呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 327 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

55.雷火豊

□卦辞(彖辞)
豐、亨。王假之。勿憂。宜日中。
○豐は亨る。王、之に假(いた)る。憂ふる勿(なか)れ。日(ひ)中(ちゆう)に宜し。
 豊は下卦離、上卦震。離は火、震は雷。雷電轟き渡る形である。上に雷が鳴り響いて、閃光が大地を遍く照らす。雷電轟き渡り、影響力は遠くに及ぶ形である。
 また上卦震は東の方角であり、下卦離は明るい太陽である。太陽が昇ろうとして東の空は徐々に明るくなる。
 まだ見える星が光を放っている時に太陽が昇り始める。太陽はグングンと勢いよく昇るので「豊」と名付けたのである。
 「豊」と云う字は山の上まで田畑を開拓して五穀を収穫すると云う意味である。五穀豊穣の年を豊年と云い、人々がこれ以上満足できる時はない。神仏に感謝する時。運勢で云えば、世運隆盛の時。人民の衣食が充実して国が豊かになる時が豊の時である。

□彖伝
彖曰、豐大也。明以動。故豐。王假之、尚大也。勿憂、宜日中。宜照天下也。日中則昃。月盈則食。天地盈虚、與時消息。而況于人乎。況于鬼神乎。
○彖に曰く、豐は大なる也。明かにして以て動く。故に豐なり。王、之に假(いた)るとは、大を尚(たつと)ぶ也。憂うる勿(なか)れ、日(ひ)中(ちゆう)に宜しとは、宜しく天下を照らすべき也。日中すれば則ち昃(かたむ)く。月盈(み)つれば則(すなわ)ち食(か)く。天地の盈(えい)虚(きよ)は、時と與(とも)に消(しよう)息(そく)す。而(しか)るを況(いわ)んや人に于(おい)てを乎(や)。況んや鬼神に于(おい)てを乎(や)。
 人間社会に当て嵌めれば、内卦離は明らかに事に臨む時なので、何の疑いも抱かない。外卦震は雷だから星雲が立ち昇るような時である。だから、豊の時は気運が甚だ盛大で、何事も思い通りにならないことはないのである。
 一人ひとりが気運盛大になり、一家一族が豊の光を受けて繁盛し、プラスの影響は周辺に及んで、郷里全体が繁栄する。周辺に居る人々や地域全体がその恩恵を受ける時である。以上を「豊は大なる也。明かにして以て動く。故に豊なり」と言うのである。
 豊の時は繁盛・繁栄して多くの利益を有することになるので、驕り高ぶらないようにすることが肝要である。今の繁栄している状態を維持していくためには、油断すると涌き起こってくる慢心を抑えて、謙譲の心を忘れないように努力すべきである。それゆえ「王、之に假(いた)る」と言うのである。
 「王」とは「帝王」や「トップリーダー」に限定されるものではなく、あらゆる指導者、あらゆるリーダー、万人に当て嵌めるべきである。人々はみな「王」の心を有している。「王」とは天と地と人の三つを一つに繋げる存在である。人間が生まれた時から有している「良心(謙譲の心)」である。
 「之に假(いた)る」とは、人間が生まれた時から有している「良心」によって、あらゆる事を引き受けることである。この「良心」に到ることを「致良知」と云うのである。
 これは誰にでもできることではない。これができるのは大度量を有する人物である。才能や知識に乏しい小人の及ぶところではない。それゆえ「大を尚(たつと)ぶ也」と言うのである。
 天地の道は陰陽消長するので、豊の時は長くは続かない。豊が繁栄を極めれば、凶運がやって来る。豊の時に対処するのに、「足るを知る」ことを忘れれば、上卦震の雷が妄動し、下卦離の太陽が覆われて昼間なのに真っ暗になり星が見えるようになる。このことを六二の爻辞に「日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言い、九三の爻辞に「日(ひ)中(ちゆう)に沬(ばい)を見る」と言うのである。
 「斗(と)」も「沬(ばい)」も星の名前である。真っ昼間なのに太陽が覆われて真っ暗となり、星が見えると云うのは尋常ではない。星は太陽が沈んで夜になり空が真っ暗になるから見えるものである。
 自らが光を発するのではなく、太陽の光を浴びてその姿を確認できる。太陽は自ら光を発するので、日が昇り沈むまで大地を明るく照らし続けるのである。
 豊の時は太陽が真上にあって大地を遍く照らす時である。何とも雄々しい時であるが、何時までもそういう時が続くはずがない。それゆえ「日(ひ)中(ちゆう)に宜し」と云う戒めの言葉がある。
