呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 331 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

59.風水渙

□卦辞(彖辞)
渙、亨。王假有廟。利渉大川。利貞。
○渙は亨(とお)る。王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し。貞(ただ)しきに利(よろ)し。
 渙は上卦巽、下卦坎、巽は風、坎は水。水の上に風が吹く形である。水分が密雲の下に凝縮しており、風がこれを拡散する。
 坎の水は冬になれば凍り、巽は風以外に春や木と云う意味がある。厳寒の冬になれば水は凍るが、春がやって来て春風が吹けば凍っていた水も解けて、風によって拡散する形である。
 内卦に坎の険難があり、外卦に巽の巽順がある。内卦は自分、外卦は相手。相手の方から風が吹いて来て、自分の方の険難を解決してくれる。以上のことから、この卦を渙と名付けたのである。
 渙は、風が吹いて水を拡散する時。風が吹いて険難を解決してくれる時である。
 人間社会に当て嵌めれば、坎水の険難に陥っていることを誰かが察して助けてくれるので険難が解決する時である。あらゆる苦労や困難が解決するので、心配事から解放され、希望や志を実現することができる。それゆえ「渙は亨(とお)る」と言うのである。
 「渙は亨(とお)る」とは、困難が解決することを云うのである。幸運を招き寄せると云うことではない。

□彖伝
彖曰、渙亨、剛來而不窮。柔得位乎外而上同。王假有廟、王乃在中也。利渉大川、乘木有功也。
○彖に曰く、渙は亨(とお)るとは、剛來(きた)りて窮(きわ)まらず。柔、位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり。王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、王乃ち中に在る也。大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)しとは、木に乘りて功有る也。
 この卦は三陰三陽で陰陽の数が半々で、天地否の変形である。否の時は万事閉塞する。否の九四が二爻に移動して坎の主爻となり、入れ替わった四爻が巽の主爻となったのである。
 それぞれ適切な場所を得て役割を果たす。すなわち、剛が来たりて柔を救い、内側が動いて険難を解決する。柔が動いて剛を助けるので、天地否の閉塞状態が解ける。以上が険難が解決して物事が通じる理由である。
 天地のエネルギーが閉塞する時は、風雨によって閉塞状態を解決する。否の九四が二爻に移動するのは、坎水を蒸発させて雨を降らせるのである。否の六二が四爻に移動するのは、大地のエネルギーが昇って巽の風となるのである。
 これを人間に当て嵌めれば、下卦坎水の主爻である九二は困難に陥るが、六四が九二の気持ちを察して九二を助ける。九二が困難から脱出できるのは六四と志を同じくして、六四が助けてくれるからである。このことを「剛來(きた)りて窮(きわ)まらず。柔位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり」と言うのである。
 「剛來(きた)りて窮(きわ)まらず」とは、艱難の中に陥りながら、その志は揺らぐことはないので、艱難を乗り越えることが出来るのである。「柔、位を外に得て上(じよう)同(どう)すればなり」とは、人の助けを得ることができるのである。
 風水渙は、険難に陥って危機的な状況にある時に、思ってもいなかった助けがあって、険難から脱出することができる時である。危機的な状況から脱出できることを「渙」と言うのである。
 以上のことから、通じることが難しい中にあって通じることができ、成し遂げることが難しい中にあって成し遂げることができ、その結果、恩恵を得て、誰かに助けられる時である。
 心配事がなくなるのは、偶然ではない。神仏のご加護を得て、険難から脱出することができるのである。神仏のご加護を得られるのは、心から神仏を敬って崇拝するからである。神仏を敬う気持ちがなければ、そのご加護を得られるはずもない。それゆえ、聖人は神仏を尊崇するのである。神仏を尊崇するから、険難から脱出することができるのである。
 沢地萃の卦辞・彖辞に「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」とあるのも、風水渙の卦辞・彖辞に「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」とあるのも、心から神仏を敬って尊崇することの大切さを述べているのである。
 以上のことは、親孝行をすることが大切なことと同じである。だからこそ、渙の時に適切に対処するには、祖先の御魂をお祀りして、神仏に感謝することが肝要である。それゆえ、「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、王乃(すなわ)ち中に在る也」と言うのである。王とは九五のことである。「中に在る」とは九五は剛健中正の徳を具えていることである。
 渙の時は九二が困難に陥るけれども、六四がやって来て助けてくれるだけでなく、九五からも助けられるのである。
 九二が神仏を敬って尊崇するから、神仏のご加護を得られるのである。互体(三四五)艮を門とする。これは「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」の形である。「有(ゆう)廟(びよう)」の「有」の字は、尊崇すると云う意味と、離散すると云う意味を兼ねている。人が神仏と心を一つにして尊崇すれば、神仏は必ず人の気持ちに応えてくれる。すなわち、神仏のご加護を賜ることができる。それゆえ、祖先を敬い神仏を信じる気持ちが大切なのである。
 けれども、卦辞・彖辞の最後に「大(たい)川(せん)を渉(わた)るに利(よろ)し」とあるのは、別の切り口で渙の時を説明しているのである。
 大きな川を渡るためには船で渡るより方法がない。渙の形は上卦巽、下卦坎だから、巽の木が坎の大川の上に浮かんでいる形である。すなわち、船を用いて大川を渡り大きな利益を得る時である。しかも、巽の風が大川に浮かんでいる船を押し進めてスイスイと大川を渡ることができるのである。
 以上を「木に乗りて功有る也」と言う。人材を用いて世の中を治めることは、船を用いて大川を渡るのと同じことである。

