あらかじ)め之(これ)を防ぐ。
 水の性質は常に潤っており下ろう下ろうとする。火の性質は常に炎が燃えており上ろう上ろうとする。この卦は常に下ろう下ろうとする水の下に、常に上ろう上ろうとする火が在る。
 水は火で温められて水蒸気となり上っていくので、火を消してしまう心配はなく、上ろう上ろうとする火は水を温めるという役割を果たして、他に燃え移って炎上する心配はない。
 すなわち、陰陽よく交わり、お互い補完し合う関係だから、万事物事が成就する時である。既済の既済たる所以である。
 けれども、天下国家の心配事は、備えのないところに発生するものである。だから、備えあれば憂いなしと云うことである。
 あらかじめ心配事が起こらないように備えておかなければ、後日、心配事が発生して後悔することになる。心配事が発生してから対応しても遅い。そこで、君子は応比の関係が全て成立して、かつ各爻がそれぞれ正しい地位を得ている(陽爻陽位、陰爻陰位)既済の形を見て、日は昇ればやがて傾き、満月はやがて新月となるように、天の運行は循環しているので、後日、この形が崩れて心配事が発生しないように備えるのである。
 そこで、少しでも長くこの形を維持するために、何事にも慎みの心を忘れず、懼(おそ)れ警戒して、この形が崩れることを予防する。坎の険難が外卦に在るのは、心配事を予防する形である。離の明智が内卦に在るのは、予防することをよく考える形である。
 既済はあらゆる物事が通じ合い、事業を成し遂げる時だから、すぐに心配事が発生することはない。だが、事業を成し遂げた後には、心配事が発生するものである。
 それゆえ、予(あらかじ)め心配事を予防して、あらゆる物事が通じ合う形を維持すれば、心配事は発生しない。だから「君子以(もつ)て患(うれい)を思うて豫(あらかじ)め之(これ)を防ぐ」と言うのである。
 また、人間の文明生活に必要不可欠なのは火の存在である。だが、大火事などで大災害を引き起こすのも火が在るからである。既済は火の上に水があるので、火が炎上して大火災を引き起こすことはない。すなわち、心配事が大災害に発展することはないのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。曳其輪。濡其尾。无咎。
象曰、曳其輪、義无咎也。
○初九。其(その)輪を曳(ひ)く。其(その)尾を濡らす。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)輪を曳(ひ)くとは、義、咎(とが)无(な)き也。
 水火既済と火水未済の二つの卦の関係は、大凡(おおよそ)地天泰と天地否と同じである。地天泰は下卦の三爻を泰中の泰(本来在るべき泰の時)として、上卦の三爻を泰中の否(泰の時が崩れて天地否の時に以降しつつある時)とする。また、天地否は下卦の三爻を否中の否(本来在るべき否の時)として、上卦の三爻を否中の泰(否の時から泰の時に以降しつつある時)とする。
 水火既済もこれと同じように考える。既済と未済の時が分かれるのは、離の明智と坎の険難である。泰と否の時が分かれるのは、乾の積極性を満たされているものと考え、坤の消極性を不足していると考えるのと同じである。
 既済は物事が完成したと云う意味である。下卦三爻は既済中の既済(本来在るべき既済の時)だから、今の状態を維持することが肝要である。もし、迂(う)闊(かつ)に動き進んで、その状態が崩れれば、既済中の未済に向かい、内卦の離(明智)の時から、外卦の坎(険難)の時に移行してしまう。それゆえ、既済は下卦三爻の段階で、今の状態を固く維持することを教えるのである。
 未済は未だに物事が完成しないと云う意味である。とくに下卦三爻は未済中の未済(本来在るべき未済の時)であるから、その事業は未だに完成せず、その時(時機)は未だに至らない。それゆえ、時が至るのを静かに待つことが肝要である。
 天下国家で起こることは、上手くいかなかったり、乱れたりすることが多く、丘の上から石が転がり落ちるようである。