 易を学ぶ者は、ここに着眼しなければならない。豊の互卦は沢風大過である。大過は中身がギッシリと詰まっているのに、建物が脆弱だから、棟(むな)木(ぎ)が撓(たわ)んでしまう形である。それゆえ、何かを為し遂げようとすると棟(むな)木(ぎ)が撓(たわ)み建物が壊れそうになり、難儀する時である。このような組織や社会を治めることは容易ではなく、安定した状態に保つことはすこぶる難しい。
 一般に創業よりも守成が難しいと云われる。何事も安定した状態を保つことは容易ではない。だが、闇雲に心配していても仕方がない。豊の時はやがて凶運に変わり衰退していくことを覚悟しつつ、盛大に繁栄している時を全うすべきである。
 どのような時代であれ、どのような時であれ、中庸の徳を具えていれば何とか乗り越えることができるが、中庸の徳を欠いているとどうにもならないものである。
 豊の時は盛大に繁栄するが、やがて凶運が訪れて昼間なのに真っ暗闇になるほど行き詰まることを覚悟しつつ、中庸の徳で対処すべきである。太陽が常に中庸の徳を発揮するように、依怙贔屓することなく遍く世の中を照らし続ければ、豊の繁栄を維持することができる。このことを「憂(うれ)ふる勿(なか)れ、日(ひ)中(ちゆう)に宜しとは、宜しく天下を照らすべき也」と言うのである。
 この卦は離為火の形に似ているが上爻が陰爻である。太陽が真上に来た時に月と重なり日蝕現象となる。それゆえ「日(ひ)中(ちゆう)すれば則ち昃(かたむ)く。月盈(み)つれば則ち食(か)く」と言うのである。
 太陽が東の空から昇る時は光を四方八方に照らしているが、天上に昇り日暮れに向かうと、その勢いを失い、夕方になると段々暗くなり、終には西の空に沈んで真っ暗になる。
 月も同じように、十五夜の満月になれば誰もが空を見上げて感動するが、その後は形を欠いていきやがて三日月になって新月になる。天地の道はこのように循環(陰陽消長)するのである。
 春になれば花が咲き、夏になれば実が結び、秋になれば収穫して、冬になれば収穫したものを蔵にしまう。万物はこのように陰陽消長して生まれては育ち、育っては実り、やがて枯れて、また生まれるのである。
 以上のようであるから、自分の人生設計から始まり、家族経営、企業経営、組織経営、地域経営、国家の経営(治国平天下)に至るまで、栄枯盛衰があることは天地の法則である。
 だが、あらかじめ、このことを知っていて、物事の栄枯盛衰に対応できる人は滅多に居ない。少なくとも、このことを知っている人は、五穀豊穣、豊作の年であっても、食欲の任せるままに食べ尽くしてしまうことなく、これから不作の年が来ることを予測して、備蓄しておくべきである。
 また、国政を司る人は、天下泰平の時にも慢心して驕り高ぶることなく、将来の事変に備えて手を打っておく。このことを「天地の盈(えい)虚(きよ)は、時と與(とも)に消息す」と言うのである。
 国家の治乱興亡や人間社会の盛衰や得失など、全てを天命に任せて、自分の力の及ぶところは一つもないと考えている人は、陰陽の原理原則(易の教え)を知らない愚かな人である。
 陰陽の原理原則(易の教え)は、吉凶悔吝に見られるように、凶運はやがて吉運に変化して、吉運もやがては凶運に変化するという法則だから、陰陽の原理原則(易の教え)をよく理解して、凶運から吉運に変化する時の法則や吉運から凶運に転落する時の法則を学び、吉運を維持すべきである。
 それゆえ「憂ふる勿(なか)れ。日(ひ)中(ちゆう)に宜し」という教えが書いてある。人間の感情を考えると形のあるものは認識できるが、形のないものは認識できない。太陽や月の満ち欠けや誰もが認識できるが、人間社会の栄枯盛衰は認識できないのである。
 また、人間社会の栄枯盛衰を認識できる人でも、神仏の陰陽消長の原理原則を理解することは容易ではない。雷火豊の時を理解する秘訣はここにある。
 生老病死は天地の法則である。生まれたものは必ず死んでいく。けれども、次々に新しいものが生まれて、全体とすれば生成発展し続ける。経済的に裕福な人・社会的地位の高い人がいつまでも、その経済力や社会的地位を維持できるわけではない。経済的に貧しい人・社会的地位の低い人がいつまでも、そのままでいるわけではない。人の道は天地の道に順うのである。