□大象伝
象曰、風行水上、渙。先王以享于帝立廟。
○象に曰く、風、水の上を行くは、渙なり。先(せん)王(おう)以て帝(てい)に享(きよう)し、廟(びよう)を立つ。
 巽を春、坎を冬・水・氷とする。坎の水が流れて、巽の風が吹いている。厳冬の氷も温かい春風が吹く季節になれば、解けて流れるようになる。また、巽の木の船が、巽の風を受ければ、大きな川を渡ることができるように、困難を克服して功を上げる形である。風水共に離散するので、この卦を渙と名付けたのである。
 離散の時は天下国家に険難が起こる。この時に中って神仏とご先祖様をお祀りして天下国家を一つにまとめるのである。昔の王さまはこの卦の形を観て、巽の風から神仏を連想し、坎の孚からお祀りを連想したのである。
 風は形がないが、水の上に吹けば跡を残して、風を見ることができる。水がなければ風を見ることはできない。神仏にも形はないが、御霊屋でご先祖様をお祀りすることにより、神仏の御利益があることを感じることができる。
 ご先祖様を見ることはできないが、お祀りすればその恩沢に感謝することができる。お祀りしなければ感謝の気持ちが無くなってしまう。神仏の存在は風が水の上を吹くようなものである。人々が尊崇する心を抱くのは神仏をお祀りするからである。それゆえ、大きな困難も治まり、人々の心も安定する。
 王さまは率先して御霊屋でご先祖様をお祀りして、神仏のご加護を賜るのである。離散しがちな人々の心を一つにまとめて、神仏を尊崇して、ご先祖様に感謝するのである。
 あらゆる現象は天地陰陽の法則に基づく。人間の存在はご祖先様の営みに基づく。それゆえ、王さまが率先してご先祖様を尊崇して御霊屋でお祀りする。王さまが率先してご先祖様を尊崇するから天下の人々もご先祖様を尊崇して、両親に感謝の念を抱き、天の道、人の道を踏み行うことの大切さを通観する。すなわち社会を一つにまとめることができるのである。それゆえ「先(せん)王(おう)以(もつ)て帝(てい)に享(きよう)し、廟(びよう)を立つ」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。用拯馬壯。吉。
象曰、初六之吉、順也。
○初六。用(もつ)て拯(すく)うに馬壯(さか)んなり。吉。
○象に曰く、初六の吉は、順なれば也。
 この卦は渙散することを中心にした物語となっている。それゆえ、六爻共に渙散の意義について述べている。
 渙散を掘り下げていくと、受動と他動に区分できる。下卦三爻は坎水の一員として受動的に渙散させられる存在であり、上卦三爻は巽風の一員として能動的に渙散する存在である。
 坎は冬であり氷である。巽は春であり風である。厳寒の冬がやってくれば坎水は凍って凝結するが、春がやって来て温かい風が吹けば、氷は忽(たちま)ち溶けて水となる。すなわち、厳寒の険難が春風によって吹き飛んで、困難が解決するのである。
 初六は今、下卦坎のどん底に居て、自分一人の力では険難を克服することはできず、険難の中でもがき苦しんでいる人物である。しかも柔弱で微力だから、険難を吹き飛ばす力があるはずもなく、険難から脱出することができない。以上のことから、初六は何事も成し遂げることはできないのである。
 幸いにして九二と陰陽比するので、九二の賢者に従って険難から脱出しようとする。初六は人の力を借りなければ何も出来ない人物である。九二は剛健にして中庸の徳を具えている力のある人物である。九二のような人徳のある人物に初六が素直に従えば、必ず険難から脱出することができる。それゆえ「用(もつ)て拯(すく)うに馬壯(さか)んなり。吉」と言うのである。
 人間は馬に乗るから疾走することができる。良馬を選べばより速く疾走することができる。九二は良馬である。初六が柔順に剛健中庸の九二に従えば、険難を脱出することができる。それゆえ「吉」と言うのである。
 また「馬壯(さか)んなり」とあるのは、良馬を選べばより速く疾走できること、すなわち、初六が九二に素直に従えば、速やかに険難から脱出できることの例えである。
 象伝に「順なれば也」とあるのは、初六が至って柔順であることを云う。地火明夷の六二(文王)は馬に乗って逃れ去り、上六(暗君紂王)の険難から救われるが、この卦の九二は自らは馬に乗らずに初六の険難を救うのである。

