呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 334 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

62.雷山小過

□卦辞(彖辞)
小過、亨。利貞。可小事。不可大事。飛鳥遺之音。不宜上、宜下。大吉。
○小過は亨る。貞しきに利し。小事に可なり。大事に可ならず。飛(ひ)鳥(ちよう)、之(これ)が音(ね)を遺(のこ)す。上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し。大吉。
 小過は上卦震、下卦艮。震は雷、艮は山。山の上に雷が轟き渡る形である。雷は天から大地に向かって発する雷電エネルギー。震い動く性質で、万物の生成発展を奮い立たせる自然現象である。
 今は、山の上で雷鳴を轟き渡らせているので、万物を生成発展を奮い立たせる力はない。そこで、この卦を小過と名付けた。
 また、陽爻を大きなもの、陰爻を小さなものとした場合、陽爻が二つ陰爻が四つであり、しかも中庸の徳を具えている二爻と五爻が陰爻なので、小さなものが過ぎている形である。
 また、主人は二陽、賓客は四陰と云う形。賓客が主人よりも過ぎている形である。また、艮は止まり、震は動く、止まったり、動いたりしている。止まり過ぎることもなく、動き過ぎることもなく、少しく過ぎる程度の形である。以上のことから、小過とは小さなものが過ぎると云う意味である。
 この卦を人間社会に当て嵌めれば、内卦の自分は山の性質を具えているから動かない。篤実な性格で静粛さを保ち、守るべき事をきちんと守る。外卦の相手は雷鳴の性質を具えているから積極的に動いて物事を推進させる。そのため、自分は相手を軽率に動き過ぎると捉え、相手は自分を頑固だと捉える。
 お互い志が噛み合わず、行動が一致しない。一方は止まることに過ぎて、一方は動くことに過ぎる。論語に「過ぎたるは、猶(な)お、及ばざるが如し」とあるが、止まることに過ぎても、動くことに過ぎても、中庸を欠くことになる。
 止まることに過ぎている位置と動くことに過ぎている位置の両端を計ると、随分と開きがある。中庸に「知者は之に過ぎ、愚者は及ばず。賢者は之に過ぎ、不肖者は及ばず」とあるが、「過ぎたる」状態で中庸を欠いているよりも、「及ばない」状態で中庸を欠いていることの方が問題は大きいのである。
 「及ばない」状態は暗愚であり不肖である。だから、易に「大過」と「小過」と云う卦名はあるが、「不及」や「不足」と云う卦名はない。時運の盛衰により、少し過ぎたることが、時に適合することもある。だから、大象伝に「行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ」とあり、「小過は亨(とお)る。貞しきに利し」と言うのである。少し過ぎたることが、時に適合するのは、「貞しきに利し」と云う前提条件が付いている。
 この卦は上卦と下卦を合わせると大きな坎の形になる。下卦の自分も上卦の相手も困難に陥っている。小過の時は規則やルールに基づいて物事に取り組むべきであり、大事業を成し遂げようとしてはならない。もし、大事業に取り組もうとすれば事を誤る。それゆえ「小事に可なり。大事に可ならず」と言うのである。
 軽率に妄動して事を誤るよりも、何事も慎重に自制して過ちを犯さないようにすべきである。
 この卦は「飛ぶ鳥」の形をしているので、「飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す」と言う。鳴き声が聞こえる範囲までは行き過ぎてもよい。鳴き声が聞こえなくなるまで行き過ぎるのは、やり過ぎである。
 「上るに宜しからず、下るに宜し」の「上る」「下る」とは、鳥が上ったり下ったりすることである。人間に当て嵌めれば、「上る」は傲慢不遜であり、「下る」は謙譲謙遜である。傲慢不遜は悪徳に通ずる道であり、謙譲謙遜は人徳を磨く道である。それゆえ「上るに宜しからず、下るに宜し。大吉」と言うのである。

