“コスメティックもろざし”〈五十〉
ブタクマは次の練習で相撲をとることにした。
相手は知子だけなので、今までのぶつかり稽古と特に変わりはないように思えるが、やはり、違う、もののようだ。
体は知子との練習で少しずつ勘を取り戻していた。が、精神面ではいまだに“相撲”を引きずっている。相撲が怖い、闘争をするのが怖かった。
しかし今知子を見捨てるわけにはいかない。かつての自分と同じ目を、同じく人に裏切られた知子を暗闇の中から救うことが出来るのは俺しかいない。事実薄皮を剥がすように知子は以前の輝きを放つようになってきた。それでも一度暗闇を知ってしまった者はそれを消し去ることは出来ない。心のどこかに隠して封印したり、認めて共存していくことは出来ても消し去ることは出来ないことをブタクマはわかっている。
そしてその出来事と向き合わなければならない時が必ず来ることを。
ブタクマは自分と知子の未来の為に歩き出した。
草刈部屋の前に着く。
草刈部屋は相撲界から完全に姿を消している。ただ依然として建物は残っていた。
ブタクマは部屋の前の道路に寝転んだ。
階段から転げ落ちた時と同じ位置、おそらく、同じ形。
電信柱の裏からおばさん達がひそひそとブタクマを指差してはいるが、ブタクマは静かに目を瞑る。記憶が走馬灯のように次々と展開していく。
通常走馬灯のようにと言えば産まれた時から順々に観るものと相場は決まっているが、ブタクマはまったくの逆、現在の自分から激流を遡る鮭のように産まれた川へと上っていく。
たどり着いた上流、流れが速く休めるものではない。己の全生命を賭けた生命の放出。死から生まれる生命。生きている限りつきまとう死。生と死のリンク。
ブタクマは静かに目を開けた。おばさん達の数が増えていること。車が通れずにアホみたいにクラクションを鳴らしている音が聞こえてきた。
ブタクマは立ち上がり部屋の玄関へと歩を進める。
ふぅー、と、大きく息を吐いて反転、スタスタと部屋の入り口の柱に近づいた。
ドカッ、
鉄砲一発。ビリビリと空気、大地が震える。もの凄い衝撃。おばさん達も黙りこんだ。
そしてブタクマは部屋を後にした。
木目調だが中身はコンクリートの柱に手形がくっきり残っていた。
このちょっとした騒動を、部屋の3階、カーテンの陰から一部始終を見ていた人物がいたことを誰も気づいていない。
「あいつ…、死んだと聞いたが…」
その人物はそっと闇の中へと消えていった。
続
相手は知子だけなので、今までのぶつかり稽古と特に変わりはないように思えるが、やはり、違う、もののようだ。
体は知子との練習で少しずつ勘を取り戻していた。が、精神面ではいまだに“相撲”を引きずっている。相撲が怖い、闘争をするのが怖かった。
しかし今知子を見捨てるわけにはいかない。かつての自分と同じ目を、同じく人に裏切られた知子を暗闇の中から救うことが出来るのは俺しかいない。事実薄皮を剥がすように知子は以前の輝きを放つようになってきた。それでも一度暗闇を知ってしまった者はそれを消し去ることは出来ない。心のどこかに隠して封印したり、認めて共存していくことは出来ても消し去ることは出来ないことをブタクマはわかっている。
そしてその出来事と向き合わなければならない時が必ず来ることを。
ブタクマは自分と知子の未来の為に歩き出した。
草刈部屋の前に着く。
草刈部屋は相撲界から完全に姿を消している。ただ依然として建物は残っていた。
ブタクマは部屋の前の道路に寝転んだ。
階段から転げ落ちた時と同じ位置、おそらく、同じ形。
電信柱の裏からおばさん達がひそひそとブタクマを指差してはいるが、ブタクマは静かに目を瞑る。記憶が走馬灯のように次々と展開していく。
通常走馬灯のようにと言えば産まれた時から順々に観るものと相場は決まっているが、ブタクマはまったくの逆、現在の自分から激流を遡る鮭のように産まれた川へと上っていく。