 物事を完成させたり、天下国家を治めることは難しいことである。功を上げるのは、車を押して急な坂を登っていくようなものである。それゆえ、既済の内卦においては、勝っている状態から一転して敗れる状態に移行したり、治まっている状態から一転して乱れる状態に移行することを回避するために、今の状態を固く維持することを肝要とする。
 未済の内卦においては、物事を完成させることや天下国家を治めることは難しいことなので、未済の時から既済の時に移行するまで静かにじっと見守っていることを肝要とする。
 以上のことから、既済と未済の時においては、初爻と二爻は共に進み行くことを戒めており、「其(その)尾を濡らす」と云う同じ文章が用いられている。共に「其(その)尾を濡らす」と云う失態を演じることになるが、大事には至らず、戒めることによりそれ以上事態は悪化しないのである。すなわち、初九は自らを戒めることによって、希望を将来につなげることができたのである。
 初九は陽剛の性質を有して最下に在り、六四と応じている。最下と云う卑賤な地位に在るので前に進もうとはしないのである。六四に抜擢任用されようなどと云う野心は抱かない。川を渡る時に例えているのは、既済の済の字が水を渡ると云う意味があるので、その意味に従って文章を作ったのである。
 六四は険難の中に在るので、初九は力を尽くして六四を救おうとする。すなわち、車に乗って前に進もうとするが、後から尻尾を掴まれて進まないように曳き戻されるのである。狐が川を渡る時に尻尾が濡れると渡れないように、初九は六四のところに進み行くことができない。狐が川を渡ろうとして尻尾を濡らし渡ることができないように、進み行くことができない。気力が足りないのである。それゆえ、狐が尻尾を濡らす話に例えているのである。
 初九が気力に満ち溢れており、六四のもとに果敢に進み行こうとすれば、既済中の既済の時は、既済中の未済の時に移行する。しかし、結局は、狐が尻尾を濡らすように、後から尻尾を掴まれて曳き戻されるので、溺れることを回避できる。すなわち、何も問題は起こらないのである。
 既済の時は、それぞれが自分の役割を全うするために、安易に行動を起こさない。強引に行動を起こせば凶運を招き寄せる。
 象伝に「義、咎(とが)无(な)き也」とあるが、「義」とは、安易に行動を起こさないことである。安易に行動を起こさないから、問題が発生しないのであり、強引に行動を引き起こせば、凶運を招き寄せる。よって、初九は安易に行動を起こさないのである。
六二。婦喪其茀。勿逐。七日得。
象曰、七日得、以中道也。
○六二。婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ。逐(お)ふ勿(なか)れ。七(なぬ)日(か)にして得(う)。
○象に曰く、七(なぬ)日(か)にして得(う)とは、中(ちゆう)道(どう)を以(もつ)て也。
 「茀(ふつ)」とは、宝石をちりばめた女性用の首飾りである。五爻が夫の位ならば、二爻は妻の位である。上卦坎には「盗む」「喪(うしな)う」と云う形がある。下卦離は家族に例えれば中女であり、女性の形がある。それゆえ、六二を「婦」と云うのである。
 この爻辞は、上卦坎と下卦離の性質と二爻と五爻の関係から、二爻と五爻を夫婦と見なして、文章を作っている。
 六二の婦人は文明的で中庸の徳を具えて正しい地位に就いており、陽剛の性質で中庸の徳を具えて正しい地位に就いている夫と陰陽相応じている。しかし、三爻と四爻がその間に居て邪魔するので、お互いに逢うことができないのである。
 九五の夫は王さまの地位に居て、驕り高ぶるところがあるので、六二の妻に謙ることができない。妻を立てることができない。既済の時の在るべき人間関係に反しているのである。
 それゆえ、九五も六二も共に傷付く。以上のことから、九五も六二も優れた才能を持っていながら、それを活かすことができない。女性が大切な首飾りを失うことを恐れて外出しないようである。このことを「婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ」と言うのである。