 神仏は天地の道そのもの。人も神仏もつながっている。神仏は生成発展の原理原則である。生成発展は生老病死の法則による。時に盛衰があるように、人にも社会にも国家にも盛衰がある。
 個別には盛衰に見えるけれども、全体を見れば生成発展している。雷火豊の時は盛大に繁栄している状態から一気に衰退する状態に陥る時である。以上のことを「而(しか)るを況(いわん)んや人に于(おい)てを乎(や)。況(いわ)んや鬼(き)神(しん)に于(おい)てを乎(や)」と言うのである。

□大象伝
象曰、雷電皆至豐。君子以折獄致刑。
○象に曰く、雷電皆至るは豐なり。君子以て獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す。
 この卦は上卦震を雷、下卦離を電(閃(いな)光(びかり))とする。雷電相和合すれば、その勢いは盛大になる。また、離は日(太陽)であり、震を動く性質と見る。日(太陽)が昇り(動き)ゆけば、天下を周く照らしてくれる。
 離を明るい性質、明智と見て、震を威力や勇気と見ることもできる。明智と勇気を兼ね備えれば、その威力は盛大である。
 「雷電皆至る」とは、威力と明智を兼ね備えた形である。それゆえ「獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。
 監獄を用意すれば、悪人が大手を振って天下を渡り歩くことができなくなる。社会は悪人を見逃すことなく、人々は安心して生活できるようになる。また、刑罰を執行すれば、悪人を裁くことができるので、悪人は恐れ戦(おのの)いて心を入れ替えることにもつながる。社会からは悪人が一掃されて平和が訪れる。
 豊の時は、下卦離であり民に明智がある時なので、為政者は民の心を良く理解して、善行を勧め、悪事を戒めて、公平な政治を行うべきである。
 「獄を折(わか)ち刑を致す」の「折(わか)ち」とは、断ずることである。雷が稲妻を発光して人々の目を覚ますことをイメージしている。是非善悪を判断して裁断するのである。「致す」とは下卦離の明らかという性質による。罪の軽重を判断して刑を実行するのである。
 君子は以上のような意味を含んでいる豊の形を見て、君子たる者、威厳と明智がなくてはならないことを認識し、物事の是非善悪を考えて、権威のある政治を行い、刑罰をしっかり定めて悪人を断罪し、是非善悪の基準が行き届いた社会を構築する。
 刑罰を定めて悪人を断罪しても政治に権威がなければ民衆は納得しない。政治に権威があっても刑罰が定まってなく悪人が野放しになっていれば社会は治まらない。政治に権威があり刑罰が定まって悪人を断罪することができてはじめて民衆は安心して暮らすことができるのである。
 人間社会には善人だけでなく悪人が必ずいる。刑罰を定めて断罪しなければ社会が治まらない。それゆえ、「君子以て獄(ごく)を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。
 易経の上経に火雷噬嗑と山火賁があり、下経に雷火豊と火山旅がある。いずれも離の明智と云う性質を具えており、大象伝に「刑罰を執行する」と云う内容のことが書いてある。
 火雷噬嗑は上卦離であるから、明智が上に位置している。すなわち、君子が上に存在すると云うことである。
 雷火豊は下卦離であるから、君子は下に存在していることになる。つまり、君子が現場に居て刑を執行する形になっている。それゆえ「獄を折(わか)ち刑を致す」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初九。遇其配主。雖旬无咎。往有尚。
象曰、旬雖无咎、過旬災也。
○初九。其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う。旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し。往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り。
○象に曰く、旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)しとは、旬(ひと)しきを過ぐれば災(わざわい)也(なり)。
 初九は明智を具えて行動する人物。勢力盛んな時。爻辞は内卦離の上に外卦震(陰爻が二つある)が乗っているので、陰爻によって明智が覆われると解釈して、明智ある人は愚昧な人に阻害され、賢人は凡人に理解されないとする。
