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1989年6月12日ーさびしい「かるがも」の引越しー

そろそろ「かるがもの季節」になってきた。

大手町の三井物産・人工池から、かるがも親子が、

皇居の堀に引越しする時期が近づいたからだ。

例年は15日前後。


けれども、ことしは、さびしい引越し風景になりそうだ。

ことし、人口池に子がもが現れたのは、

先月の13日。

このときは八羽いた。

ところが、まず2羽が排気塔にとびあがったのはいいが、

下に降りる時、着水が失敗、死んでしまった。

その後も、一羽が水死、一羽が外敵(ネコらしい)に襲われて

死亡。

いまは、子がもは4羽しかいないという。


7年前のデビュー以来、毎年八羽以上が、

一列に並び、道路を横断していたのに・・・。

あと数日。4羽の無事を祈ろう。

1989年6月11日ー革命に失敗した中国ー

学生たちが中心になって始まった中国の民主化運動も、

ついに武力によって弾圧されてしまった。

共産主義国家である中国にとって、この民主化運動は

「反革命」だからだ。

「革命」という言葉は中国から来た。

「革」は「あらたまる」、「命」は「天命」のこと。

中国では「天子(王)」は、天の命令をうけて国を

治める人と思われており、その王朝が変わることを

「天命」が「革まる」、つまり「革命」といわれた。


だがいまでは、被支配階級(支配されているもの)が

支配階級を暴力で倒し、社会体制を変えることをいう。

いまの中国は武力革命で前の資本主義的中国を

倒してできた。


だから自分たちは革命政府だと思っている。

従ってこれに反対するものは「反革命」。

われわれからみると学生たちの方が「革命」だと

思っている。

中国は「革命」に失敗したのだ。

1989年6月10日ー梅雨入り宣言ー

気象庁は9日、東京にも「梅雨入り」を宣言した。

本当に、長い「前ぶれ」だった。

5月に1ミリ異常の雨が降った日は17日。

昭和38年の18日に続く、至上2番目の記録だそうだ。


この前も書いたように、梅雨は北の冷たいオホーツク高気圧

と南からの暖かい小笠原高気圧との接点が、

日本の上空にへばりついて前線となったものだ。

それが1月も早く、日本上空をうろうろしたためらしい。

この梅雨前線に似た現象はインドから東南アジア

中国にもある。


これらの地方が米の国なのもそのためだ。

梅雨の長雨が、イネの苗を成長させるのに絶好だからだ。

この地方は大昔、ほうってほいても稲穂があちこちで

波打っていたにちがいない。

しかし、今、日本の米の値段はもっとも高い。

そして雨だけが降る。

1989年6月9日ー「天安門の後に消えたアナウンサー」ー

中国の情勢は、まだ混とんとしている。

こんなときに、もっとも必要なのは情報だ。

社会主義国では、この情報が、政府によって

コントロールされているから、なお始末が悪い。

権力を握っている人間が、一方的に、自分に

都合のよい情報を流すからだ。

中国の北京放送も、人民日報という新聞も

学生が悪いというだけ。

だから軍隊も、本当に学生は国の敵と思って、

あのような、バカなことをしてしまう。


しかし、その中国にも、りっぱなジャーナリストがいる。

北京放送の外国人向け英語アナウンサー。

彼は与えられた原稿を読まずこう放送した。


「1989年6月4日、この日を記憶しておいてほしい。

中国の首都北京に重大な虐殺事件が発生しました」


その後、彼の消息は途絶えたままだ。

1989年6月8日ーカレーの市民ー

ロダンの有名な彫刻に「カレーの市民」と

いうのがある。

上野の国立近代美術館の前庭にも複製の一つが

展示されているので知っているだろう。


カレーというのは、フランスの北端にある港町で、

ドーバー海峡を挟んでイギリスに面し、

将来は、ここを起点に英仏海底トンネルをつくる

計画もある。


百年戦争(1337年から約百年間続いた英仏戦争)

