呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 333 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

61.風沢中孚

□卦辞(彖辞)
中孚、豚魚吉。利渉大川。利貞。
○中(ちゆう)孚(ふ)は、豚(とん)魚(ぎよ)吉。大川を渉(わた)るに利し。貞しきに利し。
 中孚は上卦巽、下卦兌。巽は風、兌は沢である。沢の上に風が吹いている形である。沢は水を貯めておく凹(くぼ)地で、もっとも大きな沢は海である。風は空気が時にはゆったり時には激しく移動する現象である。沢の上に風が吹けば、風は沢の水気を含んで雲となり、雲からは雨が降って空気を清浄にする。
 最も大きな沢である海上に風が吹けば波となる。沢の働きは風を助け、風の働きは沢を助けている。沢も風も助け合っている。しかも、沢と風が交わる時には、お互いの性質を尊重して、その性質を損ねることなく、親しみ合い、信じ合って、お互いに従う。これが、「中孚」の名前の由来である。
 「中孚」の「孚」の字は、爪と子から成っている。親鳥が雛が卵から孵化する瞬間を、卵の上に爪を当てて、雛が嘴(くちばし)で叩く瞬間を、愛情を込めて、じっと待っている。この親鳥と雛の関係が「孚」である。お互いに信頼し合っているから成り立つ関係である。常に思いやりの気持ちを忘れないのである。
 「孚」は相手を信頼する純粋な心。相手を信頼することは良いことである。「孚」も「信」も共に「誠」と云う意味だが、中庸の徳で(真っ直ぐな気持ちで)相手に接することを「孚」と言い、相手を思いやる行為を「信」と言うのである。
 この卦は、中庸の徳で相手に接することを要する。上爻と五爻の陽爻、二爻と初爻の陽爻が、四爻と三爻の陰爻を挟んで、大きな離の形をしている。四爻と三爻の陰爻が、己を虚しくして、中庸の徳で相手に接している(真心・至誠の心を尽くしている)。二爻と五爻が共に剛健の性質で中庸の徳を具えている。己を強く鍛えて、中庸の徳を発揮しているのである。
 二爻と五爻の「真心(至誠の心)」は剛健であり、三爻と四爻の「真心(至誠の心)」は柔順である。それゆえ、「真心(至誠の心)」にして「明徳」であり、「明徳」にして「真心(至誠の心)」である。すなわち、「真心(至誠の心)」と「明徳」で相手に接することを「中孚」と言うのである。