 今、初九は暗愚に覆われる時であるが、六五と上六の二爻とは応比の関係にないから直接被害が及ぶことはない。それゆえ、ただ闇に覆われるという意味に解釈しない。
 初九と九四とは陽爻同士なので関係を築き難いが、初九は内卦離の明るいという性質を有しており、九四は外卦震の動くという性質を有しているので、明るい性質と動く性質が助け合う関係を築き上げる。明るく動くことによって闇に覆われるという災難を避けることができると解釈することができる。
 豊の時が盛大になる九四の時に、九四の大臣に宰相を任せて志を同じくして補佐する関係になれば、初九は賢人として活躍することができる。それゆえ「其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う」と言うのである。
 「配主」の「配」は身体と身体がぶつかり合うことであり、初九と九四が共に陽爻であることを暗示している。「主」とは九四の尊称である。「遇う」とは偶然に会うという意味である。
 「旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し」の「旬(ひと)し」とは、均一なことである。初九と九四が同じ陽爻であることを云う。本来なら陽爻と陽爻がぶつかり合って咎を生じる形だが、闇に覆われる時に出逢って、明るく動くことによって災難を脱することができる。陽爻同士が同じ志を抱けば相応ずると云う易の約束が当て嵌まるので、咎を免れることができる。それゆえ「旬(ひと)しと雖(いえど)も咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 初九に才能があっても九四と出逢うことがなければ、才能を発揮することはできない。九四の大臣は賢いので初九を利用して王さまに取って代わろうとは思っていない。
 初九も九四も咎められるようなことはしない。お互い邪魔し合うことなく助け合う。「往(ゆ)きて尚(たつと)ばるる有り」とは、初九が九四のもとに駆け付けて共に動けば、九四は初九を大事にすると云う意味である。このことを「其(その)配(はい)主(しゆ)に遇う」と言っている。初九は豊の時を救おうとして九四のもとに駆け付けるのである。
 象伝に「旬(ひと)しきを過ぐれば災(わざわい)也」とあるのは、初九が自分の才能に溺れて高慢な態度をとれば災難に遭うぞと戒めているのである。同じ勢力を持っている者同士は互いに意地を張り合うものである。初九が九四に対して謙虚でなければ、九四は快く思わず、お互いぶつかり合って、災難を招き寄せるのである。
 豊の時に対処するには、どのように対応するかが問われるのである。下位に在る初九が上位に在る九四のもとに駆け付けるのは、あくまでも九四を補佐するためであり、自分の才能を世間に誇るためであってはならない。

六二。豐其蔀。日中見斗。往得疑疾。有孚發若、吉。
象曰、有孚發若、信以發志也。
○六二。其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る。往きて疑(ぎ)疾(しつ)を得(う)。孚(まこと)有り發(はつ)若(じやく)すれば、吉。
○象に曰く、孚(まこと)有り發(はつ)若(じやく)すとは、信以て志を發する也。
 「蔀(ほう)」は明るい光を覆う存在である。「蔀(ほう)」が大きい時は社会は暗くなる。六二は内卦離(明るい性質)の主爻である。中庸の徳を具えて正しい位に在る。臣下として賢明な存在である。
 応じる六五は陰湿で暗い性格であり位も正しくない。だから、六二が忠実な賢臣であることを認識していない。それどころか、六二にとって六五は害悪をもたらす存在である。しかも六二と六五の間には九三・九四と云う陽爻が存在しており、六二の存在を覆い隠している。それゆえ「其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす」と言うのである。
 六二は下卦離の真ん中に位置しているから明るい性質だが、その存在を覆い隠されている。だから、昼間なのに真っ暗闇で夜のようである。星が見えるほどに暗い。だから「日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言うのである。「斗(と)」は星の名前である。互体(三四五)兌を星と見立てているのである。六五の暗君は賢臣六二を覆い隠すこと甚だしいことを例えているのである。