のとき、この町がイギリス軍に包囲されたことがある。

このとき、イギリス王は、6人の市民の命と引き換えに、

カレーの町を許すといってきた。


ロダンの彫刻は、自ら名乗り出た6人の市民が

イギリス軍の陣地に向かう姿を彫ったものだ。

しかし彼らの顔は恐怖、後悔、悲嘆に暮れていた。

雄々しい英雄像を望んだ市民はこの像に反発、

除幕されたのは完成7年後の1895年6月3日。

英雄も死ぬのは恐いのだ。


2011年6月8日

英仏海底トンネルは1994年に開通式が行われた。


1989年6月7日ートルデシリアス(トルデシリャス)条約ー

その時代、時代の大国は、いつも勝手なことをして、

その国土を広げてきた。

有名なのが「トルデシリアス条約(トルデシリャス条約)」


いま、南米の国々の人々は、ほとんどスペイン語を話す。

だが、一つだけポルトガル語を話す大きな国がある。

ブラジルだ。

なぜだろう。


コロンブス(スペイン人)がアメリカ大陸を発見後、

そのころの二大大国、スペインとポルトガルの間で、次々と

発見される国の領有をめぐって、つねに争っていた。

そして最後にローマ教皇がこう決めた。

「アフリカの西端から1500キロの地点を南北に走る線の

西側をスペイン領にせよ」-

これをトルデシリアス条約という。

1494年6月7日のこと。

その直後、発見されたのがブラジル。

それは境界の東側にあった。

ただそれだけ。


1989年6月6日ー6月4日の3つの悲劇ー

1989年6月4日。

この日は、多分、歴史に残る記念すべき、

そして、悲しむべき日となるだろう。


一つは、きのうも書いたように、中国の

“血ぬられた天安門広場事件”

人民を解放するはずの人民解放軍が

人民に発砲、一説には、死者は二千人にのぼった。


二つ目は、イランの最高指導者ホメイニ師の死。

王国だったイランのパーレビー国王を追放、

アメリカ大使館員ら何百人を3年近くも人質にし、

アメリカをキリキリ舞いさせた人だ。

イラン人にとっては神様だった。

 

三つめはソ連の列車事故。

モスクワの郊外で、液化石油ガスの輸送管が破裂、

そのガスのたまったところに列車が突っ込んで

大爆発を起こし、夏休みのキャンプに向かう子供たち

500人以上が死んだ。


特に、“天安門広場事件”は、確実に、20世紀末の

最悪最醜の事件として歴史に残る。


1989年6月5日ー人民解放軍から権力防衛軍へー

国によって、軍隊の呼び方が違う。

普通は「国防省」というのが多い。

「国を守り、防ぐための軍」といった意味だ。

どこの国でも、他の国を攻専するための軍

などとはいわない。

どんなに、侵略していても、それは、自分の

国を守るために、やむを得ないもの、というのが、

各国の理屈だからだ。


だから、アメリカの軍を司っている役所は

「国防省」、日本は「防衛省」。


だが、中国では「人民解放軍」という。

悪い政治に苦しんでいる人民を助ける軍とでも、

いったらいいのだろう。


規律正しいのでも有名だった。

前の戦争でも、絶対に略奪しない軍隊といわれていた。


それなのに、北京では、銃を持たないデモ隊や学生を

何百人と銃で撃ち殺した。

もう人民解放軍ではない。

権力防衛軍になった。


※1989年6月4日(天安門事件)


1989年6月4日ー迷惑な山の遭難騒ぎー

この前、○○○ちゃんが、遅く帰ってきたときは、

本当に心配したよ。

誘拐、交通事故、突然の記憶喪失と、いろいろ、

悪いことばかり、考えるものだ。

まあ、何事もなく帰ってきて、よかった。

大人でも、ばかなことで、他人に心配かける

人がいる。

新聞をつくっていて、一番、腹がたつのは

山の遭難騒ぎ。


「予定の日になっても、帰ってきません」

「突然の吹雪で、ハイカーの安否が心配されます」


などと、テレビでも、よくいうだろう。

ところが、この登山者たちの多くは、無事別の

所に着いていて、そのまま、連絡もせず

帰ってしまっている。


その時、地元の捜索隊が血眼になって

探しているというのに。

あとで家族が捜索費を返さねばならない。

そういうことはやらないでほしい。


1989年6月3日ーソ連のフルシチョフ書記長ー

むかし、ソ連に、フルシチョフという書記長がいた。

現在の書記長はゴルバチョフ。

ソ連で最高の権力を持つ人だ。


丸坊主で、ずんぐりと小さいフルシチョフは、

ちょっと田舎のおじさんという感じ。

ユーモアがあり、機智にも富んでおり、

西側の人々にも愛された。


だが少々、野蛮で、国連でも気に入らない

演説には、靴をぬぎ、机をたたいて叫んだ。


でも平和愛好者だったことは確かだ。

1961年(昭和36年)の6月3日、オーストリアのウィーンで

アメリカのケネディ大統領と会談、米ソの平和共存の

道を開いた。

当時としては画期的なことだ。


けれども、ソ連を弱体化するものと、権力闘争に

破れて失脚。

あとはアパート暮らしだった。

そして、さびしく死んだ。

ゴルバチョフが、そうならなければいいが。