□彖伝
彖曰、中孚、柔在内而剛得中、説而巽、孚乃化邦也。豚魚吉、信及豚魚也。利渉大川、乘木舟虚也。中孚以利貞、乃應乎天也。
○彖に曰く、中孚は、柔、内に在りて、剛、中を得、説(よろこ)びて巽(したが)ひ、孚(まこと)あり、乃(すなわ)ち邦(くに)を化する也。豚(とん)魚(ぎよ)吉とは、信、豚(とん)魚(ぎよ)に及ぶ也。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、木に乘りて舟虚(きよ)なる也。中孚にして以(もつ)て貞(ただ)しきに利(よろ)しとは、乃(すなわ)ち天に應(おう)ずる也。
 中孚とは、真心に溢れて、中庸の徳で実行することを云う。単なる卦名ではない。真心を大切にして、中庸の徳を発揮するのである。全体の形を見れば、大きな離の形である。心の中に明智と明徳を具えている。心は離の火の中にあり、離の主爻である。己を虚しくして人を思いやるから真心が芽生えるのだ。
 卦の形は上卦巽と下卦兌が向かい合っている。巽順な性質を具えた巽が上に、悦ぶ性質を具えた兌が下に在る。
 この形を人間関係に当て嵌めれば、自分と相手の志が相通じる形である。自分が兌の口で相手を口説けば、相手は巽順な性質で自分の意見に従ってくれる。また、自分が喜ぶ時は相手も喜んでくれる形でもある。
 この形を百八十度ひっくり返しても同じ形になるので、相手が自分を口説けば、自分は巽純な性質で相手の意見に従い、相手が喜ぶ時は自分もまた喜ぶ。すなわち、自分と相手が真心で信頼し合っているから、お互い和合する。大きく解釈すれば、お互い真心で信頼し合っているから、国家も一体化するのである。このことを「中孚は、柔、内に在りて、剛、中を得、説(よろこ)びて巽(したが)ひ、孚(まこと)あり。乃ち邦を化する也」と言うのである。
 「中を得」の「中」とは、二爻と五爻が共に中庸の徳と剛健の性質を具えていることを云うのである。すなわち、「中孚」は二爻と五爻に支えられている。卦全体から見れば己を虚しくして至誠を尽くすので中虚である。上卦と下卦に分けて見れば、それぞれ二爻と五爻が真ん中に在るので中実である。
 中虚は信頼関係の本質、中実は信頼関係の内容である。遯(とん)魚(ぎよ)は豚と魚であるが、共に無知なので、感動させることは難しい。しかし、真心と信頼関係に満ち溢れていれば、遯魚をも感動させることができる。遯魚を感動させることができれば、間違いなく人間を感動させることができるのである。
 論語に「言(げん)忠信行い篤(とつ)敬(けい)なれば蛮(ばん)狛(ぱく)の邦(くに)と雖(いえど)も行わる矣(や)」とあるように、何処に行っても、大衆と和合しないことはない。大衆と和合すれば、事を成し遂げ志を実現することができる。そのことを「豚魚吉とは、信(しん)豚魚に及ぶ也」と言うのである。
 上卦巽は木、下卦兌は大川である。巽の木が沢の水の上に浮かんでいる。しかも、四つの陽爻が外に在り、二つの陰爻が内に在る。それゆえ「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」と言うのである。
 舟が中虚なら、沈没する心配はない。舟が中虚とは無心の例えである。大川は険難の例えである。険難を乗り越えることができるのは、無心だからである。
 この卦は中虚なので「中孚」と云う。けれども、「中孚にして以て貞しきに利し」と戒めているのは、中虚に正と不正があるからである。朋友にも善悪ある。正しいことに至誠を尽くせば、吉運を招き寄せて、善い結果となる。しかし、正しくないことに至誠を尽くせば、凶運を招き寄せて、悪い結果となるのである。
 例えば、盗賊が群れを成して悪人を集めて私利私欲を肥やすようなものである。これは偽りの至誠だから、お天道さまに顔向けできない。一緒に活動する人々が善人か悪人かを見極めて、活動する事業の内容が正しいか間違っているかを、判断しなければならない。至誠の気運に乗っても、一緒に活動する人や事業内容を見極めないと、騙されることになりかねない。天の道を全うしなければならないのである。
 以上を「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し、木に乘りて舟虚(きよ)なる也。中孚にして以(もつ)て貞(ただ)しきに利(よろ)しとは、乃(すなわ)ち天に應(おう)ずる也」と言うのである。

