ブログ連載小説・幸田回生 -2ページ目

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

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 わしがプロレスに興味を持った時はすでに馬場も猪木もすでにプロレスラーとしてのピークは過ぎていました。

 


 賢い馬場はジャンボ鶴田をエースに育て、相撲界から天竜をスカウトするなどリングの上では脇役に徹して、社長業、プロモーターの顔でした。
 一方、猪木はプロレス、格闘技に飽き足らず、ブラジルでの事業と政治の世界にのめり込んだ。

 馬場がこの世を去り、猪木は自ら巻いた種とはいえ、創業した新日本プロレスを手放さざえるを得なくなった。

 


 師匠の力道山が今の北朝鮮出身とはいえ、
 猪木があそまで北朝鮮に拘る理由は理解できませんが、
 政治とプロレスに類似点を見いだすのはわしだけでしょうか。



 吉田さんもご存じのようにプロレスにはベビーフェイスに対抗するヒールが必要です。
 必要悪です。

 


 馬場、猪木の時代を経て、現在の新日本プロレスのエースである棚橋がベビーフェイスの代表で醜男や大根役者なら臭い台詞も、正義の味方で色男の棚橋がリング上でマイクを持ち、
『愛しています』と叫ぶと、ファンにアピールします。
 さらに、棚橋の十八番のエアギターが加われば鬼に金棒です。
 これに対するのが、敵役のヒールです。

 


 戦後、アメリカのプロレスを真似て発展した日本のプロレスは日本人のエースがベビーフェイス、外人がヒールを務めることがが多かったのですが、もちろん、例外はあります。


 大相撲の関取だった力道山が朝鮮人のままなら大関、横綱になれないと 自ら悟ったのか、谷町の誰かに知恵でも付けられたのでしょう。

 


 いつの間にやら、日本国籍を手に入れた力道山が日本人役のベビーフェイスを演じ、街頭テレビのヒーローを演じていたのですから。
 謎の覆面レスラー、国籍不明を地で行くように正しく、プロレスを演じきっていました。
 

 成り行きだったのか、夢だったのか、政治の世界に首を突っ込んだ猪木はプロレス以上にグロテスクな政治の世界をどのように見ていたのでしょう。
 猪木に言わせれば、プロレスより政治のほうがよっぽど八百長でしょう。

 


 プロレスならファンも八百長を承知で楽しんでいるのですが、
 国民生活がかった政治はそうもいきません。

 


 昔なら、自民党と社会党、共産党、保守と革新、
 今なら、自民プラス公明、だらしがなく存在感も希薄な野党、
 右と左に別れているように見えて、いや、営業右翼と営業左翼に別れて、根っ子は同じムジナがプロレスを地で行くようにヒールとベビーフェイスを演じる。



 日本最高の舞台であるべき国会で、村社会の縮図である永田町で大根役者達が吉本新喜劇もやらないようなドタバタ喜劇を、猿芝居を演じ続けているのです。
 一国民として、空しく、情けない。

 


 国会議員も地方議員も、わしらが払った血の滲む思いで稼ぎ、
 収めた税金で飯を食っている。
 新幹線や飛行機のチケットはおろか、永田町近くの豪勢な議員会館に安い家賃で住んで、秘書給与まで税金で賄ってもらっている。
 正に至れる尽くせりの現代の貴族です。

 


 国会議員でもバリリ仕事がやれるのはほんの一握りです。
 それ以外は野球でいえば、二軍三軍の連中ですが、一軍と同じ待遇、同じ給料なのは悪い冗談でしょう。
 あんな奴らは日当給にして、移動は今流行のLCCと高速バスで充分です。


 阿呆な国会議員を真似たこの辺の町会議員や市議会議員に毛の生えたような県会議員が当選すると掌を返したように、それまで低かった腰が立ち腰になり、おまけに天狗のように鼻ばかり高くなる。
 わしらの力で議員にしてやったのに、己の力だけで議員になったような勘違いをやらかすのです。

 


 国民が支払う税金で議員を食わせてやっている、
 議員なんて、漁師見習いの若造以下、わしら国民の下僕程度に思っていて、ちょうどいい。

 


 わしが若い頃は漁師といえば自民党と相場は決まっていたのですが、建前で言えば、今も漁協は自民党推しなのですが、
 昨今はそういう時勢でもありません。


 漁協の若造がカラオケで羽目を外して、
 わしを藤原組長に似ていると口を滑らせたあの頃から、 
 いや、日本に戦争に敗けた時から、それ以前のペリーの黒船がやって来た時から時代が変わっていたのかもしれません。

 


 プロレスのヒールとベビーフェイスが一体なように自民党も共産党もありません。
 保守も革新もありません。
 わしら国民に必要なのは国民の顔を見ながら世間を知る、
 国民のための政治家です。



 プロレスでいえば、藤原組長こと、藤原喜明はアントニオ猪木が創設した新日本プロレスに入門した古参レスラーで、戦中生まれのわしと違って戦後生まれの年下で、わしよりずっと大きな体で、さずがにプロレスラー然とした風貌で、漁協の若造や息子が言うようにわしが似ているのかもしれない。

 


 プロレスラーのようで、ヤクザのようで、強面でどこか惚けた得意なキャラクターを活かした藤原組長はプロレスのリングを飛び出して、テレビのバラエティー、ドラマ、映画と活躍の場を広げるにつけ、わしも人からあのように見られているのかと、
 客観視できたのも、藤原組長のおかげかもしれない」



 ここでおじいさんはおばあさんが淹れたお茶で喉を潤した。



「吉田さん、政治家を見張るはずのマスコミも政治と同じく、
 先程も申し上げた、営業右翼と営業左翼に分かれているのご存じですが?」

 俺は小さく頷いた。



「ここで、どことは申しませんが、
 戦前戦中に軍部を一生懸命に押していた連中が戦後、掌を返したように、したり顔でアンチ政府のポーズを取る。
 一方で、そんなアンチな連中をなじる営業右翼、営業保守の連中が政界や財界のコバンザメとなって、おこぼれに預かる。

 


 誰がブックを書いているのかは知りませんが、
 これなど、プロレス以下の八百長です。
 ブックなどという高尚な筋書き以前の小学生の作文以下の走り書きを、満足に台詞も覚えられない間抜けな劇団員が演じる、
 コメディを超えたお笑いです。


 
 先ほども申しましたように、NHKニュースを見つつ、
 ナベツネの読売新聞、地元の千葉日報を読んで世間を知った気になったわしですが、平成に入って、日本経済が傾き始めると、
 銀行は潰れ、証券会社は潰れ、大企業、一部上場企業といえど、いつ何時、潰れてしまうかわからい、下剋上の時代がやってきました。


 
 わしが親父の跡を継いで、漁師になって正解だったかもしれません。
 高校に進んで、下手な野球をやって、名の知れた会社には入り、これで一生安心と喜んだのも束の間、定年間際どころか、
 働き盛りを過ぎると、地獄が待っていた。

 


 そんなこんなで、政治家も役人もそれまでエリートが浮き足だつ始末で、それを報じる大手マスコミに納得できない自分がいました。

 


 ちょうどその頃、三途の川を渡る前の年寄りの耄碌でしょうか、
 教則本片手にNHKの番組を講師にして、
 尚且つ、役所務めでパソコンを覚えた息子に手取り足取りと習い、おぼつかないながらも、流行始めたインターネットとやらを始めました。



 吉田さんもサーフィンをなさるそうですが、
 海で生きる漁師には邪魔者ですが、海のサーフィンのように、
 インターネットの波間を泳ぐように、ネットサーフィンと言うんですか、そこで得た結論といえば、
 誰に教わるもとなく、本を読んだ訳でありませんが、 
 無学のわしが勝手に想っているのですが、戦前戦中から今に至るまで新聞社や通信社を中心とする日本のマスコミは死んでいると。

 


 日本のマスコミが死んでいると思うにつけ、
 房総の片田舎で生まれ育ち、やがてこの地で死んで行く、
 漁師風情のわしなりに世界を見渡してみますと、
 元はといえば、ユダヤ系の通信社、広告代理店、彼らが支配する新聞社、ラジオ、通信の発達が戦争や恐慌を煽り、船や鉄道による、人や物資の移動がそれに輪を掛けた。

 


 
 戦前、戦中には日本で開発が進んでいたとされるテレビの世界が、戦後、日本をはじめ、世界中でテレビ網となって花開きましたが、ベルリンの壁、ソ連崩壊、軍事的な緊張感の余波で、
 それまで軍事目的に開発、利用されていたインターネットが世界を駆け巡った。


 
 その後、世界単一市場、グローバリズムの世界が誕生すると、
 それまでの社会は一変しました。
 それまで主役と想われていたのが、脇役に転じ、脇役が主役に、アメリカを凌駕するとも言われた日本経済が転落したのもその一環でしょう。



 娯楽の王様が映画からテレビに変わったように、
 報道の主役が新聞、ラジオ、テレビからインターネットが変貌を遂げました。

 


 そのネットの世界でネットで囁かれている陰謀論。
 ユダヤが世界を支配するとか、影の政府とか、
 今流行のディープ・ステイトです。


 
 吉田さん、話半分に聞いて欲しいのですが、
 わしにも何が本当で何が嘘がわかりはしないのですが、
 ローマ帝国の末裔が今も世界を支配しているとか、
 ヨーロッパの王族の血統が主役で、
 ユダヤ教に改宗したユダヤ人が影の主役だとか、
 フランス革命、ロシア革命がユダヤ人によるユダヤ人のための革命で、自由、平等、博愛が日本人の本音と建て前を超越した、
 絵に描いた餅のまるっきりの建前に過ぎず、ユダヤ人が発明した共産主義と資本主義は似非宗教であると。
  


 わしの古く澱んだ頭では難しい事は到底理解できせんが、
 アメリカ本土はおろか、ハワイすら行ったことない、
 グアム島と台湾がせいぜいの田舎漁師風情の戯言ですが、
 ヨーロッパから渡ったフリーメーソンがアメリカ政府を樹立して、トランプ大統領がその尻拭いをしている真っ最中だと。

 


 トランプ大統領が登場して以来のアメリカの混乱ぶりを見るにつけ、州が違えば法律も消費税も違い、人種、宗教、学歴、所得、白人と黒人、ヒスパニックと言われるスペイン語を話す人たち、アジア系などのマイノリティ。

 


 0.1パーセントとも言われる富裕層と中間層の弱体化と貧困層。
 そんなアメリカを目指すおびたたしい難民、移民に象徴される、
 社会の分断というのか、一つの国で収まれるかを想像するにつけ、つくづく、日本人で良かった、日本に生まれて良かった。
 

