呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 332 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

60.水沢節

□卦辞(彖辞)
節、亨。苦節不可貞。
○節(せつ)は亨(とお)る。苦(く)節(せつ)は貞(てい)にす可(べ)からず。
 節は、下卦兌、上卦坎。兌は沢、坎は水。沢の上に水が満ち溢れている形である。また、沢は水を貯めておくところである。
 草木は水から養分を得て繁茂する。沢にある水が乾涸らびてしまえば、草木は枯れてしまう。これが沢水困の形である。
 だが、沢から水が満ち溢れれば、堤防を壊して家屋や田畑を流してしまうほどの水害に至ることもある。
 沢は自分の大きさに応じて水を貯める。これが節の時である。それゆえ、物事に適切に対処することを「節」と言うのである。
 すなわち、節は何事も「ほどよい程度」に保つこと、物事が過不足ない状態を保つことである。「品節」、「節度」、「節制」、「節倹」、「節操」と云う言葉がある。いずれも、物事に適切に対処する「節」と云う単語から作られた言葉である。
 地球上の四分の一は陸地であるが、四分の三は海である。海水が水蒸気として上昇しなければ、陸地は海に飲み込まれてしまう。海水が水蒸気として上昇し、水蒸気が雲となって雨が降る。雨が降るからこそ、万物が養育される。陸地と海が「ほどよい程度」の状態を保つことを「節」と言うのである。
 それゆえ、人は「節」、すなわち「ほどよい程度」を保たなければ、何事も成し遂げることはできない。万事「節」を保たなければ成り立たないのである。
 この卦は沢の上に水が貯まっているが、沢が貯められる水の量には限りがある。水そのものには節度がないので、沢がなければ水は溢れて水害に至る。沢に水が収まっていれば問題ないが、沢から水が溢れ出れば水害になる。水を制するのは沢の大きさである。それゆえ、「ほどよい程度」に保つこと、すなわち「節(物事に適切に対処すること)」が大切である。
 水が沢の上にある形が「ほどよい程度」を保つこと(水沢節の形)であり、水が沢から溢れ出て、乾涸らびている形が「ほどよい程度」を保てずに水害に至ること(沢水困の形)である。
 沢に貯まっているから水は止まるが、沢がなければ水はあらゆるところに流れていく。節の互体二三四は震であり、動き行く性質を持っている。互体三四五は艮。艮は止まる性質がある。すなわち、行くにも止まるにも節度があると云うことである。
 下卦兌には喜ぶと云う性質が、上卦坎には険難と云う性質がある。喜びに対処するのも、険難に対処するにも節度がある。また、下卦兌には酒食と云う意味があり、上卦坎には口と云う意味がある。二爻から五爻までの形をアゴとする。すなわち、君子は飲食を節制すると云う意味も含まれているのである。
 人生を全うするには「ほどよい程度」の状態を保つこと(節度)が肝要である。下卦兌は波波と水を貯えて、上卦坎の水は金を算出する。坎の方角は北であり、兌の方角は西である。それぞれ「ほどよい程度」の状態(節度)を保っている。上卦坎の水は流水である。水の流れを止めることは道理に反する。沢(湖や海)は流れる水を貯える。決して流水を拒まない。それでいて常に一定の水位を保っており、その状態を楽しんでいる。
 孔子の孫である子思は「喜怒哀楽の未(いま)だ發(はつ)せず之(これ)を中と謂う。發して皆節(ふし)に中る之を和と謂う」と、中庸に書いている。孔子の弟子である有子は「禮(れい)の和を用(もつ)て貴(たつと)しと爲(な)すは先王の道も斯(これ)を美と爲(な)す。小(しよう)大(だい)之(これ)に由(よ)れば行われざる所あり。和を知りて和すれども禮を以て之を節せざれば亦(また)行うべからざるなり」と論語の中で言っている。
 以上の先賢の言葉から、節度を保つから調和していることがわかる。調和していない状態は、節度を保っていないのである。「節」の字には「竹」かんむりが使われている。「竹」には程よい間隔で「節」があるから、生育を抑制している。抑制することによって、撓(しな)っても折れない強(きよう)靱(じん)な樹木となる。抑制と生育が程よく調和した状態を「節」と言うのである。
 心の中が調和している状態を「中庸」と云う。物事に適切に対応する状態を「幾(兆)」を見て対応すると云う。「中庸」とは髪の毛一本ほども偏っていない状態であり、「幾(兆)」とは一瞬たりとも速くても遅くても駄目な状態である。「中庸」を外れれば徳を失い、「幾(兆)」を外せば物事は成就しないのである。
 あらゆる物事には程よい「節度」がある。程よい「節度」とは原理原則のことである。日月が往来するのも、寒暑変化して四季が循環するのも原理原則である。これは天地の程よい「節度」である。このような原理原則をよく理解した上で、物事を推し進めれば、天下国家のあらゆる事業は過不足なく行われて調和した状態が実現するので「節は亨(とお)る」と言うのである。