 物事が失われるのは、既済の時の在るべき人間関係を怠ったからである。「婦(ふ)、其(その)茀(ふつ)を喪(うしな)ふ」とは、六二が九五と応じているが九五の下へは行くべきではないことの例えである。六二は性急に九五の下に行ってはならないと教えているのである。
 九五の夫は驕り高ぶる気持ちがあるので、六二の妻に謙ること、妻を立てることができない。六二の妻は九五の夫が自分を立ててくれないので、内助の功を発揮することができないのである。
 女性が大切な首飾りを失うことがあっても、やがては首飾りは見つかるように、現在の六二と九五の関係は良好ではないが、やがて時が至れば六二の妻と九五の夫は助け合うようになる。
 六二の妻は従順な性質で中庸の徳を具えている。性急に夫の元に行こうとせずに時が至るのを待つので、夫との関係はやがて良好になる。だから「逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得(う)」と言うのである。
 「得」は「喪」に対して用いている言葉であり、失われた人間関係が回復すると云う意味である。「七日」とは卦の時が一巡すると云う意味であり、震為雷の六二の爻辞にある「逐(お)ふ勿(なか)れ。七日にして得(え)ん」と同じ意味である。「逐(お)ふ勿(なか)れ」と云う言葉は重い。人間と云うものは、喜怒哀楽の感情で動いてしまうものなので、求める人に逢いたい気持ちを抑えることができない。「逐(お)ふ」とは、感情のままに行動することである。感情のままに行動すれば人間関係を損なう。それゆえ、感情のままに行動することを戒めているのである。
 象伝の「中道を以て也」とは、時が至るのを待って共に助け合うようになる理由を、六二と九五が共に中庸の徳を具えて、正しい地位に就いているからだと示しているのである。

九三。高宗伐鬼方。三年克之。小人勿用。
象曰、三年克之、憊也。
○九三。高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ。小人は用(もち)ふる勿(なか)れ。
○象に曰く、三年にして之に克(か)つとは、憊(つか)るる也。
 「高(こう)宗(そう)」は古代中国・殷王朝の中興の祖と称される「武(ぶ)丁(てい)」のこと。「鬼(き)方(ほう)」は遠方の地にある異民族のことである。
 九三は下卦の終わりに居て、既済中の既済から既済中の未済に移行しようとする時である。完成する時である既済といえども、やがて少しずつ衰え、遠方の地にある異民族が攻めてくることもある。九三はやり過ぎる性格と地位に在るので、異民族が攻めてくる前にこちらから攻めていこうとしかねない。
 陰陽五行の見方からは、下卦の火(離)は上卦の水(坎)にやっつけられる形になっている。既済と未済の卦は、離(火)と坎(水)の組み合わせとなっている。離は明智でもあるので、君子が明智で善き行いを尽くすことを物語っている。殷王朝の中興の祖と称される武(ぶ)丁(てい)に例えることができるので「高(こう)宗(そう)、鬼(き)方(ほう)を伐(う)つ。三年にして之に克(か)つ」と言うのである。
 三年にして之に克(か)つ」の「三年」は、「長い年月」である。長い年月かけてようやく成し遂げることができるので、割が合わないのである。中興の祖と云われる武(ぶ)丁(てい)だから、ようやく成し遂げることができたのである。さんざん苦労したのである。
 あらゆる物事が完成する既済の時において、小人を迂闊に任用すれば、安定している社会秩序を自ら壊すことになる。それゆえ「小人は用ふる勿れ」と言うのである。
 綻びが生ずるのは、いつも小人の言行からである。綻びはやがて動乱や反乱につながるので、武力を用いて抑えなければならなくなる。社会の秩序を保ち、民衆を安心させることができるのは名君だけである。小人を用いて、社会の秩序を壊せば、動乱や反乱を招き寄せて、民衆を苦しめることになる。