九二。渙奔其机。悔亡。
象曰、渙奔其机、得願也。
○九二。渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)る。悔亡ぶ。
○象に曰く、渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)るは、願(ねがい)を得(う)る也。
 「其(その)机(き)に奔(はし)る」の「奔(はし)る」とは、走ることが迅速なこと。何事も遅れることを恐れることを「奔(はし)る」と言うのである。また「机(き)」は人が依存して身を安んずる存在。上卦巽の木が互体震(二三四)に乗っている。すなわち「机(き)」とは九五を指している。
 震には「奔(はし)る(すみやかに前に進む)」という意味もある。九二は剛健にして中庸の徳を具えているが、下卦坎の主爻だから、自分自身が険難に陥っている。渙散の時はまず自分の身を安全な所に置いて(職を辞して)、様子を見ながら天下の艱難を救うべきである。渙散の時には速やかなことが吉運を招き寄せる。それゆえ「渙のとき其(その)机(き)に奔(はし)る」と言うのである。
 九二は速やかに九五の所に行くべきと云う教訓である。「悔(くい)亡ぶ」の「悔(くい)」とは、自分の身が険難に陥ることを云い、「亡ぶ」とは、その険難から脱することを云うのである。
 象伝に「願(ねがい)を得(う)る也」とあるのは、机(き)(九五を指す)に依存して、自分の身を安全な所に置き、自分の険難を回避してから、天下の険難を救うべきだと云うことである。
 九二は険難の真っ只中にあるがゆえに、天下の険難を救う時には、九五に頼って自らを安全な所に置き、天下の険難を救う機会を窺うべきである。

六三。渙其躬。无悔。
象曰、渙其躬、志在外也。
○六三。其(その)躬(み)を渙(ちら)す。悔(くい)无(な)し。
○象に曰く、其(その)躬(み)を渙(ちら)すとは、志、外(ほか)に在る也。
 六三は陰柔不中正の身で、内卦坎の極点に居て、心配事が自分の身に及んでいる。自分自身が険難の真っ只中にある。
 けれども、陰陽応ずる関係にある上九が支援してくれるので、険難は自然に消滅する。自分の身の安全を計り、上九の支援により険難から脱出して、国難を救うべく様子を窺っている。
 渙散の時において、六三は下卦坎水に属し、上九は上卦巽風に属している。六三は上九に応じている。水が風によって散じ、木が水を得てすくすくと育つように、陰陽相応じて渙散するのである。それゆえ「其(その)躬(み)を渙(ちら)す。悔(くい)无(な)し」と言うのである。
 外部環境が険しく内部環境も困難に陥る。困難の中にあっても、何とか困難から脱出して国難を救わなければならない。
 象伝に「志、外(ほか)に在る也」とある。六三の志を実現するためには、外卦に在る上九の力を借りて国難を救いなさいと云うことである。