□彖伝
彖曰、節亨、剛柔分而剛得中。苦節不可貞、其道窮也。説以行險、當位以節、中正以通。天地節而四時成。節以制度、不傷財、不害民。
○彖に曰く、節(せつ)は亨(とお)るとは、剛柔分れて、剛中を得(う)ればなり。苦節は貞にす可(べ)からずとは、其(その)道窮(きわ)まる也。説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行ひ、位(くらい)に當(あた)りて以(もつ)て節(せつ)し、中正にして以て通ず。天地節(せつ)して四(しい)時(じ)成る。節以て度を制し、財を傷(そこな)はず、民を害(そこな)はず。
 節の形は、陰陽半々で、上卦と下卦の中央に位置する五爻と二爻が剛健の性質を具えているので、物事が通る形である。「節」と云う字にも「通る」と云う意味が含まれている。「節」は、私利私欲を節制して、天地の原理原則に従う時である。財政支出を節制して、物事の在り方を節制し、言葉の使い方を節制して、飲食を節制することは、天地の原理原則である。何事も節制して天地の原理原則に従えば物事はすらっと通るのである。
 以上を人間に当て嵌めれば、前途が困難であることが分かっていても、よく考えて、適切且つ機敏に行動すれば、何かしら得ることがあると云うことである。それゆえ、事に臨むに、前途が困難であるからと云って何もしないのは、節制すると云うことの本当の意味を知らない人である。
 「節」は「程よい節度」を保つこと。物事に臨機応変に対応して、その時々に適切に対処すること。それゆえ、節の形は陰陽半々であり、上卦と下卦の中央に位置する五爻と二爻が剛健の性質を具えている。陰陽半々であるのは、剛に過ぎず、柔に過ぎず、何事に対しても偏りがなく公明正大なことである。その時々に応じてピタリと的を射るように対応できるのである。それゆえ、「剛柔分かれて、剛中を得ればなり」と言うのである。
 人間社会の中で生きていくために、幼い時には古典をよく読み、偉人の言行や生き方を学び、社会に出て働くようになってからは、幼い時に学んだことを実行するのである。どんな困難や苦労が立ち塞がっても、決して挫(くじ)けることなく、様々な困難や苦労を乗り越えるために、心を磨いていくのである。以上を、「説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行う」と言うのである。
 あらゆる困難に立ち向かい、危険なことに怖(お)じ気(け)づくことなく、時には冒険的な事にも挑戦して、最後には自分の志を体現する。これもまた、「説(よろこ)びて以(もつ)て險(けん)を行う」ことである。
 だが、時には氣運と云うものがあり、物事には難しいことと容易なことがある。そこで自分の力と地位を客観的に捉えて、実現すると確信できる事は何があっても実行し、どんなに頑張っても実現できないと思うことは止める。その時々の宜しきに順い、中庸を貫くことが「節」である。
 以上のことを「説(よろこ)びて以(もつ)てを行い、位(くらい)に當(あた)りて以て節(せつ)し、中正にして以て通ず」と言うのである。上卦と下卦の性質が相(あい)俟(ま)って、「程よい節度」を保つことができるのである。
 険難が立ち塞がれば進み行くことは困難だが、険難に真正面から立ち向かえば、険難を乗り越えることができる。永遠に険難に陥ったままの状態であり続けることはない。何事にも真正面から立ち向かえば、苦しみはやがて喜びとなり、険難や困窮を脱することができるのである。
 この卦において、上六は柔弱な性質で卦極に居り、度を超えた節度を自分で定めてそれを守ろうとして苦しんでいる。これを「苦節(度を超えた節度を定めて苦しむこと)」と言うのである。度を超えた節度を定めて、それを守ろうとすれば、苦しむことになる。度を超えた「正しさ」に苦しみ、度を超えた「形式」に苦しみ、度を超えた「心の節度」に苦しむのである。
 「苦節(度を超えた節度)」は、人々の心から安心を奪うので、正邪の判断ができなくなる。「苦節」に安んずることはできない。「苦節」を守ろうとすれば、「苦節」に固執して、あらゆることが閉塞状態に陥り、何事も成就しなくなる。「苦節」を守らせようとすれば、その人を艱難辛苦の状態に導くことになる。
 以上のことから「苦節」に固執してはならない。このことを「苦節は貞(てい)にす可(べ)からずとは、其(その)道窮(きわ)まる也」と言うのである。天地の原理原則に春夏秋冬・温涼寒暑の循環がある。この循環があるから万物は生成発展する。秋から冬にかけての、収穫と蓄えがあるから、春から夏にかけて、草木が繁茂するのである。
 人々が天地の循環を受け容れて、欲望を程よく抑制し、人徳を程よく磨き上げれば、誰もが礼節を弁(わきま)えるようになり、欲望と欲望がぶつかり合って罪を犯すこともなくなる。それぞれが自由にかつ調和して生かし合うようになる。
 人々が程よい節度で自分の言行を抑制すれば、驕り高ぶることがなくなり、欲望と欲望がぶつかり合うこともなくなって、誰もが幸せになる。以上のことを「天地節して四(しい)時(じ)成る。節以(もつ)て度を制(せい)し、財を傷(そこな)はず、民(たみ)を害(そこな)はず」と言うのである。