 両親や祖父母、ご先祖様に感謝すると同時に、

 


 インディアンを殺し、土地を奪い、黒人奴隷をこき使い、
 国の根幹を成したアメリカという国を、アメリカ人に憐憫の目を向けると同時にアメリカのマスコミは日本のマスコミ以下の、
 ピート・ローズ以下の連中だと見切りました。


 
 利権と金の亡者であるグローバリストという輩は自分達に都合のよいことだけを強調し、世間知らずな大衆を扇動するのです」
 

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「こう見えて、わしは甘い物がとコーヒーが好物です」

 


 そう言って、おじいさんは大福を一口で頬張った。
 そして、コーヒーで飲み込んだ。



「吉田さん、野球賭博でメジャーリーグから永久追放処分を受けた、メジャーでの最多安打を誇るピート・ローズをご存知ですか?」

 


「はい」

 


「それならは話は簡単です。
 日米通算最多安打記録を打ち立てたイチローに対して、
 ピート・ローズが未練がましく暴言の数々を繰り返すのにほとほと呆れました。
 イチローは立派だよ、わたしを超えた立派な選手だよと誉め称えてやれば、自分の株も上がる、それに気づかないのですか。

 

 
 周りの者が教えてあげればいいのですが、
 ピート・ローズの取り巻きは阿呆か間抜けばかりで、
 あれではまるで、プロレスのヒール。

 


 ピート・ローズがヒールなんていえば、プロレスのヒールに失礼です。

   ヒールは時代劇の悪役と同じく、敢えて悪役を演じているのですが、ピート・ローズは真の悪漢ながら、それなりの支持があって、全米各地の講演活動で稼いでいるようです。



 スポーツを極めた人なら、人格者であって欲しいのですが、
 ピート・ローズが現実でしょう。
 ここではあえて名前を出しませんが、
 日本の野球界にシャブに溺れた大馬鹿がいたでしょう。

 


 メジャーリーグや野球に限らないですが、スポーツと人格なんて、なんも関係もない。
 ただのスポーツ馬鹿だと観念しました。

 


 マスコミと大手広告代理店が利権と金儲けが死ぬほど好きな政治家と商売人の仲を取り持って大衆を扇動する。
 その良い例が今回の東京オリンピックです。

 


 先の東京オリンピックでわしらは随分と夢を見させてもらいましたが、利権屋や欲の突っ張った連中に支配された2年後の東京オリンピックが思いやられます。


 
 先のオリンピック当時の日本経済は絶好調で今の澱んだ空気は微塵もなかった。
 しかしながら、わしの親父の世代に開催される予定だった、
 1940年(昭和15年)の東京オリンピックはに幻となり、
 翌年には大東亜戦争が始まり、地獄の幕開けとなりました。


 
 幻の東京オリンピックから24年後、オリンピックは東京の地に舞い降りた。
 東京オリンピックと同時に幻となった1940年の札幌オリンピックは32年後、同じく札幌の地で冬期オリンピックが開催された。

 


 わしは和暦が苦手で物事を西暦で考えているのですが、
 昭和から平成になって、一層その感は募りました。
 平成何年なんて地獄です。
 正直、今が何年かも知りません。



 話を元に戻します。
 1964年から1972年までの8年間が日本にとって最高の時代ではなかったと思います。
 当時にも利権屋や欲の突っ張った輩もいましたが、
 それを打ち消すような空気が日本中を包んでいました。
 わしも若かったし、少年から青年になって、いっぱしの漁師になって、目を輝かせて生きていたもんです。


 
 話をプロレスに戻しますと、プロレスも日本が一番です。
 アメリカのプロレスは勝負はおろか、ゴングが鳴る前に1から10まで決まっていると言いましたが、日本のプロレスはアメリカとは違うとはいっても、スリーカウントやギブアップなど大まかなルールは同じです。

 


 日本のプロレスはゴング前と終わりは決まりがあって、あとはジャズのようにアドリブでしょうか。
 わしはそれが日本のプロレスの面白みであり、味だと思っているのですが」

 


「ジャズをお聴きになるのですか?」

 


「演歌か浪花節でも唸るような顔をして、ジャズでもないだろうとお想いでしょうが、ジャズは囓っているだけです。
 吉田さん、お若いですが、ナベサダをご存じですか?」

 


「はい」

 


「読売の親分のナベツネではなく、ジャズのナベサダですが?」
「ナベツネもネベサダも存じています」


「お若いのにそんじょそこらのインテリ以上です。
 そのナベサダですが、わしが藤原組長と呼ばれるようなる少し前、昭和の終わりにサックス奏者のナベサダこと渡辺貞夫が流行っていました。


 
 ナベサダ自身がテレビコマーシャルに出演して、
 ナベサダの音楽が流れていたこともあって、
 こんな田舎の漁港にも その波は押し寄せた。

 


 漁師ながら流行り物が好きなわしは時代の先端にいるつもりで、影に隠れるように、家族にも内緒で車の中でこっそり、
 スピーカーから流れるナベサダのサックスの音に耳を傾けた。

 


 プロ野球はテレビ観戦で留めていましたが、
 ナベサダへの想いは絶ちがたく、千葉まで車を走らせた。

 


 いい年をした、田舎者の漁師が都会の人に混ざり、
 ナベサダを聴いているなんて、ばあさんや息子はともかく、
 漁協の者に知れたら、それこそお笑いです。
 藤原組長がジャズを聴いていると。



 それでも、わしはナベサダを観に行った。
 市民会館のようなホールで貰ったチラシのプロフィールで、
 ステージ上でサックスを奏でるナベサダがジャズのジャの字も知らない漁師のわしより一回り近く年上だと知って、愕然としました」



「ロック好きな僕はジャズはほとんど囓るだけで、
 アドリブなのか長いフレーズなのか判断が難しく、
 クラッシックと並んで技巧が優れているのはわかるのですが、
 ロックもジャズやクラシックのように古典芸能化しつつあります。 

   綺麗事を言うようですが、音楽には年齢も職業も国籍も関係ないと思います」

 



「吉田さんは音楽にも一家言をお持ちで何よりです。
 それにも懲りず、わしはナベサダを聴いた。
 一通り、ナベサダのアルバムを集めて飽きるほど聴いて、
 ナベサダの代名詞ともなったボサノバ、ブラジル音楽とやらに耳を傾けてみたのですが、粋とは無縁な野暮な漁師だけあって、
 軽妙ではあっても深い味わいに付いていけませんでした。

 


 それで、ナベサダが影響を受けた大御所やスタンダードを聴き始めました。


   ジャズからまた話は飛んで恐縮ですが、
 K1とか総合格闘技に人気を集めていた時期があったでしょう。
 プロレスが廃れていたというより、死んだようになって、
 新日本プロレスは棚橋をエースに仕立て、生き残りに懸命になった。
 餅屋は餅屋と申しますか、レスラーもフロントもプロレスはプロレスをやればいいんだと、気づいたのでしょう。


 もう40年前の昔ですが、
 アントニオ猪木とモハメド・アリの世紀凡戦と叩かれた試合が世間を騒然とさせました。
 わしはその頃、プロレスに見向きもしていませんでしたが、 
 オリンピックの金メダリストでヘビー級の世界チャンピオンだったアリが、徴兵を拒否してチャンピオンベルトを剥奪され、
 ベルトを奪い返した世界的な英雄のアリが大金欲しさに日本のプロレスラーと異種格闘技戦をするのかと。

 


 猪木はリング上で寝てばかりで、時折、アリにアリキックと呼ばれたキックを繰り出すだけで、世界中で大笑いされた試合ですが、
 今から振り返ると、どうなんでしょう。
 良かったのか、悪かったのか、わしは今でも判断できないのですが、借金の山を抱えても、あの試合でアントニオ猪木の名前が世界に広がったのは事実です。


 その昔、巨人のピッチャーで鳴かず飛ばずだった馬場正平がプロレスに身を投じると、ジャイアント馬場のリングネームで一変しました。

 


 規格外の巨体から想像できないクレバーな馬場はアメリカ修行中にその鋭い感性でプロレスが何者であるかを。
 プロレスとはエンターテイメント、娯楽であり、興行であり、
 リングの上から、リングを降りてから、プロレス会場を包む雰囲気で掴んだらしい。


 
 若い頃から、馬場は頭が良かったのでしょう。
 読書家の顔、経営者としても、馬場社長と言われるほどです。
 一方、馬場の最大のライバル、藤原組長の師匠であったアントニオ猪木はどうでしょうか。

 

 

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「そうでしたな、ついつい脱線して申し訳ない。
 わしが漁師になる前の話ですが、東京オリンピックが開催される直前の日本は捕鯨の最盛期前夜でした。



 戦後、食料事情の悪かった日本を心配したのかどうか、
 戦時中に抑えられていた捕鯨をGHGの親分のマッカーサーが許可した。
 日本近海に続いて南氷洋でも許可されて、ようやく日本の鯨漁がようやく復活したのです。

 


 和田浦の捕鯨は沿岸捕鯨といって、岸から二百キロ程度の沖でミンク鯨などの10メートル足らずの鯨の捕獲が主でした。

 


 わしも中学を出て見習い漁師になってから十数年、
 主に鯨を追って生きてきましたが、ばあさんと所帯を持って息子が生まれ、日本の経済がぐっと上向きになった70年代、昭和で言えば45年からの10年間、ヨーロッパやアメリカから日本は鯨を捕りすぎという横やりが入るようになりました。



 当時、わしも若かったし、先輩達について仕事を覚えるのが精一杯でした。
 悪い頭ながら、少しは漁師以外の世間の事も知ろうと、
 漁師にとって必要な天気予報に加え、NHKニュースを見つつ、新聞を読むようになってはいましが、とても世界経済や世界の状況なんて知りもしなかった。

 


 今から想えば、あれは欧米先進国というか、戦勝国クラブというのですか、彼らの焦りというか嫉妬だったのでしょう。



 敗戦国で焼け野原だった日本が誰のおかげで飯が食えるようになったのか、まして鯨が捕れるようになったのかと、
 今で言う、上から目線で論じ始めた。

 


 その頃にはすでに、わしら海で生きる漁師は魚や鯨だけを見ているも訳にもいかない世の中で、陸の上では安かろう悪かろと、
 さんざん馬鹿にされた日本の車や家電が世界を席巻する勢いで、アメリカやヨーロッパで捕鯨と同じように叩かれるようになっていました」
「鯨の歴史も経済が絡んで、いろいろとあるんですね」


「それはそうと、吉田さん、
 この和田浦で鯨を捕るようになったのはいつ頃だと想いますか?」

 