六四。渙其羣。元吉。渙有丘。匪夷所思。
象曰、渙其羣。元吉、光大也。
○六四。其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉。渙のとき丘(きゆう)有り。夷(つね)の思う所に匪(あら)ず。
○象に曰く、其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉とは、光大(おおい)なる也。
 「其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す」の「羣」は、「民衆」である。「渙のとき丘(きゆう)有り。夷(つね)の思う所に匪(あら)ず」とは、六四を賛美しているのである。
 六四は柔順で正しい地位を得て九五の君主の側近としての役割を全うしている。上卦巽の主爻であり、渙の時の主人公でもある。剛健にして正しい位に在る九五の君主と陰陽比する関係に在り、君主を補佐して民衆の険難を解決する。大きな険難を解決する忠実な側近として、君主から信頼されているのである。
 九五の君主も六四の側近も応爻がない。上卦巽の風によって、下卦坎の水を離散して、民衆を救う形である。吉運を招き寄せる形なので「其(その)羣(ぐん)を渙(ちら)す。元吉」と言うのである。
 渙散の時には、剛健なやり方だけでは事を解決できない。柔順なやり方だけでも事を解決できない。六四は柔順な性質で剛健にして中正の徳を具えている九五の君主の側近としての役割を全うするので、民衆の険難を解決することができる。
 六四の働きがあるから民衆が救われる。六四に感謝する民衆は丘のように沢山集まる。六四の働きにより険難を脱して、民衆の心が一つになる。それゆえ「渙のとき丘(きゆう)有り」と言うのである。
 六四が実行することは、誠に大切な事業である。その事業が成功することは民衆を救うことになる。六四は英雄である。だが、凡人には英雄の気持ちはわからない。このことを「夷(つね)の思う所に匪(あら)ず」と言って、六四の功績を讃えているのである。
 論語に「君子は恵にして費やさず(恵んでも、ばらまいたりしない)」とあるが、六四は民衆のために必要な事業を実行して、その事業が成功するから、民衆はその恩恵を賜る。それゆえ「光大(おおい)なる也」と言うのである。
 六四は九五の君主の側近としての役割を全うする。私利私欲を追求する人は、心が暗くて小さい。私利私欲に囚われずに公に奉ずる六四の放つ光は高大で遍(あまね)く民衆を照らしてくれる。
 天下国家が険難に陥れば、ほとんどの人が自分のことしか考えなくなる。六四は自分のことはさておき、みんなのことを考えるので、小高い丘のように自分とみんなと心が一つになる。己の利益よりもみんなの利益を大切にするのである。