たどり着いた上流、流れが速く休めるものではない。己の全生命を賭けた生命の放出。死から生まれる生命。生きている限りつきまとう死。生と死のリンク。
ブタクマは静かに目を開けた。おばさん達の数が増えていること。車が通れずにアホみたいにクラクションを鳴らしている音が聞こえてきた。
ブタクマは立ち上がり部屋の玄関へと歩を進める。
ふぅー、と、大きく息を吐いて反転、スタスタと部屋の入り口の柱に近づいた。
ドカッ、
鉄砲一発。ビリビリと空気、大地が震える。もの凄い衝撃。おばさん達も黙りこんだ。
そしてブタクマは部屋を後にした。
木目調だが中身はコンクリートの柱に手形がくっきり残っていた。
このちょっとした騒動を、部屋の3階、カーテンの陰から一部始終を見ていた人物がいたことを誰も気づいていない。
「あいつ…、死んだと聞いたが…」
その人物はそっと闇の中へと消えていった。
続
“コスメティックもろざし”〈四十九〉
季節はもう秋深い。
知子は毎日のように相撲部に精を出していた。
相撲部となっているが知子はまだ相撲をしたことがない。ずっと基礎体力をつける練習ばかりやっている。
元々相撲がしたくて部活を始めたわけではないので、知子にはそんなことどうでもよく、相変わらずケーキ類とメシ、それから週2回、練習後ブタクマが作ってくれるちゃんこ鍋をたらふく食っている。
少しずつ厳しくなって行く練習でダイエットが期待されるものだが、やはり太り続け、90キロは軽く過ぎた。
そんな知子は学校中で浮きまくっている。
誰も彼もが知子に触れないよう注意していた。
辛うじてミチコとB子が変わらずに接してくれている。
本日も授業は滞り無く終了し、部活道の時間になった。
知子はミチコとB子に別れを告げ道場へ。
道場のロッカーに隠しているお菓子を食いながら運動着に着替える。
そのうちにブタクマがやってくる。いつもそうだ。
準備体操、ストレッチ、マット運動、受け身、いつも通りに淡々と進む。
知子はマット運動が好きだった。体重は増えたものの飛び込み前転などはとても高く、遠くに飛ぶことが出来た。丸々している体でクルクルと回転する様はとても可愛らしいものである。
いつもならランニングなどをする時間だが、この日ブタクマが、
「ちょっとこっち来い」と、呼んだ。
言われた通り近づいた知子をブタクマはいきなり知子の両脚を腕で刈った。
どしん、
知子は頭をバウンドさせてマットに後頭部を打った。
「初めはそんなもんだ。次からは頭を打たないように。アゴを引け。そして意識して受け身をとるな。なに、一週間もあれば誰でも出来るようになる。自転車に乗るようなもんだ」
「………………はい」
練習中のブタクマは怒ることは無い。とても親切丁寧に教えてくれている。
知子にとってそれは予想外のことで、少し教師ブタクマを尊敬し始めていた。
この日からブタクマ相手のぶつかり稽古が始まった。
ブタクマは靴下を履いてマットの上を滑りやすくしているのに、何故だか知子が押せどもビクともしない。
うんうん唸る知子にブタクマはあーしろこーしろとは言わない。ただ、
「動きを止めるな」
とだけ言った。
ブタクマに向かっていっては、右に左に転がされる。
たまに“たかいたかい”のように脇の下から一気に持ち上げられる。
90キロ以上の知子をいとも簡単に、ふわり、とブタクマは持ち上げた。
150キロを超える力士達を“たかいたかい”してきたブタクマならお茶の子さいさいなのだが、知子には、ちょっと前までバカにしていた人物とは思えず、怪物のように思えた。
続
知子は毎日のように相撲部に精を出していた。
相撲部となっているが知子はまだ相撲をしたことがない。ずっと基礎体力をつける練習ばかりやっている。
元々相撲がしたくて部活を始めたわけではないので、知子にはそんなことどうでもよく、相変わらずケーキ類とメシ、それから週2回、練習後ブタクマが作ってくれるちゃんこ鍋をたらふく食っている。