「江戸時代ですか?」

 


「いい線ついています。
 仏教の教えでしょうか、
 動物の肉を積極的に食べなかった日本でも、
 北から南まで、地域性もあるかもしれませんが、
 猪や鹿など例外的な獣を食べることはあったようです。

 


 許されていたというより、お上からお咎めがなかったのか、
 鯨も例外の一種にされていたのかはともかく、
 この地に根付いたわしらの先祖は鯨を捕っていたようです。

 


 というより、房総に限ったことなのかどうか、日本全体では定かではないのですが、学のないわしに大した事は言えませんが、
 江戸時代のずっと前の昔から、縄文時代か弥生時代からこの土地の住む人々は鯨を捕っていた、というより食べていたらしい。


 
 吉田さん、今でも日本各地で、あるいは世界各地で鯨が狭い湾に迷い込んだ、浜に打ち上がったというニースを耳に目にされることがあるでしょう。

 


 時化なのか、鯨のリーダーのコンピューターが狂ったのか、
 世界中の海を泳いで回る鯨が群れからはぐれたのか自ら外れたのか、わしら漁師でも、偉い学者さんでも解らないそうですが、
 何十年海で生きたとして、経験を重ねたとして、時に理解不能なことが起こる。


 
 鯨は謎ですな。
 鯨は種類も多いですし、鯨の生態と言うんですか、海遊ですか、世界の海での動きも、科学が魚群探知機が発達した今なら、
 ある程度のことは解るようになったとはいえ、海に住みながら、人間の十倍も百倍も大きな体で地球上最大の哺乳類で尚且つ、わしらの人間の仲間だという。


 
 元を辿れば、わしらも人間も海の中の生物の一つが地上に上がり、 信じらないほどの年月を経て、人間へと進化した。
 哺乳類の象徴のような鯨を残虐に殺す、それが日本を叩く、
 捕鯨を叩く、急先鋒な反捕鯨団体の根拠になっているそうですが、そんなものんは、あいつらの屁理屈でしかない。
 あいつらは、あいつらの先祖は鯨の脂が目的で世界中の海を、
 日本近海の海を荒らし回っていたんです。



 幕末、ペリーの黒船が浦賀沖に現れた。
 それまで鎖国していた幕府に開国を迫ったのも、
 元を正せば、鯨油船の寄港地と休息地を求めの事です。
 ただ、その後の動きを見ると、どうやら、ペリーの親分のアメリカ政府はそれ以上の成果を求めていた気がしないでもない。

 


 インディアンから土地や命を奪ったのに飽き足らず、
 太平洋を荒らし、ハワイを我が物にすると、小笠原、琉球を経て、黒船が日本全土に現れ、幕府を脅し、揺さぶった。
 幕府が開国すると、自分達に都合のいいような貿易交渉を押し付けた。

 


 それが、あいつらの真の狙いだったのでしょう。
 幕府が倒れ、明治政府になっても、不平等条約は日本を苦しめました。


 
 やがて、世界で石油が量産できるようになると、
 海に出て、危険を冒してまで鯨から脂を捕るのが割に合わなくなった。
 やつらは鯨の肉を食べないし、脂だけを捕って、海に投げ捨てていたので、捕鯨がなくてなっても痛くも痒くもありません」



「捕鯨が盛んだったハワイのマウイ島で捕鯨が廃れるようになったのも、そのせいですね」

 


「その通りでしょう。
 ペリーの黒船も開国も鎖国した豊かな日本を世界市場に引き摺込んだ末の利権や金儲けが目的でしょう。
 鯨も戦争も、宗教ですら、金儲けの手段です。

 


 戦争の善し悪しはともかく、
 日本が世界の一等国と認められるようになったのは不平等条約から約半世紀後の日露戦争に勝利してからです」



「日本政府が日露戦争の戦費を払い終えたのが、バブルを終えた頃だと知って、驚きました。
 ほぼ、一世紀に渡り、日本は日露戦争の借金を払っていた。
 その間に、有史以来の大戦争、大東亜戦争を挟んで、
 敗戦後、奇跡の復興を果たしたのです」

 


「吉田さんはお若いのに世界的な視野で物事を見ておられる。
 お仕事は何をされているのですか?」
「インターネットを中心に書き物をしているのですが」



「そうですか。それでですか?
 わしも一介の漁師に過ぎないですが、
 プロレスを観るようになって、世界が広がったといえば大袈裟ですが、物事は何事も表と裏があると想うになりました。

 


 よく、スポートは筋書きのないドラマといいますが、
 プロレスに限っては筋書きのある演劇です。
 それが面白いのか、つならないのか。
 八百長か、八百長じゃないかの議論はありますが、
 プロレスにブックという筋書きがあるのをご存じでしょう?」



 俺は小さく首を垂れた。



「ブックというくらいだから、本とか脚本とか予約とかいろいろと意味があるようですが、プロレスでいえば筋書き、取り決めです。

 


 ショーナイズされたアメリカのプロレスはスポーツ、格闘技を通り過ごし、映画や音楽と同じくエンターテイメントの分野でしょう。
 そうしたほうが税金が安いという笑い話もありますが、
 ユダヤ人の弁護士や税理士が飛んで来て知恵でも付けたのでしょう。


 というより、政治、経済と同じにように映画界やショービジネス、エンターテイメントを牛耳る彼らがプロレスも仕切っている。

 


 切磋琢磨というのか、お得意のM&Aとでもいうのでしょうか、いくつもの全米の団体を統廃合して、
 今や世界一のプロレス団体にのし上がった、
 WWE、ワールド・レスリング・エンターテイメントと名乗る、全米プロレス界の雄を、吉田さんもご存じでしょう。

 


 実質、世界ナンバー2だった新日本プロレスのエース格だった中邑選手がWWEに移籍したのは記憶に新しい。



 その本場アメリカのプロレスはブックという決め事が勝ち負けは当然として、ゴングが鳴る前に1から10まで決まっているというから、驚きです。

 


 わしから見たら、アメリカのプロレスは面白いを通り越し、
 臭い芝居です。
 洗練された本場のミュージカルどころか、日本の旅芝居以下の猿芝居です。

 


 一方、日本ではどうでしょう。
 政治、経済、文化に及ばす、何から何までアメリカの影響下にあった戦後の日本のプロレスはアメリカを猿真似して始まった。
 
 アメリカのベースボールと日本の野球に例えるならば、
 プロレスと同じくアメリカの影響を強く受けた日本の野球はルールは同じなれど、ベースボールと野球は似て非なる物と言われます。

 


 アメリカのベースボールは力と力の対決で、日本の野球は腹の探り合い、頭と小技で勝負するスモールベースボールです。


 
 野茂がアメリカに渡った当時は、わしもよくNHKのBS放送を観ていました、夢中になっていたのですが、最近ではさっぱり観なくなりました。
 高校野球に負けないほどの、過剰と言っていほどのNKHのメジャーリーグ贔屓がいびつで、一言で言うと、飽きてしまった。



 野茂の渡米直後は前年のメジャーリーグのストでメジャー人気の陰りも心配される中、野茂のピッチングフォームに由来するトルネード旋風もあって、日米両国のファンの関心を煽る報道がなされる中、本場アメリカで日本人がどれだけやれるのか、
 日本の野球がどれだけ通用するのか、その一点に話題は集中した。


 野茂が入団したドジャーズのあるカリフォルニア州ロサンゼルスから海を隔て、太平洋を一跨ぎした、ここ房総半島の和田浦でわしはテレビに齧り付いた。

 


 野茂が決め球のフォーク・ボールでメジャーリーグの強打者をバッタバッタと三振を取る様に感激した後にイチロー、松井と次から次に、日本人メジャーリーガーが誕生するのは良かったのですが、それが当たり前になり、刺激がなくなってしまったのです。



 人にもより、向き不向きもあるようですが、
 日本である程度の実績のある選手なら、
 本場メジャーリーグでも活躍できるのが当たり前になってしまった。

 


 ワールドシリーズで大活躍してヤンキースをワールドチャンピオンに導いた松井秀喜がシーズンオフにはニューヨークから放り出されるなど、渡世人、ヤクザ以下の義理人情に欠けた扱いに憤慨する一方、ピークの過ぎたイチローがピークがシアトルからニューヨーク、フロリダのチームに移って、またシアトルに戻って来た。

 


 イチローがいついつ引退しても可笑しくない状況を見るにつけ、やはり、野球は本場アメリカのベースボールではなく、日本の野球に限ると実感しました。
 わしら素人からしたら、レベルの高さではなく、贔屓のチーム、贔屓の選手が活躍するのが一番ですから」



 ここで席を外されていたおばあさんがコーヒーと大福をお盆に載せて姿を現した。
 おじいさんは砂糖とミルクを入れたコーヒーを一口飲んで大福を頬張った。

 


 柳本さんに続いて、俺もコーヒーに口を付けた。
 勝浦のゲンさんの家に続いて、海の近くで飲むコーヒーは磯の香りに包まれている気がしてならない。

 

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「わしの顔に何か付いていますか?」

 


 おじいさんが不思議そうに尋ねた。

 


「いいえ」

 


「吉田さんはプロレスがお好きですか?」

 


 柳本さんの言葉に少しばかり緊張がほぐれた。

「はい。
 父の影響で子供の頃からテレビで観ています」

 


「それなら、プロレスラーの藤原組長をご存じでしょう?」

 


「はい」



「昔、漁協の組合長だった関係で役職を退いても、
 わしの渾名は組長のままです」

 


 そう言って、おじいさんが語り始めた。

 


「直哉が生まれる前の事ですから、今からもう20年以上昔になります。
 漁協の忘年会か新年会の二次会のスナックでカラオケの流行歌に調子を合わせた若造が酔った勢いで羽目を外して、
 いつもなら、組合長で済むところが、藤原組長と口をすべらせた。



『藤原?』

 


 わしは今の直哉くらいの若造を睨んだ。
 酔いの回った若造はとろんとした目をわしに向けてこう言った。

 


『ご存じなかったですか?
 漁協で組合長がプロレスの藤原組長と瓜二つのそっくりなのを知らないのは、組合長だけですよ』



 若造を睨み返しただけで、わしはその場を収めた。

 


 わしが若い頃、そんな戯けを言う若い漁師を見たこともなければ、 目上の者と酒を飲み交わす席があっても、
 黙って、先輩方の話を聞いているだけで、
 歌を歌うなんて、もっての他でした。

 


 しかしながら、徒弟制度がまかり通っていた漁師の世界にも、
 世間の波は押し寄せた。
 20年以上昔の当時ですら若い者に手を出すのは御法度でした。
 わしらが昔堅気の漁師の世界を時代に合わせるべく、そんな漁協を作りました。