□彖伝
彖曰、小過、小者過而亨也。過以利貞、與時行也。柔得中。是以小事吉也。剛失位而不中。是以不可大事也。有飛鳥之象焉。飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉、上逆而下順也。
○彖に曰く、小過は小なる者過ぎて亨る也。過ぎて以て貞しきに利しとは、時と與(とも)に行ふ也。柔、中を得(う)。是(ここ)を以て小事は吉なる也。剛、位を失ひて中ならず。是を以て大事に可ならざる也。飛(ひ)鳥(ちよう)の象有り。飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す、上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し、大吉とは、上るは逆にして下るは順なれば也。
 この卦は上卦と下卦を合わせて陰爻が四つある。小人が主導権を握っている形である。けれども、六二と六五が中庸の徳を具えているので、「小過は小なる者過ぎて亨(とお)る也」と言うのである。
 「過ぎて以て貞しきに利しとは、時と與(とも)に行ふ也」とは、小過の時でも、君主の地位と忠臣の地位が無くなるはずがないと云う意味なので、「柔、中を得。是を以て小事は吉なる也。剛、位を失ひて中ならず。是を以て大事に可ならざる也」と言うのである。
 この卦の中央に在る九三と九四の陽爻は鳥の胴体に中り、初六・六二・六五・上六の四つの陰爻は鳥の翼に中る。それゆえ「飛鳥の象有り。飛鳥、之が音(ね)を遺(のこ)す」と言うのである。
 鳥は天から大地に降りてきて住み家(鳥の巣)を作り、大地にある山川草木や農耕による農産物などを取って食べる。鳥の翼は鳥が休息するためにあるのではない。生きるために移動したり害から避けて身を守るためにある。翼があるから安心できるわけではない。翼は鳥の胴体を守るための道具である。
 鳥の意志に反して翼が動き、それに胴体が従うのではない。鳥の意志を見ることや聴くことはできないが、翼が羽ばたく音は聴くことができる。翼は遠くまで移動するための能力を有している。鳥が大空を飛んでいる時は休息することはできない。遠くまで飛翔すればするほど、胴体は疲労する。胴体が安んずることができるのは翼が休んでいる時である。
 鳥が無闇に翼を動かすことを人間に例えると、軽率な人間が欲望の赴くままに妄想して、身の丈に合わない事業を計画し、遂には目的を見失って、災難を招き寄せるようなものである。だから、上るときは天命に逆らい、下るときは天命に順うと解釈する。このことを「上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し、大吉とは、上るは逆にして下るは順なれば也」と言うのである。
 以上のようであるから、上るか下るかの進退決定は、吉運を招き寄せるか、凶運を招き寄せるかの分かれ目であり、闇雲に上下進退を決定してはならないのである。
 上卦震の長男は、下卦艮の少男の上で動いている。互体三四五兌は喜ぶ性質を有している。まるで男色のようである。
 三爻は下卦艮の主爻だから何事に対しても止まることができる。すなわち篤実な性格と見ることができる。しかし、篤実であることから、人に依頼されると拒絶することができずに、相手に騙されて身を過つこともある。