少しずつ厳しくなって行く練習でダイエットが期待されるものだが、やはり太り続け、90キロは軽く過ぎた。
そんな知子は学校中で浮きまくっている。
誰も彼もが知子に触れないよう注意していた。
辛うじてミチコとB子が変わらずに接してくれている。
本日も授業は滞り無く終了し、部活道の時間になった。
知子はミチコとB子に別れを告げ道場へ。
道場のロッカーに隠しているお菓子を食いながら運動着に着替える。
そのうちにブタクマがやってくる。いつもそうだ。
準備体操、ストレッチ、マット運動、受け身、いつも通りに淡々と進む。
知子はマット運動が好きだった。体重は増えたものの飛び込み前転などはとても高く、遠くに飛ぶことが出来た。丸々している体でクルクルと回転する様はとても可愛らしいものである。
いつもならランニングなどをする時間だが、この日ブタクマが、
「ちょっとこっち来い」と、呼んだ。
言われた通り近づいた知子をブタクマはいきなり知子の両脚を腕で刈った。
どしん、
知子は頭をバウンドさせてマットに後頭部を打った。
「初めはそんなもんだ。次からは頭を打たないように。アゴを引け。そして意識して受け身をとるな。なに、一週間もあれば誰でも出来るようになる。自転車に乗るようなもんだ」
「………………はい」
練習中のブタクマは怒ることは無い。とても親切丁寧に教えてくれている。
知子にとってそれは予想外のことで、少し教師ブタクマを尊敬し始めていた。
この日からブタクマ相手のぶつかり稽古が始まった。
ブタクマは靴下を履いてマットの上を滑りやすくしているのに、何故だか知子が押せどもビクともしない。
うんうん唸る知子にブタクマはあーしろこーしろとは言わない。ただ、
「動きを止めるな」
とだけ言った。
ブタクマに向かっていっては、右に左に転がされる。
たまに“たかいたかい”のように脇の下から一気に持ち上げられる。
90キロ以上の知子をいとも簡単に、ふわり、とブタクマは持ち上げた。
150キロを超える力士達を“たかいたかい”してきたブタクマならお茶の子さいさいなのだが、知子には、ちょっと前までバカにしていた人物とは思えず、怪物のように思えた。
続
“コスメティックもろざし”銭は持ったか、刃は研いだか〈四十八〉
知子の目は腫れていたが涙は引いた。
ブタクマの練習内容は、初日ということもあり、優しかった。
準備体操、ストレッチ、股割りを入念にやり、その後、前転、後転、飛び込み前転などのマット運動をやった。
この日の運動はこれで終わりで、その後は様々な測定に移った。知子の記録は、
腕立て伏せ、10回。
腹筋、5回。
背筋、測定不可。
懸垂、0回。
ベンチプレス、30キロ。
一番きつかった3キロ走、24分18秒。
運動着姿の知子が学校を出入りした時に目撃者の間にどよめきが起こった、隣にブタクマがいることがよりどよめきを誘ったが、知子は少し前を歩くブタクマの背中を見ていたら不思議と好奇の目線が気にならなかった。
道場に戻ってきてまた入念にストレッチ。
学校のシャワーの使用許可、気の利いたことにバスタオルとそこそこのシャンプーとリンスを渡された、寝る前のストレッチと首の運動を促してこの日は解散になった。正味2時間弱。
ブタクマは部活の最中、
「やれ」
「よし」
「終わりだ」
しか言わなかった。
基礎的なことしかやらなかったとはいえ、運動という運動をこれといってやったことが無い少女の体は悲鳴を挙げていた。
部活をやっている生徒にとっては早過ぎ、帰宅部の生徒には遅すぎる時間に知子は家路につく。
当然コンビニに寄り、ケーキ類を買い込む。いつもと違い、ケーキとケーキの間に唐揚げ弁当を挟んだ。
家に入る。疲れきっているのかいつもより空腹感が無い。
先にケーキを食べるのは違うかな、ということで唐揚げ弁当を食す。