 そんなわしが好きだったのは野球でした。
 先輩の手ほどきで野球を覚え、小学校の校庭や広場や空き地に集まり、家の手伝いがない限り、時には三角ベースで日が暮れるまで野球をしたものです。

 


 わしは、中学で4番でキャッチーでキャプテンでした。
 甲子園を目指し、プロになりたといえばおこがましいですが、
 せめて野球有名校でなくても、地元の高校に進んで野球を続けたかった。
 しかし、親父の顔色を眺め、周りの空気に流され、長男で家業を継ぐために、泣く泣く漁師になった。



 それが良かったのか、悪かったのかはともかく、
 こうして、食べる物に困らず、雨露を凌ぐ家もあり、
 家族にも恵まれているということは親の跡を継ぎ、
 若い時分から漁師になって、正解だったのかもしれない。
 あれから60年、あっとういう間でした。

 


 若い吉田さんも直哉も、わしやばあさんのように年をとります。
 今を大事にして下さい。



 地元千葉のヒーロー長嶋さんに憧れながらも
 漁師になったわしはテレビでプロ野球を観ることはあっても、
 プロレスなんか見向きもしなかった。
 東京ドームはおろか、後楽園球場さえ行ったこともないのに、
 ボクシングと大喜利の笑点のホームグランドである側の後楽園ホールにプロレスが間借りしていたのは驚きです。



 戦後間もない田舎でテレビが珍しかった力道山の時代であれ、
 弟子のジャイアント馬場であれ、アントニオ猪木であれ、
 八百長というか、映画や舞台のように筋書きのあるプロレスなんて、わしは馬鹿にして見向きもしなかった。


 
 直哉の父親である一人息子がわしが漁でいない時に限り、、
 テレビでプロレスを観るのも苦々しく思っていたのですが、
 スナックで漁協の若い者に藤原組長を言われた翌日、
 家で朝飯を食べている最中に隠れプロレスファンとやらの直哉の父親の息子に聞いた。



 このわしが藤原組長に似ているのかと?

 


 すると、息子がこう言った。
 そう言われれば、お父さん、藤原組長に似てますね。



 誰がそんな事を言うんですか?
 短髪に怖い顔、ごつい体ときたら、 
 知らない人が見たら、誰でも避けて通ります。
 いっぱしのやぐざ、柳本組の組長です。

 


 漁師の世界も変わったんですね。
 じいさんの頃の昔なら、下の者が上の者にそんな事を言おうものなら、半殺しになっていたでしょう。
 家の者も村八分になって、この町で暮らすことも難しかった。
 そんな漁師の世界が嫌で僕は役所に逃げ込みました。



 わしは食べかけのごはんとおかずを掻き込んで席を立った。
 これが藤原組長との出会いです。
 それから、わしはテレビでプロレスを観るようになった。
 といっても、プロ野球やドラマや歌番組と肩を並べていたプロレスはお茶の間の娯楽から好き者の世界に転落していました。


 
 深夜放送と言うんですか、
 わしらが若い頃はもっぱらラジオの世界でしたが、
 プロレスはテレビの深夜枠に移ってどうにか生き伸びた。
 朝が早い漁師なので、わしは息子に深夜番組のビデオ録画を頼んで、プロレスを観るようになりました。


 
 そんな一人息子が漁師を嫌い、海の男になることもなく、
 安定した丘の公務員なんぞなって、
 代々続いた柳本家の漁師もわしの代で終わりと観念した矢先に、高校3年で進学先を考えていた孫の直哉が漁師になると言い出した。

 


 息子と嫁が大反対する中、わしは直哉に頭を下げた。
 直哉、ありがとう。

 


 藤原組長と呼ばれたおじいさんが目頭が熱くなったのか、
 目を閉じて、暫く黙り込んだ。
 口を開いたかと思うと、
   
 そんな直哉が結婚すると言い出した。
 相手は地元の娘でもなければ、もちろん、漁師の娘でもないが、わしは大賛成だ。

 


 ばあさんも同じ意見で、誰が反対しょうが、わしとばあさんは直哉の御方だ。


 
 老いぼれのわしが心配することでもないが、
 子供に恵まれようが恵まれまいが、男の子だろうが、女の子だろうが、生まれて来る子が漁師になろうが、なるまいが、
 わしは直哉の後見人だ」



 柳本さんの祖父で、藤原組長のそっくりさんでもある、
 漁師然とした大柄な老人がそう言と、「もう一杯お茶をくれ」と催促した。
 黙って立ち上がったおばあさんは急須から湯飲みにお茶を注いだ。



「ありがとう」

 


 おじいさんはゆっくりとお茶を飲み干した。

 


「湿っぽい話はここまで。
 吉田さん、今日はゆっくりしていった下さい」

 


「じいちゃん、吉田さんは鯨に興味をお持ちで、
 今日こうして、和田浦までお見えになりました」

 

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 18

 柳本さんに誘われ、日産のSUV車、白いエクストレイルの後に付いてスイフトを走らせた。
 BAYFMは今日一日、海をテーマにした音楽特集のようで、
 サーフ・ミュージックに続いてハワイアンが流れている。



 海岸沿いから若干内陸に入って、車で走ること数分、
 ナビで見るかぎり和田浦駅の裏手側なのだろう、
 立派な日本家屋が建つ広い敷地に入り、エクストレイルはエンジンを止めた。
 隣にスイフトを駐めて運転席から降りると、柳本さんが声を掛けてきた。

 


「レンタカーで来られたんですか?」

 


「はい」

 


「この辺りで習志野ナンバーは珍しいので、つい見てしまいます。
 房総は袖ヶ浦ナンバーが定番ですから」



 犬の啼き声が響き渡り、視線を向けると、
 豪邸に家に付きものの番犬が白い体を震わせていた。

 


「よし!」

 


 柳本さんの声に従うことなく、不審者の俺に防衛本能をくすぐられたのか、大きな犬が犬小屋を引っ張る勢いで牙を剥いた。



「よし!
 これもよしの仕事のうちだから、大目にみてやってください。
 慣れてくると、尻尾を振って歓迎するのですが、
 今日のところはご勘弁を」

 


「秋田犬ですか?」

 


「よしは紀州犬です。
 秋田犬より少し小さいと言われています。
 よし、という、ちょっぴり変わった名前も祖父が名付けました。 

  俺が漁師になった年に貰われきてもう5年、もういっぱしの我が家の番犬です」



 四隅に銀色の石が植わった広い庭を柳本さんと歩いて、
「お邪魔します」と声を掛け、勝手口から家に上がった。


 広い和室に通され、中庭の様子を窺っていると、
「直哉、お客さんですか?」
 雰囲気が似ているおばあさんが姿を現した。

 


「ばあちゃん、こちらは漁協で知り合いになった吉田さん」

 


「はじめまして、直哉の祖母の克子です」 

 


 どこか上品なおばあさんは白髪混じりの短い髪で若々しいデニムのシャツとジーンズ姿だった。

 


「はじめまして、吉田と申します。
 初対面の柳本さんに誘われ、厚かましくもお邪魔しています」

 


「ごゆっくりと」
「それで、じいちゃんは?」
「つい今さっきまで、庭仕事をしていたけど」
 そう言うなり、おばあさんは和室から離れた。

「立派なお宅ですね」

 


「ありがとうございます。
 古くてでかいだけが取り柄です。
 夏はエアコンなしでも過ごせるくらいに涼しいのですが、
 海の上で暮らす漁師が情けないとお叱りを受けるのを覚悟で、
 冬はマンショに引っ越したいくらい寒さが身に染みます。

 


 俺は生まれてずっとこの家に住んでいるので井の中の蛙というか、少しは外の世界を見てみたいと思っている間に5月に結婚します」

 


「ご結婚おめでとうございます」

 


「ありがとうございます」

 


 柳本さんは恥ずかしそうに頭を下げた。

 


「結婚して、初めて実家を出るので、
 母や祖母の時代の女性のようで今から落ち着かない気分です」

 


「吉田さん、ご結婚は?」

 


「独身です」



「そうですか」

 


「柳本さんに言われるまで、正直、考えたこともありませんでした。
 ただ、サーフィンを誘われ、夕飯をご馳走になり、泊めて頂いた方が、僕より少し年長の勝浦に住む大阪出身者で今年の1月、
 ハワイで知り合いました。

 


 サーフィンが好きで房総に住むようになって、
 勝浦の隣町の女性と結婚されています。
 家は借家でこちらのお宅のように立派ではありませんが、
 あったかいというか、包み込むというか、
 家庭を持つのもいいかなと実感しました」



「そうだったんですね。
 房総の女はいいですよ。
 母も祖母もそうですし、吉田さんも房総の女と結婚すれば、
 間違いなしです」

 


「柳本さんの奥さんになられる方も房総の女性ですか?」

 


「それが!」

 


「違うのですか?」

 


「埼玉です。
 代々続いている漁師が海のない埼玉の女性と結婚するのかと、
 漁師仲間、先輩、同級生にからかわれることありますが、
 そこはぐっと我慢します。

 


 これも縁です。
 好きになったら、どこの出身かは関係ないでしょう。
 何も外国人と結婚する訳でなし、車で3時間も走れば、
 彼女に会えますし、ネタにされるのも慣れました。
 今は開き直っています」



「意外なことに、千葉と埼玉は地続きの隣の県です。
 僕も最近になって知ったのですが、
 テレビかYOUTUBEだったかは忘れましたが、
 千葉と埼玉の県境を巡る旅でした。
 新鮮である意味で盲点でした。

 


 僕もそうですが、どうしても東京に目が向きがちですが、
 千葉と埼玉はお隣さんですね」

 


「ありがとうございます。
 新たな援軍を得たり、戦国武将の気分です。
 そろそろ昼ですね。

 ちょっと様子を見てきます」



 柳本さんが和室を離れ、一人広い和室に取り残された。
 何畳あるのか、畳を数えている間に柳本さんが戻って来られた。

 


「吉田さん、祖父が見つかりました。
 まずは祖父からお望みの鯨の話を聞きながら昼飯を食べましょう」


 姿が見えなかったおじいさんと対面してお昼をご一緒にすると知って、それまでの寛いだ気分から一転、心臓の鼓動が耳元まで伝わってきた。

 


 そうは言っても、ここから引き返すことも出来ず、
 柳本さんの後から庭沿いの廊下を歩いた。


 
 一度右に90度曲が曲がって板張りの食堂に入ると、上下グレーの作業着姿の五分刈りの胡麻塩頭でガタイのいい老人が広いテーブルの中央で、椅子に座って待ち構えていた。



 高まる鼓動に緊張感が走り、肩が張って、体がこわばった。
 肩の力を抜こうと、深く息を吸って吐いて、呼吸を整え、
 開き直り、2メートル先の老人にしっかり聞こえるように話し掛けた。