 象伝に「憊(つか)るる也」とあるが、「憊(つか)るる」とは苦労して疲労困憊することである。既済中の既済から既済中の未済に移行する時において、既済中の既済の状態を保つことの難しさは、殷王朝中興の祖である武丁にして、散々苦労したことを見れば明らかである。武丁は既済中の既済の状態を保とうとして長い年月をかけてようやく成し遂げたものの、割が合わなかったのである。だから。九三の如く小人にできることではない。災いを招き寄せて民衆を苦しめるのが関の山である。
六四。繻有衣袽。終日戒。
象曰、終日戒、有所疑也。
○六四。繻(ぬるる)に衣(い)袽(じよ)有り。終日戒(いまし)む。
○象に曰く、終日戒(いまし)むとは、疑う所有る也。
 「繻(ぬるる)」とは、これまで安定して航行していた舟の底に穴が開いて水が漏れ始めることである。「衣(い)袽(じよ)」とは、水が漏れるのを防ぐために古い衣服を用いて穴を塞ぐことである。昔は舟の底に穴が開いた時は、破れた衣服を用いて穴を塞いだのである。
 六四は既済中の既済の時から、既済中の未済の時に移行した段階。安定していた秩序が崩れ始める時である。舟の底に小さな穴が開いた程度なら古い衣服を用いて穴を塞げば、舟が転覆することはないが、既に秩序は乱れ始めている。六四は外卦坎の険難の始めに居るから、終日自らを戒めることが肝要である。
 水火既済には水を渡ると云う意味がある。六四は互体二三四の坎と上卦坎に挟まれており、舟が水難に次ぐ水難に遭遇している形である。それゆえ、舟の底に穴が開いたことに例えて、危険な状況を説明している。舟に乗って渡航する人は、予め舟が沈んだ時のことを想定して溺れないように備えておくものである。
 今、六四は既済中の未済の時に居て、互体二三四の坎と上卦坎の間に挟まれている。既済中の既済の時が終わり、既済中の未済の時が来たことを恐れ慎んでいる。穴が開いた舟で大海を渡るように、穴を古い衣服で塞いで舟が沈没しないようにしなければ、いつ舟が沈んでしまうかわからない。それゆえ「繻(ぬるる)に衣(い)袽(じよ)有り。終日戒む」と言うのである。
 六爻全てが陰陽定位を得て、これ以上望めないほど完全な状態である既済の時に在って、既済中の既済から既済中の未済の時に移行した今、常に舟が沈まないように備えなければならない。六四は王さまの側近として、既済中の既済から既済中の未済に移行した危うい状況に在ることを認識して天下を治めるべきである。このことを象伝で「疑う所有る也」と言う。
 舟に穴が開いて沈没するのではないかと疑って、常に古い衣服で穴を塞いで、舟が沈まないようにしなければならない。既済の時だからといって決して安心してはならないのである。

九五。東鄰殺牛、不如西鄰之禴祭、實受其福。
象曰、東鄰殺牛、不如西鄰之時也。實受其福、吉大來也。
○九五。東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して、實(じつ)に其(その)福(さいわい)を受くるに如(し)かず。
○象に曰く、東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の時なるに如(し)かざる也。實(じつ)に其(その)福(さいわい)を受くとは、吉大いに來(きた)る也。
 「東(とう)鄰(りん)」とは、九五の陽爻を指しており、「西(せい)鄰(りん)」とは、六二の陰爻を指している。東に陽の君主が居て、西に陰の臣下が居るのは、君臣の在るべき形である。
 九五の王さまは既済の時に在って、剛健中正の徳を具えて既済中の未済と云う険難の中に居る。既済の時の王さまで在りながらも、上卦坎の険難の主爻だから、心配事が絶えないのである。
 けれども、王さまの役割を全うすべく、何事にも畏れ慎み神仏を尊崇している。王さまとして、やるべきことをやり、足りないところは神仏にお願いするしかないのである。