 六二の忠臣は真心で六五の王さまを補佐しようとするが、いくら王さまを補佐しようと行動しても、信用されないどころか疑われてしまい、あげくには憎まれることになる。それゆえ「往きて疑(ぎ)疾(しつ)を得(う)」と言うのである。
 この時に対応して、六二は真心に磨きをかけて、善行を積み上げて六五の王さまを感動させることにその存在意義がある。それゆえ「孚(まこと)有りて發(はつ)若(じやく)すれば、吉」と言うのである。
 「吉」とは、王さまに信頼されて、臣下としての役割を果たすと云う意味である。勢力盛んな時は必ず障害が発生するものである。真心を貫いて危機的状態を脱出すべきである。
 象伝に「信以て志を發する也」とあるが、「信」とは六二が臣下として忠実なので周りの人々から信頼されていると云うことである。「志」とは六五の志のことである。時勢が厳しい状況なのにそれを認識せずに、無理矢理王さまの心を開こうとして、正しいことを進言しても、王さまを畏れることがなく、自分が正しいと思って次から次に王さまに進言するようなやり方をとれば、王さまから怨まれて、王さまを補佐することはできない。
 では一体どうすればよいのであろうか。君子が上位の人に使える場合、上位に在る人の心を理解しなければならない。真心を尽くして王さまの心を動かすことが求められる。真心を尽くすとは、相手が蒙昧であろうが柔弱であろうが不正であろうが、真心を貫くことである。六五の王さまに真心を尽くして訴え続ければ、やがては気持ちが通じる時がくる。以上のことを、六五の爻辞に「章(しよう)を來(きた)す、慶(けい)譽(よ)有り。吉」と言うのである。

九三。豐其沛。日中見沬。折其右肱。无咎。
象曰、豐其沛、不可大事也。折其右肱、終不可用也。
○九三。其(その)沛(はい)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に沫(ばい)を見る。其(その)右(う)肱(こう)を折る。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、其(その)沛(はい)を豐(おおい)にすとは、大事に可(か)ならざる也。其(その)右(う)肱(こう)を折るとは、終に用ふ可(べ)からざる也。
 「沛(はい)」とは厚い日除けのようなものである。六二の爻辞にあった「蔀(ほう)」に比べてより厚いので、お日様の光をほとんど通さないのである。「沫(ばい)」とは小さな星の名前である。
 九三は剛健の性質で下卦離の明るい中に居る。大事業に対応できる才能を有する人物である。だが下卦離明の極点に居るから動くことができない。しかも上六が害応として九三を邪魔する。上六は暗愚のお頭だから、その害悪は六五よりも甚だしいのである。
 昼間なのに真っ暗闇になる。六二の時よりも真っ暗の度合いが非道くなる。本来は九三と上六は応じる関係にあるが、上六が暗愚のお頭だから、自分に媚(こ)び諂(へつら)わない者を邪魔するのだ。それゆえ「其(その)右(う)肱(こう)を折る」と言うのである。
 「右(う)肱(こう)」とは利き腕のこと。利き腕の骨が折れれば、明智があっても何もできない。九三は正義を主張するから利き腕を折られてしまう。殷王朝の「比(ひ)干(かん)(紂王の叔父、紂王を諫めたので胸を裂かれて殺された)」と云う人物のようである。自分の責任ではないから「咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 象伝に「大事に可(か)ならざる也」とあるのは、九三は剛健にして明智を具えているが王さまを補佐して大事を成し遂げられる時ではないことを示しているのである。「終に用ふ可からざる也」とあるのは、九三は上六に用いられることはないと云うことである。

九四。豐其蔀。日中見斗。遇其夷主、吉。
象曰、豐其蔀、位不當也。日中見斗、幽不明也。遇其夷主、吉行也。
○九四。其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る。其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)へば、吉。