驚いたことに箸の進みが重い。無理矢理炭酸飲料で詰め込んだ。
甘いものは別腹、とはいうもののショートケーキ1個で満腹だった。
お風呂に入り体をほぐす。
寝る前、言われた通りストレッチと首の運動をした。
布団に入って、気がついたら朝だった。目覚まし時計の鳴る30分前。体は少し動いただけで、腕と言わず腹と言わず脚と言わず、筋肉痛がひどい。
朝ご飯、昨日の残り物。
知子はいつもより20分早く家を出た。
その頃、学校ではブタクマが道場のマットを掃除していた。マットは清潔にしておかないと伝染性の高い皮膚病を発生させるからだ。
マットを雑巾で拭きながら、ブタクマは、
また相撲に関わる自分、
を思い、僅かであるが確実に体を震わせていた。
続
ブタクマの練習内容は、初日ということもあり、優しかった。
準備体操、ストレッチ、股割りを入念にやり、その後、前転、後転、飛び込み前転などのマット運動をやった。
この日の運動はこれで終わりで、その後は様々な測定に移った。知子の記録は、
腕立て伏せ、10回。
腹筋、5回。
背筋、測定不可。
懸垂、0回。
ベンチプレス、30キロ。
一番きつかった3キロ走、24分18秒。
運動着姿の知子が学校を出入りした時に目撃者の間にどよめきが起こった、隣にブタクマがいることがよりどよめきを誘ったが、知子は少し前を歩くブタクマの背中を見ていたら不思議と好奇の目線が気にならなかった。
道場に戻ってきてまた入念にストレッチ。
学校のシャワーの使用許可、気の利いたことにバスタオルとそこそこのシャンプーとリンスを渡された、寝る前のストレッチと首の運動を促してこの日は解散になった。正味2時間弱。
ブタクマは部活の最中、
「やれ」
「よし」
「終わりだ」
しか言わなかった。
基礎的なことしかやらなかったとはいえ、運動という運動をこれといってやったことが無い少女の体は悲鳴を挙げていた。
部活をやっている生徒にとっては早過ぎ、帰宅部の生徒には遅すぎる時間に知子は家路につく。
当然コンビニに寄り、ケーキ類を買い込む。いつもと違い、ケーキとケーキの間に唐揚げ弁当を挟んだ。
家に入る。疲れきっているのかいつもより空腹感が無い。
先にケーキを食べるのは違うかな、ということで唐揚げ弁当を食す。
驚いたことに箸の進みが重い。無理矢理炭酸飲料で詰め込んだ。
甘いものは別腹、とはいうもののショートケーキ1個で満腹だった。
お風呂に入り体をほぐす。
寝る前、言われた通りストレッチと首の運動をした。
布団に入って、気がついたら朝だった。目覚まし時計の鳴る30分前。体は少し動いただけで、腕と言わず腹と言わず脚と言わず、筋肉痛がひどい。
朝ご飯、昨日の残り物。
知子はいつもより20分早く家を出た。
その頃、学校ではブタクマが道場のマットを掃除していた。マットは清潔にしておかないと伝染性の高い皮膚病を発生させるからだ。
マットを雑巾で拭きながら、ブタクマは、
また相撲に関わる自分、
を思い、僅かであるが確実に体を震わせていた。
続
“コスメティックもろざし”〈四十七〉
「ここはな…、校長の趣味の部屋みたいなものだ。あの校長、学校へは仕事をする為じゃなく、体を鍛えに来ている…、というのは言い過ぎか…」
ブタクマはきりりと知子を見つめて語り出した。
「元はレスリング部の為のレスリング場にするはずだったようだ。だがいかんせん、部員が集まらなかったらしい。その後はさっき言った通り校長が自分の為の部屋にして、生徒とは縁のない場所になった。…だが、今日から俺がこの部屋を譲り受けた。俺が顧問になった部活の練習場所にちょうどいいと思って校長に掛け合ったんだ。渋々ながら…、やはり校長として断ることは出来ないだろ?…了解してくれたよ。それで…」
ブタクマは大きく呼吸をした。
「さっそく今日から部活を始めたいと思う。まぁ始めたばかりだから部員が1人しかいないのだがな。…………知子、お前がその部員だ」