□大象伝
象曰、澤上有水、節。君子以制數度、議徳行。
○象に曰く、澤の上に水有るは節なり。君子以て數(すう)度(ど)を制し、徳(とつ)行(こう)を議す。
 沢に満ちていた水が乾涸らびてしまえば、沢の役割を果たせない。沢の水が乾涸らびて、険難に陥っている形が沢水困である。水沢節は下卦の沢の上に上卦の水が満ちている形なので、沢の役割を果たしているが、水が溢れ出れば、堤防が決壊して大災害を招き寄せることになる。
 沢に満ちている水の量には限りがある。水の量が少なくなれば、水を容れる必要があり、溢れ出そうになれば、排水する必要がある。水が溢れ出ることなく乾涸らびることもない。これが沢のありかた(節に中る)である。すなわち「程よい節度を保つ」ことが節の時である。
 「数(すう)度(ど)」とは、「礼を尽くして尊崇する心」の多寡(多い少ない)を云い、「徳(とつ)行(こう)」とは、「人徳を磨いて社会に貢献する」程度の優劣を云う。「数(すう)度(ど)を制し」の「制し」とは「作る」と同じ意味ではない。何も無いところから作り出すことを「作る」と言い、すでに有る物事を制御することを「制する」と言う。「作る」ことは一部の人の仕事だが、「制する」ことは万人の仕事である。それゆえ、「君子以て数(すう)度(ど)を制す」と言うのである。
 君子(立派な人物)は、沢の上に水が有る「節」の卦の形を見て、貴賤上下の身分に応じて、生活や仕事の規律を定める。貴賤上下の身分に応じて、それぞれの分度があり、役割がある。その分度や役割に応じて、生活や仕事の規律を定めるのである。
 それぞれの分度や役割に応じて「人徳を磨いて社会に貢献する」程度を定めて、天下国家を治める。物事の「大小」「軽重」「上下」「文質」それぞれに「数(すう)度(ど)(礼を尽くして尊崇する心の多寡)」がある。その多寡に応じて、生活や仕事の規律を定めることは、「程よい程度を保つ」ことにつながるのである。
 また、「人徳を磨いて社会に貢献する」程度に応じて、それぞれが徳を磨くことが、「程よい程度を保つ」ことである。
 「数(すう)度(ど)」を制御することは、社会の調和を保つことにつながるので「数(すう)度(ど)」に応じて、生活や仕事の規律を定める。このことを「君子以て数(すう)度(ど)を制し、徳行を議す」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。不出戸庭。无咎。
象曰、不出戸庭、知通塞也。
○初九。戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、戸(こ)庭(てい)を出(い)でずとは、通(つう)塞(そく)を知る也。
 「節」とは、物事の「要」や「要点」である。君子(立派な人)は吉凶(吉運か凶運か)の兆しを見て、物事の「要」や「要点」を適切に判断して対応する。これが「節(程よい節度を保つ)」である。
 「節」を踏まえないと、物事に適切に対応することができないので、タイミングが早すぎたり遅すぎたりするのである。
 この卦は沢の上に水がある。沢の大きさに適切に対応して水の量を調整するのである。沢の大きさに対して水の量が少なければ水を容れ、水の量が多ければ排水する。沢の大きさに対して水の量を「程よい節度」に保つのである。
 下卦兌(下の三爻)は沢である。沢の大きさに応じて人々が必要とする水の量を「程よい程度」に保つのである。上卦坎(上の三爻)は水である。水の量を「程よい程度」に保つために、調整されるのが水の役割である。水の量は沢の大きさを超えてはならない。それゆえ「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず」と言うのである。
 初九は陽爻陽位で正しい地位に在る。だが、九二とは陽同士なので比さない。水の量を「程よい程度」に保つためには、比さない九二の下に進むべきではない。物事には時と使命の関係において、通ずる時と塞がる時、進むべき時と退くべき時があることを認識して、今は家の中に閉じ籠もって庭にも出ない。そのことが「程よい程度」を保つことにつながるのである。
 君子が天下国家を調和した状態に保とうとすれば、国家を構成する最小単位の組織である家庭の人間関係を「程よい程度」に保つことが肝要である。家庭の人間関係を「程よい程度」に保とうとすれば、家庭を構成する一人ひとりの心身の状態を「程よい程度」に保つことが肝要である。庭は家族が出入りするたびに通過する場所である。
 初九は「程よい程度」を保つ時の始めに居て、九二の下に進むことができない。「程よい程度」を保つために、家の中に閉じ籠もって庭にも出ない。どうして咎められようか。咎めることなどできないのである。以上のことを「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し」と言う。初九は君子たることを自覚して妄進しないのである。
 象伝に「通(つう)塞(そく)を知る也」とあるのは、時には通ずる時と塞がる時があり、道には進むべき道と退くべき道がある。そのことを認識すべきと云うことである。
 初九と六四は陰陽応ずる関係にある。共に出逢うことが可能である。それゆえ「通ずる」のである。初九と九二とは陽同士なので比さない関係にある。初九は九二の下に進み行くことができない。それゆえ「塞がる」のである。
 初九が変ずれば下卦兌は坎となる。坎には「思索する」と云う意味がある。それゆえ、物事には「通ずる」時と「塞がる」時があることを認識することができる。君子が世の中で活動する場合、時には「通じる」時と「塞がる」時があることを認識しておかなければならない。兌を口と見れば、言葉を慎むべきである。初爻を足と見れば、行動を慎むべきである。