○象に曰く、其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にすとは、位(くらい)當(あた)らざる也(なり)。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見るとは、幽(くら)くして明らかならざる也(なり)。其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)ふとは、吉の行(こう)也(なり)。
 「其(その)夷(い)主(しゆ)に遇(あ)へば、吉」の「夷(い)主(しゆ)」の「夷(い)」とは、先輩後輩の輩(ともがら)のこと。「主」とは、輩(ともがら)の人徳を称賛している言葉である。
 九四は陽爻陰位で王さまの側近だが、王さまが暗愚なので陽剛の才能を覆い隠されている。九四のすぐ上に居る暗君六五が九四を覆い、六五のすぐ上に居る上六が暗君六五を覆っているから、六五はさらに暗くなる。九四はその悪影響により陽剛の才能を覆われている。それゆえ、昼間なのに深夜のように真っ暗闇になる。だから「其(その)蔀(ほう)を豐(おおい)にす。日(ひ)中(ちゆう)に斗(と)を見る」と言うのである。
 九四と初九は応じる位置関係にあるが、陽爻同士なので和合することが難しい。九四は上卦震(動く性質)の主爻であり、初九は下卦離(明るい性質)の一員なので、それぞれ陽剛の徳を具えている。上六と六五の陰爻が天下国家を覆って昼間なのに真っ暗闇になる。言わば王さまと相談役の過失であるが、臣下にも責任が全くないとはいえないのである。
 初九と九四が共に天下国家を救おうという志を抱いて暗愚な王さまと相談役を補佐すれば、この真っ暗闇な状態を脱することも可能である。王さまが暗愚でも、賢臣が一生懸命補佐すれば、この真っ暗闇な状態を何とか脱することも不可能ではない。それゆえ「其(その)夷(い)主(しゆ)に遇えば、吉」と言うのである。
 九四は王さまを補佐する大臣の地位に在り、賢臣の力を借り、天下国家を救おうという志を同じくして、暗愚な王さまを補佐する。それゆえ「吉」と云う言葉が用いられている。
 象伝に「位(くらい)當(あた)らざる也(なり)」とあるのは、九四が陽爻陰位であることを表現している。「幽(くら)くして明らかならざる也(なり)」とあるのは、九四が六五の害悪に覆われることを表現している。「吉の行(こう)也(なり)」とあるのは、九四と初九が志を同じくして真っ暗闇の天下国家を脱出することを表現している。「吉」と云う言葉が用いられているのは、九四が行動するからである。

六五。來章。有慶譽。吉。
象曰、六五之吉、有慶也。
○六五。章(しよう)を來(きた)す。慶(けい)譽(よ)有り。吉。
○象に曰く、六五の吉は、慶(よろこび)有る也。
 「章(しよう)を來(きた)す」の「章」とは文章が有する才能や徳性のこと。「慶(けい)誉(よ)有り」の「慶」とは幸せや慶びが自分の身に集まること。「誉」とはその名声が世間に広がることである。「吉」とは国運が大いに盛んになることである。
 この卦の気運は盛大だが、六五と上六の陰爻が天下国家の賢者を覆い隠している。九三と九四の陽爻が剛健の性質でグイグイ天下国家を治めて豊の時の時勢を誤らない。しかし、六五の王さまが賢者でなければ天下国家は真っ暗闇に陥ってしまう。
 六五の爻辞を以上の切り口で見れば、六五の相談役にあたる上六は柔弱にして中庸の徳を欠いており卦極に居る。暗黒社会の頭領にして昼間を真っ暗闇にしている張本人である。六五は柔順にして中庸の徳を具えて、柔弱ながらも豊の時の王さまの地位に就いている。そもそも豊の時の盛大さを保つ力量はないので、上六を制して天下国家を正しい形に戻すことはできない。それどころか、上六に覆い隠されて、自分の地位を保つことすら容易ではない。それゆえ聖人は、六五の王さまに天下国家を安泰にするための道を教えているのである。
 また、六二と六五は応じる関係にあるけれども、陰爻同士なので和合しない。以上のことから六五の王さまは自分の地位を守ろうと思えば、応じる関係に在る六二の賢臣(下卦離の明智の主である)を招き入れて、心を虚しうして謙譲の徳で接する。
 六五と六二は昼間なのに真っ暗闇に陥っている天下国家を救おうという志を共に抱く。そこで六五は六二に礼を尽くして国政を補佐させる。六二は本来具えている明智を発揮して暗黒社会は徐々に明るく開けていく。そのようになれば、王さまの地位を守るだけでなく、名君の誉れも聞こえるようになり、崩壊しかかった天下国家を安寧に導くことができる。それゆえ、「章(しよう)を來(きた)す。慶(けい)誉(よ)有り。吉」と言うのである。