「……………はぁ?勝手に決めてんじゃねえよ。…帰ります」
知子はくるりと回り、出口へ一歩踏み出した。
「ねぇ知子、あなたは気づいてると思うけど、今のあなた、とても残念だわ。以前の知子は未来に向けて着実に歩いていたわ。でも今は立ち止まって、目をつぶりながら体育座りしているみたいにじっとしている。別にあなたがどう生きようとそれはあなたが決めるべき選択だけど、私は教師として、人生を立ち止まっている生徒を放っぽりっぱなしってわけにはいかないのよ。立ち止まっていては何も始まらないわ。…今のは教師として。私個人としては前のあなたは好きだったわ。目が爛々と輝いていてね。けど今のあなたは救いようが無い目をしている。そんな奴大嫌いなのよ。関わりたくなんかないの。負に取り込まれたくないからね」
メイコ先生は知子の後頭部に向かって言った。
「それに…」
メイコ先生は知子の肩に手を置き、耳に口を寄せる。
「今帰ったらあの日のことバラしちゃおうかな」
知子は振り返った。泣きそうな、惨めな顔をしていた。
「じゃ、これに着替えなさい」
メイコ先生は古びたロッカーからTシャツとジャージの短パンを取り出す。
「ほら、ブタクマ、突っ立ってないで出ていって」
メイコ先生に言われブタクマは居る場所を失ったように部屋を出た。
「いい知子、私は置いといて、信じないかも知れないけど猪熊先生はあなたのこととても心配しているわ。…あなたの気持ちなんか誰にもわかりやしないし、あなたも、わかってたまるか、って思っているでしょうけど。人間なんて複雑なようで単純だわ。…親が死んでもお腹は減るし、ナイフで斬られた痛みも包丁で指をちょっぴり切った痛みも大してかわりはないものよ」
知子は話を聞きながら服を着替えている。
涙でTシャツの袖口がよく見えない。
いくらすすっても鼻から液体が溢れてくる。
「じゃあ私は行くわ、猪熊先生の言うこと聞くのよ。素直なあなたは好きよ。それを大事にして歩いて行ければ…」
ずびっずびっと知子は鼻をすすり、虚勢を張って、
「先生、部活ってなにやんの?」
と、聞いた。
「あら知らないの?猪熊先生は力士だったのよ」
続
ブタクマはきりりと知子を見つめて語り出した。
「元はレスリング部の為のレスリング場にするはずだったようだ。だがいかんせん、部員が集まらなかったらしい。その後はさっき言った通り校長が自分の為の部屋にして、生徒とは縁のない場所になった。…だが、今日から俺がこの部屋を譲り受けた。俺が顧問になった部活の練習場所にちょうどいいと思って校長に掛け合ったんだ。渋々ながら…、やはり校長として断ることは出来ないだろ?…了解してくれたよ。それで…」
ブタクマは大きく呼吸をした。
「さっそく今日から部活を始めたいと思う。まぁ始めたばかりだから部員が1人しかいないのだがな。…………知子、お前がその部員だ」
「……………はぁ?勝手に決めてんじゃねえよ。…帰ります」
知子はくるりと回り、出口へ一歩踏み出した。
「ねぇ知子、あなたは気づいてると思うけど、今のあなた、とても残念だわ。以前の知子は未来に向けて着実に歩いていたわ。でも今は立ち止まって、目をつぶりながら体育座りしているみたいにじっとしている。別にあなたがどう生きようとそれはあなたが決めるべき選択だけど、私は教師として、人生を立ち止まっている生徒を放っぽりっぱなしってわけにはいかないのよ。立ち止まっていては何も始まらないわ。…今のは教師として。私個人としては前のあなたは好きだったわ。目が爛々と輝いていてね。けど今のあなたは救いようが無い目をしている。そんな奴大嫌いなのよ。関わりたくなんかないの。負に取り込まれたくないからね」
メイコ先生は知子の後頭部に向かって言った。
「それに…」
メイコ先生は知子の肩に手を置き、耳に口を寄せる。