□大象伝
象曰、澤上有風、中孚。君子以議獄緩死。
○象に曰く、澤の上に風有るは、中孚なり。君子以(もつ)て獄(ごく)を議(ぎ)し死を緩(ゆる)やかにす。
 上卦巽は風であり、命令でもある。風は形がなく、万物を動かすものである。至誠の心にも形はなく、天地を動かし、神仏を感動させる。また、命令は国の政令である。下卦兌は民衆であり、口舌の徒である。民衆が政府に何かを訴える時は、政府は訴えをよく聞いて、その内容を反映させた政令を発布して、民衆の支持を得る。
 訴えをよく聞けるのは至誠の心である。孔子は「情无(な)き者は其の辭(ことば)を盡(つく)すを得ず/情のない人は、その言葉を実現することができない」と言っている。だから、人の上に立つ者は、下々の事情をよく察して、その不満を少なくするような方法を考えるべきである。
 悪事を裁く場合は、至誠の心で関係者に納得してもらえるように図り、刑罰は寛大にすべきである。刑罰を寛大にすることは、罪を犯した人が反省してやり直す機会を与えることである。
 この卦は、大きな「離」であり「文明」の形をしているが、下卦兌には「毀損」の形があるので、まずは、悪事を裁く場合の、刑罰に関して考えることにする。
 君子の徳は風、小人の徳は波である。風が東に向かって吹けば、波も東になびくし、風が西に向かって吹けば、波も西になびく。東西南北同じである。王さまの徳は民衆から帰服されていることが求められる。民衆から帰服されているから、刑罰を執行することができるのである。
 刑罰のやり方は、互体二三四の震の雷動のように、乱暴に刑罰を執行せず、下卦兌の民衆の声をよく聞いてから、刑罰の内容を考え、上卦巽の仁愛と大離の文明の心で刑罰を寛大にして、罪を犯した人がよく反省してやり直す機会を与えることが肝要である。
 上卦巽には風のように巽順に従う心がある。それゆえ、雛や小鳥に例え、遯魚に例えている。以上のことから、君子たる者、相手を傷付けることを恐れて、悪事を働いた人を刑罰に処する場合であっても、なぜ、そのような悪事に至ったかを熟慮して、情状酌量の余地がある場合は、刑罰を寛大にする。それゆえ「君子以て獄(ごく)を議(ぎ)し死を緩(ゆる)やかにす」と言うのである。
 君子が悪事を働いた人の刑罰を寛大にするのは、どんな人間にも至誠の心があることを信じているからである。中孚は、どんな人間にも至誠の心があることを信じる時である。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。虞吉。有他不燕。
象曰、初九虞吉、志未變也。
○初九。虞(おもんばか)れば吉。他有れば燕(やす)からず。
○象に曰く、初九虞(おもんばか)れば吉とは、志未だ變(へん)ぜざる也。
 「虞(おもんばか)れば吉」の「虞」とは、虞(ぐ)人(じん)の「虞」であり、虞(ぐ)人(じん)とは、狩猟の際に山林の道案内をする役人である。初九は下卦兌(沢)の始めに居て、時を楽しんでいる。楽しんでいるから安んじており、吉運を招き寄せるのである。
 「他有れば」とは、楽しみ安んじている状態が変化することである。「燕(やす)からず」とは、恐れていることである。
 初九は至誠を尽くす中孚の時の始めに居り、陽爻陽位で正位を得て、応ずるべき相手六四に応じている。六四を心から信頼しているのである。だが六四は九五に比しており、初九を相手にしてくれないので、初九は心安んずることができない。
 だからといって、初九は六四を怨んではならない。六四を怨めば、心が乱れて至誠を尽くすことはできない。天命に反することになる。吉運を招き寄せるどころか、凶運を招き寄せることになる。
 初九は六四と応じているから、時を楽しみ安んずることができる。それゆえ「虞(おもんばか)れば吉。他有れば燕(やす)からず」と言う。「虞(おもんばか)れば吉」とは、今、この時を楽しみ安んずることができれば、どんな時でも楽しみ安んずることができると云うことである。母鳥が卵を温めて雛鳥を孵化する気持ちと同じである。初九は母鳥の愛情で雛鳥が孵化して、飛び立つように、人は今与えられた状況を楽しみ安んじて、与えられた役割を全うすべきである。
 象伝に「志未だ變(へん)ぜざる也」とあるのは、志を立てた以上、絶対に志を忘れてはならないと云うことである。すなわち、初九は六四に応じる志を絶対に変じてはならないのである。