 


「はじめまして、吉田と申します。
 西船橋から参りました、
 今しがた、漁協の前でお孫さんの柳本さんに声を掛けられ、
 厚かましくも、お宅にお邪魔しています。
 今日はどうかよろしくお願い致します」

 


「そうですか。
 わしは堅苦しい挨拶は苦手です。
 孫の直哉が連れて来た人なら、わしにとっても客人です。
 まずはここで昼飯でも食べて、ごゆっくり」

 


 老人は座ったまま、鋭い眼光を俺に向けた。



「吉田さんといわれましたか」

 


「はい」

 


「直哉の隣に座って、ばあさんの拵えた昼飯を食べてやってください」

 


「ありがとうございます」



 柳本さんと並んで老人の向かいの席に座ったおばあさんが家長用のお膳をテーブルに置くと、次ぎに、柳本さんの隣の俺のテーブルに膳を置いた。

 


「ありがとうございます」と、

 

 頭を下げると、柳本さんの膳が運ばれ、最後におばあさんが自らの膳を持っておじいさんのテーブルの隣に着いた。



「今日は息子と嫁は出掛けていますが、
 直哉が知り合いになった吉田さんが来られました。
 今からご一緒にお昼をいただましょう」

 


 老人の声に続いて、柳本さん、おばあさんと揃って、
「いただきます」と声を出した。


 おばあさんが拵えたくれたお昼の献立は漁師さんの家ということもあってか、ごはんに白身魚のお吸い物、白いたくわんの漬物とメインに魚の味噌煮。

 


 暫く、黙ってお昼ごはんを食べていると、
 早くも、食事を終えたおじいさんが大きな湯飲みのお茶を飲み干して口を開いた。



「直哉から聞きましたが、吉田さんは鯨に興味をお持ちのようですな?」

 


「はい」

 


「それはまたどうして?」

 


 一見、強面のイメージの外見からはほど遠い優しい口調でおじいさんが俺に顔を向けた。



「広島の田舎の出身ですが、
 今から20年近く前の小学校の低学年の頃、
 家族で隣の山口県の下関に行った際に水族館に寄りました。
 そこで鯨の標本を見て以来、少なからず鯨に興味を持っています。



 今年の1月、ハワイのマウイ島を周遊するバスで立ち寄ったホエラーズビレッジで吊された鯨の標本を見て、それまで眠っていた、子供心に抱いた鯨への興味に火が付ました。

 


 ハワイで出会い、僕にサーフィンを勧めてくれた方がこの先の勝浦に住んでいまして、先月、その方の誘われて、外房の海でサーフィンに興じたそのにお宅に泊めて頂きました。



 翌日、安房鴨川の次に和田浦に寄って海を眺めた後、
 和田浦の駅に戻り、房総半島の路線図を見ていたら、地元の声に声を掛けられ、この近くに道の駅があることを教えられ、
 道を迷わないようにタクシーを呼ぶと、
 女性の運転手さんにご主人のことを教えていただきました」



「弟の次男の嫁ですな」

 


「そのようです。
 吉田さんは来るべきして家にやって来られた客人です」

 


 柳本さんが相槌を打ってくれた。

 


「了解しました」

 


 そう言ったおじいさんの顔を窺っていたら、
 いつかどこかで見た顔を想わせた。

 

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 17

 3月に入った。
 早いもので、今週末は彼岸の入りである。
 部屋の壁にピン留めしたカレンダーを眺め、
 どこに行こうと考えたあげく、和田浦漁港に行くことに決めた。

 


 ネットで調べると、JRの接続がどうにも悪く、和田浦駅から漁港まで少々距離があるので、レンタカーを利用することにした。


 
 ネット予約したレンタカーショップに到着すると、
 土曜日の早い時間も拘わらず、若い男性の店員さんが嫌な顔もしないで、免許証の提示、クレジッドカードでの支払い、保険の説明、車のチェックなど嫌な顔一つしないで対応してくれた、
 20代前半で俺より若い人に礼を言って、車に乗り込んだ。



 いつもはIKEAやコストコで買い求めた商品のため軽ワゴンを利用していたが、今回は同じ千葉県とはいえ距離のある和田浦まで遠出するので、スズキの白いスイフトを選んだ。
 車を運転するのはマウイ島を周遊して以来である。

 


 スイフトのエンジンを掛け、係の人に見送られて駐車場を出る前にナビの目的地を和田浦漁港にセットした。
 外房までのドライブが今、正に始まろうとしていたが、西船橋から和田浦までのルートが頭に入らないまま通りに出ていた。


 
 4月で西船橋に転居して丸2年になるが、基本的に東京暮らしの延長で都心で働きながら、住まい寝床は千葉で完全に東京暮らしのままだった。

 


 TVは千葉のローカルニュース、ラジオも地元のFMに耳を傾け、できるかぎり千葉に馴染もうと心掛け、いっぱしの千葉県民のつもりが、外房、内房に限らず、俺にとって房総半島は意識の外。

 


 ゲンさんと仲間たち、それに奥さんのタマミさん以外に千葉県内にこれといった知り合いもできず、
 もっぱら、学生時代、杉並在住の頃からの人間関係、仕事の中で生きる、千葉都民だったのである。


 スイフトは和田浦漁港を目指すナビが知らせるまま高速に入っていた。
 ナビのディスプレイに示されているようにこれから外房方面の勝浦か、内房方面の館山かの二つに一つで、館山を選択した。



 これには理由があって、和田浦の道の駅で鯨の定食ランチを食べ、館内を出て、もう一度、鯨の標本を見上げた後、
 和田浦の駅舎まで歩いて戻り、房総半島をぐるっと回る西船橋までの乗り継ぎに館山駅で下車した。

 


 海岸まで10分ほど歩く途中で、レンタカーショップを目にしたからである。
 館山からレンタカーで南房総をドライブする人が少なからず存在するのだろう。
 今日も館山まで電車で行って、レンタカーを借りようとしたほどである。

 


 何はともかく、このまま館山までスイフトを走らせるとしよう。

 地元BAYFMがサーフ・ミュージックを流している。
 ノースショアでゲンさんとサーフィンして以来、それまで見向きにしなかったサーフ・サウンドに耳を傾けている。

 


 イメージとしてカリフォルニア、ビーチ・ボーイズしか知らず、 贔屓にするミュージシャンやバンドはいないが、
 サーフ・ミュージックが流れいるだけで、海を感じられ、

 どこかしらポジティブな気分になってくる。
 


 サーフ・サウンドを友に、高速というのか有料道路というのか、 ナビが知らせるままに館山の手前で下道に降りた。
 ディスプレイに現れる房総半島の南端の白浜海岸に心を奪われながらも、今はまっすぐに和田浦漁港に行くべきだ。

 


 ゲンさんが子供時代に訪れたという和歌山と今住んでいる千葉は似た者同士なのだろう。
 東京と大阪という二大都市に隣接し、紀伊半島と房総半島を有しながら、東京と大阪を台風、海、風、津波などの自然災害から天然の要塞として守っている。

 


 白浜、勝浦というように同じ地名の町があり、規模はまるで違えど、成田空港と南紀白浜空港がある。


 館山からナビに身を委ねて30分も走ると、
 目の前に海が開け、和田浦漁協が現れた。
 想いの他、早く到着して、腕時計を確認すると、11時25分である。
 西船橋から2時間半足らずで目的地に着いた。

 


 これなら土曜日の午前中ということもあり、漁協はやっているかもしれないと淡い期待と不安を抱き、車が駐まっている所から一台分空けてスイフトを停め、エンジンを切り、車外に出た。
 胸を躍らせて、漁港の建物に足を向かわせた。



 建物に近寄ろうとすると、どこからともなく現れたグレーとベージュの2トーンのお洒落な作業服姿の長身で細身な若い男性に声を掛けられた。

 


「今日は休みです」

 


「土曜日はお休みですか?」

 


「やっている日もありますが、
 今日は波が高く、10時過ぎでみんな帰ってしまいました。
 くだくだしていた俺もそろそろ引けようかなと」

 


「そうだったんですね。
 アポも取らず、のこのこやって来たこちらが悪いんですけど」

 


「何か急用でもおありですか?」

 


「いいえ、先月、和田浦駅から道の駅まで乗った女性運のタクシー転手さんに鯨に興味があるなら、親戚が漁協関係者だと教えてもらって、今日、こちらに伺った次第です」



「鯨に興味がある?」

 


 意味深な表情で彼が言った。

 


「はい」

 


 俺は正直に応えた。

 


「若いのに面白い方ですね。
 俺も和田浦で5年間漁師をやっていますが、
 鯨に興味がある人に会うのには初めてです。
 どちらから来られました?」

 


「西船橋です」

 


「遠かったでしょう」

 


「そうでもなかったです。
 この先の勝浦に住んでいると知り合いの人にサーフィンを誘われ、初めてお宅を訪れたのが2月の末で、西船橋から外房周りで勝浦駅に着きました。
 

 午後からサーフィンに興じ、その日はお宅に泊めてもらって、
 翌日、電車で安房鴨川駅に寄って、和田浦駅で下車しました。

 


 海岸をぶらぶらして、駅に戻り、ぼーっとしながら壁に貼られた房総半島の路線図を見ていると、初老の方に声を掛けられ、
 近くに道の駅があって、鯨の標本があることを教えてもらいました。
 駅からタクシーを呼ぶと、女性の運転手さんでした」



「そのタクシーに乗って、道の駅に寄られた?」

 


「はい」

 


「道の駅のでかい鯨の標本を見て、鯨の定食でも食べられました?」

 


「その通りです」

 


「女性のタクシー運転手が言っていた親戚の漁協関係者とは祖父と俺のことです」

 


「そうでしたか。
 世の中、広いようで狭いですね。
 ということは、ドライバーの女性は?」

 


「祖父の弟の息子の奥さんです」

 


「そういうことだったんですね。
 僕は吉田と言います」



「俺は柳本です。
 吉田さん、これからの予定は?」

 


「今日は和田浦漁協に行くのが第一の目標でそれ以外は何も考えいませんでした。
 外れたら、外れたでしょうがない。
 その時は房総半島をドライブでもしようかと思っていたので、
 まったく予定はありません」



「それなら、俺に付き合いませんか。
 漁協は休みです、波が立って漁に出れませんから。
 その気になればいくらでも仕事はあるのですが、
 今日、ここで吉田さんにあったのも何かの縁です。
 祖父の家は俺の実家でもあるので、
 家で昼飯でも食べて、午後の予定を考えましょう」