九二。不出門庭。凶。
象曰、不出門庭、凶、失時極也。
○九二。門(もん)庭(てい)を出(い)でず。凶。
○象に曰く、門(もん)庭(てい)を出(い)でず、凶とは、時を失ふこと極(きわ)まれる也。
 沢は水を容れるための凹(くぼ)みである。水が満ちれば、何かに役立たせるために貯えておく。初九はその役割を果たすと考える。
 水が増えて溢れ出そうになれば、排水して水害の発生を防ぐのである。その役割を九二が担っている。九二は沢の水を程よい量に保つのである。九二の時は沢に水が満ちていることが前提だから、水が増えて溢れ出ないようにしなければならない。
 初九は位が低く、野に下っている形で。「程よい程度」に保つ「節」の時の始めに居て、陽爻陽位と正位を得ている。沢の中の水を貯えて「程よい程度」に保つためには、排水して(動いて)はならない。それゆえ「戸(こ)庭(てい)を出(い)でず。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 九二は剛健な性質で中庸の徳を具えており、臣下の中心的存在である。すなわち、何事も「程よい程度」に保つ「節」の時に適合している。それゆえ、初九のように「排水してはならない」という態度を貫けば、終には沢から水が溢れ出て水害を招くことになる。このように無理な態度を貫くことを「苦節(度を超えた節度)」と云い、大凶に至る道である。
 君子は、動くべきでない時は岩のように動かず、動くべき時は駿馬のように疾走する。これが「程よい程度」に保つことである。その時の兆しを察して、どの程度に保つことが、「程よい程度」を保つことになるかを判断するのである。
 九二は大臣の位と見ることもできるが、王さまの忠臣と見た場合は、剛健の性質で中庸の徳を具えている九五の王さまと志を同じくして、相応ずる関係にある。すなわち、九二が忠臣としての「程よい程度」を保って、王さまを補佐することが、「数(すう)度(ど)(礼を尽くして尊崇する心の多寡)」を制御して、民衆の私利私欲を抑制し、道徳的な気風を高めることになる。
 志を同じくする九五の王さまが王さまとしての「程よい程度」を保つべく、乾為天の九二(見龍)のように、王さまを大人として尊敬して自らを高める。以上のようであれば、九二と九五が、共に「程よい程度」を保つことができる。
 九二は互体(二三四)震の長男だからリーダーの資質がある。節の時は上卦坎険なので、九五の王さまは険難に陥っている。九二は王さまの下に駆け付けて、王さまが険難から脱出するために「程よい程度」を保つべきであるが、どっしりと構えて、王さまの下に駆け付けないので、「程よい程度」を失して凶運を招き寄せる。それゆえ「門(もん)庭(てい)を出(い)でず。凶」と言うのである。
 九二は剛健の性質と中庸の徳を具えており、九五と応じるべき関係にある。九五を補佐して忠臣としての役割を果たすべきなのに、微動だにしない。これは「苦節(度を超えた節度)」であり、天命に反している。動くべき兆しを見誤っており、その罪は重く責任重大である。以上のことを「時を失ふこと極(きわ)まれる也」と言う。