□大象伝
象曰、山上有雷、小過。君子以行過乎恭、喪過乎哀、用過乎儉。
○象に曰く、山の上に雷(かみなり)有るは、小過なり。君子以て行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ。
 雷山小過は、上卦震の雷が進んで止まらないのに対して、下卦艮の山は止まって動かない。すなわち、上卦と下卦の志が噛み合わずに行き違いが生ずるので「小過」と名付けたのである。
 正しい地位に就き、中庸の徳を具えている人物を君子と称するが、世の中には清濁があり、物事には通ずる時と塞がる時がある。それゆえ、往々にして「ちょっとやり過ぎる(中庸の徳をちょっと超える)」ことで、物事が通じる時がある。
 「ちょっとやり過ぎる」時に適合するためには、君子は大事業を成し遂げようなどと考えてはならない。「ちょっとやり過ぎる」時に大事業を成し遂げられないのはやむを得ないことである。何事も「ちょっとやり過ぎる」程度に抑制すべきである。
 喪においては「ちょっと悲しみ過ぎる程度」に抑制し、日々の生活は「ちょっと節約過ぎる程度」に抑制する。けれども、「ちょっと過ぎる程度」を超えてはならない。
 喪においては軽率であってはならない。日々の生活は傲慢であってはならない。それゆえ、「君子以て行いは恭(うやうや)しきに過ぎ、喪は哀しみに過ぎ、用は儉(けん)に過ぐ」と言うのである。
 何事も「ちょっとやり過ぎる」程度に抑制するのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。飛鳥、以凶。
象曰、飛鳥以凶、不可如何也。
○初六。飛(ひ)鳥(ちよう)、以(もつ)て凶。
○象に曰く、飛鳥、以て凶とは、如(いか)何(ん)ともす可(べ)からざる也。
 「以(もつ)て凶」の「以(もつ)て」とは、春(しゆん)秋(じゆう)の「凡(およ)そ師(し)能(よ)く之を左右に以(もつ)て曰(い)う」の「以(もつ)て」と同じ用い方である。
 「飛(ひ)鳥(ちよう)、以(もつ)て凶」とは、左の方に進もうと欲し、あるいは、右の方に進もうと欲するけれども、どうすることもできないので凶運を招き寄せると云う意味である。
 この卦の全体像は飛ぶ鳥の形をしている。真ん中に在る三爻と四爻が鳥の胴体であり、両端に在る初爻と二爻、上爻と五爻は鳥の翼である。初爻と上爻は翼の先端である。
 鳥は翼を羽ばたかせて飛ぶから、その先端にあたる初爻と上爻に「飛(ひ)鳥(ちよう)」と云う言葉を使っているのである。
 初六は下卦艮山の一番下に在る。陰気で柔弱で中庸の徳も具えておらず地位も正しくない。このような人物にどうして大事なことを任せることができようか。
 だが、九四と陰陽応じる関係にある。すなわち、一番下に居ながら上に居る九四の力を借りて分不相応な出世を謀る侫人である。ずる賢い小人が時を得て羽ばたこうとしているのである。
 その一方で、小過は鳥が大空に飛び立とうとしている姿である。大空から人間社会を眺めている形でもある。
 けれども、初六は小過の始めに居て、陰柔不中正でありながら、自分の身の丈を考えずに大空に飛翔しようとする。どうがんばっても実現することはできないのである。
 だが、初六は九四の力を借りて分不相応な出世を謀る侫人なので、大空に飛翔しようとする気持ちを抑制することができない。
 本来ならば下卦艮に属しているので静かに止まるべきだが、初六はそれができない侫人である。
 九四は王さまの側近として絶大な権力を有しているので、初六は九四の力を借りて分不相応な出世を謀ろうとしている。
 実力の無い小鳥が邪心を抱いて大空に飛翔すれば、あっという間に力が尽きて墜落する。自ら招いた凶運である。それゆえ「飛鳥、以て凶」と言うのである。
 象伝に「如(いか)何(ん)ともす可(べ)からざる也」とあるのは、力の無い鳥が天空まで飛んでいけば、帰って来ることもできないし、飛んでいってしまった以上、それを止めることもできないと云うことである。
 すなわち、初六は何をどうすることもできないのである。佞人が身の丈を考えずに九四の力を借りて、分不相応な出世を謀り、凶運を招き寄せたのである。自業自得である。

六二。過其祖、遇其妣。不及其君、遇其臣。无咎。
象曰、不及其君、臣不可過也。
○六二。其(その)祖(そ)を過ぎ、其(その)妣(ひ)に遇(あ)ふ。其(その)君に及ばず、其(その)臣に遇ふ。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)君に及ばず、臣は過(す)ぐ可(べ)からざる也。
 易経の例えとして、陰陽相応ずる場合は、君臣、夫婦など結び付きが深い関係とする。陰陽相応じない場合は、父子、友人、妻妾、嫁姑など同じタイプ(同類)の関係とする。
 また、五爻は父母の位、祖父・祖母の位とする。陽爻は父・祖父であり、陰爻は母・祖母である。五爻を父母とすれば二爻は子である。五爻を祖父祖母とすれば二爻は孫である。また、五爻を君主とすれば、二爻は臣下である。
 この卦は二爻五爻共に陰爻ゆえ相応じない。祖母と母(陰と陰)の関係であり、君臣(陽と陰)の関係ではない。それゆえ五爻は君ではなく祖母(妣(ひ))なので、君主には逢えないと解釈する。
 六二は柔順中正の賢臣なので、謙遜謙譲の徳を具えて、臣下としての役割を全うする。だが、何事も「和らぎ悦ぶ」だけでは大きな利益を得ることはできないのである。
 卦辞・彖辞の「小事に可なり。大事に可ならず。上(のぼ)るに宜しからず、下るに宜し」とは、そのことを意味している。だから、六二は君主に逢うことを求めず、陽剛の人(九三と思われる)に逢って、自分の志を実現すべきである。そうすれば、互いに助け合って小さな利益を得ることができる。災難には巻き込まれない。
 過ぎるべき時には過ぎ、及んではならない時に及ばないのは、中庸の徳を発揮することである。偏りがないことである。
 六二は柔順中正の徳を具えて六五に逢う。このことを「其(その)祖(そ)を過ぎ、其(その)妣(ひ)に遇ふ」と言う。「祖(そ)」とは九四、「妣(ひ)」とは六五のことである。九四の「祖(そ)」とは、陽剛の大きな道と云う例えであり、六五の「妣(ひ)」とは、柔順な小枝の例えである。
 六二と六五は陰同士で応じない関係なので、六二は陰陽比している九三(陽剛の人)と逢うべきである。そうであれば、陰陽助け合って災難を招き寄せることはない。以上のことから「其(その)君に及ばず。其(その)臣に遇(あ)ふ。咎(とが)无(な)し」と言うのである。