九二。鳴鶴在陰。其子和之。我有好爵、吾爾靡之。
象曰、其子和之、中心願也。
○九二。鳴(めい)鶴(かく)、陰に在り。其(その)子、之(これ)に和す。我(われ)、好(こう)爵(しやく)有り、吾、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん。
○象に曰く、其(その)子、之に和すとは、中(ちゆう)心(しん)願ふ也。
 「之(これ)を靡(とも)にせん」の「靡(とも)」とは、志を同じくして和合一致することである。礼(らい)記(き)に「相観て而(しか)して善き之(これ)を摩(ま)と謂う/同志だから、相応じて善き人となる」とある。「我、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん」とは、自分と相手が同じ志を抱いて和合一致することである。
 「鳴(めい)鶴(かく)」の「鶴」とは、湖に集う鶴のこと。その姿は優雅で美しく、至誠の心を現している。下卦兌を鶴の鳴き声とする。
 この卦は下卦の兌と上卦の転倒した兌(巽)が向き合っている形である。口と口とが向かい合い話し合うので、お互いに気持ちが通じ合う形になっているのである。
 二爻と五爻は共に陽剛ゆえ、通常は応じない関係だが、中孚は至誠の心で通じ合う時なので、志を同じくして相応じることができる。それゆえ「其(その)子、之に和す」と言うのである。
 「鳴(めい)鶴(かく)」とは親の鶴、「其(その)子」とは子鶴である。「陰に在り」とは、幽玄で神秘的な存在であると云うことである。
 親鶴は子鶴を見失うことを恐れ、子鶴は親鶴を見失うことを恐れている。親鶴と子鶴は幽玄で神秘的に相応じ合いながら、ゆったりと大空を飛翔しているのである。
 至誠を尽くす中孚の時において、共に中庸の徳を具えて相応じており、親鶴が呼べば、子鶴が応じる。鶴に例えて、人と人のあるべき関係を示しているのである。
 至誠の心を尽くし合うのが本当の人間関係である。親鶴が呼べば、子鶴が応ずるのは、ごく自然なことである。
 「我、好(こう)爵(しやく)在り、吾、爾(なんじ)と之(これ)を靡(とも)にせん」とは、天の理法、天の真心である。九二と九五の関係は霊妙にして至誠を尽くしている。君主と臣下の関係は、共に中庸の徳を具えて、共に真心を尽くす関係なのである。
 「我」も「吾」も共に九二が自らを称して初九に呼びかけているのである。「爾(なんじ)」とは初九のことである。「好(こう)爵(しやく)」の「爵」とは、「爵位」のことである。「好(こう)爵(しやく)」とは、人間として信頼できる人徳を具えた社会的地位の高い人(好爵)のことである。高い爵位を賜ったのは、自ら人徳を磨いたからである。だから、爾(なんじ)(初九を指す)も人徳を磨けば、わたしと同じように高い爵位を得ることができると初九に諭しているのである。
 母子以上の愛情はないように、爵位による君臣関係以上に、強い結びつきはない。九二は九五の王さまから高い爵位を賜っているので、至誠の心を尽くして王さまに仕えることができる。
 象伝の「中(ちゆう)心(しん)願ふ也」とは、至誠の心とは、人情の極み、人徳の極みと云うことである。九二が九五の王さまから賜った高い爵位を名誉として誇ることなく、民衆のために真心を尽くして仕えるのは、九二が心の底から願っていることである。