六三。節若、則嗟若。咎无。
象曰、節嗟、又誰咎也。
○六三。節(せつ)若(じやく)せざれば、則ち嗟(さ)若(じやく)す。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、節(せつ)せざるの嗟(なげき)は、又誰(たれ)か咎(とが)めん也(や)。
 六三は陰柔の性質でやり過ぎるところがある。しかも、下卦兌の主爻なので、物事を壊して「程よい節度」を保てない形。それゆえ、節度を制御することはできないのである。
 「程よい節度」を保つ時において、険難を制御したり、節約したりすることができない。己を制御する度量がなく、財産を失い、徳を損なう。以上のようであるから、何をやっても憂うことになり、嘆き悲しむことになる。それゆえ「節(せつ)若(じやく)せざれば、則ち嗟(さ)若(じやく)す」と言うのである。
 下卦兌の極点に居て「程よい節度」を保つべき時に、「程よい節度」を保つことができずに、喜びが悲しみに変ずるのである。
 全体の形から見れば、上卦坎の水を下卦兌の沢の中に貯えることができず、三爻から見れば、沢の上に水が溢れ出てしまう形。六三が嘆き悲しむのは、自分自身が不中正なので、「程よい節度」を保つことができないからである。自業自得だから人を責めることなどできない。ひたすら、自分がやったことを反省して悔い改めるべきである。それゆえ、「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 六三は「程よい節度」を保てないから、嘆き悲しむことになる。「程よい節度」を保つことができれば、嘆き悲しむことにはならない。「則ち」とあるのは、このことを表現している。
 「程よい節度」を保つ者は物事を楽しみ、保てない者は物事に甘える。六三が「程よい節度」を保てないのは、すでに沢の水が溢れ出ているのに、排水しようとしないからである。

六四。安節。亨。
象曰、安節之亨、承上道也。
○六四。節に安んず。亨(とお)る。
○象に曰く、節に安んずるの亨るは、上(かみ)の道を承(う)くる也。
 六四は下卦兌の沢の上に貯まっている上卦坎の水である。水が土(沢)の中に満ちて、互体三四五の艮は坎の険難を見て止まるので、沢から溢れ出ることはない。
 六四は柔順にして正しい地位を得ており、九五と陰陽比している。九五と親しみ調和して柔順に従い、下卦兌の初爻にも陰陽応じている。側近としての「程よい制度」を保ち、その役割を全うする。それゆえ「節に安んず。亨る」と言うのである。
 上卦坎の水が沢から溢れ出る時は「程よい節度」を保っていない状態である。沢に程よく水が貯まっている時は「程よい程度」に保っている状態である。
 「節に安んず」の「安んず」とは、安心して行動することである。上卦坎の水は、沢に程よく貯まっている形である。
 六四は側近(大臣)の地位に在り、「程よい程度」を保つ時に安んじており、九五の王さまを補佐している。天下国家の財産を「程よい程度」に保ち、民衆の生活を「程よい程度」に保つことができる。六四が九五の側近(大臣)としての役割を全うすることが、天下国家を「程よい程度」に保つことになる。
 象伝に「上(かみ)の道を承(う)ける也」とあるのは、六四が柔順な性質と正しい地位を得ているので、九五の側近としての役割を全うして、九五の王さまを補佐すると云うことである。