 

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 16

 勝浦駅を離れ、海側の座席に座りながらずっと窓の外を見ていた。

 


 2月の末、雲一つない澄み切った快晴で外房の海が姿を現したのも束の間、山、畑、短いトンネルを何度か繰り返した既視感の中、日曜日の午前中ということもあって、乗客も少なく、 
 車両に部活で登校するのか制服姿の女子高生が一人、
 私服の中学生男子が二人、若いカップル、老夫婦、
 他人の目から最も不思議に映るのが、何を隠そう、余所者のこの俺であろう。



 鯨港がある和田浦を目的地にしていたが、気分転換にその昔の安房の国、外房は安房地域の中心である安房鴨川で下車した。
 駅は想いの他大きく、プラットフォームから階段を上り、
 連絡通路から反対側の階段を降りて、
 駅舎に向かう手前でトイレに寄り、Suica で改札を抜けた。



 スマホの地図アプリの目を落としながら、
 駅前の通りを真っ直ぐに歩くと、すぐに海に辿り着いた。
 昨日の午後、ゲンさんと仲間のタクマとサユリ、シゲキとコユキ、 5人と戯れた勝浦の海とは同じ外房とはいえないような穏やかな海だった。



 風もなく、透き通るような晴天である。
 サーファーの姿も見えない。
 この地がサーフィンに向いているのかどうか、
 初めての安房鴨川の海で知る術もない。

 


 駐車場との境界のコンクリート階段に座りながら世間話に興じる中高生男子が数名、それ以外の姿はなかった。
 犬と散歩するおばさんの後から砂浜を百メートルほど歩いた。
 波もなく、外房の海なのか地元の瀬戸内なのかわからなくなって、お暇することにした。



 来た道を戻るように駅を向かうと、往きで目に入らなかった食堂、 町の電気屋さんの前を通る過ぎる一方、信号待ちで目線を前方に向けると、安房鴨川駅舎が聳え立っていた。
 駅に併設するコンビニのような小店で水と菓子パンを買い込み、改札を抜け、数分待つと予定の電車が入って来た。


 車窓から途切れ途切れに映る海を眺めながら、
 勝浦から安房鴨川まで外房線でそれから房総半島を回るように館山、木更津、千葉へと向かうの内房線である。
 一つ二つ駅を通過して、和田浦に着いた。
 ローカルな車両を降り、陽射しが照り付けるプラットフォームに降り立った。
 


 線路を見ると単線で広島の地元を想い出すと同時に千葉にも単線があるのに首を捻りながら、勝浦、安房鴨川で接続案内していたが、どこからどこまでが単線なのか区別もできなかった。

 


 安房鴨川と同じく駅から真っ直ぐ海岸へ行こうにも、
 駅前に広いロータリーがあるだけで、海への道は開けていなかった。

 


 海とは反対側の裏手に木造の駅舎が設けられていたのだ。
 駅を離れ、ロータリーの中心部に椰子の木が植わり、駅舎の横に紅色の花の植え込みの上に親子連れの三頭の鯨を模した像が並んでいた。



 花と、みどりと、海の楽園 和田町と記してある。



 やはり、和田浦は鯨の海に間違いなさそうだ。
 ロータリーを離れ、住宅街を抜け表通りの車やバイクの往来を余所目に、海岸と表記された細道に足を進めると、汐の香りとともに駐車場に複数の車を確認した。

 


 太陽の光と関係するのもしれないが、曇天で青黒く感じた午後の勝浦の海から目の前に青い和田浦の海が広がる。
 勝浦の海と同じくサーフィンに興じる人の姿は見られないが、
 犬の散歩に興じる幼い兄妹がはしゃぐ姿を横目に俺は岩場まで浜辺を歩いた。


 空を見上げると、鳶のような大きな鳥が上空を舞っている。
 岩場に腰を降ろし、菓子パンでも食べようにも、鳶に襲われのも面倒で、そう想っている間に海中の岩と砂場の間で波が渦巻き、小さな波となって足元まで届いた。

 


 引き波につられ、脱いだ靴下をスニーカーに突っ込み、ジーンズの裾を捲り上げた。
 もう一度届いた小波の後の引き波を追うように裸足で海の中に入った。
 

 足の裏に濡れた砂を感じて視線を上げると引いたばかりの小波が引き返すように大きな波となって迫って来る。
 サーフィンなら絶好の波だ。

 


 ゲンさんやタクマなら歓喜の声を上げるかもしれないが、
 慌てて岸辺に引き返した。
 濡れた砂に足を取られ転びそうになりながらも、波から身を守れる場所まで逃げ込んだ。

 


 波が一気に辺りを覆い尽くし、一面は海と化したが、どうにか難を免れた。



 岩場を離れ、元の場所からビーチの裏手の駐車地まで戻った。
 和田浦海水浴場と看板にあり、すぐ側にシャワールームや足の洗い場まで設けてある。
 夏の盛りになれば、海の家が登場するのだろう。

 


 これはちょっとしたワイキキビーチ、房総の湘南化である。
 夏、観光客で和田浦が賑わっているであろうことは想像できたが、鯨の漁はどこでやっていたのか、
 スマホで検索しても上手くヒットしなかった。



 これ以上、ここに留まっていても新たな展開が期待できず、
 大通りまで戻ると、駅の裏手にコンビニがあり、駐車場から駅舎を覗いた。

 


 西船橋の北口と南口と同じように和田浦駅前のロータリーがある出口と車通りの多いコンビニ側に2つの出口を作れば、もっと機能的だろう。
 昭和の終わりは今の表通りよりロータリー側が賑わっていたのかもしれないと、頭に浮かんでは消え、駅に戻ることにした。


 
 駅のロータリーの中心に植えられた椰子の木と三頭の親子の鯨のオブジェに魅入っていると、木製の細長い駅で横たわる鯨に見えなくもなく、ここでおさらばするのも名残り惜しい気になる一方、さりとて、やることもなく、駅舎に入った。

 


 無人駅のようで壁に張られた房総半島と路線図を見遣りながら、 安房鴨川駅に隣接する小店で買った菓子パンをナップザックから抓み出し、立ったまま頬張っていたら、背後から男性に声を掛けられた。


「どこに行かれますか?」

 


 振り返ると、大柄な初老の男性だった。

 


 慌ててパンを飲み込み、掠れ声で、

 


「鯨漁の港に行きたいのですが、鉄道では無理なようですね」

 


「漁港はこの駅と次の駅の中間点辺りで、
 車なら駅の裏手の通りを走ればすぐですが」

 


「あいにく、車で来ていません」

 


「そうですか」

 


「海岸には行かれました?」

 


「はい。
 浜辺を散歩して、岩場まで足を伸ばし、裸足になって膝下まで海に入ってみましたが、急な波に襲われて、急いで浜に駆け上がって、今、駅に戻ってきたばかりです」



「そうでしたか。
 夏は人で賑いますが、ご覧になったように冬は寂しいものです。
 それでも、サーフィン好きの若い人は勝浦から足を伸ばして少しは集まるんでしょうが」
「勝浦の知り合いの家からここまでやって来ました」



「あなたも、サーファーとやらですか?」

 


「まったくの初心者です。
 昨日の午後、サーフィン三昧だったので今日は鯨の里でも行こうかと思いました」

 


「鯨に興味をお持ちですか?」

 


「はい」

 


「この近くに道の駅があって、
 鯨の標本が展示してあるので有名です」



「鯨の標本というと、鯨の骨が展示してありますか?」

 


「仰る通り。
 大きな鯨の骸骨があるのですぐにわかります」

 


 そう男性に言われて気が変わった。 



 このまま、電車に乗って西船橋に戻ろうと想っていた矢先、
 和田浦の道の駅に寄って、鯨の標本を見たくなった。


「ありがとうございます」

 


「もうすぐ電車が入ってきますが?」

 


「今から鯨の標本を見に行こうと思います」

 


「歩いても10分程度ですが、迷われるかもしれないので、
 タクシーがいいでしょう。
 通りに出るより、ここからタクシーに乗る方が早い」



 駅舎で改札を抜ける男性を見送った。
 言われた通りに、教えてもらったタクシー会社に携帯で電話すること数分、白いタクシーが現れた。



 タクシーの後部座席に乗り込むと、地元の方であろう紺の制服姿の女性の運転手さんが切り出した。

 


「お客さん、道の駅ですか?」

 


「はい」

 


「どこからお見えになりました?」

 


「西船橋に住んでいますが、
 昨夜は知り合いの方の勝浦のお宅に泊めて頂きました」



「西船橋ですか。
 遠くからお出でになられました。
 もう何年も行っていませんが、船橋も随分と変わったでしょう。

 


 今は年に一度、電車で東京に行く時、ちらりと覗き見するだけですが、結婚前、旦那とデートであの界隈に出掛けました。
 懐かしい。
 こう見えても、わたしにも若い頃があったんですよ」

 


 
 タクシーはロータリーを離れて表通りに出ていた。 
 車内に会話が消えると、いつの間にかタクシーが停車した。

 


「ここですよ、お客さん」と、

 運転手さんの声につられ、目線を上げた。

 


「ありがとうございます。 
 鯨の標本はどこにありますか?」

 


「鯨ならそこにいます。
 鯨に興味がおありですか?」

 


「はい」

 


「それなら、
 親戚に漁協関係者がいるので漁協を訪ねられてはどうですか?
 でもあいにく、今日は日曜日で休みですね」



 料金を払い、タクシーを降りると、運転手さんが言った通りに目の前に巨大な鯨が現れた。
 鯨の骸骨を見上げた。
 マウイ島のホエラーズビレッジの鯨の標本、
 遠くは子供時分の下関での鯨、以来の再来である。



 もうこれで充分で一日が終わってしまったような気がして、
 体から力が抜けていくのが感じ取れた。
 四方八方から鯨の標本を見つめ、飽きるまで眺めて、
 道の駅の建物の中に入った。

 


 日曜日の昼過ぎということもあって和田浦の駅や海岸にはない賑わいようで、気分が高揚して、これまでの気分も変わった。



 何はともかく、鯨を食べよう。
 鯨の定食、鯨のランチ、鯨肉、鯨のフライ、鯨の揚げ物、
 海の中の王様は、20年ぶりにくらいに食べた鯨の味はあっさりとした美味い肉だった。

 

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 15

 夕飯をご馳走になり、プロレス三昧の締めとして、

 


「明日もサーフィンはどうですか?」

 


 ゲンさんの言葉に喉を詰まらされながら、

 


「一日考えさせてください」

 