六三。得敵、或鼓或罷、或泣或歌。
象曰、或鼓或罷、位不當也。
○六三。敵を得、或(あるい)は鼓(こ)し或(あるい)は罷(や)め、或は泣き或は歌ふ。
○象に曰く、或(あるい)は鼓(こ)し或(あるい)は罷(や)むるは、位、當(あた)らざる也。
 易において、陰爻陽位を「或(あるい)は」と表現することがある。「鼓(こ)し」とは、鼓舞して事を成し遂げることである。「罷(や)め」とは、道半ばにして諦めることである。「泣き」とは、物事が成就しないことを憂えることである。「歌ふ」とは、物事が成就しないことを憂えても憂えてもどうにもこうにもならないことである。
 六三は卦全体の形から見ると、私利私欲が空虚で真心に満ち溢れている象である。爻から見ると、陰気で柔弱な性質なのにやり過ぎるところがある。陰爻陽位の正しからざる地位に居る下卦兌の主爻である。口舌の侫人である。同じくやり過ぎるところがあり陽爻陰位の正しからざる地位に居る上九と陰陽応じている。とうてい至誠の心を貫くことなどできるはずがない。
 口舌の侫人六三は、同じくやり過ぎる性質の上九と陰陽応じており、至誠の心を貫くことができずに、心の中は上九のところへ動こう、動こうとする。それゆえ「敵を得」と言うのである。
 「敵」とは、自分にとって害悪となる相手である。至誠の心を貫く人は、周りの人を味方に付ける。至誠の心を貫くことができない侫人は、周りの人を敵に回すのである。
 小人は一つのことをコツコツと続けることができないので、心が安定しないのである。どんな人とお付き合いしても、損得勘定しか頭にない。喜怒哀楽全てが私利私欲に基づいているのである。
 このような人間は誰にも信用されず、好かれないので、六三を指して「或(あるい)は鼓(こ)し或は罷(や)め、或は泣き或は歌ふ」と言う。 善いことも悪いことも最初は何もないところから起こる。人間は天地自然の一部だが、天地の理法と人間の欲望は一致しない。天地の理法では喜怒哀楽は時に中るが、人間の喜怒哀楽は時に中るとは限らない。その時々の状況に適切に対応できない場合に不信感が生ずる。
 人を愛することは、その人を生かすためには何をしてもよいと考えるようになりかねない。人を憎むことは、その人が死んでしまえばよいと考えるようになりかねない。六三の心はいつも不安定である。それを、象伝に「位(くらい)當(あた)らざる也」と言うのである。

六四。月幾望。馬匹亡。无咎。
象曰、馬匹亡、絶類上也。
○六四。月、望(ぼう)に幾(ちか)し。馬(ば)匹(ひつ)亡ぶ。咎无し。
○象に曰く、馬(ば)匹(ひつ)亡ぶとは、類を絶ちて上(のぼ)る也。
 「月」とは「臣下」の例え。「月、望(ぼう)に幾(ちか)し」とは、「臣下」が「王さまのように勢力が盛んになる」ことの例えである。
 月は自ら光を発しない。太陽の光を受けて明るく光る。易の理屈で言えば、陰は陽の光を受けて始めて明るく光る。六四は九五と比しているので「月、望に幾(ちか)し」と言うのである。
 六四は王さまの側近の地位に居て、柔順で正しい人徳を具え、九五の王さまと陰陽相比している。至誠の心を尽くして王様に仕える人物なので「望(ぼう)に幾(ちか)し」と言うのである。
 王さまのように勢力が盛んでありながら、王さまに取って代わろうとはしない。風天小畜の上九と同義である。「馬(ば)匹(ひつ)に亡ぶ」の「馬」とは、進むことの例えで、初九を指しているのである。
 「匹(ひつ)」とは、「夫婦」のことである。初九と六四が陰陽相応じていることを云う。火沢睽の初九の爻辞「馬を喪(うしな)う(初九は陰陽相応じていない九四を失う)」と同じ用い方である。
 六四の側近は九五と陰陽相比しており、初九と陰陽相応じている。しかし、至誠の心を尽くす相手は二人いてはならない。そこで、六四の側近は可愛い部下でもある初九との縁を絶ち切って、九五の王さまに仕えることを決断する。臣下としての人間関係を犠牲にしてまで、王さまに至誠の心で仕える。私心を全て捨て去って、公に奉じる覚悟を決めたのである。
 象伝に「類を絶ちて上(のぼ)る也」とあるのは、側近として王さまに仕えることに徹して、決して、自分が取って代わろうとしないと云う側近の真心を表現したのである。
 一つを立てれば、もう一つを立てることはできない。六四が初九と陰陽相応ずる関係になれば、九五と陰陽相比することはできない。どんなに辛くても初九との関係を断ち切るしかない。九五の側近としての役割を全うするのである。
 「類を絶ちて」の「類」とは初九を指し、「上(のぼ)る也」の「上(のぼ)る」とは、九五の王さまに仕えるべきことを云う。
 易経の中では「月、望(ぼう)に幾(ちか)し」と云う言葉が三つの卦で使われている。風天小畜の上九では、柔よく剛を制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。雷沢帰妹の六五では、妻が夫を制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。本卦では側近が王さまを制すると云う意味で陰爻が陽爻を制する形となることを戒めている。
 六四は陰爻陰位で正しい地位を得ており、王さまの側近としての役割を全うするので「咎无し」と言うのである。