九三。弗過、防之。從或戕之、凶。
象曰、從或戕之、凶如何也。
○九三。過ぎず、之を防ぐ。從って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶。
○象に曰く、從って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶如(いか)何(ん)せん也。
 「戕(そこな)はば」とは、「殺される」と云う意味である。九三は互体二三四兌に属する。兌には毀損する、毀(こわ)れると云う意味がある。
 九三はやり過ぎる性質で下卦の一番上に居る。陽爻陽位で正しい地位に在るが、陰爻の害悪を被(こうむ)りかねない。九三はそのことに全く気付いていない。しかも九三は上六の侫(ねい)人(じん)と陰陽相応じる関係にある。九三は侫人上六との関係を拒むべきである。しかし、九三は上六に逢うために上っていこうとするのである。
 九四もまた陽剛ゆえ動こうとする。九三が止まれば下卦艮の主爻としての役割を全うするが、上六に逢うために上っていこうとする。止まることが順当で、上っていくのは反逆である。今は非常時ではないので、侫人上六に逢うべきではない。
 しかも、今は陰爻が陽爻よりも「過ぎたる」状態なので、陰爻に近付いてはならない。九三は上六に逢うために上(のぼ)っていってはならないのである。このことを「過ぎず、之を防ぐ」と言う。
 上六に逢ってはならない時に、九三が上六に逢うために上(のぼ)っていけば、侫人上六は必ず君子九三に害悪を及ぼす。甚だしい場合は殺害されるかもしれない。それゆえ「從(したが)って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶」と言うのである。「或(あるい)は」とは、「場合によっては」「甚だしい場合には」と云う意味である。
 九三が侫人上六から自分を守るためには、自分を正しく律することが肝要である。九三が自分を正しく律することができれば凶運を招き寄せることはない。侫人上六に逢いに行かなければ九三は凶運を免れるのである。
 「從(したが)って或(あるい)は之を戕(そこな)はば、凶」とは、もし間違えを犯せば(侫人上六に逢うために上っていけば)、最悪の場合殺害されるような凶運を招き寄せることになると云うことである。
 象伝に「凶(きよう)如(いか)何(ん)せん也」とあるのは、「自分が凶運を招き寄せたのだから、どうにもならない」と云うことである。「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時においては、九三が上六に逢いに行くことは「過ぎたる」ことなのである。
 本来ならば小人は君子に対して害悪を及ぼすことは難しい。小人は君子の威厳を恐れるからである。しかし、九三は自ら侫人上六に逢いたいと思って、自発的に上っていき、上六のことを全く疑わないのである。それゆえ、上六の害悪は九三に及ぶのである。最悪の場合は「殺害される」かもしれない。しかし、自業自得であるから、「凶(きよう)如(いか)何(ん)せん也」と言うのである。