 六二と六五が和合するから天下国家は安泰になる。上卦震雷が下卦離明に応じる。それゆえ「章(しよう)を來(きた)す」と言うのである。
 六五は己の心を虚しうして臣下の明智を採用する。それゆえ野に埋もれていた明智を具えた人々が集まって、闇に覆われた天下国家を明るく照らし出す。民は慶び、王さまは名誉を得て、明るい世の中が実現するのである。
 互体兌(三四五)は悦楽する性質がある。上卦震には声という意味がある。「慶(けい)誉(よ)有り」の形である。
 暗君が名君に変身した。これ以上の慶事があるだろうか。自分は柔弱でも剛健の人材を用いれば、その剛健の性質は自分の性質になる。自分が暗愚であっても明智の人材を用いれば、その明智は自分の明智となる。易経には、含む話と持って来る話がある。含む話は自分が含んでいるものを発揮させる。持って来る話は何かを持って来て何かを成し遂げるのである。
 この爻が変ずれば沢火革となる。革の九五の爻辞に「大(たい)人(じん)虎(こ)變(へん)す。未だ占わずして孚(まこと)有り」とある。熟慮すべきである。

上六。豐其屋。蔀其家。闚其戸、闃其无人。三歳不覿。凶。
象曰、豐其屋、天際翔也。闚其戸、闃其无人、自藏也。
○上六。其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす。其(その)家(いえ)を蔀(おお)ふ。其(その)戸(こ)を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)し。三歳まで覿(み)ず。凶。
○象に曰く、其屋を豐にすとは、天(てん)際(さい)に翔(かけ)る也。其戸を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)しとは、自ら藏(かく)るる也。
 「其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす」とは、自ら高慢になることである。「其(その)家(いえ)を蔀(おお)う」とは、自ら覆い隠すことである。豪華な屋敷を建てて高慢になることが、その家の人々を覆い隠すことになり、昼間なのに真っ暗闇になる。豊の時は昼間なのに真っ暗闇になる形をしている。世の中を真っ暗闇にするのは、六五と上六である。
 上六は暗黒の頭領である。世の中を真っ暗闇にするのは、自分自身が暗愚だからである。陰気な性格で自分を覆い隠してどんどん暗愚になり、それが人に及んで遂には世の中を真っ暗闇にしてしまう。救いようのない小人である。
 上六は六五の陰爻の上に居て豊の時の終局である。上卦震の動きが行き詰まって疲れが生じ、しーんと静まりかえっている。豊の盛大な勢いが行き詰まって真っ暗闇となり、衰退して凋落するのである。例えれば、お日さまが沈んで真っ暗になり、人も家も見えなくなった状態である。上六は高い所に居るので、そんな状況の中でも驕り高ぶって、さらに真っ暗闇になる。
 天下国家は暗黒社会となり、人々の心も真っ暗になる。これ以上暗くならないほど真っ暗である。どうにもこうにもならない状況なので「其(その)屋(おく)を豐(おおい)にす。其(その)家(いえ)を蔀(おお)う」と言うのである。
 驕り高ぶり自分のやりたい放題にする形である。上六は卦極に居て、誰も上六を助けてくれない。きわめて危ない状況である。それゆえ、「其(その)戸(こ)を闚(うかが)ふに、闃(げき)として其れ人无(な)し」と言う。
 どんなに時が経過しても、誰も助けてくれない。そのことを、「三歳まで覿(み)ず。凶」と言う。以上のようであるから、社会はますます暗黒となる。それゆえ凶なのである。
 象伝に「天(てん)際(さい)に翔(かけ)る也」とあるのは、明徳を喪失することである。天(てん)際(さい)とは明徳である。明徳が走って逃げていくのである。最上位に居て暗愚で高慢、誰の意見も聞こうとしないので衰運が頂点に達したのである。雷火豊の次は火山旅の時である。いつまでの豊の時は続かない。けれども上六は豊の極限であり暗黒社会の極みである。

 

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