九五。渙汗其大號。渙王居。无咎。
象曰、王居无咎。正位也。
○九五。渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす。渙のとき王居(お)る。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、王居(お)り、咎(とが)无(な)しとは、位を正しくする也。
 「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす」の「大(たい)號(ごう)」とは、大政令のことである。民衆を救うために発せられる大政令である。
 九五の君主は剛健にして中庸の徳を具えている。天下の険難を自分のこととして考え、険難を解決するために、悩み苦しみ考え抜いて、心の中は汗がびっしょりになる。
 王さまは天下国家のことだけ考えて自分のことは考えない。民衆のことを自分のことのように考え、天下国家を自分の家族のように考える。自分の身を粉にして民衆のために捧げ、私利私欲は一切ないのである。その天命は天下国家に轟き渡り、民衆を険難から救い出す。王さまが汗だらけになって民衆を救うのである。それゆえ「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす」と言うのである。
 人が誰かのために心から苦労して働く時は汗びっしょになる。王さまにとって、天下国家の険難は、自分の病と同じである。天下国家の心配事は王さまの思いやりの政治によって救われる。自分の病気は熱が出るから治る。王さまの言葉は天下国家に轟き渡り、大政令となる。天下国家の心配事は雲散霧消するのである。
 王さまが発する大政令には逆らってはならない。王さまが発する汗は誰にも止められない。王さまの発する大政令は民衆を救うためのものである。以上は、天下が泰平になり国が治まるための、禅問答のように難解な問題でもある。
 幸いなことに九五の王さまの直ぐ下には柔順で地位が正しい側近六四が居る。六四は渙の時の主人公だから、九五は六四に非常事態を救済するための大号令を発して、天下国家の心配事が雲散霧消するように導く。渙の時の険難から脱出すれば、九五の王さまは偉大な王さまとして民衆から支持される。何ら恥じることはなく、問題は一切生じない。以上を「渙のとき其(その)大(たい)號(ごう)を汗にす。渙のとき王居(お)る。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 天下が渙散するのは、民衆に課された賦役が厳しくて、民衆が疲弊しているからである。賦役を民衆に実行させるために、過酷な刑罰を執行するので、民衆は手足を伸ばすこともできないほど追い詰められている。以上のようであるから、民衆は朝廷を怨むようになり、政治を嘆き悲しむようになる。終に社会は瓦解して、収拾できない状態にまで陥ってしまう。
 このような状況に至れば、王さまが大号令を発しない限り、天下国家を治めることはできない。それと同時に予算を投入しなければ、民衆の心を捉えることはできない。
 それゆえ、王さまは大号令を発して、天下国家を治め、民衆の心を一つにする。王さま自らが財産を投じて、困窮した民衆を救うのである。民衆が従わないはずがない。まずは、民衆の心を捉えて、民衆の支持を取り戻すことが肝要である。
 象伝に「位(くらい)を正しくする也」とあるのは、九五の王さまが剛健にして中庸の徳を発揮して、側近六四と陰陽協力し、天下国家の険難を渙散すると云うことである。九五の王さまは、正統派の君主として、世の中を正すのである。

上九。渙其血。去逖出。无咎。
象曰、渙其血、遠害也。
○上九。其(その)血(ち)を渙(ちら)す。去りて逖(とお)く出づ。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)血(ち)を渙(ちら)すとは、害に遠ざかる也。
 「其(その)血(ち)を渙(ちら)す」の「血」は、六三を指している。また、民衆が塗炭の苦しみに陥ることを「血」と表現している。人間の身体の中に血が正常に流れていれば健康だが、血の流れが滞れば病に罹る。下卦坎を血に例える。坎は血の形をしている。
 人の心が動揺することを「去りて逖(とお)く出づ」と言う。上卦巽風に属する上九が下卦坎の血に属する六三に応じている。すなわち、巽の風が坎の血を渙散する。あるいは、下卦坎の険難から離散するのである。上九は外卦に居るので、内卦の険難から離れている。このことを「去りて逖(とお)く出づ」と言うのである。
 上六は渙の時の終極に居て、高尚な志を抱いている。九五の君主の相談役として、天下国家を険難から救う役割を担っている。大いに苦労して天下国家を険難から救うのである。
 天下国家を険難から救うためには大いなる苦労が伴う。渙の時の終極に居て、天下国家の険難を救うために、武力を用いて悪人を討伐する。それゆえ「其(その)血(ち)を渙(ちら)す」と言うのである。
 自分は名誉を求めず、自分が立てた手柄を人に譲って、民衆を立てる人物である。それゆえ、人から嫉(ねた)まれることなく、天下国家の険難を救うことができるので「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 以上のことを象伝では「害に遠ざかる也」と言っている。上九が天下国家の険難を救うので、民衆は障害を受けたり、心配したりすることがなくなるのである。
 易経の考え方として、険難の真っ只中に在る人には、険難から脱出する方法を説き、険難から脱出した人には、再び険難に襲われない方法を説くのである。
 上九は外卦に居て巽の高尚(巽順で清潔)な性質を具えている。人と争うことを好まず、自己主張をしない。だから、自分が成功を成し遂げても、社会から身を引いて超然としている。それゆえ「咎(とが)无(な)し」と言い、「害に遠ざかる也」と言うのである。

 

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