九四。无咎。弗過、遇之。往厲。必戒。勿用。永貞。
象曰、不過遇之、位不當也。往厲必戒。終不可長也。
○九四。咎(とが)无(な)し。過ぎず、之(これ)に遇(あ)ふ。往けば厲(あやう)し。必ず戒めよ。用ふる勿(なか)れ。永く貞(てい)なれ。
○象に曰く、過ぎず之(これ)に遇(あ)ふとは、位(くらい)、當(あた)らざる也。往けば厲(あやう)し。必ず戒めよとは、終に長かる可(べ)からざる也。
 九四は「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時において、陽剛の人徳と動く性質を有し、六五の王さまと陰陽相比している。それゆえ「咎(とが)无(な)し。過ぎず、之(これ)に遇(あ)ふ」と言うのである。「遇ふ」とは自らの意志ではなく、偶然に出逢うことである。
 「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時において、「上る」ことは「程よく過ぎたる」ことを「過ぎたる」ことになる。「下る」ことが宜しい時なので、九四のように動く性質を有していることは宜しくない。それゆえ「往けば厲(あやう)し。必ず戒めよ」と言うのである。卦辞・彖辞に「上るに宜しからず、下るに宜し」と、妄動することを戒めているのと同じである。
 この卦は四陰二陽である。陰爻が陽爻を覆っている時なので、大きく行き過ぎることはないはずだが、柔順な性質を引っ込めて、剛毅な性質を表に出し、傲慢に振る舞えば、危うい立場に置かれて、凶運を招き寄せかねない。そのようになることを戒めて「用ふる勿(なか)れ」と言うのである。剛毅な性質を表に出して傲慢に振る舞うことを戒めた上で、終身そのようなことがないように正しい道を固く守りなさいと釘を刺しているのである。そのことを「用ふる勿(なか)れ。永く貞なれ」と言うのである。
 象伝に「位(くらい)、當(あた)らざる也」とあるのは、九四が陽爻陰位で正しい地位に就いていないことが、逆に「程よく過ぎたることを善しとする」小過の時に適合していると判断している。それゆえ「過ぎず之(これ)に遇(あ)ふとは、位(くらい)、當(あた)らざる也」と言うのである。
 これは褒め言葉なのである。雷天大壮の六五の象伝の言葉「羊を易(さかい)に喪(うしな)うとは、位当たらざれば也/六五は君主なのに賢臣に順って後悔しないのは、君主にして柔順だからである」と全く同じ意味で用いられているのである。

六五。密雲、不雨、自我西郊。公弋取彼在穴。
象曰、密雲不雨、已上也。
○六五。密雲、雨ふらず、我が西(せい)郊(こう)よりす。公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る。
○象に曰く、密雲、雨ふらずとは、已(はなはだ)だ上(のぼ)れば也。
 「密雲、雨ふらず」は、風天小畜の卦辞・彖辞と同じで、大きな事業を成し遂げることはできないと云うことである。卦辞・彖辞にある「大事に可ならず」と同義である。
 六五は柔弱な性質で君主の地位に居て、陰に過ぎたる小過の時に中っている。以上のことから、天下国家は非常事態に突入する。それゆえ「密雲、雨ふらず」と言うのである。
 「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」の「弋(よく)して」とは、糸を矢に繋いで鳥を狩猟することである。易経でよく用いられる比喩として、大きなものは「田」に例え、より大きなものを「狩り(狩猟)」に例える。また、小さなものは「弋(よく)」に例える。 陰陽の相互作用はお互いに相和して応じ合ってから後に雨が降ってくる。小過は陰陽相和して応じ合う関係に至らないので「密雲、雨ふらず」と言う。
 風天小畜の場合は、柔よく剛を制するので雨が降らない。小過は、雷が山の上に在って雲の位置が高いから雨が降らない。陰陽の相互作用は、お互いに相手の様子を探って後に和合して相応ずる。過ぎても及ばなくても相応じないのである。
 六五の王さまは雲のように上に在り、六二の忠臣は山の下に在る。上下隔絶して意志が通じ合わないのである。それゆえ「密雲、雨ふらず」と云い、六二と六五の仁徳は天下に遍く行き渡らないことを示している。けれども、終には雨を降らせる勢いも秘めているので、「我が西郊よりす」と言うのである。「穴に在る」とは、下に居る六二の忠臣を指している。
 六五は柔順にして中庸の徳を具えており、中庸の徳と正しい地位を得ている六二の忠臣と応じ合う位置関係にあるが、陰爻同士なので君臣相和することが難しい。六五の王さまが目線を下げて六二の忠臣と相和することができれば、君臣和合して密雲雨となり、天下国家に遍く行き渡らせることも不可能ではない。それゆえ「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」と言うのである。
 「公」とは六五のことである。「弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、六二の忠臣を鳥に例えたのであり、六五の王さまが六二の忠臣を手に入れると云うことである。
 小人の勢力が盛んな時には、賢者は山林のような人里離れた所に遁れる。また「弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、卦辞・彖辞の「下るに宜し」と同義である。
 大事業が成し遂げられる時には、君主のことを「王」と例えるが、小事業しか成し遂げられない時には「公」と例える。六五は「小事は可」だが、「大事は不可」であるから、「王」とは称さずに「公」と称する。「公(こう)、弋(よく)して彼(か)の穴に在るを取る」とは、六五が目線を下げて六二と和合すべきことを教えているのである。
 象伝に「已(はなは)だ上(のぼ)れば也」とあるのは、密雲が雨とならずに、遍く民衆に行き渡らないのは、王さまである六五の目線が、忠臣である六二の目線よりも高いところにあることを戒めている。もっと目線を下げて忠臣と和合しなさいと諭しているのである。