九五。甘節。吉。往有尚。
象曰、甘節之吉、居位中也。
○九五。甘(かん)節(せつ)なり。吉。往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り。
○象に曰く、甘(かん)節(せつ)の吉は、位に居(お)ること中なる也。
 「甘(かん)節(せつ)」の「甘」とは、中庸と和合の意味である。「辛い」時や「酸っぱい」時に「甘味」を加えれば、「程よい程度」に調整することができるのである。
 九五は剛健と中庸の徳を具えて君主の位に居る。「程よい程度」に保つ時の王さまとして、自ら率先して「程よい程度」に保つことを楽しんでいる。それゆえ「甘(かん)節(せつ)なり。吉」と言うのである。
 「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」の「往きて」とは、行うことが成就ずると云う意味である。九五の王さまは自ら率先して「程よい程度」に保つことを楽しんでいる。行うことは全て成就し、天下国家を「程よい程度」に保つことができる。
 それゆえ、民衆は九五の王さまを尊敬する。このことを「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」と言うのである。
 礼儀を「程よい程度」に保って、民衆の心を安定させ、法律を「程よい程度」に定めて、民衆の財産を豊かにする。いずれも天地の道理に適っているので、民衆は帰服する。民衆が欲することを実現して、憎むことは取り除くのである。何事も「程よい程度」に保つので、民衆は苦しむことなく和合する。
 象伝に「位に居(お)ること中なる也」とある。「位」とは君位のことである。「中なる也」の「中」とは、九五が中庸の徳を具えて正しい地位に在ることを云う。
 九五は民衆に尊敬される王さまとして、何事も「程よい程度」に保つので、天下国家も「程よい程度」に保たれ、終には、「辛い」時や「酸っぱい」時に「甘味」を加えて、何事も「程よい程度」に調整することができるのである。
 伝説の王さまである禹(う)王が普段は宮中を質素にして、衣服にもお金をかけず、飲食を倹約したのは、何事も「程よい節度」を保つためである。
 神仏をお祀りする時は、美しい衣服を身に着け、ご先祖様と神仏を心から尊崇したのも、また「程よい程度」を保つためである。それゆえ、天下国家はよく治まり、民衆は遍く幸せに暮らすことができたのである。

上六。苦節。貞凶。悔亡。
象曰、苦節、貞凶、其道窮也。
○上六。苦節なり。貞なるも凶。悔亡ぶ。
○象に曰く、苦節なり、貞なるも凶とは、其道窮まる也。
 節の時は「程よい程度」を保つために、何事も抑制的であるべきである。度を超えることは、「程よい程度」を保つことにはならない。それゆえ、卦辞・彖辞に「苦節は貞にす可からず」と言うのである。「苦節」とは「程よい程度」を超えることである。
 爻辞の「貞なるも凶」とは、本人が正しいと思っても「程よい程度」を超える時は凶運を招き寄せると云うことである。「悔亡ぶ」とは、凶運を招き寄せても、本人が正しいと信じて「程よい程度」を超える時は、後悔しないと云うことである。
 九五の爻辞にある「甘(かん)節(せつ)」とは、善き臣下のことを指し、上六の爻辞にある「苦節」とは、忠実な臣下のことを指している。
 親孝行に忠実なあまりに、公の仕事を疎かにして、民族を滅ぼしてしまうような人物は、まさしく「苦節は貞にす可からず」に該当する人物である。
 「程よい程度」に保つべき節の極点に居て、苦節を正しいことと信じて疑わないから、苦しいのである。
 卦辞・彖辞の「苦節は貞にす可からず」とは上六を指す。上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、節の卦極に居る。節に過ぎたる人物である。正しくても凶運を免れない。君子には、気概と節操が求められるが、物事に固執してはならないのである。
 何事も「程よい程度」を保つことができれば、後悔することはない。それゆえ「悔亡ぶ」と言うのである。
 象伝に「其の道窮まる也」とあるのは、気概と節操を保つのは、君子として誇らしいことであるが、「程よい程度」を超えると、凶運を招き寄せて害となる。また、「質素倹約」することは善いことだが、やり過ぎて「程よい程度」を超えると、臣民を圧迫することになり、臣民から怨まれる。それゆえ「苦節なり。貞なるも凶」と言うのである。
 考えてみると、「凶」の次に「悔亡ぶ」とあるのは、苦節が凶運を招き寄せても、なお、苦節を続ける時は、さらに凶運を招き寄せる。そこで「程よい程度」を超えていたことを反省し、苦節を改めれば、凶運から解放されると云う意味であろう。
 あるいは、苦節を続ければ、決して凶運から解放されないが、それを承知で苦節を続ければ、やることはやったのだから後悔はしないと云う意味に解釈することもできる。

 

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