 そう言ってはみたものの、俺の気持ちは変わることはなかった。


 ごはんと味噌汁と大根の漬物、塩鮭、卵焼きを頂いた後、

 


「ごちそうさまでした、とても美味しかったです」

 


 朝食を作って頂いた奥さんとご主人のゲンさんにお礼を述べ、
 昨日のサーフィンでの筋肉痛を理由に今日は遠慮しますと申し出た。



「残念ですね!」

 


 感情を表に出さない日焼けしたゲンさんの顔が少々曇った。

 


「吉田さん、無理をなさらないほうがいいですよ。
 主人みたいなサーフィン馬鹿になるより、
 吉田さんには吉田さんのやりたいことがある。
 そう、お顔に書いてあります。
 昨日は仕事に出たわたしも日曜日は休みですが、
 吉田さん、今日はどう過ごされます」

 


「勝浦の海に入る前にゲンさんに言われた鯨漁で賑わった和田浦に行ってみようかと思います」

 


「それもいいかもしれません」
 吉田さん、鯨に興味がおありですか?」

 


「はい」



「吉田さんはマウイ島で鯨の模型を見たあとに、小説や映画で有名になったエイブル船長と出会ったんですよね」

 


「船長さんに?」

 


 奥さんが身を乗り出した。

 


「わたし、子供の頃から、船長さんと結婚するのが夢でした。
 巨大な太平洋に臨む外房で生まれ育ったからかもしれませんが、海や船に漠然とした憧れがありました。
 プールで25メートル泳ぐのもままならない半ばカナヅチのわたしがサーフィン狂いの主人と巡り会い、結婚したのは何かの縁かもしれません」


「船長と結婚するのが夢だった奥さんには恐縮ですが、
 僕が出会ったというより目にしたのは本物の船長ではありません。

 


 昨日、ゲンさんには言い忘れていましたが、
 エイブル船長が広告塔を務めるマウイ島のこじんまりとした港町ラハイナの広場にあるレストランのすぐ近くからホエールウォッチングのフェリーが出ています。

 


 鯨や鯨を追ってマウイの沖まで迫って来る、命知らずのエイブル船長のような気の荒い白人御用達の船を見張るため、
 カメハメハ3世が作ったと言われる物見櫓のような白い灯台が遺されています。



 常夏と言われるハワイも1月はなんだかんだと寒く、
 朝早いマウイ沖の船の甲板は2月の外房の海に負けないほどです。
 港を離れて、20分もすれば船の周りに鯨の尾を目にするようになりました」

 


「吉田さんは鯨を目撃されたのですか?」

 


 奥さんが身を乗り出した。



「目撃と言われるほどではありませんが、
 海に潜む鯨が尾びれをちらりと見せてくれると、
 サーフィンでもできそうな大きな波が起きました。

 


 女性のガイドさんによると、子連れの鯨でフェリーとぶつからないのか心配にもなりましたが、フェリーーとじゃれるように親子が戯れている気もしました」

 


「吉田さんって、英語がお出来になるの?」

 


「ほんの少しです。
 音楽、映画、ニュースなどで耳慣れしているかなと自惚れていましたが、入国審査やホテルもそうですけど、ネイティブの発音に付いていくのが精一杯で、聞くのはともかく、ハワイで喋るのは今一つでした」

 


「それでも、すごいですよね。
 外人さんのサーファーともすぐ仲良くなる主人もブロークンながら英語が話せるんですよ」
 


 ゲンさんが照れていた。


「吉田さん、鯨港に行くのはいいですが、
 くれぐれも、鯨に掠われないようにしてください。
 勝浦の近海では江戸時代より昔から鯨が現れているようです。

 


 大型の鯨は少なくても、鯨は鯨です。
 イルカを大きくしたのが鯨でしょうが、
 中には気性が荒いのがいるかもしれません。
 どうぞ、お気を付けて」



「奥さん、ご忠告ありがとうございます。
 地元の方の教えはなによりです。

 


 それはそうと、
 ゲンさんはサーフィンの最中に鯨を見たことがありますか?」

 


「さすがに鯨はありませんが、鮫には遭遇しました。
 大阪から東京に出来て1年間過ごして、外房に住み始めたばかりで、妻と知り合う前の頃です。

 


 昨日、サーフィンした地点から北に数キロ向かった外房の海で波に乗ったボードの上から海中に潜む鮫を見た時、体が震えるというより固まった。
 周りの顔見知りに掛けるのが精一杯で、どうにか上手く波に乗ってビーチまで戻りました。


 ボードを持ったまま駆け足でビーチを走りながら、
 足がもつてボードもろとも倒れ込みました。
 あの日の恐怖を忘れることはできません。
 海水温の関係ですかね、この近海で鮫が現れることが稀にあります。

 人を襲わない鮫だと言われても、
 鮫の情報には敏感ですね。

 


 外房以上にハワイには鮫が現れます。
 日本人の犠牲者も出ていて、僕らはラッキーでした。
 吉田さん、お気を付けて、和田浦に行らしてください」



 奥さんとゲンタに別れを告げ、ゲンさんの車で勝浦駅まで送ってもらい、改札までプラットフォームまで同行しそうなゲンさんにここで結構ですと、丁寧にお断りして、駅前のロータリーで別れた。

 

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 14

 ゲンさんの家に戻ると、ゲンタの飛び跳ねる歓待を受けると同時に庭に駐まった白い軽自動車が目に入った。
 スーパーに勤める奥さんが帰宅していたのだ。



 勝浦の海に入る以上に緊張した。
 土曜日に務めに出ていた奥さんにとって、留守を狙ったように家に上がり込んでご主人のゲンさんと一緒に海でサーフィンで戯れた一見さんに良い気持ちはしないだろうと。

 


 ゲンタの啼き声を聞きつけて、黒いダウンのベストとスリムなジーンズ姿でサンダル履きの長い黒髪の小柄な奥さんが玄関から出て来られた。


「はじめまして、吉田と申します」

 

 挨拶を兼ねて、俺は名乗った。

 


「こちらこそ、はじめまして、ごんばんは。
 源間の妻で、タマミと申します。
 勝浦の海は如何でした。
 寒かったでしょう。 

 


 わたしも今帰ってきたばかりで、バタバタして夕飯の準備も出来ていなのですが、吉田さん、ウェットスーツを脱いでシャワーを浴びて下さい。
 その間にごはんの準備をしますから」



 奥さんに促されるように家に上がり、
 ゲンさんと交替でシャワーを浴びて、着替えを済ませた。
 ゲンさんは駅に迎えてくれた時のジャージ姿に俺もゲンさんのセカンド・ジャージ借り、懐かしい石油ストーブに当たりながら落ち着くと、

 


「吉田さん、明日は日曜日でお休みでしょう。
 これから夕飯を食べて、よろしかったら、
 今夜はこの家に泊まられませんか?
 同じ千葉県内といえ、ここから船橋は遠いでしょう」

 


「そうして下さい」

 


 ゲンさんに奥さんが続いた。

 


「ご覧の通り、古くて隙間風が入ってくる狭い家ですが、
 布団ならありますし、泊まって頂けると、主人も喜びます」


 夕飯をご馳走になり、ゲンさんに駅まで送ってもらって、
 帰宅する心積もりだったので、一瞬、たじろいてしまった。



「そうして下さい。
 妻もそう言っていることですから。
 こう見えて、妻も僕も、吉田さんに興味津々なんです。

 


 普段なら、もっと若い、年が離れたタクマのような世代が相手ですが、吉田さんとは年も近く、もっと共感するものがあるのかもしれませんから」

 


「ありがとうございます。
 今夜一晩、お宅はお世話になります。
 どうぞよろしくお願いします」



 こうして、ゲンさんご夫妻のお宅にお世話になることになった。

 


 ご夫妻と鍋を囲み、ごはんのお供に豚肉をしゃぶしゃぶ風にして、 ごま味噌ダレで頂いた。
 合わせの味噌を解いて、豆腐、関東風の太長ネギ、
 広島を想わせる牡蛎を入れ、最高の鍋をご馳走になり、締めにうどん玉が入った。



「もう食べきれませんね。
 今から電車で西船橋まで帰れって言われて無理かもしれません」

 


「そうでしょう。
 僕も妻も実はそれを見越していました。
 今日は勝浦まで来て頂いてありがとうございます。
 ハワイでは何のおもてなしも出来なかったのが、
 心残りになっていたので、これで胸のつかえが下ります。
 今から、プロレスでも観ませんか?」

 


「プロレスですか?」

 


「プロレスはお嫌いですか?」

 


 奥さんの声に俺は首を振った。

 


「主人はサーフィン以上にサッカー以上にプロレスが大好きなんです。
 主人につられて、わたしもテレビでネットでプロレスを観るようになって、にわかファンに軽い中毒になっています」


 奥さんの言葉が終わるか終わらないうちに、
 ゲンさんの準備が終わり、プロレスのネット中継が始まった。

 


 アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰爾、長州力、タイガーマスク、懐かしの新日本プロレス最盛期のレスラーと供に、
 スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、
 ダイナマイト・キッド、タイガー・ジェット・シン、
 アブドーラ・ザー・ブッチャー等など、

 昔懐かしい外国人レスラーがTVモニターに映り、

 リング上を所狭しと駆け巡った。



「懐かしいですね」

 


「吉田さんもプロレスがお好きでよかった」

 


「プロレス好きというより
 プロレスがゴールデンから深夜枠に都落ちした時代に育ったので、父が録画したプロレスを一緒に観ていました」

 


「僕も吉田さんと同じように父の影響でテレビで録画でプロレスを観るようになったクチです」

 


「同じですね。
 懐かしのレスラーばかりです興奮しましたが、
 ゲンさんは今のプロレスは観ますか?」

 


「観なくはありませんが、物心ついてから父と一緒に観ていたプロレスが一番です。
 驚かないでください、
 僕は生でプロレスを観たことがないプロレスファンなんです」



「僕もそうです。
 小学生の頃、隣の市にプロレス巡業が来たのですが、
 父の好みではないマイナーな団体だったので連れて行ってもらえませんでした。

 


 同級生が家族で観に行ったとか、
 覆面レスラーを商店街で見掛けたとか、ちょっとした自慢大会になって、それに参加できなくて、ちょっぴり悔しかった」



「僕にも同じようなことがあったな。
 電信柱に張られたプロレスのポスターを見て、
 来週、近くにプロレスが来るんだけど、
 何気なく父を誘ってみたら、フンと鼻で笑われて、
 馬場も猪木も出ないプロレスの何が良いんだ。
 そんなプロレスを観に行く奴の気がしれないと。
 