九五。有孚攣如。无咎。
象曰、有孚攣如、位正當也。
○九五。孚有り。攣(れん)如(じよ)たり。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、孚有り攣(れん)如(じよ)たりとは、位正(まさ)に當る也。
 九五は陽剛の性質にして中庸の徳を具えている。至誠の心を尽くす中孚の時において、王さまの地位に在る。地位と人徳が調和しており、その真心は天下国家を周く照らしている。それゆえ、「孚有り。攣(れん)如(じよ)たり」と言うのである。
 「攣(れん)如(じよ)」の「攣(れん)」とは、牽引すること。繋ぎ止め連ねることである。すなわち「攣(れん)如(じよ)」とは、お互いに牽き合って連なり繋がることである。連なり繋がるから絶えないのである。
 王さまが至誠の心を貫いて臣下を処遇する。臣下は王さまを慕って王さまにお仕えする。王さまが臣下を真心で処遇するから、臣下は王さまをお慕いする。絆は金の石のように固いのである。
 この卦は九二を人の性質に見立て、六三と六四を己を虚しくして真心を尽くしていると見立てている。そして九五を人の情実に見立てている。すなわち、九五は卦辞・彖辞にある「乃(すなわ)ち邦(くに)を化する也」を体現する人物なのである。
 王さまは、真心が天下国家に溢れるようになってこそ、王さまに相応しい仁徳を具えたと云えるのである。王さまの人徳が発信源となって人徳が天下国家に満ち溢れてこそ、王さまとしての役割を全うすることができるのである。
 風天小畜の九五の爻辞にも、また「孚有り攣(れん)如(じよ)」とある。風天小畜は六四が主人公だが、この卦も六四が主人公である。そのことをよく理解して、この卦を解釈しなければならない。

上九。翰音登于天。貞凶。
象曰、翰音登于天、何可長也。
○上九。翰(かん)音(おん)、天に登る。貞なるも凶。
○象に曰く、翰(かん)音(おん)、天に登る、何ぞ長かる可(べ)けん也。
 鶏を「翰(かん)音(おん)」と言う。鶏は羽を振って鳴き声を発する。「翰(かん)音(おん)」の「翰(かん)」は羽である。鶏は小さな動物だが、鳴き声は遠くまで聞こえる。中身が無いのに、声だけ大きい人に似ている。
 上九は至誠の心を尽くす時の極点に居て、中庸の徳を欠いていながら、至誠の心を装って人から信頼され、人を欺(あざむ)こうとしている。至誠の心を貫く時に至誠の心を装う侫(ねい)人(じん)である。
 鶏の鳴き声が遠くまで聞こえるように、至誠の心を装って発するので中身が無い。鶏は、他の鳥に比べて体重が重いので、遠くまで飛ぶことはできない。しかし、鳴き声だけは遠くまで聞こえる。それと同じように、上九は至誠の心が無いのに、有るように装って、人から信頼されようとするのである。
 上九は、蒙昧なのに誠実を装う侫(ねい)人(じん)であり、巧言令色の詐欺師である。人から信頼されない人は人間失格である。速やかに反省して改めることが肝要である。反省することができなければ凶運を招き寄せるのである。それゆえ「貞なるも凶」と言うのである。
 象伝に「何ぞ長かる可(べ)けん也」とあるのは、遠くまで飛ぶことができない鶏なのに普通の鳥を装って遠くまで飛ぼうとしても、能力が無いので飛ぶことができないと云うことである。自分に無いものを有るように装っても長続きしない。上九のようであってはならないと云うことである。水雷屯の上六の小象伝の「泣血漣如たり、何ぞ長かる可(べ)けん也」と同義である。

 

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