 わが国・日本においては、伊勢神宮を始めとして、各地の神社に参拝して神仏のご加護を賜る。天下国家を治める者の王道である。天下泰平の時の王さまは、驕り高ぶり、神仏を尊崇する心を忘れる。為政者が陥りやすい落とし穴である。それゆえ、古(いにしえ)の教えは神仏を尊崇することを説くのである。
 今、既済中の既済の時は終わり、既済中の未済の時に至った。それゆえ、神仏を尊崇する心が大切である。神仏をお祀りするのは、真心と敬う心が何よりも大切である。真心と敬う心で神仏をお祀りするから、天下国家を治めることができる。神仏をお祀りする者は、虚飾を取り除かなければならない。このようであってこそ天命を全うすることができるのである。
 それゆえ、わが国においては、天照大神の末(まつ)裔(えい)であられる皇室が質素倹約を重んじている。これを「東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して、實(じつ)に其(その)福(ふく)を受くるに如(し)かず」と言うのである。真心があれば、神仏をお祀りするべきである。それゆえ、「西(せい)鄰(りん)の禴(やく)祭(さい)して」と言う。「西(せい)鄰(りん)」とは六二のことである。
 六二は真心があるので、中庸の徳を発揮して、最初は九五に疑われるが、最後は吉運を招き寄せることを示している。
 「禴(やく)祭(さい)」の「禴(やく)」は、質素と同じ意味なので、「禴(やく)祭(さい)」とは、質素なお祭りである。「東(とう)鄰(りん)に牛を殺す」の「東(とう)鄰(りん)」は九五のことで、「牛を殺す」とは、贅沢なお祭りである。
 小人は質素なお祭りよりも贅沢なお祭りをして、御利益を求めるものであるが、質素なお祭りを行って誠実さを貫けば、贅沢なお祭りよりも御利益を賜ることができる。
 困難なことを嫌い、無難なことを求めるのが、人間の感情だが、無難な時には幸福感を味わうことはできない。それゆえ、聖人は困難に立ち向かうのである。
 六二が誠実さを貫いて質素なお祭りを行うのは、九五が贅沢なお祭りを行うことと、その内容において劣らないのである。神仏を尊崇する気持ちは誠実さに現れるもので、お金をかければ尊崇すると云うことにはならない。贅沢なお祭りを行っても、神仏の御利益を賜るとは限らないのである。
 それゆえ、象伝に「東(とう)鄰(りん)に牛を殺すは、西(せい)鄰(りん)の時なるに如(し)かざる也」と言うのである。「實(じつ)に其(その)福(ふく)を受く」のは、誠実だから幸福を招き寄せるのである。
上六。濡其首。厲。
象曰、濡其首厲、何可久也。
○上六。其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)し。
○象に曰く、其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)しとは、何ぞ久しかる可(べ)けん也。
 「其(その)首(こうべ)を濡らす」のは、己を戒め慎むことを忘れるから、頭まで水に浸かってしまうのである。「厲(あやう)し」とは、凶運を招き寄せると云うことである。
 物事は盛んになれば衰え、治まれば乱れるものである。上六は既済の時の終わりに居て、未済に移行しようとしている。上卦坎の険難の極点で、大川を渡ろうとして、頭まで水に浸かってしまう。身を滅ぼすまでには至らないが危険である。
 治まっている時に乱れることに思いが至らないと危険を招き寄せる。健康であることに安心しきって病気にかかるようなものである。以上のことを「其(その)首(こうべ)を濡らす。厲(あやう)し」と言うのである。
 もはや完成の時は終わろうとしているのに、その自覚がないから、無謀にも大川を渡ろうとして頭まで水に浸かってしまうのである。尻尾が水に浸かる程度ならは、反省してやり直すこともできるが、頭まで水に浸かってしまえば、反省してもやり直すことはできない。このことを「何ぞ久しかる可(べ)けん也」と言うのである。

 

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