「今帰ったらあの日のことバラしちゃおうかな」
知子は振り返った。泣きそうな、惨めな顔をしていた。
「じゃ、これに着替えなさい」
メイコ先生は古びたロッカーからTシャツとジャージの短パンを取り出す。
「ほら、ブタクマ、突っ立ってないで出ていって」
メイコ先生に言われブタクマは居る場所を失ったように部屋を出た。
「いい知子、私は置いといて、信じないかも知れないけど猪熊先生はあなたのこととても心配しているわ。…あなたの気持ちなんか誰にもわかりやしないし、あなたも、わかってたまるか、って思っているでしょうけど。人間なんて複雑なようで単純だわ。…親が死んでもお腹は減るし、ナイフで斬られた痛みも包丁で指をちょっぴり切った痛みも大してかわりはないものよ」
知子は話を聞きながら服を着替えている。
涙でTシャツの袖口がよく見えない。
いくらすすっても鼻から液体が溢れてくる。
「じゃあ私は行くわ、猪熊先生の言うこと聞くのよ。素直なあなたは好きよ。それを大事にして歩いて行ければ…」
ずびっずびっと知子は鼻をすすり、虚勢を張って、
「先生、部活ってなにやんの?」
と、聞いた。
「あら知らないの?猪熊先生は力士だったのよ」
続
“コスメティックもろざし”〈四十六〉
学校が終わると、知子は一目散にコンビニに向かった。
生クリームのたっぷり詰まった菓子パン、20%増量のポテチ、握り拳みたいなシュークリーム、中身がフルーツのサンドイッチ、おもちゃみたいなプリン、板チョコを買い物カゴに敷き詰めて。
ケーキ屋にも寄る。
ガラスケースの中に陳列されているもの全部買った。
両の腕いっぱいの甘味。
知子はチャリンコを飛ばした。
誰もいない暗くて静かな部屋で知子はひたすら食べる。照明もテレビも役割を果たすことなく日が暮れた。
枕からは甘いミルクの匂い。知子は幸せそうな顔で眠った。
そんなふうに毎日を過ごした。
父が帰って来た日には冷蔵庫がケーキ類でいっぱいになった。
学校ではなんとか役割を演じることが出来ている、と、知子は思っている。ミチコもB子も以前と変わりなく接してくる。
しかし着実に体は太っていった。ブラが体に食い込む。
驚くべきことに、知子はたったの3週間で30キロ太ってみせた。産まれてから一度も体験したことのない類のカロリーが高性能なスポンジモップのように知子の体に染み込んだ結果だ。
あまりの変化に学校関係者は知子の噂で持ちきりになる。
「ドラッグをやっているんじゃないか」
「病気じゃないか」
「どっちみち体に悪い」
「自殺未遂をしたんじゃないか」
「これから自殺するんじゃないか」
「男関係じゃないの」
「家庭の問題でしょ」
「ただ単に食っているだけだ」
「どこまで太るのかしら。賭けない?」
「問題を起こしたい年頃なのよ」
「誰かにかまってもらいたいだけ」
皆が噂を楽しんでいるようだったが、知子にはどうでもよかった。
日々満腹感が遠ざかる。日増しに増える生クリームと体重。
それだけが生きていることを意味していた。
食べていない時、知子の目は死んでいた。
その目を放っておけない人物がいた。
もはや丸々とした体になった知子の体重が90キロに差し掛かろうとしているある日、この日も学校が終わると一目散に学校を出ようとした知子は校門で呼び止められた。
メイコ先生だ。
「知子、ちょっと来て」
招き猫みたいに手を振る。
知子の心はケーキタイムが遠ざかることにどんよりと曇ったが、メイコ先生に呼ばれたなら応じないわけにはいかない。
「なんですか」
知子は聞いた。
「まぁね、ちょっとついて来て」
メイコ先生はスタスタ歩いていく。
体育職員室の横にある階段を登って行く。
メイコ先生は2階と3階の踊場にある扉の前で止まった。
知子その扉の存在は知っていたが中がどうなってるのかは知らない。ぼんやりと用具室だと思っている。
メイコ先生はノックしてから扉を開け、中に入った。