上六。弗遇、過之。飛鳥離之。凶。是謂災眚。
象曰、弗遇過之、已亢也。
○上六。遇(あ)はず、之を過ぐ。飛(ひ)鳥(ちよう)、之に離(かか)る。凶。是を災(さい)眚(せい)と謂ふ。
○象に曰く、遇(あ)はず之を過ぐとは、已(はなは)だ亢(たかぶ)る也。
 この卦は、陽爻が二つ、陰爻が四つと、陰爻が過ぎたる形をしている。その陰爻が過ぎたる時に上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、しかも卦極に居る。陰の過ぎたる状態が甚だしい存在である。九三と九四の陽爻の爻辞「遇わず、之を過ぐ」は、上六の爻辞と全く同じだが、その意味は全く異なる。
 上六は陰に過ぎて正しい道を歩むことができない。過ぎたることが甚だしい存在だから「遇わず、之を過ぐ」と言うのである。「遇わず、之を過ぐ」の「之」とは、「正しい道」のことである。
 上六は飛(ひ)鳥(ちよう)の翼の先端にあたるので、初六と同じ「飛鳥」と云う言葉が用いられている。だが、初六とは異なり、卦極に居るので、動き過ぎて止まることを知らないのである。
 柔弱な小人が調子に乗り妄動して高ぶる(亢ぶる)のである。傲慢不遜な輩(やから)である。飛鳥が大空に飛翔したところ、予測していなかった災害に遭遇し、網にかかって捕らえられてしまう。凶運を招き寄せることは疑う余地もない。以上を「之を過ぐ。飛鳥、之に離(かか)る。凶」と言うのである。
 「凶」とは、天災や人災を次々に招き寄せることである。それゆえ「是を災(さい)眚(せい)と謂う」とある。「天災」を「災(さい)」、「人災」を「眚(せい)」と言うのである。小人は「人災(眚)」を招き寄せる。驕り高ぶり(亢ぶり)傲慢に過ぎるので、凶運を招き寄せる。天の道から大きく外れて人間としての情理を忘れるのである。これが飛鳥であれば、網にかかって捕らえられ、人であれば、ありとあらゆる天災と人災を次から次へと招き寄せるのである。
 だから、「之に離(かか)る」と言うのである。ありとあらゆる天災と人災を招き寄せることを「之に離(かか)る」と表現したのである。「離」は「羅」と同じ意味である。凶運を招き寄せることを知りながら、凶運から逃れることができないよりも、最初から凶運を招き寄せないように、慎み戒めることが望ましい。上六が陽爻に変ずれば上卦は離となる。それゆえ離の文字を用いているのである。
 象伝に「已(はなは)だ亢(たかぶ)る也」とある。「亢」とは過ぎること。上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、しかも卦極に居る。陰の過ぎたる状態が甚だしいことを責めているのである。

 

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