 もし、僕の体がもっと大きかったら、サッカー選手を夢見るより、プロレスラーになりたかったでしょう。

 


 先ほども出て来た、タイガーマスク、ダイナマイトキッドなどのジュニアのレスラーも魅力的ですが、
 やっぱり、僕は大きなレスラーが好きです。
 今日はお見せできなかったですが、
 全日本の馬場、鶴田、天竜とハンセン、ブロディが絡んだりすると最高でした。

 とはいっても、マスクマンも好きです。
 父がミル・マスカラスの大ファンで、
 その昔、父が集めた、部屋に飾った宝物のマスクに囲まれ、
 マスカラスのテーマソングのスカイハイに耳を傾け、
 うっとりする父の姿が忘れられません。


 
 そんな父も一昨年の秋に亡くなりました。
 心筋梗塞による、心臓の突然死です。
 家で夕食中にバタンと倒れて、救急車で病院に運ばれましたが、その日のうちに息を引き取りました。

 


 翌朝、成田から関空に飛んで、妻と実家に駆け付けましたが、
 変わり果てた父は狭い我が家の和室の6畳間に置かれた棺の中で眠っていました。
 近くの斎場に棺を移して通夜、
 翌日には葬儀、荼毘と、目まぐるしい一日が過ぎました。



 人間の命なんてはかないものですね。
 それまで病気知らずだった父が還暦を前にあっという間に逝ってしまうのですから。

 


 若いからといって、僕もこの先どうなるかわからないなと、
 あの時、心底思いました。
 あんなに早く、父との別れが来ると想いもしなかったので、
 将来について、父と語り会ったこともありませんでした。



 今になってみれば、もっと父を話をしたかった、
 孫の顔を見せてあげたかった。

 


 今月、ハワイから関空に戻った際に一泊だけ実家に寄って、
 仏壇に線香を点し、近くの寺にある父の墓前に花を供えました。無事に帰国できました、これもお父さんが見守ってくれるお陰です。

 


 プロレスからついつい父を思い出して、しんみりとした話をして済みません」



「お父様が早くお亡くなりになったのは残念ですが、
 父と子の素敵なお話しが聞けて羨ましい限りです。

 


 プロレスで思い出しましたが、マウイ島のバスの中で半ケツのスタン・ハンセンのそっくりさんを見ました。

 


 帰国してから、
 船橋のパブでプロレス好きなイギリス人に声を掛けられ、
 今日はゲンさんとプロレス繋がりが続いています。
 僕にプロレスの神でも憑いているんですかね」

 


「どうでしょうね」

 


 ゲンさんの言葉に奥さんが頷いて、二人は笑顔になった。

 

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 13

 話は尽きないが、サーフィンの支度を始めた。
 坊主頭のゲンさんがジャージの上下とインナーのTシャツを脱ぐと、ハワイで焼いた引き締まった体が露わになった。



「男から見ても惚れ惚れするような良い体をしていますね。
 ハワイでも想っていたのですが、
 特別なトレーニングか今流行のジムにでも通われていますか?」

 


「ジムには通っていません。
 無駄なお金や時間を使いたくないのもありますが、
 サッカーをやっていた少年時代から機械を使ったトレーニングが苦手でサッカー少年の延長のように家の周りや海岸を走る、
 家で腕立て、腹筋、スクワット、それくらいですか。
 ゲンタとの散歩やボール遊びもトレーニングになっています」



 体型がそれほど違わないので、
 ゲンさんのウェットスーツのお古を借りるとして、
 裸のまま直にウェットスーツを着るより、
 スポーツタイプのブリーフパンツを着用したほうが無難だとメールで指摘されて、急遽、日本メーカーのボクサータイプのパンツをネットで購入した。



 中学時代にブリーフを卒業してトランクスを愛用しているので、 それ以来のブリーフに大事な物が締め付けられるようで苦虫を噛みながらゲンさんのウェットスーツに身を包んだ。



「どうかされました?」

 


「いいえ」

 


「ウェットスーツがきついですか?
 着ているうちに慣れますよ」

 


「ノースショアは突然で黒いトランクスのままだったので、
 今日が本格的なサーフィンの初日のような気がします」


 お昼にゲンさんの奥さんの作り置きのサンドイッチを摘まみ、
 コーヒーのお代わりを頂いた。 

 


 ゲンタの見送りを受け、昼前に家を出て車で10近く海岸沿いを走ると、日頃からゲンさんが慣れ親しんだ勝浦の海が目の前に現れた。
 駐車場にワゴンを駐め、ウエットスーツのまま二人で海岸に向かうと、ゲンさんの仲間が待っていた。

 



「吉田さん、いらっしゃい。
 お待ちしていました」

 


 ウェットスーツ姿の男女4人が声を合わせ、出迎えてくれた。
「ノースショアでお別れして、1ヶ月近くが経ってしまいましたが、勝浦でお会いできて最高です」

 


 
 一番年下のタクマがハワイのタメ口から敬語になっていた。
 帰国してノースショアから外房の勝浦の海に舞台が変わり、   日本モードに切り替わったのかもしれない。
 4人の仲間のうちでは、ゲンさんに次いで親しくなり、
 サーフィン初心者の俺をいじり倒してくれた。



「最初はまたゲンさんの道楽がまた始まったのかと、
 呆れていましたが、ゲンさんはナンパというか、
 よく初心者をスカウトしてくるんですよ。
 これまで経験ではよくて5人に一人くらいしかものになりません。

 


 というより、1時間もすれば音を上げてしまうのですが、
 ゲンさんの指導がいいのか、本人の適性か、
 吉田さん、ノースショアで何度か波に乗るうちにサマになってきましたね。



 年上だからといって、僕は甘やかしません。
 波がない瀬戸内の広島で育ったので、サーフィンはやったことがない、流行っていなかったなんて、言い訳に過ぎません。

 


 僕は隣の岡山出身ですが、小学生の頃からサーフィンに興じています。
 波が少ないと言われる瀬戸内海でも探せば、目の前の外房の海には及びもしませんが、サーフィンが出来るくらいの波はあります」


 ゲンさんより一足早くハワイを訪れていたタクマを含めた男女4人は、ゲンさんと連れだって帰国を果たし、先週、一緒に勝浦の海に入っている。

 



「こんな所で、岡山と広島の代理戦争をやっても仕方ないよ。
 故郷を遠く離れた房総では仲良くしないとね」

 


 タクマの彼女のサユリが言った。
 サユリはタクマの一つ年上で高校時代からつるんでいるそうだ。


 日本のサーフィンのメッカでもある外房の海に少なからずのサーファーが集っていた。
 春が待ち遠しい2月末の勝浦の海は冷たい風も冷たいが、
 ゲンさんのサーフボードを借りて、ノースショアの再現だ。


 
 瀬戸内海に臨む田舎町で生まれ育ち、波が穏やかで冬でも寒風が吹き抜けることのない海に囲まれ、子供時代、少年期を過ごしたこともあって、冬の太平洋の荒い海の生命力と不思議さを感じる。

 


 ウェットスーツを着用しているとはいえ、雪が降ってもおかしくない季節に海に入るのだから、当然といえば当然なのだが、
 サーフィン云々以前に寒くて体が凍り付きそうだ。

 


 スーツに覆われている体はともかく、冷たい海水と外気に晒される頭部と手足が感じる寒さ、冷たさの信号が血液を通し、
 意識を通して、体全体を伝達するかのようだ。


 
 サーフィン自体が今日で2度目で、1月のノースショアは置いておくとして、本格的な真冬の海は初体験だ。
 サーフボード片手に海に入った瞬間にボードを投げ出し、
 ビーチに戻りたかった。



 ゲンさんと仲間がいなかったら、水圧に押されながらも海中をダッシュして車の中に逃げ込み、車のエンジンキーを回し、
 エアコンの暖かい風に当たりながら、肩で生きをしながら、
 ため息をついているだろう。



 髪の毛が凍りそうで、手と足の指の神経が切れてしまったかのようだ。

 


「寒いですか?」

 


 ゲンさんの声だ。

 


「付いて来て下さい。
 いい波が来ています。
 少し先まで泳いで、ボードに、ビーチに向かって波に乗ります。
 ノースショアでも乗れたんですから、自信を持って下さい。
 さあ! 行きます」



 ゲンさんの掛け声につられ、海の中で横になり、
 ボードの上に腹ばいになって沖に向かって手で波を漕いだ。



 ゲンさんが泳ぎを止めた地点で指導者に習って、
 体を反転させ、ビーチに向かって、ボードに波に乗った。
 波に乗った。

 


 何も考えられなかったし、考えることもできなった。
 五感をフルに使い、波に乗ることだけに集中し、
 体全体でバランスを取って、波に乗り続けた。



 ゲンさんの姿も見えず、気づいた時にはビーチの近くまで戻っていた。
 ボードを降りてようやく、勝浦の海に来ていることを実感し、  あらためて、海を振り返った。


 海の色も音も匂いも、空の色も太陽も、視覚、聴覚、臭覚を通して、一体となって、体の奥底深くまで食い込んでくる。
 大きな波に体を取られ、波にのまれて海水から身を乗り出した時にビーチに上がったゲンさんの姿が見えた。

 


 ノースショア、ワイキキビーチ、ラハイナ、地元広島の瀬戸内海の海とも違った、太平洋に面した外房の海があった。



 時間を忘れるほど波に乗り続けていた。
 太陽が西の空に傾き掛けている。
 時折、沖からの強い風が通りに抜ける、ビッグウェイブが立った。
 それに呼応するようにゲンさんが波が乗った。

 


 タクマもサユリも続いて乗った。
 初心者ということもあって、俺は控えていた。
 波の大きさや規模から、俺の相手にならないことは外房の冷たい海に浸かることで直感できた。
 ゲンさん、タクマ、サユリ、シゲキとコユキも続いた。



 ゲンさんが防水の腕時計に目をやった。

 


「そろろそ上がります。
 ラスト一本、最後の波に乗る人は気を付けて」

 


 ゲンさんの指示で、小波に揺られ、この日のサーフィンを終えた。


 海上に太陽が姿形を留めている間は波に乗り続けた。
 1ヶ月もすれば、彼岸である。
 真冬とばかり思い込んでいた冷たい勝浦の海ももうすぐ春を迎えるはずだ。
 ゲンさんと仲間の4人と海から上がり、駐車場で別れた。



「吉田さん、これに懲りずにまた来て下さい。
 明日、またとはいいませんが、
 3月になれば、海も暖かくなりすし、
 1ヶ月後の連休を今から、お待ちしています」

 


 タクマの誘いを耳を傾け、ゲンさんの車に乗り込んだ。

 

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