知子は中を見た。
そこにはこの学校で見慣れぬ景色が広がっていた。こんな空間があったのか、と、思う。広い部屋。地面の3分の2を黄色と赤のビニール製と思われるもので覆われている。残りの3分の1には所狭しと、形豊かな鉄アレイ、ダンベル、バーベル、ベンチプレス台、背筋台、腹筋台、壁から突き出た鉄棒、ぶっとい縄跳び、他にも知子にはそれが何かさっぱりわからなかったが、カヌーのような形をしたもの、背の低い手術台のようなものに重りがついているものなどがある。
そしてその部屋の真ん中に腕を組んで仁王立ちをしている奴がいる。
目と目が合った。
ブタクマだ。
続
生クリームのたっぷり詰まった菓子パン、20%増量のポテチ、握り拳みたいなシュークリーム、中身がフルーツのサンドイッチ、おもちゃみたいなプリン、板チョコを買い物カゴに敷き詰めて。
ケーキ屋にも寄る。
ガラスケースの中に陳列されているもの全部買った。
両の腕いっぱいの甘味。
知子はチャリンコを飛ばした。
誰もいない暗くて静かな部屋で知子はひたすら食べる。照明もテレビも役割を果たすことなく日が暮れた。
枕からは甘いミルクの匂い。知子は幸せそうな顔で眠った。
そんなふうに毎日を過ごした。
父が帰って来た日には冷蔵庫がケーキ類でいっぱいになった。
学校ではなんとか役割を演じることが出来ている、と、知子は思っている。ミチコもB子も以前と変わりなく接してくる。
しかし着実に体は太っていった。ブラが体に食い込む。
驚くべきことに、知子はたったの3週間で30キロ太ってみせた。産まれてから一度も体験したことのない類のカロリーが高性能なスポンジモップのように知子の体に染み込んだ結果だ。
あまりの変化に学校関係者は知子の噂で持ちきりになる。
「ドラッグをやっているんじゃないか」
「病気じゃないか」
「どっちみち体に悪い」
「自殺未遂をしたんじゃないか」
「これから自殺するんじゃないか」
「男関係じゃないの」
「家庭の問題でしょ」
「ただ単に食っているだけだ」
「どこまで太るのかしら。賭けない?」
「問題を起こしたい年頃なのよ」
「誰かにかまってもらいたいだけ」
皆が噂を楽しんでいるようだったが、知子にはどうでもよかった。
日々満腹感が遠ざかる。日増しに増える生クリームと体重。
それだけが生きていることを意味していた。
食べていない時、知子の目は死んでいた。
その目を放っておけない人物がいた。
もはや丸々とした体になった知子の体重が90キロに差し掛かろうとしているある日、この日も学校が終わると一目散に学校を出ようとした知子は校門で呼び止められた。
メイコ先生だ。
「知子、ちょっと来て」
招き猫みたいに手を振る。
知子の心はケーキタイムが遠ざかることにどんよりと曇ったが、メイコ先生に呼ばれたなら応じないわけにはいかない。
「なんですか」
知子は聞いた。
「まぁね、ちょっとついて来て」
メイコ先生はスタスタ歩いていく。
体育職員室の横にある階段を登って行く。
メイコ先生は2階と3階の踊場にある扉の前で止まった。
知子その扉の存在は知っていたが中がどうなってるのかは知らない。ぼんやりと用具室だと思っている。
メイコ先生はノックしてから扉を開け、中に入った。
知子は中を見た。
そこにはこの学校で見慣れぬ景色が広がっていた。こんな空間があったのか、と、思う。広い部屋。地面の3分の2を黄色と赤のビニール製と思われるもので覆われている。残りの3分の1には所狭しと、形豊かな鉄アレイ、ダンベル、バーベル、ベンチプレス台、背筋台、腹筋台、壁から突き出た鉄棒、ぶっとい縄跳び、他にも知子にはそれが何かさっぱりわからなかったが、カヌーのような形をしたもの、背の低い手術台のようなものに重りがついているものなどがある。
そしてその部屋の真ん中に腕を組んで仁王立ちをしている奴がいる。
目と目が合った。
ブタクマだ。
続